第4章 第五部 選択
第五部 選択
昼が、深くなった。
深くなった、というのは、土の温度が、朝より、二段、上がった、ということだった。曇天は、変わらなかった。だが、雲の向こうで、太陽が、ある場所まで動いていた。
白凪は、本陣の脇から、観測壕の手前に、戻っていた。
戻ったのは、久我の双眼鏡の角度が、午前中より、下がったままだったからだった。
下がっている、というのが、近い距離に、何かが、出てくる、という久我の見立てだった。
見立ては、断定では、なかった。
断定ではないが、否定もできない、という温度で、双眼鏡の角度に、入っていた。
白凪は、観測壕の手前で、引き金にかけた右手を、置いた。
置いた瞬間、震えは、止まった。
止まったが、構えを外せば、また、震える。
震える時間が、増えていく。
増えていく分だけ、自分が、削れていく。
その認識は、もう、引き出しの中に、入っていた。
入っているから、白凪は、見なかった。
見ない、というのが、引き受けた、ということだった。
「白凪」
久我の声が、観測壕の中から、来た。
声は、低かった。
低いのは、声を出すのを、抑えている、ということだった。
「はい」
「九番の正面、左寄り。距離、三百」
「数」
「六から、八」
「速度」
「止まっていません」
言葉が、観測壕の手前に、置かれた。
白凪は、その三つの数字を、引き出しに入れた。
入れたが、すぐに、別の場所に、出した。
今日の判断のための場所だった。
六から八。
昨日の昼の別働は、四から六だった。
昨夜の別働は、四だった。
今度は、多い。
多いが、止まっていない。
止まっていない、というのは、こちらの応対を、待っていない、ということだった。
待っていないのは、待つ理由が、向こうに、ない、ということだった。
向こうに、待つ理由がない、というのは、向こうの方が、こちらより、揃っている、ということだった。
「鷹見軍曹」
久我は、双眼鏡を構えたまま、本陣に向けて、声を上げた。
「読め」
鷹見の声が、本陣から、返ってきた。
「九番の正面、左寄り。距離、三百。数、六から八。速度、ゆっくり前進」
「了解」
鷹見は、それだけ答えた。
答えてから、本陣の中で、動いた。
動いた音で、白凪は、鷹見が、地図ではなく、副線の端末に、向かったことを、知った。
「笹倉、副線、後方に、繋げ」
「了解」
「九番、敵接近、戦闘発生予定」
「復唱します。九番、敵接近、戦闘発生予定」
笹倉の声が、続いた。
復唱の途中で、副線の応答が、戻ってきた。
戻ってきた応答は、いつもの応答とは、違う形だった。
「鷹見軍曹」
笹倉が、副線の端末から、声を上げた。
「後方から、命令書、届いています」
「命令書、というのは」
「昨夜のうちに、副線で、送られていたものです。応答が、夜のあいだに、来なかったのは、命令書を、組んでいたから、と、後方が、伝えています」
鷹見は、そこで、一拍、置いた。
「読め」
「翠槇州、北部、防衛維持」
言葉が、本陣の中で、置かれた。
白凪は、その言葉を、観測壕の手前で、聞いた。
聞いた瞬間、白凪は、翠槇州、という地名を、初めて、認識した。
認識したが、何のことかは、まだ、分からなかった。
分からないまま、引き出しに、入れた。
入れる場所は、まだ、決まらなかった。
「鷹見軍曹」
白凪は、観測壕の手前から、本陣に向けて、訊いた。
訊いた、というのは、訊く順番が、来た、と、感じたからだった。
感じたのは、別働が、距離三百で、止まっていない、ということだった。
止まっていない以上、今、訊かないと、訊く時間が、ない。
「翠槇州、というのは」
白凪は、続けた。
鷹見は、答えなかった。
答えなかった時間の中で、本陣の中の動きが、止まった。
止まったあとで、鷹見は、観測壕の手前まで、来た。
来た、というのは、本陣を、離れた、ということだった。
別働が、距離三百で、ゆっくり前進している中で、鷹見が、本陣を離れた。
離れた、ということが、短い時間で、答える、という意志だった。
「白凪」
鷹見は、白凪の脇に、立った。
「はい」
「ここが、翠槇州だ」
鷹見は、観測壕の手前から、南の方向を、指した。
指した方向は、九番の南、断尾嶺の主力が、動いている方向だった。
「お前らが、いる、九番の、南。そこに、向こうも、こちらも、欲しがってる地域が、ある」
「欲しがってる、というのは」
「何があるかは、お前らが、知らなくていい」
鷹見は、それだけ答えた。
「守ることだけが、お前らの、仕事だ」
「了解」
白凪は、答えた。
答えたが、訊かなかった。
訊かないのが、訊く立場ではない、ということだった。
訊く立場ではないことを、白凪は、引き受けた。
引き受けたが、翠槇州、という地名は、引き出しに、入れた。
入れる場所は、もう、決まっていた。
九番抜かれる→芦森落ちる→後方の誰かに何かが届かなくなる、という連鎖の場所だった。
その連鎖の、根だった。
九番が、抜かれた時に、最初に、動くのが、翠槇州、という場所だった。
白凪は、その配置を、自分の中で、揃えた。
揃えた瞬間に、自分の役割が、立っている地面の名前を、認識した。
認識したが、口にしなかった。
口にする時間が、なかった。
「久我」
鷹見が、観測壕の中に向けて、声を上げた。
「距離、二百五十です」
「速度」
「変わりません。ゆっくり前進」
鷹見は、それだけ聞いて、本陣に、戻った。
戻る速度は、来た時より、速かった。
速いのは、戻る時間しか、残っていない、ということだった。
白凪は、戻る鷹見の背中を、見送った。
見送ったあと、自分の右手を、確かめた。
右手は、引き金にかけた位置で、置かれていた。
置かれているから、震えていなかった。
震えていないが、震える時間が、来ることは、知っていた。
来る前に、動く。
動くために、ここに、いる。
配置は、すぐに、組み直された。
白凪は、観測壕の手前で、九番の正面を、担当する。
水城は、本陣の右、後方補給路側の、土嚢の脇に、配置された。
笹倉は、副線の端末を、観測壕の側に、移した。
久我は、観測の位置を、変えなかった。
瀬名は、動かされなかった。
瀬名の脇には、名取と、新規負傷者が、いた。
荒瀬は、本陣の脇に、立った。
立った、というのが、前線復帰、ということだった。
立ったが、走れる速度は、まだ、戻っていなかった。
走れない以上、伝令は、出せない。
出せない以上、荒瀬は、本陣で、鷹見の脇に、立つしか、なかった。
立っている荒瀬の右手は、上着の合わせの脇に、置かれていた。
置かれた手は、震えていなかった。
昨夜の見張りの時に見えた震えを、荒瀬は、止めていた。
止め方は、白凪の止め方と、同じだった。
握って、置く。
置いたまま、開かない。
「白凪」
鷹見が、本陣から、声を上げた。
「はい」
「お前の射線で、別働の前進を、止めろ」
「了解」
「水城、後方補給路の、警戒。別働が、回り込む可能性が、ある」
「了解」
「笹倉、副線、繋げたまま、後方に、状況を流せ」
「了解」
「久我、距離と、速度の、報告、続けろ」
「了解」
「全員、配置についたら、すぐに、始まる」
言葉が、本陣の中で、置かれた。
置かれた言葉が、白凪の中で、頭の動きを、作動させた。
作動した動きは、止められなかった。
止めようとして、止まらないまま、いくつかの動き方が、頭の中に、並んだ。
自分の射線で、別働の前進を、止める動き。
止めれば、別働は、退く。
退けば、九番は、保たれる。
だが、自分の射線にいるあいだ、瀬名の脇には、行けない。
瀬名の脇に、行けないと、瀬名が、抱える二人の負傷者の、容態が、悪化した時に、誰も、サポートできない。
別働を止められる。だが、瀬名側を、救えない。
瀬名側に、動く動き。
動けば、瀬名のサポートが、できる。
名取の容態が、悪化した時に、瀬名が、見ている時間を、増やせる。
だが、瀬名側にいるあいだ、九番の正面の射線は、空く。
空くと、別働は、前進する。
前進すれば、九番は、抜かれる。
瀬名側を、救える。だが、別働を、止められない。
水城に、九番の正面の射線を、渡す動き。
渡せば、自分は、瀬名側に、行ける。
水城は、後方補給路の警戒から、外れる。
外れて、九番の正面の射線に、移る。
移った水城が、別働に、引き金を引く。
だが、水城は、工兵だった。
工兵が、引き金を引く確率は、戦闘職の兵の、半分以下だった。
水城が、撃てるかは、分からない。
撃てなかった場合、別働は、前進する。
前進すれば、九番は、抜かれる。
自分は、瀬名側に、いる。
何もしない動き。
何もしないと、別働は、前進する。
瀬名は、抱えたままになる。
両方が、悪化する。
四つの動きが、白凪の頭の中で、並んだ。
並んだ瞬間、白凪は、自分の頭の動きを、認識した。
戦闘の時の動きが、戦闘の時に、作動した。
戦闘以外の時に作動するのは、削れている、ということだった。
戦闘の時に作動するのは、役割だった。
役割の作動を、白凪は、止めなかった。
止めずに、四つを、見た。
見た時間は、わずかだった。
わずかだが、四つを、見た。
見た上で、選んだ。
別働の前進を、止める動きを、選んだ。
選んだ理由は、保たせる、だった。
九番が、保たれれば、芦森が、保たれる。
芦森が、保たれれば、翠槇州が、保たれる。
翠槇州が、保たれれば、後方の誰かが、保たれる。
保たれる、というのが、動機だった。
動機の場所の、中央に、置かれた言葉が、選ばせた。
使わなければ、お前以外が、削れる。
使う、というのは、白凪の射線を、九番の正面に、置く、ということだった。
置かなければ、九番が、抜かれる。
抜かれれば、お前以外が、削れる。
お前以外、というのは、瀬名と、名取と、新規負傷者と、笹倉と、水城と、久我と、荒瀬と、鷹見と、その後ろにいる、誰かと、その誰かのいる、芦森と、翠槇州と、後方の地面の上の、家族の輪郭、だった。
全部が、削れる。
削らせない。
削られるのは、自分だけ、で、いい。
白凪は、引き金を、引いた。
引いた瞬間、別働の中の、左から二番目の兵が、姿勢を、崩した。
崩したのは、当たった、ということだった。
当たった、ということが、白凪に、分かった。
昨日の戦闘では、当たったかは、確かめなかった。確かめる暇がなかった。
今、確かめている、ということが、動きの速度が、変わった、ということだった。
変わった速度の中で、白凪は、次の射線を、組んだ。
組みながら、もう一発、引いた。
二発目は、別働の右側の兵に、当たった。
当たった瞬間、別働の前進が、止まった。
止まった、というのは、進む選択肢を、捨てた、ということだった。
捨てた選択肢の代わりに、別働は、退き始めた。
退き始めた、ということは、前進が、止められた、ということだった。
選んだ動きの、結果が、出た。
「白凪二等兵」
瀬名の声が、本陣の奥から、来た。
声は、短かった。
短いのが、瀬名の、いつもの声だった。
だが、この時の声は、いつもの瀬名の声と、温度が、違った。
白凪は、引き金にかけた手を、外さなかった。
外せば、別働の退却が、止まる可能性があった。退却の途中で、向こうが、思い直して、また、前進する可能性があった。
射線を、外すのは、まだ、早い。
白凪は、構えのまま、答えた。
「はい」
「名取、止まりました」
言葉が、本陣の奥から、置かれた。
白凪は、その言葉を、聞いた。
聞いた瞬間、自分の中の何かが、止まった。
止まったが、引き金にかけた手は、外さなかった。
外せば、別働が、戻る可能性がある。
戻れば、九番が、抜かれる。
抜かれれば、芦森が、落ちる。
落ちれば、翠槇州が、抜ける。
抜ければ、後方が、削れる。
削れる側に、白凪が、入る、というのが、配置だった。
配置を、外すと、入る側が、増える。
白凪は、構えを、外さなかった。
「了解」
白凪は、答えた。
答えた声が、いつもより、低かった。
低いのは、喉が、半拍、遅れたからだった。
遅れたのは、息が、止まったから、ではなかった。
身体の中の、別の場所が、止まったから、だった。
止まった場所は、引き出しの、中の、ある場所だった。
その場所には、名取の紙片の湿りが、入っていた。
お前の、預かる、と、白凪が、名取に、告げた紙片だった。
預かったもの、が、戻すもの、に、変わる瞬間を、白凪は、構えの中で、迎えた。
迎えたが、構えは、外さなかった。
別働は、退き続けた。
退いた方向は、断尾嶺の正面だった。
主力に、合流する方向だった。
久我の双眼鏡が、その動きを、追った。
「鷹見軍曹」
「読め」
「別働、合流の方向。主力の動きは、変わりません」
「変わらない、というのは」
「南へ、ゆっくり。速度は、午前中と、同じ」
「了解」
鷹見は、それだけ答えた。
答えてから、白凪に、声を上げた。
「白凪」
「はい」
「射線、外していい」
「了解」
白凪は、引き金から、指を、離した。
離した瞬間、右手が、震えた。
震えは、いつもの震え、ではなかった。
止めようとして、握っても、止まらなかった。
握って、開いて、握って、開いた。
開くたびに、震えは、強くなった。
強くなった震えを、白凪は、もう、止められなかった。
止められないまま、本陣の奥に、向かった。
名取は、寝かされたまま、息を、していなかった。
止まっていなかったのは、戦闘が始まる前までだった。
戦闘の途中で、止まった。
止まった、というのは、戻らない、ということだった。
瀬名は、名取の脇に、座っていた。
座っているが、手は、動かしていなかった。
動かす理由が、なかった。
名取の額から、瀬名は、手を、離していた。
離した手は、瀬名の膝の上に、置かれていた。
置かれた手は、震えていなかった。
瀬名の手は、震えなかった。
「瀬名さん」
白凪は、声をかけた。
声は、低かった。
低いのは、夜の温度ではなかった。
喉の、半拍、遅れた場所から、出てきた声だった。
「白凪二等兵」
「いつ、止まりましたか」
「戦闘の、途中です」
「途中、というのは」
「戦闘が、始まって、少ししてから」
「気付いたのは」
「気付いた時には、もう、止まっていました」
瀬名は、それだけ答えた。
答え方が、事実を、置く、という言い方だった。
白凪は、その言い方を、引き出しに入れた。
入れる場所は、もう、決まっていた。
戻らない、という事実を、置く場所だった。
その場所には、まだ、何も、入っていなかった。
最初に、入ったのが、名取だった。
白凪は、名取の脇に、膝をついた。
ついた瞬間、震える右手を、自分の胸ポケットに、当てた。
当てた手の下、紙片が、まだあった。
湿った紙片だった。
白凪は、その紙片を、取り出した。
取り出す動きは、震えていた。
震えながら、紙片を、自分の手のひらに、置いた。
置いた紙片を、見た。
見たが、開かなかった。
開けば、中身が、見える。
中身を、見れば、家族の輪郭が、自分の中に、入る。
入れば、自分の中の、別の家族の輪郭と、重なる。
重なれば、白凪は、もう、構えていられなくなる。
構えていられなくなるのは、ここで、起こってはならないことだった。
起こしては、ならない。
起こさないために、開かない。
開かないことを、白凪は、選んだ。
白凪は、紙片を、名取の胸の上に、置いた。
置く動きは、震えていた。
震えながら、置いた。
置いた紙片の脇で、自分の手のひらを、わずかに、止めた。
止めた手は、震えていた。
戻すもの、を、戻した、ということだった。
戻したが、戻す相手は、ここには、いなかった。
ここではなく、後送便で、運ばれた先の、誰かが、受け取る。
受け取る誰かが、誰かは、白凪には、見えなかった。
見えないまま、置いた。
白凪は、名取の額に、手を、当てた。
当てた手は、震えていた。
震える手で、白凪は、名取の額の、温度を、確かめた。
温度は、まだ、わずかに、残っていた。
残っているが、戻ってはこない、温度だった。
白凪は、その温度を、自分の手のひらの中に、入れた。
入れたが、長く置かなかった。
長く置けば、自分の手のひらの中の、別の温度と、重なる。
重ねるのは、ここでは、ない。
ここでは、ない、というのが、白凪の、選択だった。
白凪は、手を、離した。
離した手は、震えていた。
震えを、止めなかった。
「瀬名さん」
白凪は、訊いた。
「はい」
「俺の、選択でした」
「白凪二等兵」
「俺が、別働を、止める側を、選びました」
「はい」
「俺が、瀬名さんの脇に、行く側を、選んでいたら」
瀬名は、答えなかった。
答えなかった時間の中で、瀬名は、白凪の右手を、見た。
見たが、何も、言わなかった。
言わなかった、というのが、訊くべきではない、という答えだった。
訊くべきではないのは、訊いても、答えが、変わらないから、だった。
答えは、もう、出ていた。
名取は、止まっていた。
止まったあとで、白凪が、選択を、変えても、戻らない。
戻らない以上、訊くのは、自分を、慰める動きだった。
慰める動きを、白凪は、するべきではなかった。
慰めずに、引き受ける、というのが、削れる側の、動きだった。
「白凪二等兵」
瀬名は、ようやく、答えた。
答え方は、いつもの瀬名の答え方では、なかった。
「あなたが、どちらを、選んでも」
「はい」
「名取は、止まっていました」
「止まっていた、というのは」
「戦闘が、始まる前から、ぎりぎりでした」
「ぎりぎり、というのは」
「朝、止まる可能性が、ありました。昼まで、保ったのが、私の、想定の上でした」
「俺が、瀬名さんの脇に、行っていても」
「変わりません」
瀬名は、それだけ答えた。
答え方が、慰める動きでは、ない、ということが、白凪に、分かった。
慰めるなら、答えは、別の答えだった。
慰めない、というのが、事実を、置く、ということだった。
事実を、置いた瀬名の答えを、白凪は、引き受けた。
引き受けたが、自分の選択で、名取が、死んだ、という認識は、消えなかった。
消えないのは、選んだ動き以外の動きが、頭の中に、まだ、並んでいたからだった。
頭の動きは、選択肢を、並べて、見せる。
見せた選択肢の中で、選ばなかった側を、後で、戻って、確かめる。
確かめる動きが、今、作動している。
白凪は、選んだ動きを、もう一度、見た。
別働を、止めた。
だが、名取を、救えなかった。
次に、選ばなかった動きを、見た。
水城に、射線を、渡す動きだった。
水城が、撃てたか。
撃てた可能性は、半分以下だった。
半分以下なら、九番が、抜かれた可能性が、高かった。
九番が、抜かれれば、芦森が、抜ける。
芦森が、抜ければ、翠槇州が、抜ける。
その動きは、もっと、多くを、削った。
瀬名側に、動く動きも、何もしない動きも、同じだった。
別働を止める動きが、最も、保たせる動きだった。
保たせる動きを、選んだ。
選んだ動きが、名取を、救えなかった。
最も保たせる動きが、名取を、救う動き、ではなかった。
その事実を、白凪は、引き受けた。
引き受けたが、引き受けた瞬間、白凪の右手の震えは、もう、止まらなくなった。
白凪は、立ち上がった。
立ち上がる動きは、震えていた。
震えながら、本陣の脇に、戻った。
戻った位置で、土嚢の影に、座った。
座って、両膝を、抱えた。
抱えた膝の上に、震える右手を、置いた。
置いたまま、止めなかった。
止めない、というのが、引き受けの、動きだった。
荒瀬が、本陣の脇から、白凪のほうへ、歩いてきた。
歩く速度は、夜の見張りに行った時より、少しだけ、速かった。
速いが、回復したから、ではなかった。
確かめるために、来た、ということだった。
荒瀬は、白凪の脇に、立った。
立ったが、座らなかった。
白凪の右手を、見た。
見たが、何も、言わなかった。
言わなかったのは、夜の見張りの時と、同じだった。
夜の見張りで、観測壕の手前で、二人とも、震えていた手を、お互いに、見ていた。
見たが、口にしなかった。
今、白凪は、震えている。
荒瀬は、震えていない。
だが、荒瀬の手も、上着の合わせの脇で、握られていた。
握っているから、震えていない。
夜の見張りの時と、同じ動きだった。
同じ動きの中で、二人は、何も、言わなかった。
「荒瀬さん」
白凪は、声を、低く、上げた。
「はい」
「俺が、選んだ側で、合っていましたか」
訊いた声が、震えていた。
震えていたが、白凪は、訊いた。
訊かなければ、自分の中で、答えが、組めなかった。
組めない答えを、引き受けるのは、まだ、早かった。
荒瀬は、しばらく、答えなかった。
答えなかった時間の中で、白凪の右手の震えは、止まらなかった。
「合っていた」
荒瀬は、ようやく、答えた。
「合っていた、というのは」
「お前が、別働を、止めた。九番は、保たれた。瀬名は、抱えたままで、保った」
「名取は」
「戦闘が、始まる前から、ぎりぎりだった」
荒瀬の答えは、瀬名の答えと、同じだった。
同じ答えが、二人から、置かれた。
二人から置かれた答えを、白凪は、引き出しに入れた。
入れる場所は、事実を置く場所だった。
事実を置く場所には、もう、二つ、入っていた。
名取が止まった、という事実。
白凪が選んだ側で、合っていた、という事実。
二つは、同じ場所に、並んだ。
並んだが、重ならなかった。
重ならない、というのが、選択は、合っていたが、名取は、戻らない、ということだった。
「白凪」
荒瀬は、続けた。
「はい」
「合っていた、ということは、削った、ということだ」
「削った、というのは」
「お前を、削った」
「俺を」
「お前の、震えが、止まらない、というのが、その答えだ」
荒瀬は、それだけ答えた。
答えてから、白凪の右手の上に、自分の右手を、置いた。
置いた荒瀬の手は、震えていなかった。
握っているから、震えていなかった。
握ったまま、白凪の手の上に、置かれた。
置かれた手の重さで、白凪の震えが、わずかに、止まった。
止まったが、止めたのは、重さであって、白凪の意志、ではなかった。
荒瀬は、しばらく、手を、置いたまま、いた。
いたあとで、手を、離した。
離した瞬間、白凪の右手は、また、震えた。
震えた。
止まらなかった。
「これが、削れる側の、動きだ」
荒瀬は、低い声で、言った。
「お前は、削れる側に、入った」
「入った、というのは」
「もう、戻らない」
言葉が、本陣の脇で、置かれた。
白凪は、その言葉を、引き出しに入れた。
入れる場所は、もう、決まっていた。
動機の場所の、中央だった。
動機の場所には、四つが、並んでいた。
使わなければ、お前以外が、削れる。
選ばなければ、全員が、削れる。
お前だ。
もう、戻らない。
荒瀬は、白凪の脇から、本陣の隅に、戻った。
戻る速度は、来た時より、遅かった。
遅いのは、白凪の手の上に、自分の手を置いた動きで、自分も、わずかに、削れた、ということだった。
白凪は、荒瀬の背中を、見送った。
見送ったあと、自分の右手を、見た。
右手は、震えていた。
震えていたが、止めなかった。
水城が、後方補給路の警戒から、戻ってきた。
「鷹見軍曹」
「読め」
「後方補給路、別働の動き、なし」
「了解」
「ですが、補修材料、まだ、来ていません」
「分かっている」
鷹見は、それだけ答えた。
答えてから、地図の前に、戻った。
戻った地図の上で、新しい線を、引いた。
引いた線は、九番の正面、左寄り、距離三百の位置から、断尾嶺への退却線だった。
退却線の根元には、白凪二等兵、と、書かれた。
書かれた、というのは、後方への報告で、判断者の名前を、残す、ということだった。
残った名前は、合っていれば、消える。
間違っていれば、残る。
今回の判断は、合っていた。
合っていた、というのは、別働を止めた、ということだった。
止めたが、名取が、止まった。
名取が止まった、というのは、戦闘の結果、ではなかった。
戦闘の前から、ぎりぎりだった。
ぎりぎりだったのが、戦闘の途中で、止まった。
戦闘の途中で止まったのは、戦闘の結果として、後方の記録に、残る。
残るが、白凪の選択の結果としては、残らない。
残らないが、白凪の中には、残る。
残るのが、削れる、ということだった。
白凪は、土嚢の影で、座っていた。
座って、震える右手を、膝の上に、置いていた。
置いた手の脇で、左手のひらに、名取の額の、温度が、まだ、残っていた。
残った温度を、白凪は、自分の中で、揃えた。
揃えた先に、配属の日の、誰かの手の温度が、あった。
補給品の包装紙を、揃えていた誰かの、急がない手の温度。
二つは、似ていた。
似ていたが、同じではなかった。
同じではないが、同じ場所から、出てきた温度だった。
温かい場所から、出てきた温度だった。
温かい場所が、どこかは、白凪には、まだ、見えなかった。
見えないが、ある、ことは、知っていた。
知っているから、保たせる。
保たせるために、削れる。
削れて、止まる。
止まる先は、まだ、見えなかった。
見えないが、止まる前に、保たせる。
保たせ続ける。
保たせ続けるあいだは、まだ、止まらない。
昼が、過ぎた。
名取の脇に、瀬名は、まだ、座っていた。
座っているが、布を、変える動きは、もう、なかった。
動きが、ないのが、戻らない、という事実の、置き方だった。
白凪は、瀬名の動きを、見ていなかった。
見ると、自分の手の震えが、強くなる。
強くなる震えを、止める手段は、もう、なかった。
止めない、というのが、引き受けの、動きだった。
「白凪」
鷹見が、本陣から、声を上げた。
「はい」
「夕方、略式の埋葬を、する」
「了解」
「お前が、立ち会え」
「了解」
鷹見は、それだけ答えた。
答えた声に、命令の温度は、なかった。
確かめている、温度だった。
白凪が、立ち会えるか、を、確かめていた。
確かめている、というのは、白凪が、削れ切る前か、後か、を、確かめている、ということだった。
白凪は、答えた。
答えた声は、低かった。
低かったが、震えていなかった。
震えていなかったのは、喉が、震える場所では、なかったから、だった。
震えるのは、右手だった。
右手は、まだ、震えていた。
震えながら、白凪は、夕方の埋葬を、待った。
待つあいだに、名取の紙片の上に、置いた手の感覚を、もう一度、確かめた。
確かめた感覚は、まだ、残っていた。
残った感覚を、白凪は、引き出しに入れた。
入れた場所は、動機の場所の、中央だった。
動機の場所には、もう、五つが、並んでいた。
使わなければ、お前以外が、削れる。
選ばなければ、全員が、削れる。
お前だ。
もう、戻らない。
保たせるために、削れる。
五つが、同じ方向を、指していた。
指している方向は、夕方の埋葬の、その先だった。
夕方が、近づいた頃、笹倉が、副線の端末から、声を上げた。
「鷹見軍曹」
「読め」
「副線、後方より。九番の判断、後方記録に、確認」
「九番の判断、というのは」
「昼の、別働の前進を、止めた、白凪二等兵の判断、です」
「了解」
「続けて、命令書の、追記が、来ています」
「読め」
「翠槇州、北部、防衛維持、継続。九番の判断、参考」
「参考、というのは」
「白凪二等兵の判断を、後方の判断の参考にする、という意味です」
言葉が、本陣の中で、置かれた。
白凪は、その言葉を、聞いた。
聞いたが、何も、感じなかった。
感じなかったのは、感じる場所が、もう、削れていたからだった。
削れていた場所に、新しい言葉が、入った。
白凪の判断を、後方が、参考にする。
参考にする、というのは、白凪が、後方の判断に、影響する、ということだった。
影響する、というのは、白凪の選択が、九番の外まで、届く、ということだった。
届く先は、まだ、見えなかった。
見えないが、届く。
届いた先で、白凪の選択が、誰かを、削るか、誰かを、保たせる。
その動きは、頭の中で動きが並列に並ぶ、あの動きと、同じ構造だった。
白凪は、その同じ構造を、引き出しに入れた。
入れる場所は、もう、決まっていた。
動機の場所の、中央だった。
動機の場所には、もう、六つが、並んでいた。
自分の選択が、九番の外まで、届く。
届く先で、誰かが、保たれる。
保たれる誰かが、誰かは、まだ、見えない。
見えないが、いる。
いるあいだは、保たせる。
夕方の光が、壕の入口から、入ってきた。
光は、薄かった。
薄い光の中で、瀬名が、ようやく、名取の脇から、立ち上がった。
立ち上がる動きは、午前中より、遅かった。
遅いのは、瀬名も、わずかに、削れた、ということだった。
削れた瀬名は、白凪のほうを、見た。
見たが、何も、言わなかった。
言わなかったのが、夕方の埋葬を、始める合図だった。
白凪は、立ち上がった。
立ち上がる動きは、震えていた。
震えながら、立ち上がった。
立ち上がった右手は、まだ、震えていた。
止まらない震えを、白凪は、もう、見ない、と、決めた。
決めて、夕方の光の中に、動いた。
動いた先で、保たせるために、削れる、という動機の、最初の確かめが、始まる。
始まる前に、白凪は、名取の紙片の上に、置いた手の感覚を、もう一度、確かめた。
確かめた感覚は、震える右手の中に、まだ、残っていた。
残ったまま、夕方が、来た。




