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第5章 第三部 兵舎

第三部 兵舎

 仮宿舎の中は、暖かかった。

 暖かい、というのが、白凪の身体に、最初に来た。

 来た瞬間、白凪は、半拍、止まった。

 止まったのは、暖かさを、引き出しに、入れる場所が、決まらなかったから、だった。

 九番の壕の中は、暖かくは、なかった。

 寒い、というのとも、違った。

 ただ、土と、湿気と、息の温度が、混じった、決まった温度が、あった。

 その温度が、白凪の身体の、基準だった。

 今、仮宿舎の中の温度は、その基準と、別だった。

 別の温度が、白凪の顔に、当たっていた。

 当たっているまま、白凪は、入口の脇に、立っていた。


「白凪二等兵」

 仮宿舎の中の兵が、低く、呼んだ。

「はい」

「奥の、隅の寝床、お前さんのだ」

「了解」

「夕飯は、まだ残ってる。粥だ。先に、食え」

「分かりました」

「明日の朝、迎えが来る。指揮所までだ」

「はい」

「眠れる時に、眠れ」

 兵は、それだけ言った。

 言ってから、自分の寝床の方向に、戻った。

 戻る動きは、急がなかった。

 急がない動きが、ここでは、当たり前だった。

 当たり前、というのが、白凪の中で、半拍、ずれた。

 九番では、急がないのは、瀬名の手の動きだけだった。

 ここでは、全員が、急がなかった。


 仮宿舎の中には、兵が、十人前後、いた。

 寝床に、座っている兵。

 寝床に、横になっている兵。

 壁にもたれて、何かを、食べている兵。

 軍服の汚れ方は、白凪の軍服と、別の汚れ方だった。

 別の戦線から、来た兵だった。

 白凪を、見た兵も、いた。

 見たが、長くは、見なかった。

 長く見ない、というのが、ここでの礼儀だった。

 九番では、新しく入ってきた兵は、長く見る必要がなかった。

 いれば、いる、というだけだった。

 ここでは、いれば、いる、というのが、別の意味を持っていた。

 別の戦線の兵が、ここに、いる。

 それぞれが、別の戦線から、来ている。

 来た理由は、それぞれ、別だった。

 別の理由を、互いに、訊かない。

 訊かないのが、ここの形だった。


 白凪は、奥の隅の方向に、進んだ。

 進んだ先に、寝床が、一つ、空いていた。

 空いている寝床の脇に、薄い毛布が、畳まれていた。

 毛布の畳み方は、軍の規格だった。

 規格通りの畳み方を、誰かが、白凪のために、用意していた。

 誰かは、白凪と、面識のない兵だった。

 面識のない兵が、規格通りに、毛布を畳んだ。

 その動きが、ここでは、当たり前だった。

 白凪は、寝床の脇に、銃を、置いた。

 置く前に、銃の重さを、もう一度、肩で、確かめた。

 確かめた重さは、九番から出る時の重さと、変わっていなかった。

 変わっていない重さを、寝床の脇に、置いた。

 置いた瞬間、右手の重さが、軽くなった。

 軽くなった右手は、震えなかった。

 震えなかったが、引き金の位置に、入れたままの形が、まだ、残っていた。

 残った形を、白凪は、自分の膝の上に、置いた。


 寝床の隣の兵が、低く、声を、かけた。

「お前、九番だって?」

 白凪は、声の方向を、見た。

 声の主は、二十代の半ば、くらいの兵だった。

 顔の汚れ方は、薄かった。

 軍服の汚れ方も、九番の兵と、別だった。

 別の戦線、というのが、すぐに、分かった。

「はい」

 白凪は、答えた。

「俺は、栗田だ」

 兵は、それだけ言った。

 言ってから、自分の寝床に、座り直した。

 座る動きは、急がなかった。

「うちは、北の方の戦線だ」

 栗田は、続けた。

「最近、押してる」

「押してる、というのは」

 白凪は、訊いた。

 訊いたのは、訊くべきだ、という判断ではなかった。

 ただ、押してる、という言葉が、白凪の引き出しに、合わなかったからだった。

 合わない言葉は、訊いて、引き出しの中の、形を、確かめる。

 確かめる動きが、勝手に、口から、出ていた。

「向こうが、退いてる」

 栗田は、答えた。

「じわじわだが」

「じわじわ」

「一日に、二、三十メートルくらいだな。退き続けてる」

「向こうは、撃ってこないんですか」

「撃ってくる時もある。だが、退きながらだ。本気じゃない」

「本気じゃない、というのは」

「俺らに、合わせて、退いてる。深追いさせて、後ろから、突く気だ」

「では、退いてるけど、押してる、ということですか」

 栗田は、白凪を、見た。

 見た瞬間、栗田の口の端が、わずかに、上がった。

 上がったが、笑い切らなかった。

「お前、九番の兵だな」

「はい」

「九番の兵の答え方だ」

 栗田は、それだけ言った。

 言ってから、寝床の上で、姿勢を、変えた。

「俺らは、押してる。だが、押してる、ということが、向こうの戦略の、一部かもしれない」

「分からない、ということですか」

「分からない」

「全体としては、どうなんですか」

 白凪は、訊いた。

 訊いた瞬間、栗田の口の端が、もう一度、上がった。

「全体」

 栗田は、繰り返した。

「全体は、誰にも、見えてねえよ」

 白凪は、その言葉を、聞いた。

 聞いた瞬間、引き出しの中に、新しい場所が、ひとつ、開いた。

 開いた場所には、まだ、何も、入っていなかった。

 入る前に、栗田が、続けた。

「俺が見えてんのは、俺の戦線だけだ」

「はい」

「お前が見えてんのは、九番だけだろ」

「はい」

「それでいい」

 栗田は、それだけ言った。

「それしか、見えねえんだ、ここの兵は」

 白凪は、その言葉を、引き出しに、入れた。

 入れる場所が、決まった。

 全体は、見えない。

 九番だけが、見えている。

 見えているまま、保たせる。

 それで、いい。

 その三つの言葉が、引き出しの中で、並んだ。

 並んだ言葉は、動機の場所の、中央には、入らなかった。

 動機の場所の中央には、すでに、八つが、並んでいた。

 並んでいる八つを、これらの三つは、揺らさなかった。

 揺らさない、というのが、白凪の中で、確かめられた。


 栗田は、それ以上は、白凪に、話しかけなかった。

 話しかけない、というのが、栗田の、距離の取り方だった。

 白凪も、それ以上は、訊かなかった。

 訊かない、というのが、白凪の、答え方だった。

 二人の間に、しばらく、沈黙が、続いた。

 沈黙の中で、白凪は、寝床の脇に置いた銃を、もう一度、見た。

 見た銃は、九番で構えていた重さと、変わらない、銃だった。

 変わらないまま、ここに、置かれていた。

 置かれた場所が、九番の、土嚢の脇ではなく、仮宿舎の、寝床の脇だった。

 場所が、変わっていた。

 場所が変わっても、銃は、変わらない。

 銃を持つ白凪も、変わらない。

 変わらないのは、構えていれば、震えない、という動きだった。

 今、白凪は、構えていなかった。

 構えていないのに、震えていなかった。

 震えていなかったのは、別の場所に、自分の手を、置いていた、からだった。

 別の場所、というのが、まだ、はっきりと、形を、取っていなかった。

 形を、取らないまま、白凪は、銃から、目を、離した。


 仮宿舎の奥の壁の脇に、別の兵が、もたれていた。

 兵は、煙草を、吸っていた。

 煙草の煙は、薄く、天井の方向に、立ち上っていた。

 立ち上る煙の脇で、兵は、白凪を、見ていた。

 見ているが、急がなかった。

 急がない、というのが、ここでの、観察の形だった。

 観察の形を、白凪は、知らなかった。

 知らないが、見られていることは、分かった。

 分かったが、白凪は、目を、合わせなかった。

 合わせない、というのが、九番での、新しい兵への、対応だった。

 対応の動きが、ここでも、出た。

 出た動きを、相手の兵は、見ていた。

 見ていたが、何も、言わなかった。

 言わない時間が、しばらく、続いた。

 続いた後、相手の兵が、口を、開いた。

「九番、まだ、保ってんのか」

 声は、低かった。

 低いが、はっきり、聞こえた。

 白凪は、声の方向に、視線を、向けた。

 向けた先に、煙草を吸っている兵が、いた。

 兵の軍服の汚れ方は、栗田と、別だった。

 古い汚れだった。

 古い、というのは、何度も、戦闘を、抜けた、汚れだった。

 古参兵だった。

「保っています」

 白凪は、答えた。

「あそこは、最後の前線だ」

 兵は、それだけ言った。

 言ってから、煙草を、もう一口、吸った。

「最後の、というのは」

 白凪は、訊いた。

 訊いた、というのは、訊くべきだ、という判断ではなかった。

 最後の前線、という言葉は、街道で、もう、三回、聞いていた。

 聞いた言葉が、ここでも、出てきた。

 出てきた言葉の意味を、ここでは、もう少し、はっきり、確かめたかった。

 確かめたい、というのは、白凪の、動きでは、なかった。

 白凪の引き出しの中の、九番の点の脇に、置かれた言葉が、確かめたがった。

「あそこが抜かれたら、芦森が落ちる」

 兵は、答えた。

「芦森が落ちたら、翠槇州が、丸ごと取られる」

「取られる、というのは」

「向こうのもの、になる」

 兵は、それだけ言った。

「翠槇州、というのは」

「お前、聞いてるだろ」

「聞いています」

「だったら、訊くな」

 兵は、短く、言った。

「俺は、苫井だ」

 苫井は、それだけ言った。

 言ってから、また、煙草を、吸った。

 白凪は、その名前を、引き出しに、入れた。

 入れる場所は、栗田の名前の隣だった。


 しばらく、沈黙が、あった。

 沈黙の中で、苫井は、煙草を、吸い続けていた。

 吸い終わる頃、苫井は、また、口を、開いた。

「翠槇州には、鉱石の山と、麦の畑がある」

 白凪は、その言葉を、聞いた。

 聞いた瞬間、引き出しの中の、翠槇州の点の脇に、新しい言葉が、入った。

 鉱石の山。

 麦の畑。

 二つの言葉だった。

 二つの言葉は、白凪の中で、何かを、変えた。

 変えたが、それが、何かは、はっきり、分からなかった。

 はっきり分からないまま、白凪は、訊いた。

「鉱石と、麦」

「ああ」

「だから、戦争、ですか」

「だから、というか、それも、含めて、だ」

「他にも、あるんですか」

「歴史だ」

 苫井は、短く、言った。

「あの土地は、もともと、こっちのもんだ、と、こっちは言ってる」

「向こうは」

「同じことを、言ってる」

「同じこと、というのは」

「『もともと、うちのもんだ』だ」

 苫井は、それだけ言った。

 言ってから、煙草の灰を、足元の地面に、落とした。

 落とした灰は、暗かった。

「どっちが、正しいんですか」

 白凪は、訊いた。

 訊いた瞬間、苫井は、白凪を、見た。

 見た目は、長くはなかった。

 長くないが、深かった。

「それを訊くな」

 苫井は、低く、言った。

「訊いても、答えは、出ねえ」

「出ない、というのは」

「答えが、出るような戦争なら、もう、終わってる」

 苫井は、それだけ言った。

「終わってねえ、ということは、答えが、出ねえ、ということだ」

 苫井は、もう一度、煙草を、吸った。

 吸った煙が、薄く、天井の方向に、立ち上った。

 立ち上る煙の下で、苫井は、白凪に、最後に、一つ、言った。

「お前は、九番に、戻る側だな」

「はい」

「だったら、訊くのは、ここまでだ」

「了解です」

 苫井は、それ以上は、何も、言わなかった。

 言わずに、煙草を、吸い続けた。

 吸い続ける動きは、急がなかった。

 急がない動きの中で、白凪は、引き出しに、もう一つ、言葉を、入れた。

 答えが、出ない。

 答えが、出ない戦争だった。

 答えが、出ないまま、保たせる戦争だった。

 保たせる、というのが、答えが、出ないことの、代わりだった。

 代わり、というのが、白凪の中で、半拍、止まった。

 止まった半拍は、すぐに、戻った。

 戻ったのは、引き出しの中の、動機の場所の中央の八つの言葉が、変わらず、並んでいることを、白凪が、もう一度、確かめたからだった。

 確かめた言葉は、揺れなかった。

 答えが、出ないことを、知っても、揺れなかった。

 揺れない、というのが、動機の形だった。


 夕飯の粥が、白凪のところに、来た。

 仮宿舎の中の別の兵が、椀に入れて、持ってきてくれた。

「粥だ」

「いただきます」

「冷めてるが、まだ食える」

「了解です」

 白凪は、椀を、受け取った。

 受け取った椀は、温かかった。

 温かい、というのが、九番の食事の温度と、別だった。

 九番の食事は、携行食だった。

 携行食は、温度が、なかった。

 今、白凪の手の中の椀には、温度が、あった。

 温度のあるものを、白凪は、口に、入れた。

 口に入れた粥は、薄かった。

 薄いが、塩の味は、あった。

 塩の味の奥に、米の味が、あった。

 米の味が、白凪の口の中で、半拍、止まった。

 止まったのは、口の中の、感覚が、米の味を、覚えていたからだった。

 覚えていた、というのは、配属の前に、米を、食べた記憶が、白凪の口の中に、残っていた、ということだった。

 残っていた記憶を、白凪は、追わなかった。

 追わない、というのが、白凪の選択だった。

 追えば、家族の輪郭が、近づいてくる。

 近づいてきたら、急がない手の動きが、見えてくる。

 見えてきたら、白凪は、揺れる。

 揺れたら、保たせる、が、緩む。

 緩んだら、削れる。

 削れたら、保たせる相手が、保たれない。

 その連鎖を、白凪は、引き出しの中で、組んだ。

 組んだ瞬間、米の味は、口の中で、薄くなった。

 薄くなったまま、白凪は、粥を、食べ終えた。

 食べ終えた椀は、別の兵が、回収していった。

 回収していく動きも、急がなかった。


 白凪は、寝床に、戻った。

 戻って、薄い毛布を、身体に、かけた。

 毛布の重さは、軽かった。

 軽い、というのは、土嚢の脇で、座っている時の、銃の重さと、別の重さだった。

 別の重さの下で、白凪は、横になった。

 横になった瞬間、身体が、半拍、止まった。

 止まったのは、横になる、という動きが、九番では、起こらなかった、からだった。

 九番では、座って、目を閉じる、までだった。

 寝床に、横になる、ということは、なかった。

 今、白凪は、横になっていた。

 横になっている自分の身体を、白凪は、確かめた。

 確かめた身体は、まだ、緊張していた。

 緊張は、ここでは、必要なかった。

 必要なかったが、抜けなかった。

 抜けない、というのが、九番の空気が、まだ、自分の中に、残っている、ということだった。

 残っているまま、白凪は、目を、開けた。


 目を開けた先に、仮宿舎の天井が、あった。

 天井は、板だった。

 板の隙間から、わずかに、光が、漏れていた。

 光は、夜のあいだに、誰かが、つけていた、ランプの光だった。

 ランプの光は、九番の壕の中の、薄暗さと、別だった。

 九番の壕の中は、夜になると、本陣の脇の小さな灯りだけが、ついていた。

 その灯りも、すぐに、消された。

 消された後の暗さの中で、白凪は、目を、閉じていた。

 今、ここでは、ランプの光が、消えていなかった。

 消えていないのは、夜のあいだに、誰かが、動いている、ということだった。

 動いている誰かは、見張りの兵だった。

 見張りの兵の足音が、仮宿舎の外で、一定の間隔で、聞こえていた。

 間隔は、九番の見張りの間隔と、似ていた。

 似ていたが、温度が、違った。

 九番の見張りの足音は、土の上を、踏む音だった。

 ここの見張りの足音は、踏み固められた地面の上を、踏む音だった。

 踏み固められた地面、というのが、後方の温度だった。

 後方の温度の中で、白凪は、目を、開けていた。


 仮宿舎の中の、他の兵の寝息が、聞こえた。

 寝息は、一定の間隔だった。

 一定、というのは、眠っている、ということだった。

 眠っている兵は、身体が、動いていなかった。

 身体が動かない、というのが、ここでは、当たり前だった。

 九番では、身体が、動いた。

 眠っていても、身体が、動いた。

 動こうとして、止められて、また、動こうとした。

 その繰り返しが、夜のあいだに、続いた。

 今、ここでは、その繰り返しが、起こっていなかった。

 起こっていない、というのが、ここの温度だった。

 白凪自身の身体は、まだ、繰り返している側だった。

 繰り返している側のまま、白凪は、横になっていた。

 横になっているが、眠れなかった。

 眠れない、というのは、もう、知っていた。

 知っていたから、白凪は、眠ろうとは、しなかった。

 眠ろうとせずに、天井を、見ていた。


 天井を見ている時間が、長くなった。

 長くなる中で、白凪は、自分の中の、動機の場所の中央の、八つの言葉を、ゆっくり、再生した。

 使わなければ、お前以外が、削れる。

 選ばなければ、全員が、削れる。

 お前だ。

 もう、戻らない。

 保たせるために、削れる。

 自分の選択が、九番の外まで、届く。

 削り切るまで、保たせる。

 削り切ったら、その時は、その時だ。

 八つは、変わらず、並んでいた。

 並んでいる八つの隣に、今、新しい言葉が、入った。

 答えが、出ない。

 答えが、出ない戦争を、保たせる。

 答えが、出ないから、保たせる、ということが、変わらない。

 三つの言葉だった。

 三つの言葉は、動機の場所の中央には、入らなかった。

 動機の場所の中央には、すでに、八つが、並んでいた。

 並んでいる八つを、三つは、揺らさなかった。

 揺らさない、というのが、白凪の中で、もう一度、確かめられた。

 確かめられた瞬間、白凪は、何かが、固まる感覚を、覚えた。

 固まる、というよりは、揺れない、という形が、自分の中で、はっきりした、ということだった。

 はっきりした形を、白凪は、引き出しの中の、動機の場所の中央の、八つの言葉の、すぐ脇に、置いた。

 置いた瞬間、また、新しい場所が、引き出しの奥の、奥に、増えた。

 増えた場所が、何かは、まだ、見えなかった。

 見えないまま、白凪は、天井を、見ていた。


 夜のあいだに、白凪は、何度か、目を、閉じた。

 閉じたが、眠れなかった。

 眠れないまま、開けた。

 開けた天井は、変わらなかった。

 変わらない天井の下で、時間が、進んだ。

 時間が進む間、仮宿舎の外で、見張りの足音が、続いていた。

 続いている足音は、白凪の身体の中の、何かと、合っていなかった。

 合っていなかった、というのが、九番の空気が、まだ、自分の中に、入ったまま、ということだった。

 入ったままの空気を、白凪は、追い出さなかった。

 追い出すと、九番に、戻った時に、また、入れ直す必要がある。

 入れ直すのは、半拍、遅れる。

 半拍、遅れたら、誰かが、削れる。

 削れたら、保たせる相手が、保たれない。

 その認識のまま、白凪は、九番の空気を、自分の中に、置いておいた。

 置いておくのが、保たせるための、選択だった。

 選択を、白凪は、続けていた。

 続けている間に、夜が、半分、過ぎた。


 夜が、半分過ぎた頃、仮宿舎の外で、別の足音が、聞こえた。

 別の足音、というのは、見張りの兵の足音と、別の足音だった。

 別の足音は、後方の方向から、来て、仮宿舎の前を、通り過ぎていった。

 通り過ぎた音は、輸送車輌の音だった。

 輸送車輌が、夜のあいだに、後方から、出ていく。

 出ていく方向は、街道だった。

 街道は、夜のあいだも、撃たれている。

 撃たれているが、補給は、出る。

 出ているあいだは、補給が、続いている。

 続いているあいだは、九番に、届く。

 届く先に、笹倉と、久我と、瀬名と、荒瀬と、鷹見が、いる。

 いるあいだは、九番は、保たれている。

 保たれているのは、白凪が、ここに、いるからではなかった。

 ここに、いない間も、保たれていた。

 保たれているのは、他の兵が、立っているからだった。

 他の兵が、立っているあいだは、白凪が、ここに、いてもいい。

 いてもいい、という感覚が、夕方、仮宿舎に入る前に、引き出しに、入った感覚と、同じだった。

 同じ感覚が、夜のあいだに、もう一度、確かめられた。

 確かめられた感覚を、白凪は、また、引き出しに、置き直した。

 置き直した場所は、まだ、決まらなかった。

 決まらないまま、夜が、進んだ。


 夜が、明ける前、仮宿舎の外で、新しい足音が、聞こえた。

 新しい足音は、見張りの兵とも、輸送車輌とも、別だった。

 仮宿舎の方向に、近づいてきた。

 近づいてきた足音は、仮宿舎の入口で、止まった。

 止まった足音の主が、入口を、開けた。

 開けた瞬間、外の冷たい空気が、入ってきた。

 入ってきた空気は、九番の空気の温度に、近かった。

 近い空気が、白凪の身体の、緊張に、わずかに、合った。

「白凪二等兵」

 入口の脇から、低い声が、呼んだ。

「はい」

 白凪は、寝床から、身体を、起こした。

 起こす動きは、半拍、早かった。

 早かったのは、夜のあいだ、ずっと、目を、開けていたからだった。

「指揮所、お迎えに、来ました」

「了解」

「準備、できますか」

「できます」

 白凪は、寝床の脇の銃を、肩に、かけた。

 かけた銃の重さは、夜の間、変わっていなかった。

 変わっていない重さを、白凪は、肩で、確かめた。

 確かめたまま、毛布を、規格通りに、畳んだ。

 畳む動きは、誰かが、白凪のために、畳んだ動きを、なぞっていた。

 なぞった動きが、ここの形だった。

 ここの形を、白凪は、覚えた。

 覚えたまま、寝床から、立ち上がった。


 仮宿舎の中の、他の兵は、まだ、眠っていた。

 眠っている寝息は、一定だった。

 一定のまま、白凪は、入口の方向に、進んだ。

 進む途中で、奥の壁の脇を、見た。

 奥の壁の脇には、苫井が、まだ、もたれていた。

 苫井は、煙草を、吸っていなかった。

 吸っていなかったが、目は、開いていた。

 開いた目で、白凪を、見た。

 見たが、何も、言わなかった。

 言わない、というのが、苫井の、見送り方だった。

 白凪も、何も、言わなかった。

 言わずに、苫井の前を、通り過ぎた。

 通り過ぎる時に、苫井が、短く、口を、開いた。

「九番、保たせろよ」

「了解です」

 苫井は、それだけ言った。

 言ってから、また、目を、閉じた。

 閉じた目の脇で、白凪は、入口の方向に、進んだ。

 進む方向の入口に、寝床の隣の栗田が、立っていた。

 立って、白凪を、見ていた。

 見たが、何も、言わなかった。

 白凪も、何も、言わなかった。

 言わずに、栗田の前を、通った。

 通った時に、栗田が、短く、頷いた。

 頷きは、挨拶では、なかった。

 挨拶の代わりに、頷きが、置かれた。

 置かれた頷きを、白凪も、頷きで、返した。

 返してから、入口を、出た。


 入口の外には、夜の終わりの空気が、あった。

 空気は、冷たかった。

 冷たい空気が、白凪の頬に、当たった。

 当たった瞬間、九番の空気の温度と、揃った。

 揃った空気の中で、白凪は、迎えの兵の脇に、立った。

 立った位置から、後方の方向を、見た。

 後方の方向には、まだ、暗い土地が、広がっていた。

 広がっている土地の向こうに、薄く、光が、見えた。

 光は、後方の指揮所の方向だった。

 指揮所、というのが、今日、白凪が、向かう先だった。

 向かう先には、命令書が、ある。

 地図が、ある。

 澪原という名前の、参謀が、いる。

 澪原は、白凪を、呼んでいた。

 呼んでいる理由は、まだ、知らされていなかった。

 知らされていないが、白凪は、向かう。

 向かう、というのが、保たせるための、動きだった。

 動きを、白凪は、止めなかった。

 止めずに、迎えの兵の歩幅に、合わせた。

 合わせた歩幅で、夜の終わりの土地の上を、進み始めた。

 進む方向の空に、わずかに、白が、混じり始めていた。

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