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第2章 現実 第三部 誤差


 夕方に差し掛かる頃、壕の中の空気は明確に変わっていた。

 誰も止まっていない。

 だが、全員の動きがわずかに鈍い。

 白凪はそれを“見て”ではなく、“聞いて”いた。

 踏み板に乗る音が、昨日より重い。

 土嚢に触れる布の擦れる音が、わずかに長い。

 返事の間が、ほんの一拍遅い。

(遅れてる)

 視界は同じだ。配置も変わっていない。

 だが、時間だけがズレている。

 疲労だった。

 水が足りない。

 眠っていない。

 補給もない。

 だから動きが、ほんの少しだけ遅い。

「白凪」

 笹倉の声が飛ぶ。

「南東枝壕、線が落ちます。伝令で前縁確認」

「了解」

 白凪は短く返した。

 その言葉の意味は、はっきりしている。

 有線が不安定になる。

 つまり、後方からの命令はすぐには届かない。

 伝令が走る分だけ、どうしても遅れる。

 撃たれてからでは間に合わない距離だ。

(……自分で判断する場面が増える)

 白凪はそう理解した。

 誰かの指示を待って動くのではなく、見た状況で自分が先に動く必要がある。

 間違えれば、そのまま死ぬ。

 だが、待てばもっと遅れる。

 どちらにしても、余裕はない。

「行くぞ」

 荒瀬が先に動く。

 白凪は続いた。

 壕の中は狭い。人一人分の幅しかない。

 だが、その狭さが“道”になっている。

 踏み板を踏む。

 次の板へ。

 有線を避ける。

 土嚢の影へ寄る。

 順番通りに動く。

 だが――

 曲がり角に差し掛かったとき、白凪の足がわずかに止まりかけた。

(ここ、だったか)

 同じ形の分岐。

 同じ高さの土嚢。

 同じような踏み板。

 記憶と現実が、半拍ずれる。

 その“半拍”で、身体が止まりかける。

「止まるな」

 荒瀬の声。

 白凪は反射で一歩踏み出した。

 正解かどうかではない。

 止まらないことを優先する。

 そのまま前縁手前の露出区間に出る。

 空気が変わる。

 壕の中とは違う。

 遮るものが薄い。

 音が抜ける。

(ここだ)

 白凪は身体を低くする。

 その瞬間、横から声が飛んだ。

「そこじゃない!」

 別の兵だった。

 焦った声。

「一つ前だ!」

 白凪の思考が止まる。

 一つ前?

 どこだ。

 頭の中で位置を組み替える。

 その瞬間――

 音が来た。

 ――ヒュッ

 空気を裂く細い音。

 着弾の予兆。

 時間が縮む。

(遅い)

 判断が間に合っていない。

 白凪の視界が、急に細くなる。

 右へ倒れる。

 いや、そこは浅い。

 左へ滑る――

 その瞬間、前の兵が動いた。

 迷いがない。

 土嚢の影へ一直線に入る。

 正しい動きだった。

 だが――

 白凪の目には、それが“わずかに早い”と見えた。

(まだ、収まってない)

 身体の中心は隠れている。

 だが肩が、ほんの数センチ外に出ている。

 その状態で――

 着弾。

 土が弾ける。

 破片が横に流れる。

 白凪は反射で伏せる。

 だが、その兵は――

 動かない。

 音がない。

 声もない。

 ただ、崩れる。

 肩に入った。

 ほんの数センチ。

 それだけで、終わる。

 白凪の呼吸が止まる。

(今のは)

 位置は正しかった。

 判断も正しかった。

 だが、“入るタイミング”が早かった。

 遮蔽に完全に収まる前に、動きを終えてしまった。

 その誤差。

 それだけで、死ぬ。

「戻れ!」

 荒瀬の声が叩きつける。

 白凪は身体を引いた。

 今度は迷わない。

 順番通りに戻る。

 踏み板。

 線。

 土嚢。

 全部を外さずに通る。

 壕の中に滑り込む。

 そこでようやく呼吸が戻る。

「見たか」

 荒瀬の声。

「……はい」

「何が悪い」

 白凪は答えようとして、詰まる。

 敵が強かったわけではない。

 弾が多かったわけでもない。

 ただ――

「……タイミングです」

 荒瀬は頷いた。

「そうだ。位置でも判断でもねえ。“半拍”だ」

 白凪の中で、言葉がはまる。

 半拍。

 それだけで、身体の収まりが変わる。

 収まらなければ、当たる。

「前で考えるな」

 荒瀬が続ける。

「出る前に終わらせろ。出てから迷った時点で遅い」

 白凪は目を閉じた。

 さっきの動きをなぞる。

 止まる。

 考える。

 動く。

 その順番が遅い。

 正しくても、遅ければ意味がない。

 そのとき――

 白凪の中で、動きが分かれた。

 同じ場所。

 同じ状況。

 だが、微妙に違うタイミング。

 早い。

 遅い。

 半歩ずれる。

 複数の動きが、同時に浮かぶ。

 その中で一つだけ、身体が完全に収まる動きがある。

(これだ)

 白凪は目を開けた。

 頭が重い。

 だが、さっきよりも明確だ。

「行くぞ」

 荒瀬が言う。

 白凪は頷いた。

 今度は止まらない。

 出る前に決める。

 同じ場所へ。

 同じ遮蔽へ。

 だが――

 入る。

 迷いがない。

 身体が完全に収まる。

 何も起きない。

 それが正解だった。

 だが白凪は理解していた。

 これは“正解を選んだ”のではない。

 “誤差が最も小さい動き”を選んだだけだ。

 そしてその誤差は、消えない。

 疲労がある限り。

 水が足りない限り。

 通信が遅れる限り。

 必ずまたズレる。

 そして、そのズレで誰かが死ぬ。

 白凪澄は、壕の中で静かに息を整えた。

 戦場は、強い者が生き残る場所ではない。

 ズレを最小にできた者だけが、少し長く残る場所だった。


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