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第5章 第二部 街道

第二部 街道

 九番の入口を出た先の道は、踏み固められた土だった。

 白凪は、担架の片方の柄を、左手で、持っていた。

 右手は、銃の構えの位置に、入れたままだった。

 入れたまま、歩く速度を、輸送兵の歩幅に、合わせていた。

 輸送兵の歩幅は、後方の人間の歩幅だった。

 後方の人間の歩幅は、前線の人間の歩幅より、広い。

 広いが、平らな道では、そちらの方が、速い。

 平らな道、というのは、ここから少し進んだ先の、枯枝街道のことだった。

 まだ、平らな道には、出ていない。

 今、白凪が、歩いている土は、九番の脇の、踏み固められた連絡路だった。

 連絡路の脇には、土嚢の崩れた跡が、まだ、残っていた。


 水城は、担架の上で、目を、閉じていた。

 閉じたまま、口を、開かなかった。

 布の下の、左腕の上着の色は、まだ、暗かった。

 動いて、いた。

 動いていた、というのは、まだ、出血が、止まりきっていない、ということだった。

 止まりきっていないが、瀬名の手の動きの強さで、止まる側に、入っていた。

 止まる側に、入ったまま、白凪は、運んでいた。

「白凪さん」

 輸送兵の一人が、低く、言った。

「はい」

「担架の柄、左手のままで、いいですか」

「いいです」

「右手は、空けておくんですね」

「はい」

「了解です」

 輸送兵は、それだけ言った。

 言ってから、また、自分の歩幅に、戻った。

 戻った歩幅は、わずかに、白凪に、合わせていた。

 合わせている、というのが、白凪に、分かった。

 分かったのは、最初に出会った時の歩幅と、今の歩幅が、半拍、違っていたからだった。

 違っている半拍を、輸送兵は、白凪のために、削っていた。


 連絡路の途中で、土の色が、変わった。

 変わった、というよりは、踏み固められていない土が、混じり始めた、ということだった。

 混じった土の脇には、車輪の跡が、残っていた。

 車輪の跡は、深かった。

 深いのは、補給車輌が、一度、止まった跡だった。

 止まった跡の脇に、輪止めの、木片が、転がっていた。

 木片は、新しくは、なかった。

 古い、というよりは、雨に、何度も、当たった跡だった。

 白凪は、その木片を、見た。

 見たが、拾わなかった。

 拾う、というのは、ここでは、する側の動きでは、なかった。


 連絡路を、しばらく進むと、枯枝街道に、出た。

 枯枝街道は、白凪が、地図の上で、何度か、見た線だった。

 見た線は、ただの、線だった。

 目の前にあった街道は、線では、なかった。

 道だった。

 道、というのは、踏まれた土と、踏まれていない土と、撃たれた土が、混じった場所だった。

 撃たれた土は、色が、違った。

 黒い、というのとは、違う。土の表面が、剥がれて、その下の、湿った土が、出ている、という色だった。

 湿った土の脇には、砲撃跡の窪みが、いくつか、続いていた。

 窪みの深さは、人の膝より、わずかに、浅かった。

 浅いのは、新しい砲撃跡では、ない、ということだった。

 新しい砲撃跡は、もっと、深い。

 ここの窪みは、何日か前のものだった。

 何日か前のものでも、土の色が、戻っていなかった。

 戻っていない、というのは、その後、雨が、降っていない、ということだった。

 雨が、降っていなかったから、撃たれた跡は、そのまま、残っていた。


「白凪さん」

 もう一人の輸送兵が、低く、言った。

「はい」

「ここ、北寄りに、避けます」

「了解」

 輸送兵は、街道の中央から、わずかに、北の側に、足を、寄せた。

 北側の土は、撃たれた跡が、少なかった。

 少ない、というのは、向こうの射線が、街道の中央寄りを、狙っている、ということだった。

 中央を、狙っているのは、補給車輌が、中央を通るからだった。

 補給車輌の運転手は、中央を通る。

 中央を通れば、轍が、揃う。

 揃うから、向こうは、撃ちやすい。

 白凪は、その認識を、引き出しに、入れた。

 入れる場所は、補給線の脇だった。

 補給線の脇には、すでに、いくつかの言葉が、置かれていた。

 九番が、抜かれたら、芦森が、落ちる。

 芦森が、抜かれたら、翠槇州が、抜ける。

 その隣に、もう一つ、置いた。

 補給車輌は、中央を、通る。

 通れば、撃たれる。

 撃たれた跡は、街道の中央に、残る。

 残ったまま、雨が、降らない。

 降らないから、跡は、消えない。

 消えないから、向こうは、次も、中央を、狙う。

 繰り返しが、続く。

 続く繰り返しの中で、補給は、遅れる。


 街道の脇に、布が、一枚、落ちていた。

 布は、上着の裾の、一部だった。

 裾の縁は、切れていた。

 切れた縁は、布が、引きちぎられた、ということだった。

 引きちぎられた、というのは、誰かが、その上着を、着ていた、ということだった。

 着ていた誰かは、もう、ここには、いない。

 いない、というだけだった。

 いなくなった場所には、布の裾だけが、残っていた。

 白凪は、その布を、見た。

 見たが、拾わなかった。

 拾わない、というのは、配属の日に、土嚢の脇に転がっていた水筒を、拾わなかった動きと、同じだった。

 同じ動きが、ここでも、出た。

 出た動きを、白凪は、止めなかった。

 止めずに、通り過ぎた。


「白凪さん」

 最初の輸送兵が、また、低く、言った。

「はい」

「お前さん、九番、どれくらいだ」

「配属から、十四日です」

「十四日か」

 輸送兵は、それだけ言った。

 言ってから、また、しばらく、何も、言わなかった。

 言わない時間が、続いた。

 続いた時間の中で、輸送兵は、もう一度、口を、開いた。

「俺は、芦森から、こっちを、回ってる」

「芦森から、ですか」

「ああ。芦森補給廠の、輸送組だ」

 白凪は、その言葉を、引き出しに、入れた。

 入れる場所は、補給線の根元だった。

 根元には、芦森補給廠の点が、あった。

 その点から、輸送組の兵が、ここまで、来ていた。

 来ていた、というのは、芦森補給廠が、まだ、生きている、ということだった。

 生きている、というのは、九番が、保たれているからだった。

 保たれているのは、白凪と、九番の兵が、立っているからだった。

 立っているあいだは、芦森が、保つ。

 保つあいだは、輸送組が、ここまで、来られる。

 来られるあいだは、水城が、運ばれる。

 運ばれて、生きる。

 白凪は、その連鎖を、もう一度、組んだ。

 組んだ連鎖の根元に、九番の点が、あった。


「九番、まだ、保ってんのか」

 輸送兵が、訊いた。

「保っています」

「すげえな」

 輸送兵は、それだけ言った。

「うちは、芦森から出る前に、もう何度か、九番の話を、聞いたが」

「話、というのは」

「『あそこは、まだ、保ってる』『あそこが、抜かれたら、終わる』『あそこは、最後の前線だ』」

 白凪は、その言葉を、聞いた。

 聞いた瞬間、引き出しの中の、九番の点の脇に、新しい言葉が、入った。

 最後の前線。

 白凪は、自分が、立っていた場所が、そう呼ばれていたことを、初めて、知った。

 知ったが、何も、感じなかった。

 感じなかったのは、すでに、自分の中で、その場所の意味が、組まれていたからだった。

 組まれていた意味と、外から呼ばれていた名前が、揃った。

 揃ったが、ずれもしなかった。


 輸送兵は、それ以上は、言わなかった。

 言わずに、また、自分の歩幅に、戻った。

 歩幅は、白凪に、合わせていた半拍を、戻していた。

 戻したのは、ここから先の道が、わずかに、上りに、なっていたからだった。

 上りに、なる道では、後方の人間の歩幅の方が、楽だった。

 楽な歩幅に、戻った輸送兵を、白凪は、半拍、追った。

 追う動きは、白凪の身体の中で、勝手に、出た。


 街道を、しばらく進んだ頃、向こう側から、人影が、見えた。

 人影は、三人だった。

 二人が、立っていた。

 一人が、二人のあいだで、低い姿勢だった。

 低い姿勢、というのは、担架の上の負傷兵、ということだった。

 白凪と水城と、同じ形だった。

 別の補給組だった。

 別の方向から、来ていた。

 近づくにつれて、人影の形が、はっきりした。

 二人とも、輸送兵だった。

 軍服の汚れ方が、白凪の脇の輸送兵と、似ていた。

 似ているが、同じでは、なかった。

 別の部隊から、来ていた。


 擦れ違う直前に、向こうの輸送兵の一人が、白凪に、視線を、向けた。

 視線は、長くは、なかった。

 長くないが、確かめる視線だった。

 確かめている、というのは、白凪が、どこから来た兵か、を、確かめている、ということだった。

 白凪の軍服は、九番の土の色を、している。

 九番の土の色は、後方の土の色と、違う。

 違うから、向こうは、すぐに、分かった。

「お前ら、どこから」

 向こうの輸送兵は、訊いた。

「九番から」

 白凪は、答えた。

「九番か」

 向こうの輸送兵は、それだけ言った。

 言ってから、半拍、止まった。

 止まったのは、九番、という言葉を、自分の中で、組み直すための半拍だった。

「九番、まだ、保ってんのか」

「保っています」

「すげえな」

 白凪の脇の輸送兵が、聞いたのと、同じ言葉だった。

 同じ言葉が、別の輸送兵の口から、出てきた。

 出てきた、というのは、九番が、外から、そう呼ばれている、ということだった。

 呼ばれていることを、白凪は、もう一度、引き出しに、入れた。

 入れた場所は、変わらなかった。

 最後の前線、の隣だった。


「うちは」

 向こうの輸送兵の、もう一人が、口を、開いた。

「もう、半月、戦闘ない」

 白凪は、その言葉を、聞いた。

 半月、戦闘がない、というのは、白凪の頭の中の、組み合わせには、なかった言葉だった。

 なかったのは、白凪の中で、戦闘は、毎日、ある、というのが、当たり前だったからだった。

 当たり前のものが、向こうには、なかった。

「向こうも、来ない」

 輸送兵は、続けた。

「うちは、押してる側だ」

「押してる側、というのは」

 白凪は、訊いた。

 訊いた、というのは、訊くべきだ、という判断ではなかった。

 ただ、半拍、自分の中の組み合わせと、ずれた言葉が、口から、出ただけだった。

「向こうが、退いてる」

 輸送兵は、答えた。

「うちの戦線は、向こうが、退いてる。退きながら、撃ってこない。撃ってこないから、こっちも、撃たない」

「そうですか」

「お前らとは、別の戦争してる」

 別の戦争。

 白凪は、その言葉を、聞いた。

 聞いた瞬間、引き出しの中で、何かが、ずれた。

 ずれたのは、戦争、という言葉だった。

 白凪の中の戦争は、九番の戦争だった。

 九番の戦争は、別働が、毎日、来る戦争だった。

 別働が、来るたびに、誰かが、削れる戦争だった。

 削れたまま、保たせる戦争だった。

 それが、白凪の知っている戦争だった。

 今、向こうの輸送兵が、言った戦争は、別の戦争だった。

 半月、戦闘がない戦争だった。

 向こうが、退いている戦争だった。

 二つは、同じ戦争のはずだった。

 同じ戦争の中で、起こっていることが、別だった。

 別、というのが、白凪の中で、半拍、止まった。


 止まった半拍は、すぐに、戻った。

 戻ったのは、別の輸送兵が、続けて、何かを、言ったからだった。

「あそこは、最後の前線だ」

 また、同じ言葉だった。

 三人目の口から、出てきた。

 白凪は、その言葉を、聞いた。

 聞いたが、もう、引き出しには、入れなかった。

 入れる場所は、すでに、決まっていた場所だった。

 決まっていた場所に、もう三回、同じ言葉が、入っていた。

 三回、入った言葉は、白凪の中で、輪郭を、変えていた。

 変えた輪郭は、九番、という地名の上に、別の名前を、重ねていた。

 重ねた名前は、最後の前線、だった。

 名前が、重なった。

 重なったまま、白凪は、引き出しを、閉じた。


「ご苦労」

 白凪の脇の輸送兵が、向こうの輸送兵に、短く、言った。

「ご苦労」

 向こうの輸送兵も、同じ言葉を、返した。

 形式的な、挨拶だった。

 形式的、というのは、何度も、同じ場所で、同じ言葉が、交わされている、ということだった。

 交わされているが、何かが、減っていく挨拶だった。

 減っていくものが、何かは、白凪には、見えなかった。

 見えないまま、白凪は、向こうの担架の上の負傷兵を、視界の端に、入れた。

 負傷兵は、目を、閉じていた。

 閉じた目は、水城と、同じ閉じ方だった。

 同じ閉じ方、というのは、止まる側に、入っている、ということだった。

 入っているまま、運ばれていた。

 運ばれた先で、生きる。

 白凪は、その兵が、運ばれていく方向を、見送らなかった。

 見送る暇は、なかった。

 白凪も、運んでいる側だった。


 擦れ違いが、終わると、街道は、また、白凪と、水城と、輸送兵二人だけに、戻った。

 戻った街道の上を、白凪は、また、歩いた。

 歩く速度は、わずかに、遅くなっていた。

 遅くなったのは、上りが、続いていたからだった。

 上りの先には、平らな土地が、あった。

 平らな土地の向こうに、煙が、薄く、上がっていた。

 煙は、戦闘の煙では、なかった。

 炊事の煙だった。

 炊事の煙が、上がっている、というのは、そこに、兵舎が、ある、ということだった。

 兵舎、というのは、後方の兵が、寝泊まりする場所だった。

 寝泊まり、というのは、戦闘の合間に、横になる時間が、ある、ということだった。

 横になる時間が、あるあいだは、その場所は、戦場では、ない。

 戦場では、ない場所が、街道の先に、あった。

 白凪は、その煙を、見た。

 見たが、足の速度は、変えなかった。


「白凪」

 水城の声が、担架の上から、出た。

 低かった。

「はい」

「右腕、空いてるか」

「空いてます」

「銃」

「持っています」

「そうか」

 水城は、それだけ言った。

 言ってから、しばらく、口を、開かなかった。

 開かない時間の中で、白凪は、自分の右手の重さを、確かめた。

 右手は、銃の構えの位置に、あった。

 あるが、引き金は、引いていなかった。

 引かない引き金の重さが、土嚢の上で握っていた重さと、違っていた。

 違いは、重さの違いではなかった。

 重さの中に、ある相手の違いだった。

 土嚢の上では、別働だった。

 今は、水城だった。

 水城を、生きたまま、後方に、渡す。

 その動きの中で、引き金は、撃つためではなく、守るために、構えられていた。

 構えていれば、震えない。

 震えなかったのは、構えていたから、だった。

 構えていれば、震えない、というのは、九番で、覚えた動きだった。

 九番で、覚えた動きが、ここでも、作動していた。

 作動している、というのが、白凪の中で、半拍、別の形で、響いた。

 響いた形を、白凪は、追わなかった。

 追う暇は、なかった。

 歩く速度を、保つ方が、先だった。


 水城は、もう一度、口を、開いた。

「お前」

「はい」

「上手いな」

「何が、ですか」

「歩幅」

「水城工兵に、合わせています」

「分かってる」

 水城は、それだけ言った。

 言ってから、また、目を、閉じた。

 閉じた目の脇で、布の色が、夕方の光で、少し、色を、変えていた。

 色は、暗いままだった。

 暗いが、最初に巻いた時の暗さよりも、わずかに、薄かった。

 薄くなった、というのは、出血が、布の表面まで、来ていない、ということだった。

 来ていないから、止まる側に、入ったまま、保っていた。

 保っているあいだは、水城は、生きていた。


 白凪は、自分の頭の中で、八つの言葉を、ゆっくり、再生した。

 使わなければ、お前以外が、削れる。

 選ばなければ、全員が、削れる。

 お前だ。

 もう、戻らない。

 保たせるために、削れる。

 自分の選択が、九番の外まで、届く。

 削り切るまで、保たせる。

 削り切ったら、その時は、その時だ。

 八つの言葉は、変わっていなかった。

 変わっていないが、立っている場所が、違っていた。

 九番の中で、再生していた時は、見えるものが、土嚢と、副線と、瀬名の手だった。

 今、再生している場所は、街道の上だった。

 街道の上から、見えるものは、撃たれた土と、布の裾と、輸送兵の背中と、担架の上の水城だった。

 見えるものが、変わっていた。

 変わっていたが、八つの言葉の指す方向は、変わっていなかった。

 指す方向の先に、水城が、いた。

 水城を、生きたまま、後方に、渡す。

 それが、今日の、保たせるだった。

 今日の保たせるは、九番の保たせると、別では、なかった。

 同じものだった。

 同じものが、別の場所で、別の形で、出ている、というだけだった。


 夕方の光が、街道の上に、長く、伸びてきた。

 光は、白に近づいていた色を、薄い橙に、変えていた。

 変えた光の中で、水城の左腕の布の色が、もう一度、確かめられた。

 確かめると、まだ、止まる側に、入っていた。

 入っているまま、白凪は、歩いた。

 歩く先の煙は、近づいていた。

 近づいた煙の下に、低い屋根が、見えた。

 屋根は、土の上に、置かれた、仮の屋根だった。

 仮の屋根の脇に、人影が、いくつか、動いていた。

 動いていた人影は、急いでは、いなかった。

 急いでいない、というのが、後方の温度だった。

 後方の温度を、白凪は、街道の上から、初めて、視界に、入れた。

 入れたが、引き出しには、まだ、入れなかった。

 入れる場所が、決まっていなかった。

 決まる前に、屋根が、もっと、近づく。


「白凪さん」

 最初の輸送兵が、低く、言った。

「はい」

「あれが、仮宿舎です」

「兵舎、ですか」

「ええ。野戦病院の、手前にあります」

「水城工兵は、そこから、ですか」

「いえ。水城工兵は、もう一段、奥の野戦病院に、お運びします。お前さんは、仮宿舎で、一夜、過ごします」

「一夜、というのは」

「お前さんを、明日、後方の指揮所まで、お運びする予定です」

「了解です」

「明日の朝、迎えに、来ます」

「分かりました」

 輸送兵は、それだけ言った。

 言ってから、また、歩幅を、戻した。

 戻した歩幅は、ここから、上りが、終わった、ということだった。

 終わった上りの先は、平らな地面だった。

 平らな地面、というのが、後方の地面だった。

 白凪は、その平らな地面に、足を、入れた。

 入れた足の下の土は、九番の土と、違っていた。

 違っていたのは、湿気が、少ない、ということだった。

 湿気が、少ない、というのは、雨が、最近、降っていない、というだけではなかった。

 戦闘の湿気が、入っていない、ということだった。

 戦闘の湿気が、入っていない地面の上を、白凪は、歩いた。

 歩く足音が、九番の足音と、違っていた。

 違っていたのは、土が、踏まれ慣れていた、ということだった。

 踏まれ慣れている土の上を、後方の人間が、何度も、歩いていた。

 歩いている、というのが、後方の温度だった。


 仮宿舎の入口に、別の兵が、立っていた。

 白凪の知らない兵だった。

 顔は、白凪より、少し、年嵩だった。

 軍服の汚れ方は、輸送兵と、似ていた。

「九番の白凪二等兵ですか」

「はい」

「水城工兵を、お運びします」

「お願いします」

「お前さんは、こちらへ」

 兵は、それだけ言った。

 言ってから、輸送兵に、目を、向けた。

 輸送兵は、頷いた。

 頷いてから、担架を、別の兵の手に、渡した。

 渡した瞬間、白凪の左手から、担架の柄が、外れた。

 外れた瞬間、左手の中に、水城の体重の感覚が、残った。

 残ったまま、担架は、別の兵に、運ばれていった。

 運ばれていく方向は、仮宿舎の脇の、もう一つの屋根の方向だった。

 もう一つの屋根が、野戦病院だった。

 野戦病院の入口は、仮宿舎の入口より、低かった。

 低いのは、担架が、入りやすいから、だった。


 白凪は、担架の方向を、見送った。

 見送る暇は、わずかに、あった。

 わずかに、あった時間の中で、水城が、もう一度、目を、開けた。

 開けた目で、白凪を、見た。

 見たが、何も、言わなかった。

 言わない、というのが、水城の、別れ方だった。

 白凪も、何も、言わなかった。

 言わずに、見送った。

 見送ってから、自分の方向に、戻った。

 戻った方向には、仮宿舎の入口で、別の兵が、待っていた。

「白凪二等兵」

「はい」

「中へ」

「了解」

 白凪は、仮宿舎の入口を、くぐった。

 くぐる瞬間、後ろを、もう一度、見た。

 後ろには、夕方の光の中で、街道が、長く、続いていた。

 続いていた街道の先に、九番が、あった。

 九番は、見えなかった。

 見えなかったが、ある、ということは、知っていた。

 あるあいだは、保たれている。

 保たれているのは、笹倉と、久我と、瀬名と、荒瀬と、鷹見が、立っているからだった。

 立っているあいだは、白凪が、ここに、いてもいい。

 いてもいい、というのが、半拍、新しい感覚だった。

 新しい感覚を、白凪は、引き出しに、入れた。

 入れる場所は、まだ、決まっていなかった。

 決まる前に、仮宿舎の中の、暖かい空気が、白凪の顔に、当たった。

 当たった空気は、九番の空気と、別だった。

 別、という言葉が、もう一度、白凪の中で、浮かんだ。

 別の戦争。

 別の場所。

 別の温度。

 三つが、白凪の引き出しの中で、揃った。

 揃ったまま、白凪は、仮宿舎の中に、入った。


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