第6章第1部『別れ』
第6章第1部『別れ』
明け方の音は、車輪の音から、始まった。
遠かった。
遠いが、止まらない音だった。
止まらないのは、後送便が、街道を、九番に向けて、進んでいるからだった。
白凪は、観測壕の手前で、その音を、聞いた。
聞いた瞬間に、引き金にかけた手を、外した。
夜の見張りは、もう、終わりだった。
空は、灰色のまま、だった。
灰色の中に、薄い橙が、薄く、混じり始めていた。
橙は、空の縁から、ゆっくりと、伸びてきた。
伸びてくる速度は、急がなかった。
急がない速度の中で、白凪は、観測壕の手前から、本陣の方向へ、動いた。
動きながら、自分の右手を、見た。
右手は、震えていなかった。
震えていないのは、震えが、別の場所に、移っていたからだった。
別の場所は、身体の中の、奥の方だった。
奥の方の震えは、止めなくて、いい場所に、入っていた。
入っているまま、白凪は、本陣の脇に、立った。
鷹見は、本陣の入口の脇に、いた。
立ち姿勢のまま、空を、見上げていた。
見上げているのは、後送便の音の方向、ではなかった。
断尾嶺の方向、でも、なかった。
九番の真上、だった。
真上の空には、星は、もう、なかった。
星は、夜のあいだに、薄くなり、明け方には、消えていた。
消えた空の下で、鷹見は、半拍、止まっていた。
止まっていた時間の中で、鷹見の右手は、軍服の脇の縫い目に、置かれていた。
縫い目の場所は、いつも通り、だった。
いつも通りの場所に、いつも通りの手があった。
いつも通りの中に、ひとつだけ、違うことが、あった。
鷹見の足の置き方が、半歩、本陣の入口の外側に、ずれていた。
ずれているのは、後送便を、出迎える側に、立つため、だった。
立つ側を選ぶ、というのが、鷹見の選び方だった。
白凪は、その横に、止まった。
鷹見は、白凪を、見なかった。
見ないまま、鷹見は、空から、視線を、街道の方向に、移した。
車輪の音は、近づいてきた。
近づくにつれて、音は、二つに、聞き分けられた。
一つは、輸送車輌の、エンジンの音だった。
もう一つは、車輪が、街道の凹みを、通過する音だった。
凹みは、街道に、複数あった。
砲跡が、街道の浅い場所に、残っていた。
残った跡を、後送便は、避けて、通った。
避ける動きが、車輪の音の、間隔を、不均等にした。
不均等な間隔の中で、後送便は、九番の入口の、手前まで、来た。
来た位置で、エンジンの音が、止まった。
止まった瞬間に、明け方の空気の中に、別の音が、入った。
降りてくる、足の音だった。
「九番、白凪二等兵」
葉室の声だった。
葉室は、輸送車輌の運転席から、降りてきた。
降りてきた動きは、ゆっくりだった。
ゆっくりなのは、年齢のためでも、疲労のためでも、なかった。
古参の輸送兵の、動きの速度だった。
速度の中に、無駄が、入っていなかった。
無駄のない動きで、葉室は、輸送車輌の脇に、立った。
立った位置から、白凪を、見た。
「はい」
白凪は、答えた。
答えた声の温度は、低かった。
低いのは、明け方の空気のため、ではなかった。
夜の見張りの終わりの声の、温度だった。
「鷹見軍曹」
葉室は、視線を、鷹見に、移した。
鷹見は、半拍、頷いた。
「後送便、ご苦労」
「お運びします」
葉室は、それだけ言った。
言ってから、もう一人の輸送兵を、確かめた。
確かめた相手は、若い兵だった。
若い兵は、輸送車輌の後部から、降りてきた。
「綾瀬一等兵です」
綾瀬は、自分から、名乗った。
名乗ったが、その後の言葉は、続けなかった。
続けない選び方は、葉室の脇で、教えられたもの、だった。
教えられた、というより、葉室の動きを、見て、覚えた、というのが、近かった。
近い覚え方の中で、綾瀬は、輸送車輌の後部の、扉を、開けた。
扉の中に、担架が、二つ、積まれていた。
担架の一つは、空、だった。
空の担架が、これから使われる方の、担架だった。
「白凪二等兵」
瀬名の声が、本陣の中から、来た。
白凪は、本陣の入口の方向に、視線を、戻した。
戻した先で、瀬名が、笹倉を、支えていた。
支えている動きは、急がなかった。
急がない動きが、瀬名の手の動きの、いつも通り、だった。
いつも通りの手の動きの中で、笹倉は、自分の足で、立っていた。
立っているが、左脇腹の包帯の上に、瀬名の手の支えが、置かれていた。
包帯は、昨日、瀬名が新しく巻き直した。
巻き直した時間は、夕方だった。
夕方から、明け方までの間に、包帯の色は、変わっていなかった。
変わっていない、というのは、出血が、止まっている、ということだった。
止まっているが、長くは、持たない。
長く持たないのは、笹倉の動ける時間が、後方の野戦病院まで、もたない可能性がある、ということだった。
可能性は、瀬名が、白凪に、昨日の夜のうちに、伝えていた。
伝えていた情報を、白凪は、引き出しの、ある場所に、入れていた。
入れた場所は、動機の場所の、すぐ脇だった。
笹倉が、本陣の入口から、出てきた。
出てくる速度は、笹倉の、いつもの歩く速度の、半分以下だった。
半分以下の速度の中で、笹倉は、白凪の方向に、視線を、向けた。
視線の中に、何かが、入っていた。
何かは、言葉では、まだ、組み立てられていなかった。
組み立てられていないまま、笹倉は、白凪の前まで、来た。
来た位置で、瀬名の手が、半拍、止まった。
止まった手の脇で、笹倉は、自分の重心を、自分の足の上に、置き直した。
置き直した上で、笹倉は、口を、開いた。
「白凪二等兵」
「はい」
白凪は、答えた。
答えた声は、観測壕の手前で答える時と、同じ温度だった。
同じ温度の中で、笹倉は、続けた。
「九番、保たせてください」
言葉は、短かった。
短いが、笹倉が、今、言える、最も大きな言葉、だった。
大きな言葉の中に、笹倉が抱えている、ある場所が、入っていた。
ある場所は、笹倉の、副線の脇で被弾した夜の、布の感触の続きにあった。
続きの先に、笹倉が、白凪に、訊いたことが、あった。
訊いた問いは、答えが、出ていなかった。
出ていなかった答えを、笹倉は、今、自分の中で、組み立てていた。
組み立てている途中で、笹倉は、口を、続けた。
「保たせます」
白凪は、答えた。
答える前に、半拍、空いた。
半拍の中で、白凪は、笹倉の手を、見た。
笹倉の右手は、瀬名の腕を、つかんでいた。
つかんでいる手は、わずかに、震えていた。
震えは、副線の脇で、白凪が、初めて見た震えだった。
初めて見た時から、震えは、止まっていなかった。
止まらないまま、笹倉は、今、後送便の前に、立っていた。
「俺の震えも、お前のと、同じ場所、です」
笹倉の言葉だった。
言葉の形は、前と、違っていた。
前は、問いだった。
今は、断定だった。
断定に変わった、というのは、笹倉が、自分の中で、ひとつ、進めた、ということだった。
進めた先で、笹倉は、白凪の答えを、もう一度、訊いていた。
訊いているが、形は、断定だった。
断定で訊く、というのは、答えを、確認するため、ではなかった。
答えを、自分の中に、置くため、だった。
置く動きの中に、笹倉は、自分の責任の、形を、入れようとしていた。
責任、という言葉を、笹倉は、口に、出さなかった。
出さないのが、九番の動きだった。
「同じ場所、です」
白凪は、答えた。
答えた声は、笹倉の声と、同じ温度だった。
同じ温度の中に、ひとつだけ、違うことが、あった。
白凪の声には、半拍の遅れが、なかった。
遅れがないのは、答えが、すでに、白凪の中で、組まれていたからだった。
組まれた答えを、白凪は、笹倉に、置いた。
置いた答えを、笹倉は、受け取った。
「そうですか」
笹倉は、それだけ、答えた。
答えの形は、前と、同じだった。
前と同じだが、声の中身は、別だった。
別の中身の中に、笹倉は、自分の手の震えを、入れ直した。
入れ直した震えは、もう、笹倉の動きの一部、だった。
「白凪二等兵」
葉室の声が、輸送車輌の脇から、来た。
白凪は、視線を、葉室の方向に、向けた。
「はい」
葉室は、輸送車輌の脇から、白凪の方向に、半歩、動いた。
動いた位置で、止まった。
止まった位置は、白凪と笹倉の対話の、半歩外、だった。
半歩外の場所から、葉室は、白凪に、声をかけた。
「九番の白凪二等兵か」
「はい」
「後方で、お前の名前、聞いてる」
葉室は、それだけ言った。
言った声には、上下が、なかった。
上下がないのは、葉室が、それを、事実として、置く動きだったからだった。
事実として、白凪の名前が、後方で、聞かれている、ということだった。
聞かれている場所は、どこか、葉室は、言わなかった。
言わないが、白凪は、聞いた場所の、ひとつを、知っていた。
知っている場所は、後方の指揮所だった。
指揮所の参謀の机の上に、自分の判断が、報告書に、書かれている、ということを、白凪は、認識していた。
認識しているが、口には、出さない。
口に出さない、というのが、九番の動きだった。
「九番、保たせろよ」
葉室は、続けた。
言葉は、短かった。
短いが、白凪は、その言葉を、別の場所でも、聞いていた。
別の場所は、街道だった。
街道で、白凪は、別の輸送兵から、同じ言葉を、聞いた。
聞いた時、白凪は、答えた。
今も、答える。
「保たせます」
葉室は、頷いた。
頷きは、半拍、だった。
頷いてから、葉室は、自分の動きに、戻った。
戻る速度は、年齢の重さが、入っていない速度だった。
戻った先で、葉室は、綾瀬に、合図を出した。
綾瀬は、空の担架を、輸送車輌の後部から、出した。
出した担架を、笹倉の脇に、置いた。
「白凪さん」
笹倉の声だった。
最後の声だった。
白凪は、視線を、笹倉に、戻した。
「はい」
「ありがとうございました」
笹倉は、それだけ、言った。
言葉の意味は、白凪には、すぐには、分からなかった。
分からないまま、白凪は、答えた。
「いえ」
答えの形は、配属の日に、補給品の薄い甘味を、笹倉から渡された時に、白凪が、答えなかった答えだった。
答えなかった答えを、白凪は、今、笹倉に、返した。
返した答えを、笹倉は、受け取った。
受け取った笹倉は、もう、口を、開かなかった。
開かないまま、笹倉は、瀬名に、支えられて、担架の上に、座った。
座る動きは、ゆっくり、だった。
ゆっくりな動きの中で、笹倉の左脇腹の包帯が、わずかに、ずれた。
瀬名の手が、ずれを、直した。
直した動きは、急がなかった。
担架が、輸送車輌の後部に、運ばれた。
運ぶ動きは、綾瀬と葉室で、揃っていた。
揃っているのは、葉室の動きに、綾瀬が、合わせているからだった。
合わせる動きは、無理が、なかった。
無理がない動きの中で、担架は、輸送車輌の後部に、収まった。
収まった瞬間に、笹倉の視線が、白凪の方向に、向いた。
向いた視線は、半拍、止まった。
止まった視線の中で、笹倉は、白凪に、もう一度、何かを、置いた。
置いた何かは、言葉では、なかった。
言葉ではないものを、白凪は、受け取った。
受け取った場所は、引き出しの、ある場所だった。
ある場所には、笹倉の、副線の脇で被弾した夜の、布の感触の続きが、入っていた。
続きの先に、笹倉の、今の視線が、置かれた。
輸送車輌の後部の扉が、閉まった。
閉まった音は、低かった。
低い音の後で、葉室は、運転席に、戻った。
綾瀬は、助手席に、回った。
エンジンが、再開された。
再開された音の中で、輸送車輌は、ゆっくり、動き始めた。
動き始めた方向は、街道の北側、だった。
北側の街道の先に、後方の野戦病院が、あった。
野戦病院の手前に、芦森補給廠が、あった。
芦森の手前に、枯枝街道の、長い道が、あった。
長い道を、笹倉は、これから、通っていく。
通っていく道の、どこかで、笹倉の出血が、止血の速度を、超えるかもしれない。
超えなければ、笹倉は、生きる。
超えれば、笹倉は、生きない。
どちらかが、白凪には、まだ、分からなかった。
分からないまま、白凪は、輸送車輌を、見送った。
輸送車輌は、街道の凹みを、避けながら、進んでいった。
進んでいく速度は、来た時と、同じだった。
同じ速度の中で、車輪の音は、少しずつ、遠くなった。
遠くなる音を、白凪と、鷹見と、瀬名は、入口の脇で、聞いた。
聞いている時間の中で、空の橙が、わずかに、濃くなった。
濃くなった橙が、九番の土の上に、薄く、伸びてきた。
伸びてきた光の中に、九番の土が、入った。
入った土の中に、ある場所が、あった。
ある場所は、本陣の脇の、土の盛り上がりだった。
盛り上がりは、薄かった。
薄いのは、深く掘らなかったから、だった。
深く掘らなかったのは、副線の埋設線が、下にあったから、だった。
副線の埋設線の、すぐ上に、名取が、いた。
いるが、土の盛り上がりは、もう、九番の他の地面と、ほとんど、区別がつかなくなっていた。
区別がつかないのは、雨と、風と、足音と、夜の温度が、土の盛り上がりを、ゆっくり、均してきたから、だった。
均された場所を、白凪は、見た。
見たが、近づかなかった。
近づかないのが、九番の、いつもの動きだった。
いつもの動きの中で、白凪は、その場所の位置だけ、自分の中に、覚えていた。
覚えている位置は、本陣の脇の、左から三歩、奥に五歩、入った場所だった。
場所は、変わらなかった。
変わらない場所の上に、薄い橙の光が、置かれていた。
置かれた光の中で、白凪は、視線を、街道の方向に、戻した。
街道の先に、輸送車輌は、もう、見えなかった。
「白凪」
鷹見の声だった。
「はい」
「夜の見張り、終わったな」
「終わりました」
「異常は」
「副線、応答正常/断尾嶺方向、夜のあいだは、動きなし」
「了解」
鷹見は、頷いた。
頷いてから、続けた。
「今日、補給組が来る」
「はい」
「俺が、要請した便だ。物資と、増員が、入る」
「増員、ですか」
「二名」
鷹見は、それだけ言った。
白凪は、二名、と、口の中で、繰り返した。
繰り返した上で、続きを、訊いた。
「役は」
「観測手、一名。工兵、一名」
「工兵、というのは」
「水城の代わりだ」
鷹見は、それだけ言った。
白凪は、半拍、止まった。
止まった半拍の中で、水城の左腕の、止血の布の色が、白凪の引き出しの中で、再生された。
再生された色は、薄い赤、だった。
薄い赤の上に、水城の「動ける」の声が、重なっていた。
重なっていた声を、白凪は、引き出しに、戻した。
戻した上で、答えた。
「了解です」
「もう一つ、ある」
鷹見は、続けた。
「はい」
「お前が、補給組を、受ける」
「受ける、というのは」
「俺は、本陣の中で、書類を、見る」
「はい」
「お前が、入口の脇で、補給組を、迎える」
「俺が、ですか」
「お前だ」
鷹見は、それだけ言った。
言ってから、半拍、空けて、続けた。
「異存は」
異存は、と、鷹見は、訊いた。
訊いた言葉は、配属の日から、鷹見が、白凪に、訊き続けてきた言葉、だった。
白凪は、答えた。
「ありません」
「了解」
鷹見は、頷いた。
頷きは、いつもより、半拍、短かった。
短いのは、鷹見が、白凪の答えを、もう、確かめなくて、良くなったから、だった。
確かめなくて良くなった、というのは、鷹見が、白凪を、判断者として、受けることが、できる兵として、見ている、ということだった。
見ているが、口には、出さない。
口に出さない、というのが、鷹見の、いつもの動きだった。
「白凪二等兵」
久我の声が、観測壕の上から、来た。
久我の声には、わずかに、温度が、入っていた。
温度は、夜のあいだの、観測の温度より、半拍、低かった。
低いのは、観測が、別の場所に、向かっているから、だった。
白凪は、観測壕の方向に、動いた。
動く前に、鷹見に、視線を、向けた。
鷹見は、半拍、頷いた。
頷きは、白凪の動きを、許可する頷きでは、なかった。
白凪の動きを、確かめた、頷きだった。
確かめた背中の中で、白凪は、観測壕の手前まで、動いた。
「読め」
白凪は、観測壕の手前から、上に、声を、置いた。
久我は、双眼鏡を、構えたまま、答えた。
「断尾嶺の、左斜面」
「位置は」
「中腹より、上」
「数は」
「読みきれません」
久我の声には、わずかに、止まりが、あった。
止まりは、久我が、双眼鏡の中で、見ているものに、自信を、持ちきれていない、ということでは、なかった。
久我が、見ているものの、規模に、追いつくのに、半拍、時間を、要している、ということだった。
「二十、三十/それ以上の可能性」
久我は、続けた。
白凪は、半拍、止まった。
止まった半拍の中で、頭の中の、ある場所が、再生された。
ある場所は、後方の指揮所の、机の上の地図だった。
地図の南東の隅に、九番の小さな点が、あった。
点の上に、敵主力本隊の、矢印が、向かう絵が、描かれていた。
描かれていた絵を、白凪は、見ていた。
見ていた時、澪原中尉は、矢印の数を、白凪には、伝えなかった。
伝えなかったが、矢印の太さは、別働の矢印より、太かった。
太い矢印の、根元の数字が、今、久我の双眼鏡の中に、入っていた。
「速度は」
「ゆっくり」
「止まる気配は」
「ありません」
「了解」
白凪は、答えた。
答えながら、頭の中で、配置を、組み始めた。
組む速度は、自分でも、気づかないほど、早かった。
早いのは、すでに、身体の中に、入っていた動きが、自動的に、作動し始めたから、だった。
作動した動きの中で、配置の選択肢が、いくつか、並んだ。
並んだ選択肢は、別働の時の、四つの動きとは、別の形を、していた。
別の形は、敵主力の規模を、想定した形、だった。
想定した形の中で、白凪は、最も、保たせる動きを、選んだ。
選んだ動きは、観測の体制を、強化する動き、だった。
強化、というのは、観測壕の上に、もう一人、置く、ということだった。
もう一人、というのは、今は、いなかった。
いなかったが、午後の補給組で、来る予定が、あった。
来る予定の観測手を、白凪は、観測壕の上に、置く配置を、組んだ。
組んだ配置は、まだ、頭の中に、置いたままだった。
頭の中に置いたまま、白凪は、声を、上に、置いた。
「久我伍長」
「はい」
「動きの方向は」
「南/だが、まだ、九番に向いた、とは、限らない」
「断尾嶺の麓の道は」
「左の道、右の道、両方/だが、右の道の方が、薄い」
「了解」
白凪は、答えた。
答えてから、本陣の方向に、視線を、戻した。
鷹見は、本陣の入口の脇に、まだ、立っていた。
立っているが、書類を、手に、持っていた。
書類は、夜の応答記録、だった。
応答記録の中で、鷹見が、何かを、確かめていた。
確かめている動きは、ゆっくり、だった。
「鷹見軍曹」
白凪は、声を、置いた。
鷹見は、書類を、半拍、止めた。
「読め」
「久我伍長の観測/断尾嶺の左斜面、中腹より上に、薄い動き/数は、二十、三十、それ以上の可能性/速度は、ゆっくり/止まる気配は、ありません」
「方向は」
「南/だが、九番に向いた、とは、限りません」
「了解」
鷹見は、頷いた。
頷きの中に、半拍の、ゆっくりした動きが、入っていた。
ゆっくりしているのは、鷹見が、白凪の報告を、自分の中で、組み直していたから、だった。
組み直しの先で、鷹見は、口を、開いた。
「白凪」
「はい」
「お前の読みは」
お前の読みは、と、鷹見は、訊いた。
訊いた言葉は、配属の日から、鷹見が、白凪に、訊き続けてきた言葉、だった。
訊き続けてきたが、訊く方向は、変わっていた。
以前は、白凪が、見たものを、確認する訊き方、だった。
今は、白凪が、組んだものを、引き出す訊き方、だった。
引き出される側として、白凪は、答えた。
「敵主力の、前哨、または、本隊の、進路確保部隊だと、思います」
「根拠は」
「数の規模/速度の遅さ/止まる気配のなさ/断尾嶺の左斜面、中腹より上、という位置」
「位置の根拠は」
「中腹より下は、こちらの観測範囲に、入る/中腹より上は、こちらの観測範囲の、上限に近い/向こうも、それを、認識した上で、動いている」
「了解」
鷹見は、頷いた。
頷きの後で、続けた。
「お前の読み、合っている」
「はい」
「九番が、正面に立つ、ということだ」
「はい」
鷹見は、それだけ言った。
言ってから、書類を、もう一度、手に、戻した。
戻した動きは、ゆっくり、だった。
「白凪」
「はい」
「お前は、夜の見張り、終わったな」
「終わりました」
「休め」
「了解」
「だが、半時間で、戻れ」
「半時間で、戻ります」
「補給組は、午後、来る」
「はい」
「補給組が来るまでに、お前は、頭を、整える」
「了解です」
鷹見は、頷いた。
頷いてから、本陣の中に、戻った。
戻る動きは、いつも通り、だった。
いつも通りの中で、ひとつだけ、違うことが、あった。
鷹見は、書類の角を、撫でていた。
撫でる動きは、白凪が、配属の日に、補給品の包装紙を、揃えた指の動きと、同じ場所から、出てきた動きだった。
同じ場所、というのは、家族の輪郭の場所だった。
家族の輪郭が、鷹見の中にも、ある、ということだった。
あるが、口には、出さない。
口に出さない、というのが、九番の、全員の動きだった。
白凪は、本陣の脇に、座った。
座った位置は、土嚢の縁、だった。
縁の上に、夜のあいだの霜が、薄く、残っていた。
残った霜は、朝の橙の光の中で、少しずつ、薄くなっていった。
薄くなっていく速度は、ゆっくり、だった。
ゆっくりな速度の中で、白凪は、自分の中の、ある場所を、確かめた。
ある場所は、動機の場所の、中央、だった。
中央に、十の言葉が、並んでいた。
並んでいる言葉は、変わっていなかった。
一番上の言葉は、責任、だった。
責任の下に、九つの言葉が、整列していた。
整列している順番は、こうだった。
保たせるために、生きる。
生きるために、保たせる、ではない。
保たせる相手は、九番の兵。
その先に、芦森。
その先に、翠槇州。
その先に、後方の地面。
その先に、白凪の知らない地名。
その先に、住んでいる人。
その人の中に、白凪の知っている誰か、の可能性。
最後の言葉は、自分を、削ってでも、だった。
削ってでも、というのが、白凪の、動機の、土台だった。
十の言葉が、頭の中で、揃った瞬間、白凪は、責任、という言葉を、もう一度、口の中で、転がした。
転がしたが、口の外には、出さなかった。
出さないのは、出す相手が、まだ、いないから、だった。
いないが、いなくは、ない可能性が、あった。
可能性は、断尾嶺の左斜面の、薄い動きの中に、あった。
動きが、九番に、来る。
来るのは、今日、ではないかもしれない。
明日、かもしれない。
明日でも、ない可能性が、あった。
だが、来る。
来るのは、止まらない速度、だった。
止まらない速度の中で、白凪は、立つ。
立つのは、判断者として、だった。
判断者として立つのが、白凪の、責任、だった。
責任の重さは、口の中で、転がす言葉の、重さだった。
重さは、配属の日からの、十二日分の、積み重ね、だった。
積み重ねの中に、名取が、いた。
水城が、いた。
笹倉が、いた。
荒瀬が、いた。
全員が、白凪の判断の、ある場所に、いた。
ある場所は、削った側か、守った側か、どちらか、だった。
どちらの側にいるかは、白凪が、決めた。
決めた選択を、白凪は、引き受けている。
引き受けているのが、責任、だった。
責任を、白凪は、口の中で、転がす。
転がしたまま、白凪は、土嚢の縁の上に、座っていた。
「白凪二等兵」
瀬名の声が、本陣の中から、来た。
白凪は、視線を、本陣の方向に、向けた。
「はい」
瀬名は、本陣の入口の脇から、白凪の方向に、半歩、動いた。
動いた手の中に、湯気の上がる、金属の容器が、あった。
容器の中に、薄い汁が、入っていた。
汁の色は、薄い茶、だった。
「飲んでください」
「いえ」
「飲まないと、判断が、遅くなります」
瀬名は、それだけ言った。
言葉は、衛生兵の、いつもの事務的な言葉だった。
事務的な言葉の中に、瀬名の、ある場所の動きが、入っていた。
ある場所の動きは、急がない手の動きだった。
急がない手の動きが、容器を、白凪の前に、置いた。
置く速度は、配属の日から、瀬名が、誰かに、容器を渡す時に、変わらない速度だった。
変わらない速度の中で、白凪は、容器を、受け取った。
「ありがとうございます」
白凪は、答えた。
答えた声は、配属の日に、瀬名から、初めて、容器を受け取った時の声より、半拍、低かった。
低いのは、夜の見張りの終わりの声の温度、だった。
瀬名は、半拍、白凪の脇に、止まっていた。
止まっていた時間の中で、瀬名は、白凪を、見ていた。
見ているが、口は、開かなかった。
開かないのが、瀬名の、いつもの動きだった。
いつもの動きの中で、瀬名は、白凪の右手を、見た。
白凪の右手は、震えていなかった。
震えていない手で、白凪は、容器を、持っていた。
持っている手の動きは、揺れていなかった。
揺れていない手を、瀬名は、半拍、見た。
見てから、本陣の方向に、戻った。
戻る動きは、急がなかった。
急がない動きの中で、瀬名は、新規負傷者の脇に、戻っていった。
新規負傷者は、本陣の奥に、いた。
奥の場所で、瀬名の手が、また、急がない動きを、始めた。
白凪は、容器の中の、薄い汁を、飲んだ。
飲む速度は、ゆっくりだった。
ゆっくりな速度の中で、汁の温度が、白凪の喉を、通っていった。
通っていった先に、ある場所が、あった。
ある場所は、引き出しの、すぐ脇だった。
脇に、温度が、入った。
入った温度を、白凪は、引き出しに、戻さなかった。
戻さない、というのが、白凪の選び方だった。
選び方の中で、白凪は、温度を、自分の身体の中に、置いた。
置いた温度は、配属の日から、十二日分の、ある場所の、温度だった。
ある場所には、瀬名の急がない手の動きが、入っていた。
配属の日に、補給品の薄い甘味を、笹倉から渡された動きが、入っていた。
補給品の包装紙を、揃えた指の動きが、入っていた。
鷹見が、書類の角を、撫でた動きが、入っていた。
全部が、同じ場所から、出てきた動き、だった。
同じ場所、というのが、白凪が、保たせる動機の、土台だった。
土台の上に、十の言葉が、整列していた。
整列している言葉の、一番上が、責任、だった。
責任の重さを、白凪は、薄い汁の温度の中で、確かめた。
確かめた重さは、揺れていなかった。
「白凪」
鷹見の声が、本陣の入口から、来た。
「はい」
「半時間、休んだか」
「休みました」
「動けるか」
「動けます」
「補給組までの、配置を、組め」
「了解」
白凪は、土嚢の縁から、立ち上がった。
立ち上がる動きは、半拍、早かった。
早いのは、薄い汁の温度が、まだ、身体の中に、残っていたからだった。
残った温度を、白凪は、頭の中の、配置の組み立てに、回した。
回した動きの中で、配置が、組まれた。
観測壕の上:久我伍長/観測継続。
観測壕の手前:白凪/射線確保/補給組到着後、補給組を出迎える側に動く。
本陣の脇:荒瀬軍曹/右腕のみで動ける位置/本陣の入口の補助。
本陣の奥:瀬名衛生兵/新規負傷者対応継続。
本陣の内側:鷹見軍曹/書類確認/午後の補給組要請の最終整理。
副線:応答停止中/笹倉離脱後、修復が、必要/だが、修復できる工兵が、九番には、いない/午後の補給組で来る工兵に、回す。
「鷹見軍曹」
「読め」
白凪は、配置を、口に出した。
鷹見は、半拍、目を、閉じた。
閉じてから、開いた。
開いた目の中に、半拍の、確かめが、入っていた。
確かめの後で、鷹見は、答えた。
「合っている」
「はい」
「副線は、午後まで、応答停止のままだ」
「はい」
「副線が、応答停止のまま、敵主力の前哨が、九番に来る可能性は、どれくらいだ」
鷹見の問いだった。
問いの形は、白凪が、答える側に、置かれた問いだった。
白凪は、半拍、止まった。
止まった半拍の中で、頭の中の、ある場所を、確かめた。
ある場所は、敵主力の前哨の、想定速度、だった。
速度は、久我の観測の中で、ゆっくり、だった。
ゆっくりな速度の場合、断尾嶺の左斜面から、九番の前縁壕まで、半日以上、かかる。
半日以上、というのが、白凪の読み、だった。
読みの中で、白凪は、答えた。
「午後までは、来ません」
「根拠は」
「速度/距離/向こうも、明け方の段階で、こちらの観測範囲を、確かめている/確かめている兵は、自動火器を、持っていない可能性が高い/持っていないなら、前哨は、本隊の進路確保のために、別の動きを、する必要が、ある/その動きが、半日、かかる」
「了解」
鷹見は、頷いた。
「お前の読み、合っている」
「はい」
「だが、半日後には、来る可能性が、ある」
「はい」
「補給組が、午後、来る/その後で、配置を、組み直す」
「了解です」
「白凪」
「はい」
「夜のうちに、敵主力本隊の動きが、決まる可能性が、ある」
「はい」
「決まった場合、九番が、正面に立つ」
「分かっています」
「分かっているか」
鷹見は、もう一度、訊いた。
訊いた言葉の中に、半拍の、確かめが、入っていた。
確かめの中に、鷹見の、ある場所の動きが、入っていた。
ある場所の動きを、白凪は、引き出しの、ある場所に、入れた。
入れた場所は、動機の場所の、すぐ脇、だった。
「分かっています」
白凪は、もう一度、答えた。
答えた声は、揺れていなかった。
揺れていないのは、十の言葉が、頭の中で、整列していたから、だった。
整列している言葉の、一番上が、責任、だった。
責任を、白凪は、口の中で、転がした。
転がしたが、口の外には、出さなかった。
出さないのは、出す相手が、まだ、いないから、だった。
いないが、いなくは、ない可能性が、あった。
可能性は、断尾嶺の左斜面の、薄い動きの中に、あった。
動きが、来る。
来る相手の前に、白凪は、立つ。
立つために、ここに、いた。
鷹見は、頷いた。
頷きは、半拍、だった。
半拍の頷きの中で、鷹見は、本陣の中に、戻っていった。
戻る動きは、いつも通り、だった。
いつも通りの中で、ひとつだけ、違うことが、あった。
鷹見の足の置き方が、半歩、本陣の入口の外側、ではなく、半歩、奥に、ずれていた。
ずれていた、というのは、鷹見の動きの、ある場所が、別の場所に、移った、ということだった。
別の場所、というのは、白凪には、まだ、分からなかった。
分からないまま、白凪は、観測壕の手前に、動いた。
動いた位置で、銃の構えを、確かめた。
確かめた構えは、揺れていなかった。
揺れていない構えの先に、断尾嶺の方向が、あった。
断尾嶺の左斜面の、中腹より上に、薄い動きが、あった。
あったが、まだ、見えなかった。
見えないが、いる、ということを、白凪は、知っていた。
知っているのは、久我の双眼鏡の角度の、半拍の止まり、だった。
止まりの中に、敵主力本隊の、影が、あった。
影が、来る。
来た時に、白凪は、動く。
動くために、ここに、立っていた。
空の橙は、もう少し、濃くなっていた。
濃くなった橙の中で、九番の土が、薄く、温まり始めていた。
温まる速度は、ゆっくりだった。
ゆっくりな速度の中で、白凪は、観測壕の手前に、立っていた。
立っている位置は、配属の日から、十二日分、白凪が、立ってきた位置と、同じだった。
同じ位置の上で、白凪の足の置き方は、変わっていた。
変わっていたのは、足の重心の置き方だった。
以前は、土の上に、軽く、置かれていた。
今は、土に、半拍、深く、入っていた。
深く入っているのは、白凪が、ここに、立ち続けるための、足の置き方、だった。
立ち続ける、というのが、保たせる動きの、土台だった。
土台の上で、白凪は、銃を、構え直した。
構え直した先に、断尾嶺の左斜面が、あった。
左斜面の中腹より上に、薄い動きが、続いていた。
続いている動きを、白凪は、見ていた。
見ている時間の中で、朝の橙の光が、もう少し、伸びた。
伸びた光の中で、九番の土の上に、白凪の影が、薄く、置かれた。
置かれた影の先に、観測壕の入口が、あった。
入口の中から、久我の双眼鏡の角度が、わずかに、変わった。
変わった角度は、北寄り、だった。
北寄りに変わった角度の先に、薄い動きが、半拍、止まった。
止まった半拍の中で、白凪は、引き金にかけた手の力を、半拍、強めた。
強めた力は、撃つための力では、なかった。
立ち続けるための、力だった。
来る。
いつか、来る。
今日、来るかもしれない。
明日、来るかもしれない。
明日でも、ない、かもしれない。
だが、来る。
来た時に、白凪は、動く。
動くために、ここに、立っていた。
立っている場所の名前を、白凪は、まだ、知らなかった。
知らないが、立っている場所が、ある、ということだけは、知っていた。
知っている場所の上で、白凪は、銃を、構え続けた。
空の橙が、もう少し、伸びていった。
伸びていく方向の先に、九番の、午後があった。
午後の先に、補給組が、来る。
補給組の中に、増員兵が、いる。
増員兵の役は、観測手と、工兵、だった。
工兵は、副線の修復に、入る。
観測手は、観測壕の上で、久我の脇に、入る。
二人とも、白凪より、年下、なのか、年上、なのか、分からなかった。
分からないまま、白凪は、二人を、九番の兵として、迎える、配置を、頭の中に、組んでいた。
組んでいる配置の上で、空の橙が、もう少し、濃くなった。
濃くなった空の下で、白凪は、まだ、観測壕の手前に、立っていた。




