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第4章 第六部 言語

第六部 言語

 夕方の光が、九番の入口から、薄く、入ってきた。

 光は、曇天の下を、一度通り抜けてから、来ていた。だから、色は、灰色に近かった。

 白凪は、立ち上がった。

 立ち上がった右手は、まだ、震えていた。

 震えを、見ない、と、白凪は決めていた。

 決めたが、見ないだけで、震えは、止まらなかった。


「白凪」

 鷹見が、本陣から、声を上げた。

「はい」

「埋葬は、壕の脇だ」

「了解」

「深くは、掘らない」

「了解」

「水城、土を、掘る」

「了解」

「瀬名、名取の、布を、巻き直せ」

「了解」

「白凪、お前は、運ぶ側だ」

「了解」

 鷹見の指示は、短かった。

 短いのは、命令の温度が、抑えられていたから、ではなかった。

 埋葬を、作業として、扱う、という温度だった。

 作業として扱うのは、それ以外の扱い方が、ここでは、できなかったから、だった。

 壕の脇の土は、深くは、掘れない。

 深く掘れないのは、土の下に、副線の埋設線が、走っているからだった。

 副線を、傷つければ、後方との連絡が、切れる。

 切れれば、九番が、抜かれた時に、後方が、知るのが、遅れる。

 遅れれば、芦森が、削れる。

 削れれば、翠槇州が、抜ける。

 名取の埋葬の深さは、その連鎖の中で、決められていた。

 決められていることを、白凪は、引き受けた。

 引き受けた、というのが、埋葬を、作業として、扱う、ということだった。


 水城は、壕の脇に、出た。

 脇に出た、というのは、入口の外、土嚢の積み上がっていない、わずかな空間だった。

 その空間に、水城は、シャベルを、入れた。

 シャベルの音は、湿った土を、切る音だった。

 切る、というのが、深くは、掘らない、という指示の中の、唯一の動きだった。

 水城は、土を、横に、寄せた。

 寄せた土は、シャベル一杯分が、何度か、繰り返されただけだった。

 深さは、人の膝の半分も、なかった。

 半分もない深さに、名取を、寝かせる。

 寝かせるのが、白凪の役目だった。


 瀬名が、本陣の奥で、名取の布を、巻き直していた。

 巻き直す、というのは、新しい布を、巻く、ということでは、なかった。

 今、名取の身体に、巻かれている布を、ほどいて、もう一度、巻く、ということだった。

 ほどく動きの中で、瀬名は、名取の傷の状態を、確認していた。

 確認していた、というのは、戦闘の途中で、止まった理由を、確かめていた、ということだった。

 確かめても、戻らない。

 戻らないが、確かめる。

 確かめる、というのが、瀬名の役目だった。

 確かめが終わった時、瀬名は、白凪を、呼んだ。

「白凪二等兵」

「はい」

「巻き直しました」

「了解」

「運んでください」

「了解」

 白凪は、名取の脇に、膝を、ついた。

 ついた瞬間、左手のひらに、温度が、入ってきた。

 温度は、もう、戻らない、温度だった。

 戻らないが、まだ、わずかに、残っていた。

 残った温度を、白凪は、自分の手のひらの中に、入れた。

 入れたが、長く、置かなかった。

 長く、置けば、別の温度と、重なる。

 重なるのは、ここでは、ない。

 ここではない、というのが、まだ、続いていた。


 白凪は、名取を、抱えた。

 抱える動き、というのは、両腕で、名取の身体を、持ち上げる動きだった。

 持ち上げた瞬間、名取の身体は、軽かった。

 軽い、というのは、配属の日に、白凪が、名取と並んで立った時の名取の体格より、軽かった、ということだった。

 軽くなったのは、戦闘の途中で、止まったから、ではなかった。

 戦闘の前から、削れていたから、だった。

 削れていた、というのは、瀬名が、抱え続けた数日間で、名取の身体が、わずかずつ、減っていた、ということだった。

 減ったまま、止まった。

 止まった重さを、白凪は、抱えていた。

 抱えながら、自分の右手の震えが、止まっていることに、気付いた。

 止まったのは、抱える動きの中で、震える筋肉が、別の動きに、置き換わったからだった。

 置き換わった動きは、震えではなかった。

 だが、震えと、同じ場所から、出てきた動きだった。

 白凪は、その置き換わりを、引き出しに入れた。

 入れる場所は、動機の場所の隣だった。


 白凪は、名取を、壕の入口の外まで、運んだ。

 運ぶあいだ、瀬名が、白凪の脇を、歩いていた。

 歩いていたのは、名取の足元の布が、ずれないように、押さえていたからだった。

 押さえる手の動きは、ゆっくりだった。

 ゆっくりなのは、急ぐ理由が、なかったから、だった。

 急がない手の動きだった。

 急がない手の動きを、白凪は、知っていた。

 配属の日に、誰かが、白凪に、厚紙を渡した時の、紙の角を撫でた手の動き。

 補給品の包装紙を、揃えていた誰かの、急がない手の動き。

 手紙を書こうとして、紙の角を、揃えた、白凪自身の指の動き。

 全部が、同じ場所から、出てきた動きだった。

 温かい場所から、出てきた動きだった。

 今、瀬名の手の動きが、その同じ場所から、出てきていた。

 白凪は、その重なりを、引き出しに入れた。

 入れる場所は、まだ、決まらなかった。

 決まらないまま、運んだ。


 壕の脇の、浅い穴の前で、白凪は、名取を、寝かせた。

 寝かせる動きは、ゆっくりだった。

 ゆっくりだったのは、瀬名の手の動きと、同じ速度に、合わせたからだった。

 合わせた、というのは、選んだ、ということではなかった。

 身体が、合わせていた、ということだった。

 合わせている身体を、白凪は、止めなかった。

 止めない、というのが、引き受けの、動きだった。

 名取は、浅い穴の中に、寝かされた。

 寝かされた名取の胸の上に、紙片が、置かれていた。

 お前の、預かる、と、白凪が、告げた紙片だった。

 紙片は、戦闘のあとで、白凪が、名取の胸の上に、置いた。

 置いた紙片を、白凪は、もう一度、見た。

 見たが、開かなかった。

 開けば、中身が、見える。

 中身は、名取の家族の、輪郭だった。

 輪郭が、白凪の中に、入れば、自分の中の、別の輪郭と、重なる。

 重なれば、白凪は、もう、構えていられなくなる。

 構えていられなくなれば、保たせられない。

 保たせられなければ、芦森が、削れる。

 削れれば、翠槇州が、抜ける。

 抜ければ、後方の、温かい場所が、削れる。

 だから、開かない。

 開かないことを、白凪は、選んだ。

 選んだ動きが、白凪の、答えだった。


 白凪は、紙片を、名取の胸の上から、わずかに、ずらした。

 ずらした先は、名取の脇だった。

 脇に置いた、というのは、紙片を、名取の身体と、別の位置に、置いた、ということだった。

 別の位置に置いたのは、紙片が、名取の身体と、一緒に、土の下に、入る、ということだった。

 名取の身体は、土の下に、入る。

 紙片も、土の下に、入る。

 二つは、同じ場所に、入る。

 同じ場所に、入っても、紙片の中身は、白凪は、見ない。

 見ないまま、土の下に、入る。

 入った先で、紙片の中身は、誰にも、読まれない。

 読まれない、というのが、白凪の選択だった。

 選択は、紙片の中身を、戻す相手の代わりに、自分が、預かったまま、置く、ということだった。

 戻す相手は、ここには、いない。

 ここではなく、後方の、どこかにいる。

 どこかにいる相手のところまで、紙片は、届かない。

 届かないまま、土の下に、入る。

 入った紙片の重さを、白凪は、自分の中に、預かったまま、置いた。

 置いた重さは、引き出しの中の、ある場所に、入った。

 その場所には、もう、別の重さが、入っていた。

 配属の日に、誰かが、白凪に渡した、厚紙の重さ。

 補給品の包装紙の重さ。

 荒瀬を押さえた左手の感覚。

 名取の額の、戻らない温度。

 白凪が書いた一行の、紙の薄さ。

 全部が、同じ場所に、入った。


 水城が、シャベルで、土を、戻し始めた。

 戻す動きは、速くなかった。

 速くないのは、急ぐ理由が、なかったから、だった。

 戻された土は、名取の身体の上に、薄く、被さった。

 薄く、というのは、深く掘っていない以上、深く被せられない、ということだった。

 被せられた土の上を、水城は、シャベルの背で、軽く、押さえた。

 押さえる動きの後、水城は、シャベルを、外した。

 外して、白凪を、見た。

 見たが、何も、言わなかった。

 言わなかったのが、埋葬の終わり、ということだった。

 白凪は、頷いた。

 頷いて、しばらく、土の上を、見ていた。

 見ているあいだ、瀬名は、白凪の脇に、立っていた。

 立っていたが、何も、言わなかった。

 言わなかったのが、瀬名の、答えだった。


 鷹見が、壕の入口から、出てきた。

 出てきた鷹見は、白凪の脇に、立った。

「白凪」

「はい」

「この土の場所は、地図に、載らない」

「載らない、というのは」

「ここに、名取が、いる、ということを、後方は、知らない」

「後送便で、報告は、出ますか」

「出る。だが、報告には、どこに埋めたか、は、書かれない」

「書かれない、というのは」

「書く必要が、ない、ということだ」

 鷹見は、それだけ答えた。

 答えてから、白凪を、見た。

 見たが、白凪の顔ではなかった。

 白凪の右手だった。

 白凪の右手は、震えていた。

 震えていたが、白凪は、止めなかった。

 止めない、というのを、鷹見も、見ていた。

 見たが、何も、言わなかった。

 言わなかったのが、鷹見の、答えだった。


 鷹見は、壕の中に、戻った。

 戻る背中は、いつもの鷹見の背中と、同じだった。

 同じだったが、何かを、確かめた背中だった。

 確かめたのは、白凪が、まだ、削れ切っていない、ということだった。

 削れ切っていない以上、白凪は、まだ、動ける。

 動けるあいだは、白凪は、ここに、いる。

 ここにいる白凪を、鷹見は、確かめた。

 確かめてから、戻った。

 戻った背中の動きを、白凪は、見送った。

 見送ってから、自分も、壕の中に、戻った。

 戻る前に、もう一度、土の上を、見た。

 土の上には、印は、なかった。

 印を、立てない、というのが、深く掘らない、ということと、同じ意味だった。

 いる、ということを、ここに、残さない。

 残さないが、白凪の中には、残った。

 残ったまま、白凪は、戻った。


 夜が、近づいていた。

 壕の中の音は、いつもの夕方より、少なかった。

 少ないのは、名取が、いない、ということだった。

 名取は、戦闘では、動かなかった。

 動かない名取が、瀬名の脇に、いた。

 いたが、いなくなった。

 いなくなった分の、空気の量が、壕の中で、減っていた。

 減ったのは、空気だけではなかった。

 動かない兵が、いた、という事実が、壕の中から、抜けた。

 抜けた事実の代わりに、戻らない、という事実が、入った。

 戻らないが、入った場所には、まだ、空気が、残っていた。

 残った空気を、白凪は、息と一緒に、吸った。

 吸った息は、いつもの夕方より、薄かった。

 薄い息のまま、白凪は、本陣の脇に、戻った。

 戻った位置で、土嚢の影に、座った。

 座った膝の上に、震える右手を、置いた。

 置いた手は、まだ、震えていた。


 夜が、来た。

 来たが、別働は、出なかった。

 久我の双眼鏡は、断尾嶺の方向に、向いたままだった。

 主力は、まだ、南へ、動き続けていた。

 南、というのは、芦森補給廠の方向だった。

 南へ、動き続けている、ということは、向こうも、削っているのだ、と、白凪は、引き出しの中で、確かめた。

 確かめたが、口には、しなかった。


「白凪」

 鷹見が、本陣から、声を上げた。

「はい」

「今夜の見張り、お前だ」

「了解」

「朝までの、後半」

「了解」

「一人で、立て」

「一人、ですか」

「荒瀬を、休ませる」

「了解」

「久我は、観測壕で、構えたままだ。お前は、観測壕の手前、本陣の脇、両方を、見ろ」

「了解」

 鷹見は、それだけ答えた。

 答えてから、本陣の隅に、戻った。

 戻った隅で、目を、閉じた。

 目を閉じたが、寝ない。

 寝ない、というのが、鷹見の、見張りの形だった。

 白凪は、立ち上がった。

 立ち上がる動きは、震えていた。

 震えながら、立ち上がった。


 夜の見張りの位置は、観測壕の手前と、本陣の脇の、両方を、見渡せる場所だった。

 白凪は、その位置で、銃を、構えた。

 構えた瞬間、右手の震えは、止まった。

 止まったが、構えを外せば、また、震える。

 震える時間が、増えていく。

 増えていく分だけ、自分が、削れていく。

 その認識は、もう、引き出しの中の、見慣れた場所に、あった。

 あるから、白凪は、見なかった。

 見ないまま、構えのまま、夜の中に、立った。


 夜の壕の中は、静かだった。

 砲声は、近くなかった。

 遠くで、ときどき、土が落ちる音が、した。

 土が落ちる音は、戦闘ではなかった。

 夜のあいだに、地形が、動いている音だった。

 動いている地形を、明日の朝、久我が、双眼鏡で、確認する。

 確認した変化を、笹倉が、副線で、後方に伝える。

 その繰り返しが、明日も、続く。

 続くあいだは、九番は、保たれている。

 保たれている、というのが、今、白凪が、立っている場所の意味だった。


 夜が、半分、過ぎた。

 壕の上の空に、星は、なかった。

 曇天だった。

 曇天の下で、白凪は、構えのまま、立っていた。

 立っているあいだ、頭の中の動きが、ゆっくり、組み始めた。

 組み始めたのは、戦闘の動きでは、なかった。

 自分の中の、言葉を、組み始めた動きだった。

 組み始めた言葉は、まだ、輪郭が、なかった。

 輪郭は、ないが、動機の場所の中央に、並んでいた六つが、わずかに、動いた。

 動いた六つを、白凪は、自分の中で、見た。

 使わなければ、お前以外が、削れる。

 選ばなければ、全員が、削れる。

 お前だ。

 もう、戻らない。

 保たせるために、削れる。

 自分の選択が、九番の外まで、届く。

 六つが、同じ方向を、指していた。

 指している方向の、先に、何があるかは、まだ、見えなかった。

 見えないが、指している先に、言葉が、ある、と、白凪は、感じていた。

 感じている言葉を、白凪は、自分の中で、組もうとした。


 組もうとして、最初に、出てきた言葉は、生きるために、保たせる、だった。

 配属の日に、白凪が、漠然と、持っていた言葉だった。

 生きるために、ここに、来た。

 生きるために、命令を、聞いた。

 生きるために、走った。

 生きるために、引き金を、引いた。

 生きるために、保たせた。

 保たせる、というのは、生きるための、手段だった。

 手段だったから、保たせる順番は、生きるの後だった。

 生きる→保たせる。

 その順番が、配属の日の、白凪の中に、あった。

 あったが、今、その順番は、もう、白凪の中に、なかった。

 なかった、というのが、夜の見張りの中で、白凪が、認識したことだった。


 順番は、変わっていた。

 いつ、変わったかは、はっきりとは、見えなかった。

 見えないが、変わっていた。

 変わった先の順番を、白凪は、自分の中で、組み直した。

 組み直した順番は、こうだった。

 保たせるために、生きる。

 保たせる、が、先に、来る。

 生きる、は、後に、来る。

 生きる、というのは、保たせるための、手段だった。

 手段だから、生きるの順番は、保たせるの後だった。

 保たせる→生きる。

 その順番が、今、白凪の中に、あった。

 あったが、白凪は、その順番を、まだ、口には、しなかった。

 口にしないまま、自分の中で、確かめた。


 確かめた言葉は、こうだった。

 保たせるために、生きる。

 生きるために、保たせるではない。

 保たせるために、生きる。

 二つは、同じ言葉の、順番違いだった。

 だが、順番が違うだけで、向いている方向は、まったく違った。

 配属の日の白凪が、立っていた場所は、生きるために、保たせる、の場所だった。

 今、白凪が、立っている場所は、保たせるために、生きる、の場所だった。

 二つの場所は、同じ九番の中だった。

 同じ九番の中で、白凪は、立っている場所を、変えていた。

 変えた場所から、白凪は、夜の壕の中を、見ていた。

 見えるものは、配属の日と、同じだった。

 土嚢の影。

 副線の端末。

 地図の前の、鷹見の背中。

 観測壕の中の、久我の双眼鏡。

 本陣の奥の、瀬名の動き。

 水城の、踏み板の脇に、置かれたシャベル。

 笹倉の、副線の応答の声。

 全部が、配属の日と、同じだった。

 同じだが、白凪の立っている場所が、違う。

 違うから、見え方が、違っていた。

 違って、見えていた。


 保たせる、のは、ここだった。

 ここ、というのは、九番だった。

 九番が、保たれれば、その後ろの、芦森補給廠が、保たれる。

 芦森補給廠は、配属の日に、宇野が、白凪に、教えた地名だった。

 ここが、抜かれたら、芦森が、落ちる。

 宇野の声が、引き出しから、出てきた。

 出てきた声を、白凪は、押さえなかった。

 押さえずに、続きを、自分の中で、組んだ。

 芦森補給廠が、保たれれば、その後ろの、翠槇州が、保たれる。

 翠槇州は、今日の昼に、鷹見が、白凪に、教えた地名だった。

 ここが、翠槇州だ。

 お前らが、いる、九番の、南。そこに、向こうも、こちらも、欲しがってる地域が、ある。

 鷹見の声が、引き出しから、出てきた。

 出てきた声を、白凪は、押さえなかった。

 押さえずに、続きを、自分の中で、組んだ。

 翠槇州が、保たれれば、その後ろの、後方の地面が、保たれる。

 保たれた、というのは、戦争の湿気が、入らない、ということだった。

 戦争の湿気、というのは、土が、削れる音や、夜のあいだに動く地形の音や、命令書の言葉の温度や、そういうものだった。

 それが、入らない地面が、後方だった。

 後方の地面の上に、家族の輪郭が、あった。


 家族の輪郭。

 その言葉を、白凪は、初めて、自分の中で、組んだ。

 組んだ、というよりは、ずっと、自分の中に、あった輪郭が、初めて、形を、取った、ということだった。

 形を取った輪郭は、続柄でも、人数でも、地名でも、台詞でもなかった。

 急がない手の動きだった。

 厚紙の角を撫でた手。

 包装紙を揃えた手。

 判の押された通知の角を撫でた誰かの手。

 白凪が、紙の角を、揃えた、自分の指の動き。

 名取の足元の布を、ずらさないように押さえた瀬名の手。

 全部が、同じ場所から、出てきた手の動きだった。

 温かい場所から、出てきた手の動きだった。

 その温かい場所が、後方の地面の上に、あった。

 あるあいだは、削らせない。

 削らせないために、保たせる。

 保たせるのは、白凪の役目だった。


 役目を、白凪は、まだ、口には、しなかった。

 口にしないまま、もう一段、組んだ。

 保たせるために、生きる。

 生きるためには、白凪自身が、削れない側に、いなければ、ならない。

 だが、白凪は、もう、削れる側に、入っていた。

 入った、というのが、荒瀬の言葉だった。

 お前は、削れる側に、入った。

 もう、戻らない。

 戻らないなら、削れる。

 削れるなら、いつか、削り切る。

 削り切る前に、保たせる。

 削り切るまで、保たせる。

 その言葉を、白凪は、自分の中で、組んだ。

 組んだ言葉は、動機の場所の、中央に、置かれた。

 置かれた瞬間、動機の場所には、もう、七つが、並んだ。

 使わなければ、お前以外が、削れる。

 選ばなければ、全員が、削れる。

 お前だ。

 もう、戻らない。

 保たせるために、削れる。

 自分の選択が、九番の外まで、届く。

 削り切るまで、保たせる。

 七つは、同じ方向を、指していた。

 指している方向は、白凪自身だった。


 白凪自身が、削り切る。

 削り切るのは、いつかは、分からなかった。

 今夜かもしれないし、明日かもしれないし、明後日かもしれないし、もっと先かもしれなかった。

 先、というのが、見えなかった。

 見えないのは、配属の日から、変わっていなかった。

 配属の日の白凪は、明日が、見えなかった。

 今、白凪は、削り切る日が、見えなかった。

 二つは、似ていた。

 似ていたが、同じではなかった。

 配属の日の白凪は、見えない明日に、生かされていた。

 今、白凪は、見えない削り切る日まで、自分を、使う。

 使う、というのが、保たせる、ということだった。

 削り切ったら、その時は、その時だ。

 その言葉も、白凪は、自分の中で、組んだ。

 組んだ言葉は、動機の場所の、中央の、一番下に、置かれた。

 置かれた瞬間、動機の場所には、八つが、並んだ。

 八つの言葉が、白凪の中で、整列した。


 整列した言葉を、白凪は、もう一度、見た。

 見ている自分の中で、これが、何かは、まだ、分からなかった。

 分からないが、自分の動機の、形であることは、分かった。

 形を、白凪は、認めた。

 認めたが、口には、しなかった。

 口にすると、戻れなくなる。

 戻れなくなる、というのは、配属の日の白凪に、戻れなくなる、ということだった。

 配属の日の白凪は、生きるために、保たせる側にいた。

 今の白凪は、保たせるために、生きる側に、いた。

 二つは、別の場所だった。

 別の場所に、立っている。

 立っているが、口にしなければ、まだ、戻れる気が、する。

 口にすれば、戻れない。

 戻れないことを、白凪は、知っていた。

 知っていたから、口には、しなかった。

 口にしないまま、形を、抱えた。


 夜の見張りの後半が、進んだ。

 壕の中の音は、減っていた。

 減ったが、ゼロでは、なかった。

 水城の踏み板の音が、ときどき、聞こえた。

 夜のあいだに、踏み板が、ずれた場所を、水城が、押し戻していた。

 押し戻す動きは、ゆっくりだった。

 ゆっくりなのは、急ぐ理由が、なかったから、だった。

 急がない手の動きが、夜のあいだにも、続いていた。

 続いている動きの中で、白凪は、自分の動機を、もう一度、確かめた。

 確かめた動機は、変わらなかった。

 変わらないまま、八つが、並んでいた。


 夜の終わりが、近づいた頃、笹倉が、副線の端末から、声を、低く、上げた。

「白凪二等兵」

「はい」

「副線、後方より、応答」

「読みますか」

「いえ」

「読まない、というのは」

「朝の鷹見軍曹に、伝えます」

「了解」

 笹倉は、それだけ言って、副線の端末の脇に、座った。

 座って、応答の言葉を、紙に、書き写していた。

 書き写す手の動きは、いつもの笹倉の動きより、遅かった。

 遅いのは、夜の温度のせいだった。

 夜の温度の中で、笹倉の手も、震えているのが、白凪には、見えた。

 震えは、白凪の右手の震えと、同じ場所から、出てきた震えだった。

 笹倉は、戦闘職では、なかった。

 通信の兵だった。

 通信の兵の手も、震えていた。

 震えていることを、笹倉は、口にしなかった。

 白凪も、口にしなかった。

 口にしないことが、二人の答えだった。


 夜の見張りの中で、白凪は、もう一度、自分の中の、言葉の整列を、見た。

 八つは、まだ、並んでいた。

 並んでいる言葉の、上の方に、ある言葉が、置かれていた。

 保たせるために、生きる。

 その言葉は、白凪が、自分の中で、組んだ言葉だった。

 組んだが、まだ、口には、していなかった。

 口にしていない以上、その言葉は、白凪の中だけに、ある言葉だった。

 白凪の中だけにある言葉は、まだ、責任、ではなかった。

 責任、という言葉を、白凪は、知っていた。

 知っていたが、自分の動機を、責任、とは、呼ばなかった。

 呼ばないのは、呼ぶ言葉を、まだ、持っていないから、だった。

 持っていない、というのは、責任、という言葉が、白凪の動機の形と、まだ、合っていない、ということだった。

 合っていないのは、責任、という言葉が、もっと、別の重さを、持っていたから、だった。

 別の重さが、何かは、白凪には、まだ、見えなかった。

 見えないが、動機が、形を取った後に、来る重さであることは、分かった。

 来る重さを、白凪は、待った。

 待つ、というのが、夜の見張りの後半の、動きだった。


 空の色が、わずかに、変わり始めた。

 明け方が、近かった。

 久我の双眼鏡は、断尾嶺の方向に、向いたままだった。

 主力の動きは、夜のあいだも、変わらなかった。

 変わらないのが、向こうの、揃った速度だった。

 白凪は、構えのまま、明け方の光を、待った。

 待つあいだ、自分の動機を、もう一度、口の中で、確かめた。

 確かめたが、声には、出さなかった。

 声に出さない、というのが、まだ、戻れるかもしれない、と、自分に対して、許している、ということだった。

 許しているのは、自分の中の、配属の日の白凪、だった。

 配属の日の白凪は、まだ、白凪の中に、わずかに、残っていた。

 残っている分、白凪は、声に、出さなかった。

 出さないまま、明け方を、待った。


「白凪」

 鷹見の声が、本陣の隅から、来た。

 声は、低かった。

 低いが、目を、開けていた。

「はい」

「朝までの、見張り、ご苦労」

「いえ」

「何か、あったか」

「ありません」

「了解」

 鷹見は、それだけ答えた。

 答えてから、立ち上がった。

 立ち上がる速度は、夜の前より、ゆっくりだった。

 ゆっくりなのは、鷹見も、夜のあいだに、わずかに、削れた、ということだった。

 削れた鷹見は、白凪の脇に、来た。

 来て、白凪の右手を、見た。

 見たが、何も、言わなかった。

 言わなかったのが、鷹見の、答えだった。


「白凪」

「はい」

「お前、変わったか」

 訊かれた。

 白凪は、答えに、詰まった。

 詰まったのは、答えがない、ということでは、なかった。

 答えを、口にする手順が、組めていない、ということだった。

 組めていないのは、口にすると、戻れなくなるから、だった。

 戻れなくなることを、白凪は、まだ、引き受けていなかった。

 引き受けていない以上、答えは、口にしなかった。

「分かりません」

 白凪は、答えた。

 答えた声は、低かった。

「分からない、というのは」

「変わったかは、自分では、見えていません」

「そうか」

 鷹見は、それだけ答えた。

 答え方が、納得した、という温度では、なかった。

 確かめた、温度だった。

 確かめた、というのは、白凪が、まだ、口に、出していない、ということを、鷹見が、確かめた、ということだった。

 口に出していない、というのは、まだ、戻れる側に、わずかに、いる、ということだった。

 わずかにいる側を、鷹見は、確かめた。

 確かめてから、頷いた。

「了解」

 鷹見は、それだけ言って、本陣の地図の前に、戻った。

 戻った地図の上に、新しい線は、引かれなかった。

 引かれなかったのは、夜のあいだに、別働が、出なかった、ということだった。

 出なかった、というのは、今日、出る、ということだった。

 白凪は、その読みを、引き出しに入れた。

 入れる場所は、今日の判断のための場所だった。


 明け方の光が、壕の入口から、入ってきた。

 光は、薄かった。

 薄い光の中で、瀬名が、本陣の奥から、立ち上がった。

 立ち上がった瀬名は、新規負傷者の脇に、戻っていた。

 名取は、もう、いなかった。

 いない名取の場所に、瀬名は、戻らなかった。

 戻らない、というのが、戻らない、という事実の、置き方だった。

 白凪は、瀬名の動きを、見ていた。

 見ているあいだ、自分の右手の震えが、戻っていた。

 戻った震えを、白凪は、止めなかった。

 止めない、というのが、引き受けの、動きだった。


 動機は、言葉に、なった。

 言葉になったが、まだ、責任、ではなかった。

 責任、と、呼ぶには、白凪は、もう一段、動かなければ、ならなかった。

 その、もう一段、が、何かは、まだ、白凪には、見えていなかった。

 見えていないまま、白凪は、見張りの時間の、終わりを、待った。

 待っている朝が、来る前に、もう一度、何かが、起きる。

 起きる時間は、まだ、見えていなかった。

 見えていないが、起きる。

 起きた時に、白凪は、動く。

 動くために、ここに、いる。

 いる、というのが、削れる側に、入った、ということだった。

 入ったまま、白凪は、明け方の光の中に、立っていた。

 立っている右手は、まだ、震えていた。

 震えていたが、構えていた。

 構えていた手の重さが、配属の日の重さとは、違っていた。

 違いを、白凪は、もう、認めていた。

 認めたが、口には、しなかった。

 口にしないまま、明け方の光が、壕の中に、広がった。

 広がった光の中で、九番は、まだ、保たれていた。

 保たれている、というのが、今、白凪が、立っている場所の意味だった。




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