第一章 配属 第三部 出撃前
日が落ちる前に、色が先に消えた。
壕の土はまだ温度を残しているのに、輪郭だけが曖昧になる。空は明るいままなのに、地面の方から暗くなっていく。
白凪はその変化を、視界ではなく足元で感じていた。
踏み外したら終わる場所ほど、先に見えなくなる。
「止まるな」
荒瀬の声が前から飛ぶ。
振り返らない。振り返る余裕があるなら、最初から動きが遅い。
「夜は、見てから動くな。覚えてる順番で動け」
白凪は頷いたが、自分でも分かっていた。
覚えているのは順番だけで、距離も位置もまだ曖昧だ。
名取が後ろで息を詰める。
「……これ、見えなくなったらどうするんですか」
「見えなくなる前に覚えろ」
荒瀬は即答した。
「夜に覚えようとするな。昼のうちに身体に入れとけ。夜は確認する場所じゃねえ」
壕を一つ曲がる。
さっき通ったはずの場所なのに、もう違う形に見える。
同じ土嚢、同じ板、同じ線。
だが順番が分からなければ、全部同じに見える。
「白凪」
呼ばれて、顔を上げかける。
「顔を上げるな。呼ばれたら、まず止まる場所を探せ」
白凪は半拍遅れて、足を止めた。
土嚢の陰。線を踏まない位置。頭が出ない高さ。
「……ここです」
「遅いが、間違ってねえ」
荒瀬が言う。
「夜はその半拍が死ぬ。覚えとけ」
名取が続いて同じ位置に入ろうとして、肩がぶつかった。
「一人分だ」
荒瀬が言った。
「遮蔽は人数分ねえ。取り合うな。分けろ」
名取が慌てて隣の影へ滑り込む。
白凪はその動きを見た。
場所は足りない。順番も足りない。余裕は最初からない。
だから奪うのではなく、決めるしかない。
「いいか」
荒瀬が低く言う。
「夜は音が先に来る。形は後だ」
「音……」
「足音、装備の擦れる音、土を踏む音。自分の音も含めて全部だ」
白凪は息を止めた。
自分の呼吸音が、思ったより大きい。
「静かにしようとするな」
荒瀬が言った。
「止めると余計に乱れる。一定にしろ」
名取が小さく頷く。
「呼吸、足運び、荷の揺れ。全部揃えろ。揃ってりゃ気づかれにくい」
白凪は試しに一歩踏み出す。
土の沈み方を揃える。靴の角度を合わせる。
さっきより音が減る。
「……」
「今のが正解に近い」
荒瀬が短く言う。
そのとき、壕の上で声が落ちた。
「断尾嶺、同位置。増えてます」
久我だった。
「三、いや四。形はまだ不明」
鷹見が応じる。
「夜に動くか」
「可能性あり。断定はできません」
「印だけ維持しろ」
白凪はそのやり取りを聞きながら、土の上の影を見た。
敵がいる。
だが見えない。
見えない相手に対して、順番だけで動く。
それがこの戦場だ。
「集合」
鷹見の声が落ちる。
白凪と名取は即座に動いた。
さっきより半拍早い。
荒瀬は何も言わない。
「任務を繰り返す」
鷹見が言う。
「前縁まで弾薬を上げる。距離は短い。だが往復はないと思え」
名取の喉が鳴る。
「片道……ですか」
「戻れるなら戻れ。戻れない前提で動け」
白凪はその言葉を、音としてではなく条件として受け取った。
戻れない。
なら、戻るための行動を先に決める必要がある。
「順番は変わらん」
鷹見が続ける。
「自分、遮蔽、線、周囲。恐怖は最後だ」
白凪は頭の中で繰り返す。
自分。遮蔽。線。周囲。
恐怖は最後。
「出るのは完全に暗くなってからだ」
鷹見の視線が全員をなぞる。
「それまでに、動線をもう一度頭に入れろ。迷ったら止まるな。迷った場所が死ぬ場所になる」
荒瀬が白凪の肩を叩いた。
「次は一人で運べ」
「……はい」
「二人で持つと遅れる。夜は遅れたやつから死ぬ」
白凪は箱に手を掛けた。
重さは同じだ。
だが、さっきとは違う。
これは運ぶ物じゃない。
通すための物だ。
弾薬が通る。
命令が通る。
人が通る。
その順番を、自分が途切れさせるかもしれない。
空が完全に色を失う。
壕の中は、もう形ではなく影の連なりになっていた。
白凪はその影の中で、もう一度順番をなぞった。
まだ撃たれていない。
まだ撃っていない。
だが、もう始まっている。
出る前に終わるか、出てから終わるかの違いしかない。
白凪澄は、箱を持ち上げた。
その動きに、ためらいはなかった。




