第2話 壁の向こう側
立ち上がりかけた俺の袖を、のあが、つまんで引き止める。
力は、ちっとも強くない。
本気で帰ろうと思えば、振り払えるくらいの。
なのに、こいつのこういう仕草には、なぜか逆らえない。
やれやれ、と、俺は引いたばかりの椅子に座り直した。
「五分だけ聞く。それで意味わかんなかったら、帰るからな」
「五分!宇宙の創成を、五分で!
……まあ、いいか。神様だって、天地創造は七日でやったんだもん。それに比べたら、五分で、さわりくらい、いけるでしょ。おお、不届きものの無礼も許してやろうではないかー」
「なんですでにちょっと神様気取りなんだよ」
のあは、もう聞いちゃいない。鞄から、何かを取り出して、ごそごそやっている。
出てきたのは——教科書、ではなく。
よれよれの、大学ノートだった。
表紙のあちこちが、折れて、毛羽立っている。
それを、ぱらぱらと、めくる。
ちらりと見えた中身はぎっしりと書かれていた。
何かの図と、数式らしきものと、
そして、まるっこい、見慣れた、こいつの字。
……いつ書いてるんだ、こんなの。
授業中か。だとしたらたいした度胸だ。
いや、褒めてはいないが。
「いい?(ゆーはお馬鹿だからわからないだろうし)まず、大前提から。——この宇宙の、外側には。何があると、思う?」
なんかすごい失礼な大前提があった気がするが、いったんおいておいて、
「知らねえよ。でも『なにもない』じゃあつまらないもんな。うーん、誰もたどり着いてないんだから、本当のところはわからないんだろうけど、どこか最後には壁とか、あるんじゃないか?」
「おしい!」
「おしいのか、それ」
「正確には宇宙は広がり続けている。らしいんだけど。でも、そうじゃなくてね。物理的な壁じゃなくて」
「想像の限界。というか創造の限界?みたいな壁があるの」
「そして。そしてそして、その壁の向こうに。——誰か、いるの」
のあは、ノートのあるページをこっちに、ぐい、と突きつけてきた。
下手な絵だった。大きな丸が、ひとつ。
その中に、小さな点々がいっぱい散らばっている。
そして、その丸を外側からのぞき込んでいる棒人間が、ひとり。
「箱庭説、っていうの。
この宇宙は、外側の誰かが作った箱庭なんじゃないか、って考え方。
ほら、水槽で、熱帯魚。飼うでしょ?
あんなふうに。宇宙をぽこっと作って。
外から眺めてる、『誰か』がいる」
「その誰かさんってのは、誰なんだ?それが神様なのか?」
「呼び方は、なんでもいいの。神様でも、創造主でも、観測者でも。——でね、ゆー。だいじなのは、ここから」
のあの、細い指が。
丸の外の棒人間から、ついっと、丸の中の、小さな点々のひとつへ移った。
「この、中にいる子たちは。
外側に誰かがいるなんて、ぜーんぜん、気づかないってこと。
だって、その子たちにとっては、宇宙の“中”がぜんぶだもん。外側なんて、見えないし。行けないし。
外側の壁にたどり着けない。
考えても、どこにも届かない」
——まあ。
それは、そうかもしれない。
水槽の魚は、たぶん、こっちのことなんて、わかっちゃいない。
ガラスの向こうから、ときどき餌をくれる、大きい影。
せいぜい、その程度の認識で。
自分たちの世界が、誰かの机の上の、ほんの一角に置かれているなんて。想像もしないだろう。
「で、ここから、ほんとの本題」
のあが、ノートを、ぱたんと閉じて。
机に、ぐっと、身を乗り出してきた。
西日が、その横顔に当たって。きらきらした目の中の光が、いっそう、強くなった。
「外側に、行く方法。——ひとつだけ、あるの」
顔が近い。普通にドキドキする。
「……ある、のかよ。そんなもん」
「うん。すっごく、簡単。——自分が、外側に、なればいいの」
沈黙。
言ってる意味は、わからなかった。
いや、ひとつ前の話もわからなかったし、今回のもわからなかったんだが——なぜか、このとき。
背中を、すうっと、冷たいものが撫でた気が、した。
開けた窓から、入る風は。こんなにぬるいのに。
「あのね、ゆー。
覚えてる?脳と宇宙が似てるって言ったでしょ。
構造がおんなじ。
大きさは、何十桁も違うのに、形は一緒。
——それって、つまり。
大きいものと、小さいものに、
ほんとは境目なんて、ないってことじゃない?」
「……何段階か飛躍してないか、それ。たぶん」
まあでもそれはなんとなくわかる。
数学だっけ。相似だか。なんだか。
構造が同じなら、拡大しても同じというか。
イメージはなんとなく。
なんで俺がフォローしなくちゃいけないのかわからないが。こいつのこういう話についてくためには頭をフル回転しなきゃいけない。
「飛躍してない。そしてちゃんと聞いて。
——もし神様が私たちの宇宙を作ったんだとして。
私たちがそっくりな構造を、つまり頭の中をひとつ作れたら。
それは立派な、ひとつの宇宙。
——で、それを作った私たちは?」
「……その宇宙の、外側?」
「せいかい」
「要するに、神様になりたいってことか」
「んー。神様は、なっちゃうだけ。おまけ」
おまけで神様になられてたまるか。
いや待て。
「でもそれ、お前が作った宇宙、つまりお前の箱庭の外に立ってるだけだろ。こっちの箱庭からは、一歩も出てないじゃないか」
水槽の魚が、水槽の中にもっと小さい水槽を作ったところで。魚は魚のままだ。ガラスの向こうの影にはならない。
のあは、ぱちぱちと二回まばたきをして。
それから、なぜか嬉しそうに笑った。
「ゆー、今日ちょっと冴えてるかも」
「いつもだ」
「出られないよ。それはそう。でもね——同じことをしたら、同じ場所には立てるでしょ?」
細い指が、閉じたノートの表紙をとん、と叩く。
「宇宙を作った誰かと、おんなじことをする。そしたら、その人が何を見てたのか、ちょっとはわかるかもしれない。壁の向こうと、おんなじ景色が見られるかもしれない」
大きいものと、小さいものに、
ほんとは境目なんて、ない、ということなのか。
「……で、それでどうするんだよ」
「どうもしないよ?知りたいだけ」
のあは、きょとんと首をかしげて。
「壁の向こうに、誰がいるのか。その人が、どんな顔してこっちを見てるのか」
言いながら、俺の顔をじっとのぞき込んでくる。
「——たとえば、こんなふうに?」
「近いって」
ぬるい西日の部室で。
目の前の女の子が、世界でいちばん楽しそうな顔で、宇宙の外側、壁の向こうへの行き方を語っている。
……やれやれ。
こいつの話は、いつもこうだ。
突拍子もなくて。荒唐無稽で。どこにも着地しない。
なのに、なんでだろうな。
聞いていると、ときどき、ほんの一瞬。——足元の床が。すうっと、消えてなくなるような。
そんな、気が。
することが。
ある。
読んでいただきありがとうございます!
よろしければ感想をぜひお願いします!




