あの手は誰の手?
ポーラの叫び声にはっと我に返った。
視界の端にマリが踵を返したのが映ったが、それより階段の下で倒れるエリーナにがくがくと震える足で近寄る。
「エリーナ、エリーナ? エリーナっ」
頭から血を流してぐったり倒れるエリーナの脇で、必死に声をかけた。
ポーラは一歩も動けず背後で悲鳴を上げ続けている。
その声に、ばたばたと屋敷中から人が集まってきた。
エリーナの傍で膝をついていた私はあっという間に人垣の外へと押し出される。
「エリーナ!? 一体どうしたんだっ」
「階段から落ちたのかっ、まさかっ」
「安易に動かすなっ。頭から血を流している。頭を打ったんだ。すぐに医者を呼べ。それから担架を用意するんだ。ベッドへ運ぼう。慎重にな!」
お父さまがてきぱきと指示を出す。
奥の寝室から出てきたらしいお母さまも真っ青な顔で立ち尽くしていた。
「エリーナ! ああ、大丈夫か」
従僕たちが担架へと移動させていたとき、エリーナの意識が戻ったようでわっと安堵の声が上がる。
皆がエリーナへと詰めよった。
私がはっと顔を上げたときには、エリーナはまた意識を失ってしまったようだ。
ただ、皆の様子がおかしい。
凍りついたような雰囲気になっている。
「突き飛ばされた……?」
エリーナを囲む輪の中で、誰かが呟いた。
「一体誰に突き飛ばされたって言うんだ! おい、エリーナっ。一体誰に突き飛ばされたんだ?」
「やめろっ。エリーナを揺さぶるんじゃない」
「そうよ! この屋敷でエリーナを嫌う人間なんているもんですかっ」
どうやらエリーナが突き飛ばされたと口にしたらしい。
その場が騒然とする。
頭ががんがんと痛かった。
まるで頭が心臓になったみたいに大きく脈を打ってうるさい。
時間がたつごとに脈打つ音も痛みもどんどんひどくなっていく。
目の前で見た衝撃に、エリーナの倒れる姿に、ひどくショックを受けていた。
気分が悪くて今にも吐きそうだ。
冷たく凍えた手で口元を押さえる。
「ジュリエッタお嬢さまですっ!」
鋭い声が響いたのはその時だ。
大階段の上から甲高い声が響いた。
「私、見ました! ジュリエッタお嬢さまがエリーナさんを階段から突き落としたのを。後ろから勢いよく背中を押したんです。そうしたらエリーナさんは階段を転がり落ちていきました。証拠だってあります! ここに、ジュリエッタお嬢さまが持っていらっしゃった布が落ちていますっ。見てください、ほらっ!」
大階段の上でヒステリックに叫んでいるのは見知らぬメイドだった。
ポーラより幼い顔のメイドが薄紫の布を振り回している。
「あれは、ジュリエッタお嬢さまが奥さまのために刺繍されているスタイだわ」
「まさか、ジュリエッタお嬢さまが……」
皆の視線が私に集まった。
違う――そう言いたいのに声も出ない。
首を振ることさえ出来なくて呆然と皆を見た。
「あああ、エリーナっ! なんてこと! どうしてこんなことにっ」
あまりの衝撃に時が止まったみたいに静まりかえった玄関ホールに、マリの悲鳴が飛び込んできた。
階段を駆け下りてきたマリはエリーナに縋りつく。
「エリーナ、エリーナっ! しっかりして。目を覚まして。いやあああ」
マリは取り乱したようにエリーナの体を激しく揺さぶった。
エリーナの体が担架からずり落ちそうになる前に、お父さまがマリの肩を掴む。
「マリエッタ、やめなさい! そんなに揺さぶるんじゃないっ。心配だろうが、揺さぶるのはダメなんだ。エリーナは頭を打っている。これ以上の衝撃は危険だ」
お父さまに止められると、今度は私を睨みつけてきた。
マリの顔は涙で濡れていた。
「ジュリ姉さまね、やっぱりジュリ姉さまなのね! 最近ジュリ姉さまはエリーナとよく話していたもの。大声で言い争っていたこともあるわ! ジュリ姉さまはわがままだからエリーナに何か怒られたのよ。だから恨みがあったのね。憎くて、いなくなればいいと思って階段から突き落としたんだわっ。私のエリーナを突き飛ばすなんてひどいっ。まるで殺人者だわ! お姉さまは殺人者だったなんて。ああっ、なんて怖いジュリ姉さまっ。私のエリーナがあああ」
マリの悲痛な声に周囲の皆が手を伸ばす。
慰めるようにお父さまがマリを抱きしめるのをぼんやり見つめた。
ショックなのか、気持ちが飽和状態なのか、何なのか。
今は何の感情も浮かんでこなかった。
ただただ胸が苦しく頭が痛くて気持ちが悪かった。
マリへ向けられる慰撫の手とは反対に、私には皆の冷たい視線が集まってくる。
ひりひりと尖った空気が一心に向けられて、血の気がざあっと下がっていく。
今までだってくらくらしていたのに、ひどい眩暈でくずおれそうになった。
「違いますっ。ジュリエッタお嬢さまじゃありませんっ」
そんな私のもとにポーラが走り込んできた。
皆の視線から庇うように私の前に立つ。
「ジュリエッタお嬢さまは最初からここにいらっしゃいましたっ。エリーナさんが階段から落ちるのを私と一緒にここから見たんです! だからジュリエッタお嬢さまが犯人じゃありませんっ」
「ジュリ姉さまを庇っているのね。あなたはジュリ姉さまの側付きだから。でも目撃者がいるのよ。ベサニーが、あそこでベサニーが、エリーナを突き飛ばしたジュリ姉さまを見ていた。証拠だってあるじゃない。あなた、嘘はよくないわ。ジュリ姉さまはエリーナを恨んでいたのよ。きつく叱られたから、エリーナに八つ当たりした。いいえ、八つ当たりじゃないわ。エリーナを本当は殺そうとしたのよ! 階段から突き落とすなんて恐ろしいこと、その気がないと出来ないもの」
「違いますっ。ジュリエッタお嬢さまはそんなひどいことはなさいませんっ。ジュリエッタお嬢さまは私と一緒にここにっ――一階にいました。ああ、誰か見ていませんかっ!? あの裏口から歩いてきてたんですっ」
「ジュリ姉さまも嘘つきならメイドも大嘘つきね! 主従は似るのかしら。エリーナを突き飛ばしておいて、何事もなかったみたいに皆と一緒に心配したふりが出来るんだから。ジュリ姉さまはまるで二重人格みたいだわ。お父さまも皆もジュリ姉さまの言うことは信じちゃダメっ。ジュリ姉さまは私のエリーナを殺そうとしたんだから! エリーナを返してっ、この殺人者!」
次々と重ねられるマリの言葉に、私が犯人だと強く印象づけられていくのがわかった。
皆の視線が、空気が、どんどん怒気を孕んでいく。
眩暈がひどくて、吐きそうなほど気分が悪くて――――誰かに助けて欲しくてふらふらと周囲を見回す。
胸の中が何かでいっぱいになっていて今にもパツンッとはち切れそうだった。
「お母さま……」
目が合ったお母さまに手を伸ばしてふらりと歩み寄ろうとする――と、
「ロッサーナに近付くなっ!」
「きゃっ」
肩を押されて、背中から勢いよく倒れ込む。
「ジュリエッタ!」
「ジュリエッタお嬢さまっ」
「旦那さま、なんてことをっ」
ポーラがすぐに抱き起こしてくれたけれど何の反応も返せなかった。
衝撃がひどくて体中が痛くて、目の前がゆっくり暗くなっていく。
ああ、あの手はお父さまだった――――…。
意識が途切れる寸前、幼い声の誰かが私の心で呟いた。




