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第5章  第一部 出る

第一部 出る

 明け方の灰色が、土嚢の縁に、薄く乗っていた。

 白凪は、観測壕の手前に、立っていた。立っている位置は、夜の見張りで立っていた位置と、同じだった。

 夜のあいだに、別働は、出なかった。

 出なかった、というのは、まだ、出る前だった、ということだった。

 白凪は、右手を、引き金にかけた位置で、握っていた。

 握った手は、震えていなかった。

 構えていれば震えない、というのは、もう、知っていた。

 知っていることが、知らない時の白凪と、別の場所に、自分を、置いていた。

 別の場所は、引き出しの中だった。

 引き出しの中の、奥の、奥に、夜のあいだに、新しい場所が、また、増えていた。

 増えた場所が、何かは、まだ、見えていなかった。

 見えていないまま、空の色が、灰色から、薄い灰色へ、動いた。


 久我の双眼鏡が、左に、半拍、動いた。

 動いた角度は、夜の角度よりも、わずかに、北寄りだった。

 北寄り、というのは、九番正面だった。

 白凪は、双眼鏡の角度を、目の端で追った。追ったが、声は、かけなかった。

 久我が、声を、出した。

「白凪二等兵」

「はい」

「九番正面、距離400、出ました」

「数は」

「四から、六」

「速度は」

「昨日より、速い」

「了解」

 白凪は、それだけ答えた。

 答えてから、銃の構えを、わずかに、上げた。

 上げた角度は、昨日の戦闘で構えた角度より、半度、低かった。低いのは、別働の速度が、上がるなら、向こうの姿勢も、低くなる、と読んだからだった。

 読んだのは、引き出しの中の、奥の、奥だった。

 奥から、読みが、勝手に、出てきた。

 出てきた読みを、白凪は、構えに、入れた。

 入れた瞬間、構えは、決まった。


 久我の声が、続いた。

「鷹見軍曹、別働、九番正面、四から六、距離400、接近中、速度上昇」

 本陣の脇から、鷹見の声が、応答した。

「了解。配置」

「現状維持で、可能です」

「白凪、観測壕手前」

「はい」

「笹倉、副線、応答準備」

「了解」

「水城、北側土嚢、踏み板の脇」

「了解」

「瀬名、本陣の奥、待機」

「了解」

「荒瀬、本陣の脇、止まれる位置」

「分かった」

 声の順番は、配属の日と、変わっていなかった。

 変わっていないが、声の中身は、変わっていた。

 変わっていたのは、白凪が、観測壕手前の名前を、最初に呼ばれたことだった。

 最初に呼ばれた名前の場所に、白凪は、立っていた。

 立っていることが、何を意味するかは、引き出しに、入れなかった。

 入れる場所は、戦闘の後に、決める。


 別働の最初の影が、視界の端に、入った。

 距離は、380メートル。

 二人組。低い姿勢。土の色の上着。

 昨日より、低い。

 白凪は、引き金の重さを、指先で、確かめた。

 確かめた重さは、昨日の朝と、同じだった。

 同じ重さの引き金の奥で、白凪の頭の中で、動きが、組まれた。

 組んだ動きは、ひとつではなかった。

 ひとつ目の動きは、左寄りの一人を、最初に撃つ。撃ったあと、右寄りの一人が、姿勢を変える。変えた姿勢を、二発目で、撃つ。

 二つ目の動きは、右寄りの一人を、最初に撃つ。撃ったあと、左寄りの一人が、地面に、伏せる。伏せたまま、動かなくなる。動かなくなる時間が、笹倉の副線の応答時間と、揃う。揃った瞬間に、二発目を、撃つ。

 三つ目の動きは、二人を、撃たない。二人の後ろにある、土の盛り上がりの陰に、引き金を、当てる。当てた瞬間、土が、跳ねる。跳ねた土を、二人が、避ける。避けた方向が、九番の射線の、一本目に、入る。

 四つ目の動きは、何もしない。何もしないまま、二人が、距離を詰める。詰めた距離が、200メートルを切った瞬間に、水城が、北側土嚢の角から、撃つ。撃つ役を、白凪から、水城に、渡す。

 四つの動きが、白凪の頭の中で、並んだ。

 並んだまま、薄くなった。

 薄くなったのは、四つ目だった。

 何もしない、が、消えた。

 消えたのは、消した、からではなかった。

 残っていた三つの中で、一つが、選ばれた、からだった。

 選ばれたのは、二つ目だった。

 右寄りを、最初に撃つ。左寄りが、伏せる。笹倉の応答と、揃える。

 選んだのは、白凪では、なかった。

 白凪の身体が、選んだ。

 選んだ身体に、白凪が、後から、追いついた。

 追いついた瞬間に、引き金が、引かれていた。


 最初の発砲音が、観測壕の手前から、出た。

 別働の右寄りの一人が、姿勢を、崩した。

 崩した姿勢の脇で、左寄りの一人が、地面に、伏せた。

 伏せた瞬間、笹倉の声が、副線の脇から、出た。

「鷹見軍曹、副線、応答取れています」

「了解、続けろ」

 笹倉の声の間隔と、白凪の二発目の、引き金の重さが、揃った。

 揃った瞬間に、白凪は、撃った。

 左寄りの一人が、伏せたまま、動かなくなった。

 動かなくなった、というのは、死んだ、ということだった。

 白凪は、その認識を、引き出しに、入れなかった。

 入れる場所は、まだ、戦闘の後だった。


「別働、後続、確認」

 久我の声が、続いた。

「距離350、二人、追ってきます」

「速度」

「速い」

 白凪は、銃の角度を、わずかに、右に、振った。

 振った角度の先に、後続の二人の影が、入った。

 入った影の動きは、最初の二人より、半拍、速かった。

 半拍速い、というのは、最初の二人が倒れたのを、見ていた、ということだった。

 見ていた、というのは、向こうも、学習している、ということだった。

 白凪の頭の中で、また、動きが、組まれた。

 ひとつ目は、後続の二人を、自分が、撃つ。撃つあいだに、もう一つの後続が、来る可能性がある。

 二つ目は、後続の二人のうち、片方を、水城に、撃たせる。撃たせるあいだに、白凪は、もう一つ先の動きを、見る。

 二つ目が、選ばれた。

 選ばれたのは、また、白凪の身体だった。

「水城、左、撃て」

 白凪は、声を、出した。

「了解」

 北側土嚢の角から、水城の発砲音が、出た。

 後続の左寄りの一人が、姿勢を、崩した。

 崩した姿勢を、白凪は、見なかった。

 白凪が見ていたのは、その奥だった。

 奥に、もう一つの、影が、あった。

 影は、三人目だった。

 三人目は、最初の四から六、と久我が読んだ数の、五人目だった。

 五人目の動きは、後続の二人より、さらに、速かった。


「鷹見軍曹、別働、北側土嚢の角に、流れます」

 久我の声が、続いた。

「北側」

 鷹見の声が、応答した。

「水城、戻れ」

「了解」

 水城が、北側土嚢の角から、姿勢を、戻そうとした。

 戻そうとした瞬間、五人目の引き金が、出た。

 音は、二回。

 一回目は、土嚢の角に、当たった。

 二回目は、水城の左腕に、当たった。


「水城、左腕、撃たれた」

 白凪は、短く、認識した。

 認識した瞬間、銃の構えを、外そうとした。

 外そうとした手を、止めた。

 止めたのは、白凪の判断ではなかった。

 動機の場所の中央から、声が、出た。

 保たせるために、生きる。

 保たせる相手は、水城だった。

 保たせる動きは、外す動きでは、なかった。

 保たせる動きは、撃つ動きだった。

 白凪は、構えを、外さなかった。

 外さずに、五人目の方向に、銃を、振った。

 振った瞬間、五人目の姿勢が、見えた。

 見えた姿勢は、土嚢の影に、入る前だった。

 入る前の半拍が、白凪の引き金の重さと、揃った。

 揃った瞬間に、白凪は、撃った。

 五人目は、姿勢を、崩した。

 崩れた姿勢の脇で、別働の残り(二人)が、退却の動きに、入った。


「別働、退却中」

 久我の声が、続いた。

「数、二」

「速度」

「速い。だが、戻る方向」

「了解」

 鷹見の声が、応答した。

「白凪、追わなくていい」

「了解」

 白凪は、引き金から、指を、離さなかった。

 離さなかったのは、まだ、構えを、外していなかったからだった。

 外せば、震えが、出る。

 出ても、構わなかった。

 だが、構えを外す前に、確認することが、あった。

 確認することは、北側土嚢の角だった。


 白凪は、銃の角度を、わずかに、北側に、振った。

 振った先に、水城の姿勢が、見えた。

 水城は、土嚢の角の脇で、姿勢を、低くしていた。

 低くした姿勢の左腕の、上着の袖が、色を、変えていた。

 色は、暗かった。

 動いていた。

 動いていた、というのは、まだ、生きている、ということだった。

 白凪は、構えを、外した。

 外した瞬間、右手が、震えた。

 震えを、白凪は、握って、止めなかった。

 止めなかったのは、戦闘の後に、止めない、という選択を、もう、決めていたからだった。

 決めた選択を、白凪は、続けていた。

 続けながら、白凪は、北側土嚢の方向に、動いた。


「水城」

 白凪は、呼んだ。

「ここだ」

 水城は、土嚢の角の脇で、答えた。

 答えた声は、低かった。

「動けるか」

「動ける」

「左腕」

「当たった。骨は、たぶん、無事だ」

「血は」

「出てる。だが、止まる側」

「了解」

 白凪は、水城の脇に、腰を、下ろした。

 下ろしながら、左手で、水城の左袖の上から、押さえた。

 押さえた感触は、いつか、瀬名から渡された手順の、強さだった。

 鼓動と同じ強さ。

 強すぎても、弱すぎても、ない。

「瀬名さん、来ます」

 笹倉の声が、副線の脇から、聞こえた。

 聞こえた声の間隔が、いつもの笹倉より、わずかに、短かった。

 短いのは、笹倉の手も、震えていたからだった。

 白凪は、笹倉の方向を、見なかった。

 見なくても、震えは、分かった。

 分かったのは、白凪自身の震えと、同じ場所から、出てきた震えだったからだった。


 瀬名が、本陣の奥から、動いてきた。

 動く速度は、いつも通り、急がなかった。

 急がない、というのが、瀬名の手の動きだった。

 瀬名は、白凪の手の脇に、自分の手を、入れた。

 入れた手で、白凪の手を、軽く、外側に、退かせた。

 退いた白凪の手の下から、瀬名の手が、水城の袖を、開けた。

 開けた袖の下、傷は、左腕の、外側だった。

 外側、というのは、骨を、外している、ということだった。

 外していたが、出血は、続いていた。

「水城」

 瀬名は、低い声で、呼んだ。

「はい」

「動ける、と、言いましたか」

「言いました」

「動けません」

 瀬名の声は、いつもの瀬名の声だった。事務的だった。

「動けますよ」

 水城が、答えた。

「動けません」

 瀬名は、もう一度、同じ声で、言った。

 言った声の間隔は、変わらなかった。

「血が、出続けています。動けば、出続ける時間が、伸びます。伸びれば、止まる側に、戻りません」

「分かりました」

「白凪二等兵」

「はい」

「左腕の脇、押さえていてください。私が、布を、巻きます」

「了解」

 白凪は、もう一度、水城の左腕の脇に、手を、入れた。

 入れた手は、震えていなかった。

 構えていなかったのに、震えていなかった。

 震えていない理由は、引き出しの中の、奥の、奥に、あった。

 今は、押さえる手だった。

 押さえる手は、震える手と、別の場所だった。

 別の場所に、白凪は、自分の手を、置いていた。

 置いている、というのが、続いていることだった。


 水城の左腕の布が、巻かれていく間、瀬名の手は、急がなかった。

 急がなかった手の動きは、夜の名取の脇の、布を変える間隔と、同じだった。

 同じ間隔の中で、白凪は、自分の右手の重さを、引き金の感触の奥で、確かめていた。

 奥にあるのは、震えだった。

 震えは、今は、出ていなかった。

 だが、構えを完全に外して、押さえる手も外したら、出る。

 出ても、止めない。

 その繰り返しの中に、白凪は、いた。


 布が、巻き終わった。

 水城は、土嚢の脇で、目を、開けたままだった。

 目の方向は、空だった。

 空の色は、灰色から、薄い灰色を、抜けて、白に近づいていた。

「水城」

 白凪は、呼んだ。

「ああ」

「動かないでください」

「動かない」

 水城は、それだけ答えた。

 答えた声に、軽口は、なかった。

 軽口がない、というのが、水城の状態を、白凪に、伝えていた。


 鷹見が、本陣の脇から、動いてきた。

 動いてくる速度は、いつも通りだった。

 白凪の脇まで、来た。

 来て、水城の脇に、立った。

「水城」

「はい」

「左腕、当たったか」

「はい」

「動けるか」

「動ける、と、言いましたが、瀬名さんに、動けない、と、言われました」

「そうか」

 鷹見は、それだけ答えた。

 答えてから、瀬名を、見た。

「瀬名」

「はい」

「ここで、保つか」

「保ちません」

「後送が、要るか」

「要ります。野戦病院まで」

「了解」

 鷹見は、頷いた。

 頷いてから、白凪を、見た。

「白凪」

「はい」

「水城、後送する」

「はい」

「お前が、付け」

 白凪は、一拍、置いた。

 置いた一拍は、自分の頭の中の動きの、整理の時間だった。

 整理の中で、四つの動きが、また、組まれた。

 ひとつ目は、付く、と答える。答えて、九番を、離れる。

 二つ目は、付けません、と答える。理由は、ここに、自分が、必要だ。だが、必要だ、というのは、誰が、判断するか。

 三つ目は、確認する。確認するのは、自分が、適任か、ということだった。

 四つ目は、何も言わない。何も言わずに、立ち上がる。立ち上がって、後送の準備に、入る。

 選ばれたのは、三つ目だった。

「俺が、後送補助、ですか」

 白凪は、訊いた。

「お前が、適任だ」

「他の兵は」

「他に、走れる兵が、いない」

 鷹見は、それだけ答えた。

 答えた声は、低かった。

「お前が、付くなら、水城は、生きる」

「了解」

 白凪は、答えた。

 答えた声は、自分の声に、聞こえなかった。

 聞こえなかったのは、答えた瞬間に、自分が、九番を、離れる、ということが、引き出しの中で、まだ、整理されていなかったからだった。

 整理されないまま、答えた。

 答えてから、整理が、始まった。


 離れる、というのは、ここを、離れる、ということだった。

 ここ、というのは、九番だった。

 九番には、笹倉が、いる。

 久我が、いる。

 瀬名が、いる。

 荒瀬が、いる。

 鷹見が、いる。

 そして、土の場所に、名取が、いる。

 白凪が、保たせるのは、九番だった。

 保たせる相手は、ここの兵だった。

 ここの兵を、保たせるのは、ここに、いることで、成立していた。

 今、白凪は、ここを、離れる。

 離れることが、保たせることに、なるのか。

 白凪は、その問いを、引き出しに、入れた。

 入れた瞬間、答えが、奥から、出てきた。

 水城は、ここの兵だった。

 水城を、生きたまま、後方に、渡す。

 渡せば、水城は、生きる。

 生きれば、保たせた、ということになる。

 保たせる相手が、ここの兵そのもの、になった。

 その認識を、白凪は、置いた。

 置いた場所は、動機の場所の、中央の、八つの言葉の、隣だった。

 隣に、新しい言葉は、置かれなかった。

 置かれなかったのは、八つの言葉の中の一つが、形を、わずかに、変えたからだった。

 形を変えたのは、保たせるために、生きる、だった。

 変えた形は、保たせるために、動く、だった。

 動く、というのは、生きる、を、含んでいた。

 含んでいたが、生きる、より、広かった。

 広い形に、変わった瞬間、白凪は、立ち上がった。


「後送便、いつ、出ますか」

 白凪は、鷹見に、訊いた。

「今から、一時間で、出発できる」

「経路は」

「枯枝街道。北寄り」

「了解」

「夜は、避けろ。朝の早いうちに、北寄りで、歩け」

「了解」

「水城の歩く速度に、合わせろ」

「了解」

「野戦病院は、知っているか」

「知りません」

「街道を、北に、進むと、分岐がある。分岐の左が、野戦病院。右は、後方の指揮所」

「分かりました」

「水城を、野戦病院に、渡したら、お前は、後方の指揮所に、報告する」

「報告、ですか」

「お前が、後方の参考に、なる」

 鷹見の声は、低かった。

 低い声の中の、参考、という言葉を、白凪は、引き出しに、入れた。

 入れる場所は、すでに、決まっていた。

 決まっていた場所に、置いた瞬間、奥の、奥の、新しい場所が、また、ひとつ、増えた。

 増えた場所が、何かは、まだ、見えていなかった。


 水城が、土嚢の脇で、目を、動かした。

 動かした目で、白凪を、見た。

「白凪」

「はい」

「お前、後方、初めてだろ」

「はい」

「九番とは、別だ」

「別、というのは」

「行けば、分かる」

 水城は、それだけ言った。

 言ってから、目を、閉じた。

 閉じた目の脇で、瀬名が、布の結び目を、確かめた。

 確かめた手の動きは、急がなかった。


 白凪は、観測壕の手前に、戻った。

 戻って、自分の銃を、肩に、かけ直した。

 かけ直した時に、右手が、また、震えた。

 震えを、白凪は、握って、止めなかった。

 止めずに、銃の重さを、肩に、置いた。

 置いた重さは、配属の日の重さと、違っていた。

 違っていたのは、重さ、ではなかった。

 重さの中にあるものだった。

 配属の日には、何も、なかった。

 今は、水城が、あった。

 水城が、生きるか、生きないかが、白凪の肩の上に、あった。

 あるまま、白凪は、出発の準備に、入った。


 笹倉が、副線の脇から、白凪の方向を、見た。

 見たまま、何も、言わなかった。

 言わない、というのが、笹倉の答えだった。

 白凪も、何も、言わなかった。

 言わなかったのは、二人とも、口にしない、と、決めていたからだった。

 決めたのは、いつかは、分からなかった。

 だが、今は、決まっていた。

 決まったまま、白凪は、本陣の方向に、動いた。

 動いた背中の方向に、久我の双眼鏡が、また、左の角度に、戻っていた。

 戻った角度は、別働の退却した方向の、さらに、奥だった。

 奥には、まだ、次の予兆が、あった。

 予兆を、白凪は、見なかった。

 見なくても、久我が、追っていた。

 追っている久我を、九番に、置いて、白凪は、出発する。


 荒瀬は、本陣の脇で、立っていた。

 立った姿勢は、夕方の脇腹の負傷から、もう、半日以上、経っていた。

 経っていたが、走れる速度は、まだ、戻っていなかった。

 荒瀬は、白凪を、見た。

 見たまま、何も、言わなかった。

 言わない、というのが、荒瀬の答えだった。

 白凪も、何も、言わなかった。

 言わずに、荒瀬の前を、通った。

 通った時に、荒瀬が、短く、口を、開いた。

「白凪」

「はい」

「水城を、生かして、戻せ」

「了解」

「戻したら、お前も、戻ってこい」

「了解」

 荒瀬は、それだけ言った。

 言ってから、また、口を、閉じた。

 閉じた口の脇で、荒瀬の右手が、土嚢の縁に、置かれていた。

 置かれた手は、震えていなかった。

 だが、土嚢の縁から、離した瞬間に、何かが、起こる。

 起こる側の手だった。

 白凪は、その手の方向を、見なかった。

 見なくても、知っていた。


 名取の土の場所には、誰も、近づかなかった。

 近づかない、というのが、戻らない、という事実の継続だった。

 白凪も、近づかなかった。

 近づかずに、本陣の入口の方向に、向かった。

 向かう途中で、名取の土の場所の脇を、通った。

 通った時に、視界の端に、土の色が、入った。

 入った土の色は、まだ、新しかった。

 まだ新しい土の上に、印は、立っていなかった。

 立っていない印の代わりに、白凪は、自分の中で、一つ、置いた。

 置いたのは、言葉では、なかった。

 言葉では、なかったが、位置だった。

 名取が、いる位置だった。

 その位置を、白凪は、覚えた。

 覚えた位置は、地図には、載らなかった。

 載らないが、白凪の引き出しの中に、入った。

 入った場所は、保たせるの隣だった。

 隣に、置いて、白凪は、通り過ぎた。


 本陣の入口で、輸送兵が、待っていた。

 二人。担架を、一つ、持っている。

「九番の白凪二等兵ですか」

「はい」

「水城工兵を、お運びします」

「了解」

「経路、ご存知ですか」

「枯枝街道、北寄りと、聞きました」

「そうです。お前さんは、付き添いですね」

「はい」

「では、行きます」

 輸送兵は、それだけ言った。

 言ってから、本陣の中に、入っていった。

 入っていく背中を、白凪は、見送った。

 見送ってから、自分の足元を、見た。

 足元の土は、九番の土だった。

 九番の土を、白凪は、もう少しで、離れる。

 離れる、という動きを、白凪は、まだ、引き出しに、入れていなかった。

 入れる場所が、決まっていなかった。

 決まらないまま、輸送兵が、水城の担架を、持って、戻ってきた。

 戻ってきた担架の上で、水城は、目を、閉じていた。

 目を閉じたまま、薄く、口を、動かした。

「白凪」

 水城は、呼んだ。

「はい」

「行くぞ」

「行きます」

 白凪は、答えた。

 答えた声は、自分の声に、聞こえた。

 聞こえたのは、もう、答えた後で、整理が、終わっていたからだった。

 整理が終わった答えは、自分の声だった。

 自分の声で、白凪は、本陣の入口を、出た。

 出た先の道は、枯枝街道の手前の、九番から出る最初の、踏み固められた土だった。

 その土の上を、輸送兵が、担架を持って、進み始めた。

 白凪は、担架の片方の柄を、左手で、持った。

 持った左手は、震えていなかった。

 右手は、銃の構えの位置に、入れていた。

 入れたまま、九番の土を、離れた。

 離れた瞬間、後ろから、笹倉の副線の応答の声が、聞こえた。

 声は、いつもの笹倉の声だった。

 いつもの声の中に、震えは、入っていなかった。

 入っていなかったのは、笹倉が、構えていたからだった。

 構えていれば震えない、というのは、笹倉も、知っていた。

 知っているのは、白凪と、同じ場所だった。

 同じ場所を、白凪は、九番に、置いて、出発した。

 出発した足の動きは、急がなかった。

 急がない、というのが、瀬名の手の動きと、同じ場所から、出てきていた。

 出てきていたまま、白凪は、北に、向かった。

 向かった先の道の途中に、何があるかは、まだ、見えていなかった。

 見えていないまま、白凪は、進んだ。

 進む方向の空の色は、白に、近づいていた。


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