第2章 現実 第二部 持ち場
昼に近づいても、九番観測壕の空気は少しも緩まなかった。
砲声は夜より遠い。機関銃も鳴っていない。断尾嶺の稜線も、朝から大きく形を変えてはいない。
それでも、壕の中では誰一人休んでいなかった。
白凪は最初、その理由が分からなかった。
戦っていないなら、少しは息をつけるはずだと思った。だが実際には逆だった。撃たれていない間にしか、直せないものと確かめられないものがあるのだと、すぐに思い知らされることになる。
「白凪、そっち見るな。足元を見ろ」
荒瀬の声が飛ぶ。
白凪は視線を落とした。
壕の底は平らではなかった。雨と踏圧で泥が練られ、ところどころが浅くえぐれている。土嚢の切れ目から崩れた土が落ち、板切れが半分埋まり、有線が泥の中を黒く這っていた。
人が通る場所としては、あまりに狭く、あまりに雑然としている。
だが、荒瀬が言いたいのはそこではなかった。
「今、お前が立ってるところ、二人並べる幅があるだろ」
言われて見ると、壕のその区間だけ、やや広く掘られていた。肩が触れずに二人立てる程度の幅がある。
「はい」
「そこが駄目だ」
白凪は眉を寄せた。
広い方が通りやすいのではないか。そう思った顔を読んだのか、荒瀬はすぐに続けた。
「広いと、人が横に並ぶ。並ぶと前のやつを抜こうとする。抜こうとすると、有線を踏む。荷がぶつかる。負傷者を運ぶ時に詰まる」
白凪は壕の奥を見た。
たしかに、この幅なら二人が同時に動こうとする。そうなれば、片方は壁に寄り、もう片方は泥か線の上へ逃げるしかない。
「だから詰めるんだ」
荒瀬は壕壁を靴先で示した。
「人が一列で通る幅だけ残す。迷わず進める幅だけあればいい。余計な空きは、考える余地になる」
そこで白凪はようやく理解した。
狭くするのは不便にするためではない。
通る人間の動きを一つに固定するためだ。
前に進む足場を一本に決めてしまえば、誰も横へずれない。横へずれなければ、有線を踏みにくい。荷もぶつかりにくい。担架も通しやすい。
壕の中では「通りやすい」より、「迷わない」の方が優先される。
「分かったか」
「……はい。広いと、勝手な動きが増えます」
「そうだ」
荒瀬は短く答えた。
「前線で余計なのは、物じゃねえ。選択肢だ」
白凪はその言葉を頭の中で繰り返した。
選択肢が多いほど助かるわけではない。むしろ、迷う余地が増える。
それは白凪自身にとっても、妙に引っかかる言葉だった。
その少し先では、水城が壕壁に膝をついていた。
白凪はそこでようやく、水城が何をしているのかを正面から見た。
ただ土をいじっているわけではない。
崩れた壕壁の土を短い鍬で削り、緩んだ部分を落とし、その前に板を当てる。板がずれないよう木杭を打ち込み、その手前に土嚢を積み直す。さらに、底がぬかるんで人が足を取られる場所には、短い板を渡して踏み板を作る。
しかも、その板の位置は無造作ではなかった。
有線を踏まず、弾薬箱を抱えた兵が一人で通れ、担架の前後二人が足を揃えやすい位置に置かれている。
白凪は思わず口にした。
「……壕を直してるんじゃなくて、通れるようにしてるんですね」
水城は手を止めずに答えた。
「壕全部なんて直せない」
木槌を振り下ろす。
鈍い音がして、杭が半分沈む。
「今やってるのは、今日崩れたら困る場所だけだ」
さらにもう一打ちする。
「壁が落ちると人が止まる。人が止まると後ろが詰まる。詰まると運べない。だからそこだけ先に塞ぐ」
白凪は足元の板を見た。
ただの板ではなかった。
その一枚で、人が滑らずに済む。滑らなければ箱を落とさない。箱を落とさなければ通路が塞がらない。
工兵の仕事は、派手な補修ではない。
兵が止まらずに動ける状態を、最低限だけ維持し続けることだった。
「そこも持ってくれ」
水城が顎で示す。
白凪が駆け寄ると、土嚢の一つが半分破れていた。砂が抜けて、角が潰れている。
「それ、下に回す。潰れたやつは上に積まない。受けに使う」
「受け?」
「崩れた土を止める役だ。上に積むと形が保てない」
白凪は言われた通り土嚢を持ち上げた。湿って重い。布地もざらついていて、指に砂が食い込む。
水城はその横で、まだ使える土嚢と使えない土嚢を迷わず分けていた。
新しいものがない以上、捨てる余裕はない。
壊れたものも役割を変えて使うしかないのだ。
「全部足りないんですね」
白凪が言うと、水城は一瞬だけ白凪を見た。
「今さら気づいたのか」
口調は軽いが、答えは重い。
「板も足りない。杭も足りない。土嚢も足りない。時間も足りない。だから、全部は直さない。人が死にやすい順から潰す」
その言葉に、白凪は少し息を止めた。
工兵の作業もまた、順番だった。
丈夫にすることが目的ではない。
“今日、人が死にやすい箇所”を先に減らすことが目的だ。
少し離れた場所では、笹倉が泥の中に膝をついていた。
有線の一部を掘り起こし、布で泥を拭い、被膜の傷を確かめている。
「南東枝壕、感度低下。雑音あり。接続点確認します」
受話器を肩に挟んだまま、手は止まらない。
線を辿る指先にも迷いがなかった。
白凪はその様子を見て、昨夜の言葉を思い出した。
線が切れれば命令が切れる。
つまりこの細い黒線は、ただの道具ではない。前と後ろをつなぐ唯一の経路だ。
水城が踏み板の位置をずらしているのも、その線を踏ませないためだった。
壕壁、踏み板、土嚢、有線。
全部が別々に見えて、実際は一本の動線を作っている。
その一本が切れれば、人も物資も命令も止まる。
「白凪」
今度は瀬名の声だった。
名取のそばにしゃがんでいる。
「水筒、まだ満量ですか」
「……半分より少し上です」
「今日の昼まではそれで持たせてください。追加は読めません」
名取は壁にもたれたまま、顔色が悪い。意識はあるが、起き上がるたびに息が乱れる。
瀬名は包帯の巻き具合を確かめながら続けた。
「歩かせません。運ぶにも人手が要る。今はその人手を割けません」
白凪は黙って頷いた。
助かったから終わりではない。
生きていても、動けなければ誰かの手を使う。前線では、その手の本数自体が資源なのだ。
壕の上で、久我が双眼鏡を下ろした。
「断尾嶺、変化なし」
短い報告だった。
だがその「変化なし」は、見続けた人間だけが言える言葉だ。
鷹見がすぐに返す。
「継続しろ」
それで終わる。
敵が撃ってこないからといって、観測が休みになるわけではない。
撃ってこない時間に、向こうが何を整えているか分からないからだ。
白凪は壕の中を見回した。
最初は、誰も戦っていないように見えた。
だが違う。
水城は壕を止めている。
笹倉は命令を止めないようにしている。
瀬名は人が減る速度を抑えている。
久我は、次に崩れる前兆を見張っている。
戦っていないのではない。
戦闘が始まる前に壊れるものを、持ち場ごとに食い止めている。
「眠そうな顔してるな」
荒瀬が横から言った。
白凪は否定しなかった。実際、瞼は重い。
「立て。歩け」
命じられて、白凪は壕の中を数歩進む。
踏み板の位置を確かめる。土嚢の張り出しを避ける。有線を跨がない。狭くされた通路を、一人分の幅でまっすぐ通る。
さっきまで窮屈にしか見えなかった通路が、今は意味を持って見えた。
この幅なら迷わない。
この板なら滑りにくい。
この位置なら線を踏まない。
不便なのではない。
必要な動き以外をさせない形に整えられているのだ。
「戦闘がない方が楽だと思ってたか」
荒瀬が訊いた。
「……少し」
「逆だ」
荒瀬は壕の先を顎で示す。
「撃たれてる時は、やることが一つに絞られる。今は違う。直す、運ぶ、見張る、繋ぐ、減らさない。その全部を止めずに回さなきゃならん」
白凪は歩きながら、それを実感した。
たしかに、今は一つも終わっていない。
戦っていないのに、休めない。
静かなのに、余裕がない。
何も起きていない時間ではなく、崩れる前に支える時間なのだ。
白凪澄は、踏み板の上で足を止めずに進んだ。
前線では、持ち場にいるだけでも仕事になる。
そして、その仕事を崩さず続けること自体が、すでに生存の一部だった。




