第2章 現実 第四部 間引き
白凪は、ようやくこの場所の形を理解し始めていた。
九番観測壕の周囲に掘られた壕は、ただの穴ではない。
人が通るための道だった。
幅は人一人分。場所によっては肩が土に触れるほど狭い。深さも一定ではなく、膝ほどの浅い場所もあれば、胸まで沈む場所もある。
その中を、兵が、弾薬が、担架が通る。
止まらずに。
壕は一直線ではない。蛇のように折れ、曲がり、いくつもの枝に分かれている。前へ出るための道と、後ろへ退くための道が重なり、交差し、時に同じ一本を共有している。
だから詰まる。
詰まれば、止まる。
止まれば、その先が死ぬ。
白凪は足元を見た。
泥の中に、板が渡されている。
幅は靴一足分。長さは数歩。
踏み板だった。
ただの板ではない。
これがなければ、足が滑る。
滑れば体勢が崩れる。
崩れれば、箱を落とす。
箱が落ちれば、通路が塞がる。
だから置かれている。
正確な位置に。
そのすぐ横を、黒い線が這っている。
有線だった。
泥に埋もれかけているが、確実に後方へ続いている。
これが切れれば、命令が止まる。
命令が止まれば、誰も次に何をするか分からなくなる。
撃たれる前に、動きが止まる。
白凪はさらに視線を上げた。
壕の縁には土嚢が積まれている。
膨らんだ布袋が何段にも重なり、銃弾や破片を受け止める壁になっている。
だがその土嚢も、完全ではない。
破れたもの、潰れたもの、形を失いかけたものが混ざっている。
それでも積まれている。
それがないよりは、ましだからだ。
(……全部、繋がってる)
踏み板も、有線も、土嚢も、壕そのものも。
全部が一つの流れになっている。
人が通る。
物資が通る。
命令が通る。
そのどれか一つでも止まれば、残りも止まる。
だから、水城は壕を“直している”のではなかった。
通れる状態を、途切れさせないために支えている。
荒瀬が言った言葉が、ここで初めて形になる。
――前線で余計なのは、選択肢だ。
この壕は、その選択肢を削るために作られている。
迷わず進むための一本の道。
その道が――
「崩れるぞ!」
声が飛んだ。
白凪は反射で顔を上げる。
土嚢の列の一部が沈み込んでいた。
下の土が抜けている。
上に積まれた重さに耐えきれず、内側へ崩れかけている。
そこは通路の曲がり角だった。
人が必ず通る場所。
そこが潰れれば、流れが止まる。
「水城!」
誰かが叫ぶ。
「今行く!」
水城が駆ける。
同時に、別の声が重なる。
「笹倉、北側落ちる!」
「……線、途切れます!」
受話器越しの声が途切れかける。
さらに奥から、もう一つ。
「瀬名!出血増えてる!」
負傷者だった。
白凪は一瞬で理解した。
全部、同時に起きている。
通路崩壊。
通信断絶。
負傷者悪化。
どれも放置すれば致命になる。
だが――
(全部は無理だ)
人手が足りない。
時間も足りない。
順番を決めるしかない。
「白凪!」
鷹見の声が落ちる。
「北側確認!」
命令。
白凪は動いた。
だが一歩踏み出した瞬間、足が止まりかける。
視界の端で、負傷者が見える。
血が広がっている。
その横で、土嚢がさらに崩れかける。
水城が一人で支えている。
線は今にも切れそうだ。
全部が視界に入る。
全部が“やるべきこと”に見える。
その瞬間――
白凪の中で動きが分岐する。
負傷者へ向かう。
→助かる可能性
→だが通路が止まる
通路を支える。
→全体は動く
→だが命令が遅れる
線を守る。
→指揮は繋がる
→だが目の前が崩れる
命令通り進む。
→状況把握はできる
→だが全部を見捨てる
(……どれも足りない)
正解はない。
あるのは、どれを減らすかだけだ。
白凪は目を閉じた。
その中で、一つだけ選ぶ。
“全体が止まる確率が一番低い動き”
目を開ける。
白凪はそのまま前へ進んだ。
負傷者にも、土嚢にも手を出さない。
命令を優先する。
それが最も損失が少ない。
「……行ったか」
荒瀬が低く言う。
止めない。
それが判断だと分かっている。
白凪は北側へ出る。
有線が露出している。
踏み板が傾いている。
通るたびにズレる。
このままでは、確実に止まる。
白凪はそれを確認して、すぐに戻った。
壕の中は変わらない。
負傷者はまだ倒れている。
土嚢はまだ崩れかけている。
線はまだ不安定だ。
何も解決していない。
ただ、順番が決まるだけだ。
「報告」
白凪が言う。
「北側、通路崩壊寸前。有線露出。通行不安定」
「分かった」
鷹見は即答する。
「水城、北側優先。笹倉、線はそこへ集中。瀬名、重傷のみ維持。軽傷後回し」
順番が決まる。
救う順番ではない。
捨てる順番だ。
白凪は理解した。
この壕は、人を守るためにある。
だが、すべての人を守るためではない。
流れを止めないためにある。
その流れから外れたものは、切り捨てられる。
白凪澄は静かに息を吐いた。
戦場では、守られるものは決まっている。
人ではない。
流れだ。
そして人は、その流れに残れるかどうかで分けられる。




