第4章 第四部 世代
第四部 世代
夜が、半分、過ぎた。
白凪は、目を開けた。
眠っていたかは、分からなかった。
夜のあいだに、身体は、動かなかった。動こうとして、動かなかった、ではない。動こうとする動きが、止まっていた。
止まっていたのは、書いた、という事実が、置き場所を、作ったからだった。
置き場所ができた身体は、夜のあいだに、わずかに、休んだ。
休んだ、というのが、寝た、ということでは、なかった。
だが、夜の前より、息の間隔は、整っていた。
壕の中の音は、少なかった。
水城の踏み板の音は、ない。
笹倉の副線の応答の声も、ない。
久我の双眼鏡の動く音も、聞こえなかった。
聞こえる音は、本陣の奥で、瀬名が、布を変える音だけだった。
布を変える間隔は、午前中より、短くなっていた。
短いのは、名取の容態が、また、一段、下がったからだった。
白凪は、瀬名の動きを、目で追わなかった。
追うと、布の音の数が、頭の中に、入ってくる。入った数を、白凪は、勝手に、計算し始める。計算が、並列展開を、作動させる。
作動を、避ける動きを、白凪は、また、選んでいた。
選んでいる、ということを、白凪は、もう、引き出しに入れなかった。
入れる場所は、もう、決まっていた。
代償、という場所だった。
「白凪」
声が、本陣の隅から、来た。
低い。だが、聞き慣れた声だった。
荒瀬だった。
白凪は、土嚢の影から、首だけを動かした。
荒瀬は、本陣の隅で、座っていた。
昨日の夕方まで、目を閉じて、寝かされていた位置から、半歩、動いていた。
動いた、ということは、動けるようになった、ということだった。
「荒瀬さん」
白凪は、答えた。
答えた声が、いつもより、低かった。
低いのは、夜の温度だった。
「見張り、お前か」
「次の番です」
「俺も、出る」
「動けるんですか」
「動ける」
荒瀬は、それだけ答えた。
答えてから、上着の合わせを、確かめた。脇腹の布は、夕方の交換から、半日経って、色を変えていた。色は、暗かった。だが、滲み方は、止まっていた。
「瀬名さんに、許可は」
「取った。短い時間なら、いい、と」
「了解」
白凪は、立ち上がった。
立ち上がるときに、右手が、震えた。
震えを、白凪は、握って、止めた。
止めた手で、銃を、構え直した。
構えた瞬間、震えは、消えた。
消えるのは、握ったから、ではなかった。
構える、という動きが、震えと同じ場所から、出てきていた。
白凪は、その重なりを、引き出しに、入れた。
入れる場所は、代償の隣だった。
観測壕の手前まで、白凪と荒瀬は、二人で、動いた。
動く速度は、荒瀬が、決めた。
決めた速度は、配属の日の、半分以下だった。
半分以下、というのは、荒瀬の脇腹が、まだ、痛む、ということだった。
白凪は、その速度に、合わせた。
合わせる、というのが、難しかった。
白凪の身体は、もう、その速度を、知らなかった。
知らないが、合わせた。
合わせる動きは、白凪の指が、紙の角を揃えた動きと、同じ場所から、出てきた。
急がない、という動きだった。
観測壕の手前に、二人で、立った。
立った位置は、白凪が、いつも引き金にかける位置と、同じだった。
その位置の脇に、荒瀬が、座った。
座った荒瀬の右手は、土嚢の縁に、置かれていた。
置かれた手は、震えていなかった。
白凪の右手は、銃の構えの中に、入れていた。
入れたまま、震えは、出なかった。
二人とも、震えていなかった。
だが、白凪は、自分の手が、構えを外した瞬間に、震えることを、知っていた。
荒瀬の手も、たぶん、土嚢の縁から離した瞬間に、何かが、起こる。
何が、起こるかは、白凪には、見えなかった。
見えないが、起こる側の手だった。
夜の壕の中は、静かだった。
砲声は、近くなかった。
遠くで、ときどき、断尾嶺の方向に、土が落ちる音がした。
土が落ちる音は、戦闘ではなかった。夜のあいだに、地形が、動いている音だった。
動いた地形を、明日の朝、久我が、双眼鏡で、確認する。
確認した変化を、笹倉が、副線で、後方に伝える。
その繰り返しが、明日の朝にも、続く。
続くあいだは、九番は、保たれている。
保たれている、というのが、今の白凪の、立っている場所の意味だった。
「白凪」
荒瀬が、口を開いた。
声は、低かった。だが、いつもの荒瀬の声だった。
「はい」
「お前、徴兵か」
「はい」
「いつ、来た」
「今年の春です」
「春、というのは」
「三月の終わり、です」
荒瀬は、それだけ聞いて、頷いた。
頷いた、というのは、答えを受け取った、ということだった。
受け取って、しばらく、何も言わなかった。
白凪も、訊かなかった。
訊かなかったのは、訊くべきではない、と、思ったから、ではなかった。
訊く順番が、まだ、来ていない、と、感じたからだった。
順番が来るまで、白凪は、構えを、外さなかった。
外さない手は、震えなかった。
「俺は」
荒瀬が、続けた。
「志願だ」
「いつ、ですか」
「最初の年だ」
「最初の年、というのは」
「お前らが、徴兵で来るようになる、何年か前だ」
白凪は、その「何年か」を、引き出しに入れた。
入れたが、すぐに、別の場所に動かした。
動かしたのは、その「何年か」の中身を、訊くべきではない、と、感じたからだった。
感じた、というよりは、荒瀬の声の温度が、訊かせなかった。
「最初は」
荒瀬が、続けた。
「俺と、同じ年に来たやつが、隊に、何人もいた」
「はい」
「同じ年、というのは、同じ志願の年、という意味だ」
「はい」
「その何人かは、最初の冬で、半分になった」
「半分、というのは」
「死んだ、半分」
荒瀬は、それだけ言った。
断定しない、とは、言わなかった。
言わなかったのは、もう、断定する以外の言い方が、できない、ということだった。
白凪は、その言い方の温度を、引き出しに入れた。
入れた場所は、宍倉が「いない。今は」と言った時の、温度の隣だった。
「次の年」
荒瀬が、また、続けた。
「来たのは、最初の年より、少なかった」
「はい」
「その次の年は、もっと、少なかった」
「はい」
「その次の次の年は、来る奴が、来なくなった」
「はい」
「来なくなったのは、来る奴が、いなくなったから、ではない」
「では」
「志願する、という選び方が、減った」
白凪は、その「減った」を、宍倉の「枯れた」と、重ねた。
二人の言い方は、違った。
違っていたが、指している方向は、同じだった。
志願が、足りなくなった。
その事実が、二人の言い方の中で、別の角度から、置かれていた。
「それで」
荒瀬が、続けた。
「徴兵が、来た」
「俺が、それです」
「そうだ」
荒瀬は、頷いた。
「だが、来た理由が、違っても、ここで、やることは、同じだ」
「はい」
「同じ、というのは、生き残る、ということだ」
「はい」
「生き残れない奴から、消える」
荒瀬は、そこで、一拍、置いた。
「お前は、消えない側に、いる」
「消えない側、というのは」
「生き残る側だ」
「はい」
「だが」
荒瀬は、白凪の右手を、見た。
白凪の右手は、銃の構えの中に、入っていた。
入っているから、震えていなかった。
荒瀬は、その構えを、見た。
見たが、構えそのものは、見ていなかった。
構えていないと、震える、ということを、見ていた。
「お前は」
荒瀬は、低い声で、続けた。
「まだ、削れる側に、いる」
言葉が、夜の壕の中で、置かれた。
白凪は、その言葉を、すぐには、引き出しに入れなかった。
入れる場所が、決まらなかった。
代償の場所か、生き残る側の場所か、別の場所か。
決まらないまま、白凪は、訊いた。
「削れる側、というのは」
荒瀬は、答えなかった。
答えなかった、というのは、答えを、口にしなかった、ということだった。
口にしなかったのは、口にする言葉が、なかったから、ではなかった。
口にすると、白凪が、その言葉に、合わせて、動き始めるからだった。
動き始めると、削れる速度が、変わる。
変える、というのは、荒瀬の役割では、なかった。
白凪は、答えを、待たなかった。
待たない、というのは、訊いたことを、取り下げる、ということではなかった。
訊いた、という事実を、置いておく、ということだった。
置いておけば、いつか、答えが、来る。
来ないまま、夜が、続いた。
続く夜の中で、白凪は、構えを、外さなかった。
外さない手は、震えなかった。
震えない手で、白凪は、空を、見た。
空には、星は、なかった。
曇天だった。
曇天の下で、白凪と荒瀬は、二人で、座っていた。
「荒瀬さん」
白凪が、口を開いた。
「はい」
「最初の年に、隊に、どんな兵が、いましたか」
訊いた、というのは、訊いていいことか、白凪自身も、分かっていなかった。
分かっていなかったが、訊いた。
訊いた、というのは、訊く順番が、来た、と、感じたからだった。
感じた、というのは、荒瀬が「削れる側」と言ったあとの、夜の温度の中だった。
荒瀬は、しばらく、答えなかった。
答えなかった時間の長さは、宍倉が「いる」と答える前の時間と、同じだった。
「いた」
荒瀬は、答えた。
「お前みたいなのが」
「俺みたいな、というのは」
「半拍、早い兵だ」
言葉が、夜の壕の中で、また、置かれた。
半拍、早い。
白凪は、その言葉を、知っていた。
知っていたのは、白凪自身が、半拍、早い、と、何度か、言われていたからだった。
鷹見も、荒瀬も、白凪に、その言葉を、使った。
今、荒瀬が、その言葉を、別の兵に、使った。
別の兵、というのは、白凪と、同じ場所に、いた兵だった。
「その兵は」
白凪は、訊いた。
「いない。今は」
荒瀬は、答えた。
答え方が、宍倉が「いない。今は」と言ったのと、同じだった。
白凪は、その重なりを、引き出しに、入れた。
入れる場所は、もう、決まっていた。
戦痕の兵の、行き先、という場所だった。
「死んだ、ですか」
白凪は、訊いた。
訊いた声が、いつもより、低かった。
「断定しない」
荒瀬は、答えた。
「だが、いない」
断定しない。
宍倉が、白凪に「届けたい相手は」と訊かれた時に、「いる」とだけ答えた。
断定はしないが、否定もしない。
その言い方を、宍倉は、使った。
その同じ言い方を、今、荒瀬が、使った。
世代を、超えて、同じ言い方が、置かれている。
白凪は、その重なりを、引き出しの中で、揃えた。
揃えた瞬間に、白凪は、自分の名前が、その重なりの中に、入っていることを、認識した。
断定はされない側に、自分が、入る。
いつ、入るかは、まだ、見えなかった。
見えないが、入る順番は、来ている。
「その兵は」
白凪は、続けた。
「どんな兵でしたか」
荒瀬は、しばらく、答えなかった。
答えなかった時間の中で、夜の風が、入口から、入ってきた。
風は、冷たかった。
「お前と、同じだった」
荒瀬は、答えた。
「同じ、というのは」
「動きが、半拍、早い。判断が、半拍、早い。引き金が、半拍、早い」
「はい」
「早すぎる兵だった」
「早すぎる、というのは」
「自分が、早く動く分だけ、自分が、削れる」
言葉が、夜の壕の中で、置かれた。
白凪は、その言葉を、自分の右手の感覚と、重ねた。
構えていないと、震える。
震える時間が、増えていく。
増えていく分だけ、自分が、削れている。
その認識を、白凪は、もう、引き出しに入れた。
入れる場所は、代償の場所だった。
代償の場所には、もう、四つが、並んだ。
手の震え。
眠っているのに身体が動こうとする感覚。
戦闘的な並列展開が、戦闘以外でも、作動する歪み。
自分が、削れている、という認識。
「その兵は」
白凪は、また、訊いた。
「どこで、いなくなりましたか」
「分からない」
荒瀬は、答えた。
「分からない、というのは」
「ある朝、点呼で、いなかった」
「いなかった、というのは」
「いなかった。それだけだ」
荒瀬は、それ以上、答えなかった。
答えなかったのは、それ以上の答えを、持っていない、ということだった。
持っていないのは、確かめなかったから、ではない。
確かめても、見つからなかったから、だった。
白凪は、その温度を、引き出しに入れた。
入れる場所は、宍倉が、自分の最後の手紙を、書けなかった、と言った時の、温度の隣だった。
二つの温度は、似ていた。
似ていたが、同じではなかった。
同じではないが、同じ場所から、出てきた温度だった。
「荒瀬さん」
白凪は、訊いた。
「俺も、ある朝、いなくなりますか」
訊いた声は、低かった。
低いのは、夜の温度だった。
荒瀬は、答えなかった。
答えなかった時間の中で、白凪は、自分の右手を、構えの中で、握り直した。
握り直した手は、震えなかった。
震えない手の重さが、配属の日の重さとは、違っていた。
違いを、白凪は、認識した。
認識したが、まだ、何とも、呼ばなかった。
「分からない」
荒瀬は、ようやく、答えた。
「分からない、というのは」
「お前次第だ」
「俺次第、というのは」
「お前が、自分を、どこまで、削るか、だ」
「削る、というのは」
「使うか、使わないか、だ」
「戦痕を、ですか」
白凪は、初めて、その名前を、口にした。
口にしたのは、口にしてもいい、と、思ったから、ではなかった。
口にしないと、答えが、組めない、と、感じたからだった。
荒瀬は、白凪の言った「戦痕」を、聞いた。
聞いたが、否定しなかった。
肯定もしなかった。
そう呼ぶか、呼ばないかは、お前が、決める、という顔だった。
「使えば、削れる」
荒瀬は、答えた。
「使わなければ、削れない、ですか」
「使わなければ、お前以外が、削れる」
言葉が、夜の壕の中で、置かれた。
白凪は、その言葉を、引き出しに入れた。
入れた場所は、代償の場所では、なかった。
動機、という場所だった。
動機の場所には、まだ、何も、置かれていなかった。
最初に、置かれたのが、その言葉だった。
使わなければ、お前以外が、削れる。
白凪は、その言葉の重さを、自分の中で、確かめた。
確かめた重さは、配属の日の厚紙の重さでは、なかった。
補給品の包装紙を揃えていた誰かの手の重さでも、なかった。
荒瀬を押さえた左手のひらの感覚でも、なかった。
名取の紙片の湿りでも、なかった。
新しい重さだった。
新しい重さを、白凪は、自分の中の、新しい場所に、置いた。
「荒瀬さん」
白凪は、しばらくしてから、訊いた。
「最初の年に、いた兵は、削った側ですか、削られた側ですか」
「両方だ」
荒瀬は、即答した。
「両方、というのは」
「自分を削って、他の兵を、削られないようにした」
「他の兵、というのは」
「同じ隊の、誰か、だ」
「全部、ではないですか」
「全部は、無理だ。全部を救おうとすると、削り切る前に、自分が、いなくなる」
「では、誰を、救うんですか」
「お前が、選ぶ」
荒瀬は、それだけ答えた。
答えてから、白凪を、見た。
見たが、白凪の顔ではなかった。
白凪の右手だった。
白凪の右手は、銃の構えの中に、入っていた。
入っているから、震えていなかった。
「選んだ結果が、合っていれば」
白凪は、訊いた。
「お前が、削れる」
荒瀬は、答えた。
「合っていなければ」
「お前が、削れて、誰かが、消える」
「どっちにしても、削れるんですか」
「そうだ」
「削れない選択は、ないんですか」
「ある」
「何ですか」
「選ばないことだ」
荒瀬は、答えた。
「選ばなければ、削れません、というのは」
「選ばなければ、全員が、削れる」
言葉が、夜の壕の中で、置かれた。
白凪は、その言葉を、引き出しに入れた。
入れた場所は、動機の場所の隣だった。
動機の場所には、もう、二つが、並んだ。
使わなければ、お前以外が、削れる。
選ばなければ、全員が、削れる。
二つは、同じ方向を、指していた。
削るか、削れるか。
その二択ではなかった。
自分を削って、他を救うか、選ばずに、全員を、削るか。
その二択だった。
白凪は、その二択を、自分の中で、確かめた。
確かめた瞬間に、自分の選んでいる側が、もう、決まっていることを、認識した。
自分を、削る側を、白凪は、選んでいた。
選んでいた、というのは、選ぼうとして選んだ、ということではなかった。
配属の日から、選び続けていた動きの、行き先だった。
行き先が、今、見えた。
見えた行き先を、白凪は、引き出しに、置いた。
置く場所は、動機の場所の、中央だった。
「荒瀬さん」
白凪は、訊いた。
「俺は、削れていますか」
「削れている」
荒瀬は、即答した。
「分かりますか」
「分かる」
「どこで」
「手だ」
荒瀬は、白凪の右手を、見た。
見ている荒瀬の目の温度は、いつもの荒瀬の温度ではなかった。
確かめている目だった。
確かめている、というのは、白凪が、まだ、削り切っていないか、確かめている、ということだった。
削り切っていないか、というのは、まだ、戦える側に、いるか、ということだった。
「俺は、まだ、戦えますか」
白凪は、訊いた。
「戦える」
荒瀬は、答えた。
「いつまで」
「お前次第だ」
荒瀬は、それだけ答えた。
答えてから、土嚢の縁に置いた手を、握った。
握った瞬間、荒瀬の右手も、震えていることが、分かった。
震えは、わずかだった。
わずかだったが、白凪の震えと、同じ場所から、出てきた震えだった。
白凪は、それを、見た。
見たが、何も、言わなかった。
言わなかったのは、言うべきではない、と、感じたからだった。
感じた、というのは、荒瀬が、白凪の右手を見て、何も言わなかったのと、同じだった。
世代を超えて、同じ場所から、出てきた震えを、二人とも、抱えていた。
抱えている、ということを、口にしないことが、二人の、答えだった。
夜が、また、半分、過ぎた。
壕の入口の方向で、空の色が、わずかに、変わり始めていた。
明け方が、近かった。
白凪は、構えを、外さなかった。
荒瀬は、土嚢の縁に置いた手を、握ったまま、置いていた。
二人とも、震えていなかった。
震えていない時間の中で、白凪は、もう一度、訊いた。
「荒瀬さん」
「はい」
「最初の年に、隊にいた、半拍早い兵は、何人ですか」
「一人だ」
荒瀬は、即答した。
「一人、というのは」
「俺の、隊では、一人だ。他の隊の話は、俺は、知らない」
「その一人が、いなくなった後、隊に、半拍早い兵は、いましたか」
「いなかった」
「次に、半拍早い兵が、入ってきたのは」
「お前だ」
言葉が、夜の壕の中で、置かれた。
白凪は、その言葉を、引き出しに入れた。
入れた場所は、もう、決まっていた。
動機の場所の、中央だった。
中央には、もう、三つが、並んでいた。
使わなければ、お前以外が、削れる。
選ばなければ、全員が、削れる。
お前だ。
三つが、同じ方向を、指していた。
白凪は、その方向を、認識した。
認識した、というのが、第三部の昼に、引き出しに入れた自覚の、続きだった。
続きは、役割だった。
役割、という言葉を、白凪は、まだ、口にしなかった。
口にすると、戻れなくなる。
戻れなくなる、というのは、配属の日の自分の重さに、戻れなくなる、ということだった。
戻れなくなる、ということを、白凪は、もう、引き受けていた。
引き受けたが、口には、しなかった。
明け方の風が、入口から、入ってきた。
風は、冷たかった。
冷たい風の中で、荒瀬が、ゆっくり、立ち上がった。
立ち上がる速度は、座った時より、さらに、遅かった。
遅いが、立ち上がった。
「白凪」
荒瀬は、立ち上がってから、言った。
「はい」
「見張り、交代だ」
「了解」
「次は、久我に、来てもらえ」
「了解」
「お前は、本陣で、休め」
「休め、というのは」
「休めるうちに、休め」
荒瀬は、それだけ言った。
言ってから、白凪の右手を、もう一度、見た。
見たが、何も、言わなかった。
言わなかったのは、もう、二度目だった。
二度目だから、白凪は、それが、荒瀬の答えであることを、知っていた。
荒瀬は、観測壕の手前から、本陣に、戻っていった。
戻る速度は、来た時より、わずかに、速かった。
速いのは、立ち上がる動きが、出てから、身体が、慣れたからだった。
慣れた、というのが、前線復帰可能、ということだった。
白凪は、荒瀬の背中を、見送った。
見送りながら、自分の右手を、構えの中で、握り直した。
握り直した手は、震えなかった。
震えなかったが、構えを外せば、また、震える。
震える時間が、また、来る。
来る時間を、白凪は、もう、避けなかった。
避けない、というのが、削れる側にいる、ということを、引き受ける動きだった。
久我が、観測壕の手前に、来た。
来た時、久我の双眼鏡は、肩に、提げられていた。
「白凪二等兵」
「久我さん」
「変化は」
「ありません」
「了解です」
久我は、双眼鏡を、構えた。
構えた角度は、断尾嶺の方向だった。
角度の中に、左へのずれは、残っていた。
「主力は」
「南へ、動き続けています」
久我は、双眼鏡を構えたまま、答えた。
「速度は、変わっていません」
「変わらない、というのは」
「変える理由が、向こうに、ない、ということです」
白凪は、その言葉を、引き出しに入れた。
入れた場所は、芦森補給廠、という場所だった。
芦森補給廠の場所は、配属の日から、白凪の引き出しの中に、あった。
あった場所に、新しい情報が、入った。
向こうは、変える理由がない。
変える理由がない、というのは、こちらに、変えさせる動きが、ない、ということだった。
こちらに、変えさせる動きを、作るのは、誰か。
白凪には、まだ、見えなかった。
見えないが、作る側に、自分が、入ることを、感じていた。
感じていた、というのは、引き出しの動機の場所の、中央に、自分の名前が、置かれている、ということだった。
白凪は、観測壕の手前から、動いた。
動いた先は、本陣だった。
本陣に降りると、荒瀬は、また、隅に、座っていた。
座って、目を、閉じていた。
閉じているが、寝ていない。
寝ない、というのが、荒瀬の、これからの状態だった。
前線復帰可能、というのは、寝ない側に、戻った、ということだった。
白凪は、荒瀬の脇を、通った。
通る時に、荒瀬は、目を、開けなかった。
開けなかったのが、答えだった。
話したことを、忘れろ、ということではなかった。
話したことを、置いたまま、明日を、迎えろ、ということだった。
白凪は、頷かなかった。
頷かない、というのが、白凪の、答えだった。
白凪は、本陣の脇の、土嚢の影に、戻った。
戻った位置で、横にならなかった。
座る姿勢で、両膝を、抱えた。
抱えた膝の上に、右手を、置いた。
置いた右手は、震えていた。
震えを、白凪は、見た。
見たが、止めなかった。
止めない、というのが、削れる側にいる、ということの、引き受け方だった。
明け方の光が、壕の入口から、入ってきた。
光は、薄かった。
薄い光の中で、瀬名は、名取の脇に、いた。
いる、というのが、瀬名の、答えだった。
名取の息は、まだ、止まっていなかった。
止まっていないが、保つかは、まだ、分からなかった。
白凪は、自分の胸ポケットに、手を当てた。
当てた手の下、名取の紙片が、まだあった。
名取は、まだ、生きていた。
生きていたが、明日の昼までは、分からなかった。
保たなくなったら、紙片は、戻すもの、になる。
戻すもの、になった時に、後送便で、運ばれる。
運ばれた紙片は、誰かに、届く。
届く誰かは、紙片を、持つ。
持った瞬間に、その誰かは、待っていた側から、受け取った側に、変わる。
変わる動きの先を、白凪は、まだ、見ていなかった。
見ていないが、動きの先に、自分の書いた一行が、混ざっていることを、感じていた。
白凪が書いた一行は、後送便で、北に運ばれた。
北に運ばれた便は、宍倉の運ばれた道と、同じ方向だった。
同じ方向で、宍倉の後送組は、着いていない。
白凪の書いた一行も、着いていないかもしれない。
その認識を、白凪は、引き出しに入れなかった。
入れる場所が、なかった。
待っている、の場所か、断定はしないが、いない、の場所か、決まらなかった。
決まらないまま、白凪は、震える手を、胸ポケットの上に、置いたままにした。
昼が、来た。
来たが、別働は、出なかった。
久我の双眼鏡は、断尾嶺の方向に、向いたままだった。
主力は、まだ、南へ、動き続けていた。
白凪は、本陣の脇で、座っていた。
座って、待っていた。
待っているのは、何かだった。
何か、というのは、まだ、見えていなかった。
見えていないが、来る。
来た時に、白凪は、動く。
動くために、ここに、いる。
動くために、削れていく。
削れていく自分を、白凪は、もう、止めなかった。
止めない、というのが、削れる側にいる、ということを、引き受けた、ということだった。
引き受けたまま、白凪は、昼の光を、見ていた。
見ている目の奥で、引き出しの中の、動機の場所の中央に、置かれた言葉が、まだ、残っていた。
お前次第だ。
荒瀬の声だった。
声は、夜の壕の中の温度のまま、白凪の中に、置かれていた。
置かれた声を、白凪は、もう、動かさなかった。
動かさないまま、昼が、過ぎていった。
過ぎていく昼の中で、別働の動きは、なかった。
なかったが、今日のうちに、何かが、起こることを、白凪は、感じていた。
感じていたのは、久我の双眼鏡の角度が、午前中より、わずかに、下がっていたからだった。
下がった、というのは、より近い距離を、見ている、ということだった。
近い距離を、久我は、見始めていた。
見始めた、というのは、そこに、何かが、出てくる、ということだった。
出てくる時刻は、まだ、見えなかった。
見えないが、来る。
来た時に、白凪は、動く。




