第2章 現実 第一部 朝の不足
朝は来たが、何も終わっていなかった。
九番観測壕の土は、夜の湿り気を残したまま冷えている。空は薄く明るいが、壕の中はまだ色を持たない。光が差し込む前に、やるべきことだけが先に並んでいた。
白凪は目を開けた瞬間、自分の手を見た。
乾いた血が残っている。
拭いたはずだった。だが完全には落ちていない。水を使えば落ちるだろうが、その水はもう別の順番で使われる。
使わない。
それだけで決まる。
「起きろ」
荒瀬の声が落ちた。
白凪はすぐに身体を起こす。眠った感覚はない。ただ、目を閉じていただけだ。
周囲も同じだった。
誰も「起きた」という顔をしていない。続きの動きを再開しただけだ。
「点検からだ。昨日の場所を見ろ。変わってるかどうかじゃねえ、変わってないかを見る」
白凪は壕の縁へ視線をやった。
土嚢の列。補修途中の継ぎ目。踏み固められた動線。有線の位置。
そして――空白。
昨日、二人分の穴だった場所。
そこは、まだ埋まっていなかった。
水筒も、そのまま転がっている。
「……そのまま、ですか」
名取の声だった。
かすれている。意識は戻っているらしい。
瀬名が横で手を動かしながら言う。
「動かす優先順位ではありません。今は」
淡々としている。
そこに感情はない。ただの判断だ。
「感染は」
「まだ大丈夫です。ですが、ここに長く置く前提ではありません」
「……運ばないんですか」
「運べる条件が揃っていません」
それで終わりだった。
名取はそれ以上何も言わない。
言っても変わらないことを、もう理解している顔だった。
白凪は視線を外した。
昨日、引き戻した。
それで終わりではない。
その続きが、ここに残っている。
「報告」
鷹見の声が落ちる。
全員が動きを止めずに耳だけを向ける。
「前縁弾薬、未達」
事実だけが置かれる。
「現時点、補給不足は継続」
誰も驚かない。
知っていることを確認しただけだ。
「本日、再実施する」
それも当然の流れだった。
未達なら、やり直す。
だが、条件は変わっていない。
むしろ悪い。
「条件は同じと思うな」
鷹見が言う。
「敵は位置を知っている。昨日と同じ通し方は通らない」
白凪はその言葉を聞いて、頭の中で順番を組み替えた。
同じ動きは通らない。
なら、順番を変える必要がある。
だが――
(変えられるのは、どこだ)
遮蔽。
線。
動線。
全部が制約されている。
自由に変えられる部分は少ない。
「配置を詰める」
鷹見が続ける。
「不足は分散させるな。一箇所に寄せる」
荒瀬が頷く。
「薄く広げると全部死ぬからな」
「そうだ」
白凪は理解した。
均等にするのではない。
“耐えられる場所を作る”という発想だ。
「白凪」
呼ばれる。
「……はい」
「昨日の行動を言え」
白凪は一瞬だけ考えた。
順番で出す。
「前縁手前で着弾。遮蔽へ移動。名取回収。弾薬放棄」
「結果は」
「補給未達」
「そうだ」
鷹見は即答した。
そこに評価はない。
事実だけだ。
「次はどうする」
白凪は少しだけ間を置いた。
昨日と同じ選択は通らない。
だが、完全に別の動きもできない。
「通過経路を先に確保します。弾薬はその後で流す」
荒瀬が横で小さく息を吐く。
「昨日よりはマシだな」
鷹見が言う。
「それでやれ」
それで決定だった。
名取は横で目を閉じている。
生きている。
だが、戦力ではない。
白凪はその事実を見た。
昨日の選択の結果。
助けた。
だが、補給は止まった。
そして今、補給が優先される。
順番は変わらない。
人ではなく、機能で並ぶ。
白凪は壕の外を見た。
朝の光が、ようやく土に色を戻し始めている。
だが、その色の中に、昨日と同じ穴がある。
埋まっていない。
埋められていない。
埋めるのは、自分たちだ。
白凪は理解した。
戦場は、昨日で終わらない。
終わらなかった分だけ、今日に積み上がる。
そしてそれは、減らない。
減らせない。
ただ、順番を変えて処理するしかない。
白凪澄は、静かに立ち上がった。
まだ撃たれていない。
だが、もう始まっている。
今日も同じ場所で、同じ不足を抱えたまま。




