全部が夢だったらいいのに
目を覚ますと、ベッドに寝ていた。
天蓋の布のはためきをぼんやり見ていると、ポーラが覗き込んでくる。
心配そうだったポーラの顔に安堵の表情が浮かんだ。
「ああ、ジュリエッタお嬢さまっ。お目覚めになったんですね。ご気分はいかがですか? 頭や背中に痛いところはございますか?」
「大丈夫……」
ひどい夢を見た。
マリがエリーナを階段から突き落とした夢だ。
しかもマリに陥れられて私が犯人だと皆に誤解され、お母さまに近付くなとお父さまから突き倒されてしまうのだ。
何てひどい夢だったんだろう。
怖くて、悲しくて、つらい夢だった。
「全部夢よね……?」
震えた声で呟くと、ポーラが枕元にひざまずいてぎゅっと手を握ってくる。
苦しそうな顔で私を見つめてきた。
「本当に申し訳ございませんでした。今度こそジュリエッタお嬢さまをお守りすると誓ったのに、またこうしてつらい思いをさせることになってしまって。まさかベサニーがあんなとんでもないことを言い出すなんて思いもしませんでした」
「ベサニー……?」
「ああ、ジュリエッタお嬢さまはベサニーの顔をご存じなかったんですね。突き落とした犯人はお嬢さまだなんてとんでもないことを叫んだあのメイドがベサニーでございます。一体何を考えてあんな虚言を口にしたのか」
「あああ……」
夢じゃなかった。
夢だと思いたかったあれは全部実際の出来事だった。
苦しくて両手で顔を覆う。
けれど、すぐにハッとした。
「そうだわ。エリーナは? エリーナは無事よね!?」
「はい、大丈夫でございますよ。命に別状はないと聞いております」
ポーラの力強い声に心の底から安堵の息を吐く。
「昨日の夕方に意識を取り戻されて、お医者さまの診断を受けました。さいわい頭の怪我は大したことなかったようですが、腕の骨折とあとは全身打撲の重傷だそうです。頭を打っているので、しばらくは様子見も兼ねてお屋敷で養生してもらうということでした」
ポーラの話を聞いていると、エリーナが階段を転がり落ちた光景が蘇ってきて、心臓がバクバク言い始める。
頭の芯がどんどん冷えていく感覚に目を閉じた。
そういえば、前世では私も階段から落ちて死んだはずだ。
ここまで衝撃を受けているのはそのせいもあるのかもしれない。
ポーラの話を噛みしめるように考えていて、ふと気付く。
「……昨日の夕方。え、今はいつ?」
「今は事故があった翌日の夕刻近くとなります。ずいぶん長い間お目覚めにならなくて、皆心配しておりました」
「心配、私を?」
「当たり前でございます! エリーナさんが話が出来るようになったら、ジュリエッタお嬢さまの容疑もすぐに晴れることでしょう。お嬢さまがエリーナさんを突き落としたりするわけがないと信じる使用人も多くいるのですよ。どうかお心を強くお持ちください。ただ、ベサニーを問いつめても自分は見たの一点張りで埒が明かないですし、犯人も未だわかっていません。ですが、ジュリエッタお嬢さまの身の潔白は私がきちんと主張しました。昨日のお嬢さまの動向も報告済みです。もう少ししたらちゃんと決着が付きますからどうぞご安心ください」
「――――犯人はマリよ。マリがエリーナを突き落としたの」
何度も脳裏に思い浮かぶ。
マリが般若のような恐ろしい表情で腕を伸ばした姿を。
階段を落ちていくエリーナを見下ろす冷酷な目つきと、やりきった達成感と興奮で見る間に紅潮したあの顔を。
マリは最後、確かに笑ったのだ。
体が恐怖でぶるりと震える。
「まさか、まさかと思っておりました。あの直前に、エリーナさんとあんなひどい言い争いをしていらっしゃったから、まさかと!」
「ポーラは見ていなかったのね?」
その問いにポーラが呆然と頷く。
裏口への廊下からちょうど玄関ホールに入ったタイミングだった。
私の後ろを歩いていたポーラからは、角度的に階段の一番上は見えなかったのだろう。
「ああ、なんてことでしょうっ。ジュリエッタお嬢さまは本当にすべてをご覧になったのですね。マリエッタお嬢さまがエリーナを突き飛ばす瞬間を! だからこんなにもショックを受けていらっしゃるんですね」
視界にちかちかと黒い斑点がちらつく。
その数がどんどん増えて目の前を黒く染めていくのと同時に、ざあざあと雨が降るような雑音が耳いっぱいに入ってきた。
うるさくて、つらくて、頭を振って元に戻そうとする。
「申し訳ございませんっ。あの時私がちゃんと見ていれば、ベサニーが変なことを言い出す前にマリエッタお嬢さまの名前を口に出せましたのに! いえ、今からでも遅くありませんっ。デブラさまに言いに行ってきます!」
「ベサニー……あの子はどうしてあんなこと。それにどうして私のスタイを持っていたのかしら」
「わかりません。ですが、テーブルに置いていた刺繍の道具箱の蓋が開いていましたから、誰かがそこから取っていったのだと思います。ベサニーかもしれませんね。マリエッタお嬢さまを崇拝するベサニーが、罪をなすりつけるためにジュリエッタお嬢さまのものとわかりやすいスタイを手に取ったのかもしれません。もしくは……もしくはマリエッタお嬢さまがに何かお命じになったのかもしれません」
最後ポーラは恐る恐る口にしたが、可能性としては一番ありえる。
「お父さまとお母さまは……」
今どうしているんだろう。
どうして今ここにいてくれないんだろう。
あの時、倒れそうな顔で私を見つめ返したお母さまがかわいそうだと思った。
それでも、そんなお母さまに助けて欲しかったのだ。
極限状態だった私を突き倒したのはお父さまだ。
お父さまは、私がエリーナを階段から突き落とすような人間だと思ったんだわ。
マリのいう殺人者だからお母さまに近付けたくないって、だから――――っ。
ひくんっと喉が痙攣する。
呼吸が次第に浅く速くなっていく。
お父さまの冷たい眼差しも、私を払いのけた大きな手も、決して忘られない。
「っ……」
「ジュリエッタお嬢さま? どこか具合がお悪いのですか? お医者さまの見立てでは軽い打撲だけで、目を覚まされないのは心因性の体調不良だろうということでしたが。お嬢さまっ?」
呼吸しているのに息が苦しい。
息が苦しいからさらにたくさん息を吸おうとした。
なのに苦しさは全然なくならない。
「お嬢さまっ、お嬢さまっ!?」
何だろう。
息が、出来ない。
誰か――――…。
助けを求めたいのに、誰にも手を伸ばせなかった。
お父さまにもお母さまにも、私の手は届かない。
届いたとしても、またあの時のように払いのけられたら、今度こそ心が壊れてしまうような気がした。
「誰かっ、お嬢さまが――っ」
ポーラの甲高い声が雨の雑音の向う側で聞こえた。




