私が見たもの
「そうだわ。このまま部屋にいたらマリがやってくるかもしれない。お昼になるまであとちょっとだけど、お庭に避難したいわ」
エリーナと大げんかして、マリの機嫌は今最悪だろう。
苛々をぶつけるために部屋へ押しかけられて、当たり散らされたらたまらない。
不機嫌なマリは震え上がるほど怖いのだ。
刺繍のお道具箱などの荷物をテーブルに置いて、すぐにまた部屋を出る。
マリの部屋からはまだ二人の声がしていた。
「でも、もしかしたらこれで事態は進展するかもしれませんね。旦那さまがマリエッタお嬢さまをしっかり叱ってくださったら、少しはお変わりになるでしょう」
大階段を下りて玄関ホールを通り、庭へと繋がる裏口へと向かう。
「だったら嬉しいけれど、お父さまが本当にマリを叱ってくれるかしら。最近のお父さまはマリばかり贔屓するのよ。マリが何をしても大目に見てしまうの」
私とマリが記憶を取り戻す以前――お父さまに駆け寄って抱き上げられていたのはジュリエッタだった。
昔のマリエッタはお父さまにも恥ずかしがってお母さまの後ろでもじもじ。
優しく何度も呼ばれてやっと歩み寄るくらいのひどい内気だったのだ。
そんなマリが最近はお父さまに自分から抱きついていく。
今まで超がつくほどの引っ込み思案だったマリがこんなにも懐いてくれたと、お父さまはとても喜んでいて、だから可愛がりぶりの箍が外れているらしい。
マリを抱き上げて屋敷中を散歩したり、好きなものを何でも買ってやったり、マナーの先生からの抗議に目をつぶったり、お母さまが説教をしていると横から口を出して庇ってやったりなど、挙げていくときりがない。
だからといってお父さまの中で私への愛情がなくなったわけではないと思う――ないと思いたい。
お父さまはきっと戸惑っているのだろう。
そういう気配を今まで何度か感じたことがあった。
私がマリのようにお父さまに甘えることが出来なくなったせいだ。
今までだったら何の意識もなく天真爛漫にお父さまに抱きつけた。
後先も考えなく好きにわがままをぶつけられたし気に入らなかったら小さな文句だって口に出せた。
だけど前世の記憶が戻ったことで変に分別がついて、下手なことが言えなくなったし出来なくなってしまった。
仕事をして疲れきった顔で帰ってきたお父さまに抱き上げて欲しいなんてとても言えないし、よそ行き用のドレスは高価だとわかるからおねだりも控えてしまう。
語学の時間、間違うと先生に鞭を使われるのが嫌だとも泣きつけない。
お父さまが愛していたジュリエッタの天真爛漫ぶりがすっかり消え去って、甘えなくなった私にお父さまもどう接していいのかわからないのだろう。
自分に甘えてこない子供より甘えてくる子供の方が可愛いと思ってしまうのもわかる気はする。
加えて、マリの印象操作の影響も大きい。
マリの嘘で――私は乱暴したり物を取ったりする子だと思われている。
天真爛漫に擬態したマリが甘やかされるのとは反対に、お父さまからは腫れものに触るように接せられる私。
お父さまのそんな態度は屋敷の使用人たちにも伝播して、だからマリの味方ばかりが増えるのだ。
ポーラやエリーナみたいな存在が本当に珍しい。
嫌だわ。
何だか本当にジュリエッタとマリエッタの立場が入れ替わってる。
私は心の底からため息をつきたくなった。
そんなお父さまだからこれからのことも心配になる。
「お父さま、エリーナの話をちゃんと聞いてくれるかしら」
勤続十四年だという信頼厚いエリーナと、目に入れても痛くないほど可愛がっているマリのどちらの言葉を信じるのか。
私はとても不安だった。
以前エリーナも言っていたけれど、マリ贔屓のお父さまと話すのならお母さまも一緒のときがいい。
けれど今のお母さまではまだ同席は出来ないだろう。
「あら……?」
庭へ出る裏口の扉に手をかけようとしたとき、にわかに背後が騒がしくなった。
どうやらお父さまが帰ってきたらしい。
「そういえば、朝ご飯のときにお昼も皆と一緒に食べたいねなんてお父さまがおっしゃっていたわ。本気だったのね」
「エリーナさんは、すぐにでも旦那さまにご報告なさるのでしょうか」
「……そうね。お父さまが帰ってきたらって言ってたものね。だったら、私も部屋へ戻って大丈夫かしら」
私たちは踵を返して今歩いた廊下を戻っていく。
見えてきた玄関ホールにはもうお父さまも誰もいなかった。
書斎か、お母さまの寝室へ執事やメイド共々移動したのだろう。
私も一度部屋へ戻って身だしなみを整えようと大階段へと歩き出す。
そんな視界に、エリーナが姿を現した。
二階の廊下をきびきびと歩いて大階段へ近付いてくる。
憤った顔つきのエリーナは、決意を秘めたような目をしていた。
ああ、今からお父さまに言うのね。
はっきりそう感じ取ったとき。
「……っ」
エリーナの体が前へと不自然に傾いた。
大階段を今まさに下りようとしていたエリーナだ。
空中に投げ出されるような格好になったかと思うと、落下して階段を転がり落ちてくる。
まるでスローモーションみたいに全部の様子がはっきり見えた。
恐怖でこわばったエリーナの顔も、宙に一瞬浮いた体も、そこから階段にたたきつけられる衝撃も、勢いよく階段を転がり落ちる状況も。
そして、大階段の上で両手を突き出した格好のマリの姿も――――。
「きゃああああーっ、エリーナさんっ」




