第1章 配属 第1部 補充
白凪澄が降ろされた時、最初に感じたのは寒さではなかった。
臭いだった。
濡れた土の臭い。油の臭い。汗のこびりついた布の臭い。
その奥に、甘く腐りかけたような臭いが混じっていた。何の臭いか、考えなくても分かった。考えたくないだけだった。
幌付きの輸送車の荷台から、補充兵が一人ずつ飛び降りる。飛び降りるというより、落とされるに近い。足を取られ、泥に靴が半分沈む。白凪も着地の瞬間に体勢を崩しかけたが、荷台の縁を掴んで持ちこたえた。
誰も笑わなかった。
誰も新入りを見なかった。
前線に近い仮設の集結地は、忙しいというより、余裕が死んでいた。担架が横を通る。毛布の端から、血で固まった包帯が見えた。土嚢の陰では、弾薬箱がこじ開けられている。誰かが怒鳴っているが、内容までは聞き取れない。聞き取れなくても困らない種類の怒鳴り方だった。足りない。急げ。遅い。たぶん、そのどれかだ。
補充兵は横一列に並ばされた。
名簿を持った男が人数だけ確認し、顔を上げもせずに言った。
「欠員分だ。振り分ける。名前を呼ばれたら前に出ろ」
欠員分。
人ではなく、最初にそう呼ばれた。
白凪は口の中でその言葉を繰り返した。補充兵ではなく、欠員分。死んだか消えたかした誰かの、空いた穴だ。そこに自分たちが流し込まれる。
「白凪」
呼ばれて前に出る。
名簿の向こう側から、ようやく視線が一つ落ちてきた。
鋭い目だった。威圧のために尖らせている目ではない。見る必要があるところだけを、無駄なく見る目だ。白凪はその男が鷹見兵司だと、あとで知ることになる。
「歩けるか」
最初の問いが、それだった。
「はい」
「荷は持てるか」
「持てます」
「なら使える」
それだけで話は終わった。
出身も年齢も、前職も、志願理由も聞かれない。白凪が何者だったかは、ここに来るまでの話でしかないらしい。
鷹見は隣にいた兵へ顎を振った。
「荒瀬、お前の列に入れろ。数が足りん」
返事をした男は、白凪が思っていた古参兵の像よりずっと汚れていた。背が高いわけでも、目つきが殊更悪いわけでもない。ただ、装備の傷み方と身体の使い方が、新兵とは別の時間を生きていると告げていた。泥の付き方まで馴染んで見える。
「来い、新入り」
荒瀬陣はそれだけ言って歩き出した。
白凪は慌てて後を追う。
仮設の陣地は浅い掘り込みと土嚢、雨除けにもならない天幕、雑に積まれた木箱でできていた。整ってはいない。整える余裕がないのだと分かる。荒瀬は木箱の一つを蹴って蓋をずらし、中身を確かめもせずに小銃を一本引き抜いた。
「お前のだ」
渡された銃は冷たく、重かった。
金属部分には拭いきれない曇りがあり、負い紐の一部は変色していた。泥か、血か、判別したくない色だった。
白凪は一瞬だけ黙った。
荒瀬はその沈黙を見逃さなかった。
「何だ」
「……前の持ち主は」
「知る必要あるか?」
問い返されて、言葉が詰まる。
荒瀬は鼻で息を吐いた。
「撃てるならお前のだ。撃てないなら、持ってても死ぬ。前の持ち主のことを考えて生き残れるなら、好きにしろ」
乱暴な言い方だった。だが、投げやりではなかった。
戦場で必要のない感情を切り捨てる、その切り捨て方に慣れているだけだった。
白凪は銃を抱え直した。
重みが少し変わる。自分のものになったわけではない。ただ、自分がこれを持つ側に回ったと体が理解した。
陣地の奥で、鷹見が別の兵を怒鳴っていた。
「寝床を作るのが先じゃない。射線を通せ。雨風より先に死ぬ原因を潰せ」
その言葉で、白凪はようやく気づいた。
ここでは生活の都合より、生死の順番が先に決まっている。
荒瀬が乾いた携行食を二つ放って寄越した。
「食っとけ。次、いつ落ち着くか分からん」
「今、戦闘は」
「してないように見えるか?」
そう言われて、白凪は耳を澄ませた。
遠いと思っていた音が、遠くない。低く地を擦るような響きが断続的に届いている。砲声だと分かった瞬間、背中の筋肉が固まった。
輸送車の中では、まだ現実に距離があった。
到着してからも、頭のどこかで自分だけは観客のままでいられる気がしていた。
だが違う。
担架がまた横を通る。今度は毛布がずれ、靴だけが見えた。泥にまみれた軍靴だった。つま先の片側が裂けている。見覚えのあるような、どこにでもあるような靴だった。
白凪は視線を止めた。
逸らそうとして、逸らせなかった。
「見とけ」
荒瀬が言う。
「最初はみんな、自分だけはまだ向こう側にいると思ってる。前線ってのは、そんな親切じゃない」
向こう側。
安全な場所、死なない側、まだ選べる側。そういう意味なのだろう。
白凪は乾いた携行食を噛んだ。硬くて、味がない。喉が詰まりそうになる。水で流し込みながら、もう一度周囲を見る。
土。
土嚢。
汗。
怒鳴り声。
血。
穴の空いた木箱。
帰ってこない誰かの寝具。
その空白に差し込まれる自分。
歓迎はない。説明もない。
必要なのは、穴を埋めることだけだ。
白凪澄は、その時ようやく理解し始めた。
戦場は勇敢さを試す場所ではない。
死が近い場所ですらない。
もっと雑で、もっと冷たい。
死のすぐ隣で、足りなくなった人間を足し続ける場所だった。




