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第一章 配属 第二部 規律


 木箱の角が、掌の皮をじわじわ削った。

 白凪は抱え直さなかった。抱え直す余裕があるなら、最初から持ち方を間違えているのだろうと、さっきから周囲を見ていて分かっていた。前線の兵は、疲れているくせに無駄な動きが少ない。肩を入れ、肘を締め、重さの逃がし方だけは身体に染みついている。

 名取の息が、箱の向こうで浅くなっていた。

「持ち替えるな」

 荒瀬が前も見ずに言った。

「今そこで止まる方が危ない。三歩先の板の上まで運べ」

 三歩先と言われた場所には、土嚢の影に半ば埋もれるようにして、古い板が二枚渡してあった。ぬかるみを避けるためなのか、下に電話線が通っているのかは見ただけでは分からない。だが、前線では分からないものを踏まない方がいい、ということだけはもう分かり始めていた。

 白凪と名取は板の手前で膝を折り、ようやく木箱を下ろした。肩が軽くなるより先に、腕の中に残った重さが痺れのように残る。

「そこは弾薬置き場じゃない」

 声が飛んだ。鷹見だった。

「仮置きだ。箱は開けるな。線の上に寄せるな。濡らすな。人の動線を塞ぐな。ここで置いた物の位置を忘れるな」

 白凪は視線だけを上げた。鷹見はさっきと同じ顔をしていた。疲れているのに、疲れを理由にひとつも曖昧にしない顔だ。

「覚えられますか、じゃない。覚えろ」

 名取が「はい」と答えるより早く、別の声が被った。

「九番観測壕、南東枝壕、回線生きてます。北側、雑音あり。張り直し待ち」

 通信線の脇にしゃがんだ兵が受話器を肩に挟んだまま言う。女だった。声に無駄な抑揚がない。伝えるべき言葉だけを順に並べるような話し方だった。

 鷹見が顎で示す。

「笹倉糸。通信兵だ。線を切るな。線の上で転ぶな。線が死ねば命令が死ぬ」

「笹倉です。新入り二名、了解」

 笹倉はそれだけ言って、また受話器へ戻った。確認、復唱、記録。手順がそのまま人の形を取ったようだった。

 その少し向こうでは、崩れた土嚢の列に男が腰を落としている。軍靴の脇に木槌、短い鋸、補修材の束。手元だけがやけに速い。声を掛ける暇も惜しいのか、こちらを見もしない。

「水城」

 鷹見が呼ぶと、男は釘を噛んだまま片手だけ上げた。

「補修、あとどれだけかかる」

「急げば一時間。急がなきゃ二時間」

「急げ」

「急いで崩れたら二度手間です」

「崩すな」

「分かってます」

 水城錬はそう言って、また板を打ちつけた。口の利き方は軽く見えて、手元は一度も浮つかない。前線の工兵は、土と板と時間のどれが足りないかを、常に同時に見ているのだろうと白凪は思った。

 さらに奥では、衛生箱を開けた女兵が、中の瓶と包帯を指先で数えていた。汚れを嫌う仕草はなかった。足りないものを足りないと認識する速さだけがあった。

「瀬名」

 鷹見が呼ぶ。

「包帯、残り」

「まともなのは九本。洗い直しを含めれば十七。止血剤は半分。水が足りません」

「後送は」

「担架一基空き。戻りは未定」

 瀬名紗良はそこで初めて白凪たちを見た。値踏みする視線ではなく、負傷した時に何人分の手が要るかを測る視線に近かった。

「新入りですね」

「そうだ」

「無茶だけはさせないでください。手当ての順番を増やされると困るので」

「本人らに言え」

「聞こえていますよね」

「……はい」

 名取が反射で返し、瀬名はもう興味をなくしたように視線を箱へ落とした。

 白凪はその一帯を見回した。

 観測、通信、工兵、衛生。

 少し前に鷹見が歩きながら口にした順番が、ここではもう仕事として並んでいる。言葉ではなく、配置で分かる。誰も自分の持ち場を離れない。離れた瞬間に、どこかが欠けるからだ。

「ぼさっと見るな」

 荒瀬が顎で箱を示した。

「持って終わりじゃねえ。運んだ後の置き方までが仕事だ」

 白凪は箱の横へしゃがみ込んだ。

「どう置けばいいですか」

「口を上に。濡れた土から浮かせろ。手榴弾は端に寄せるな。転がる。巻線は足の来ない側へ逃がせ。火の近くに置くな。いや、今は火そのものが貴重だがな」

 荒瀬は言いながら、自分でやった方が早いとでもいう顔で木箱の角度を直した。

「規律ってのは、偉い奴に怒鳴られねえためのものじゃねえ。手を一本減らさないための順番だ」

 名取が息を整えながら言う。

「そんなに、ぎりぎりなんですか」

 荒瀬は返事の代わりに、土嚢の向こうを親指で示した。

 崩れた列。補修途中の空白。泥の脇に転がった水筒。さっきまで二人分の穴だった場所だ。

「見りゃ分かるだろ」

 それで終わりだった。

 白凪は黙った。

 前線では説明が短い。理解してもらうためではなく、手を止めないための言葉の長さしか許されていないのだろう。

 観測壕の上で、さっき双眼鏡を持っていた兵が身を低くした。女だった。肩の力だけが妙に抜けているのに、気が緩んでいるようには見えない。視線が遠い。いや、遠いものを近くで見るような目つきだった。

「断尾嶺左斜面、土色の盛り上がり。さっきと位置同じです」

 彼女が言った。

「胸壁かもしれません。まだ断定はしません」

 鷹見が短く返す。

「久我、印だけ付けろ。まだ撃たせるな」

「了解」

 久我律はそれだけ言って、双眼鏡を下ろした。断定しない口調だけが、逆に目の確かさを感じさせた。

 名取が小さく息を吐く。

「みんな、ずっとあんな感じなんですね」

「ずっとじゃない」

 答えたのは鷹見だった。

「足りなくなったから、ああなった」

 言葉が短い分だけ重かった。

「お前らもそのうち分かる。余る場所では、規律は飾りで済む。足りない場所では、規律がそのまま生き残る順番になる」

 そのとき、どこか近くで乾いた破裂音がした。

 土嚢の端から土がぱらぱら落ちる。

 白凪は反射で顔を上げかけた。

 次の瞬間、後頭部を押さえつけられる。荒瀬の手だった。

「上見るな」

 低い声だった。怒鳴ってはいない。怒鳴るより先に身体を動かした声だった。

 白凪は半歩遅れて身を沈める。名取も壁に肩を打ちつけるようにしゃがみ込んでいた。笹倉は受話器を離さず、水城は板の陰に体を滑らせ、瀬名は箱に蓋をかけた。誰一人、声を荒げない。

 もう一発は来なかった。

 試しに撃ったのか、位置を探ったのか、その程度のものだったのだろう。だが、白凪の心臓だけは、それで十分に速くなっていた。

 荒瀬が手を離す。

「今のはまだ狙いが甘い」

「……はい」

「次も甘いと思うな」

 土を払う暇も与えず、鷹見が言った。

「名取、白凪。覚えろ。物音がした時にまず見るのは空じゃない。自分の頭の位置だ。次に遮蔽。次に線。次に周り。自分の恐怖は最後だ」

 名取が口を開きかけ、閉じた。

 その代わりに白凪が訊いた。

「線、ですか」

「そうだ」

 鷹見の視線が、有線の這う地面へ落ちる。

「弾が外れても、線が切れれば前と後ろが切れる。切れた命令は戻らん。戻らない命令の埋め合わせで、人が死ぬ」

 笹倉が受話器から目を上げずに言った。

「伝令も足りてません。走る人間が減ると、伝わるものまで減ります」

 白凪は地面の上の黒い線を見た。泥に汚れ、ところどころ土に埋まり、それでも前と後ろをつないでいる細い線。踏めば簡単に切れそうなのに、今この場で最も守られているものの一つだった。

「水筒、見せろ」

 突然、荒瀬が言った。

 白凪と名取は言われるまま腰の水筒を外した。

 荒瀬は振って重さを確かめる。

「飲み方を間違えるな。一度に飲むな。喉が乾く前に少しずつ、も駄目だ。癖で減る。時刻で飲め」

「喉が渇いたら」

「我慢しろ。次に入る水の時刻を知らないうちから、乾きに従うな」

 名取が眉を寄せる。

「それで動けるんですか」

「動けなくなる前に決めて飲むんだよ。前線じゃ体調管理ってのは、気分の話じゃねえ。配分だ」

 白凪は自分の水筒の重さを手の中で測った。満たされているのに、足りない気がした。たぶん実際に足りないのだろう。

「荷を解くな」

 鷹見が続ける。

「今は居着くために来たんじゃない。入ったばかりで持ち物を散らかす奴は、移動命令ひとつで荷を捨てることになる。寝床はあとで決める。先に覚えるのは動線だ」

「動線……」

「どこから来て、どこへ退くか。どこを塞いではいけないか。どこが崩れやすいか。前線の新兵は、自分の居場所から覚えると思うな。抜け道から覚えろ」

 荒瀬が鼻で笑う。

「出ていく道じゃない。生きて戻る道だ」

 白凪は壕の蛇行を見た。

 来る時はただ狭い穴の連なりに見えた。だが見方が変わると、全部が順番を持ちはじめる。弾薬が通る道、人が伏せる位置、担架がすれ違える幅、線を避ける足場。雑に掘られたようでいて、必要なものだけは辛うじて残されている。

 戦場は広い場所ではないのだ、と白凪は思った。

 必要な順番だけが細く伸びていて、その外側はすぐ死ぬ。

 日が少し傾き、壕の縁の色が鈍く変わった。空はまだ明るいが、夕方の気配が土の匂いに混ざり始めている。

 鷹見が全員を見回した。

「久我、観測継続。笹倉、線の確認をもう一巡。水城、日没までにその列を繋げろ。瀬名、夜間分の衛生箱を分けておけ。荒瀬」

「分かってる」

 荒瀬は白凪と名取を顎で示した。

「こいつらを前で使える形にするんだろ」

「使えるならな」

 鷹見は白凪たちを見る。

「二等兵。今夜、前縁まで弾薬を上げる。距離は短い。だが短いから安全とは思うな。夜は夜で別の順番がある」

 名取の喉が動くのが見えた。

「その前に、荒瀬から壕の歩き方を叩き込まれろ。転ぶな。頭を出すな。命令を聞き返すな。聞き返す前に覚えろ」

「はっ」

 今度は二人の声が重なった。

 鷹見はそれで用件が終わったように踵を返した。

 去っていく背中に迷いはない。迷う時間をもう使い切った人間の歩き方だった。

 荒瀬が木箱を軽く蹴る。

「持て。次は中身を見ながら運ぶ」

「また、ですか」

 名取が思わず漏らす。

「まただ」

 荒瀬は即答した。

「規律ってのは一回聞いて分かった気になるもんじゃねえ。手が勝手にやるまで繰り返す。そうしねえと、いざって時に頭が邪魔をする」

 白凪は箱の取っ手に手を掛けた。

 重さは変わらない。

 だが、さっきより少しだけ持つ理由が増えていた。

 この箱は重い。

 この線は細い。

 この壕は狭い。

 この場所では、そういうものから順に守られている。

 人より先に、ではない。

 人を減らさないために、だった。

 白凪は箱を持ち上げた。名取が慌てて反対側を取る。荒瀬はもう歩き出している。

 壕の先は薄暗く、曲がるたびに先が見えない。

 その見えない先に、今夜、自分たちは出る。

 初めて撃つ前に、初めて撃たれる前に、まず覚えさせられるのは、勇気ではなかった。

 順番だった。


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