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第4章 第四部 世代

第四部 世代

 夜が、半分、過ぎた。

 白凪は、目を開けた。

 眠っていたかは、分からなかった。

 夜のあいだに、身体は、動かなかった。動こうとして、動かなかった、ではない。動こうとする動きが、止まっていた。

 止まっていたのは、書いた、という事実が、置き場所を、作ったからだった。

 置き場所ができた身体は、夜のあいだに、わずかに、休んだ。

 休んだ、というのが、寝た、ということでは、なかった。

 だが、夜の前より、息の間隔は、整っていた。


 壕の中の音は、少なかった。

 水城の踏み板の音は、ない。

 笹倉の副線の応答の声も、ない。

 久我の双眼鏡の動く音も、聞こえなかった。

 聞こえる音は、本陣の奥で、瀬名が、布を変える音だけだった。

 布を変える間隔は、午前中より、短くなっていた。

 短いのは、名取の容態が、また、一段、下がったからだった。

 白凪は、瀬名の動きを、目で追わなかった。

 追うと、布の音の数が、頭の中に、入ってくる。入った数を、白凪は、勝手に、計算し始める。計算が、並列展開を、作動させる。

 作動を、避ける動きを、白凪は、また、選んでいた。

 選んでいる、ということを、白凪は、もう、引き出しに入れなかった。

 入れる場所は、もう、決まっていた。

 代償、という場所だった。


「白凪」

 声が、本陣の隅から、来た。

 低い。だが、聞き慣れた声だった。

 荒瀬だった。

 白凪は、土嚢の影から、首だけを動かした。

 荒瀬は、本陣の隅で、座っていた。

 昨日の夕方まで、目を閉じて、寝かされていた位置から、半歩、動いていた。

 動いた、ということは、動けるようになった、ということだった。

「荒瀬さん」

 白凪は、答えた。

 答えた声が、いつもより、低かった。

 低いのは、夜の温度だった。

「見張り、お前か」

「次の番です」

「俺も、出る」

「動けるんですか」

「動ける」

 荒瀬は、それだけ答えた。

 答えてから、上着の合わせを、確かめた。脇腹の布は、夕方の交換から、半日経って、色を変えていた。色は、暗かった。だが、滲み方は、止まっていた。

「瀬名さんに、許可は」

「取った。短い時間なら、いい、と」

「了解」

 白凪は、立ち上がった。

 立ち上がるときに、右手が、震えた。

 震えを、白凪は、握って、止めた。

 止めた手で、銃を、構え直した。

 構えた瞬間、震えは、消えた。

 消えるのは、握ったから、ではなかった。

 構える、という動きが、震えと同じ場所から、出てきていた。

 白凪は、その重なりを、引き出しに、入れた。

 入れる場所は、代償の隣だった。


 観測壕の手前まで、白凪と荒瀬は、二人で、動いた。

 動く速度は、荒瀬が、決めた。

 決めた速度は、配属の日の、半分以下だった。

 半分以下、というのは、荒瀬の脇腹が、まだ、痛む、ということだった。

 白凪は、その速度に、合わせた。

 合わせる、というのが、難しかった。

 白凪の身体は、もう、その速度を、知らなかった。

 知らないが、合わせた。

 合わせる動きは、白凪の指が、紙の角を揃えた動きと、同じ場所から、出てきた。

 急がない、という動きだった。


 観測壕の手前に、二人で、立った。

 立った位置は、白凪が、いつも引き金にかける位置と、同じだった。

 その位置の脇に、荒瀬が、座った。

 座った荒瀬の右手は、土嚢の縁に、置かれていた。

 置かれた手は、震えていなかった。

 白凪の右手は、銃の構えの中に、入れていた。

 入れたまま、震えは、出なかった。

 二人とも、震えていなかった。

 だが、白凪は、自分の手が、構えを外した瞬間に、震えることを、知っていた。

 荒瀬の手も、たぶん、土嚢の縁から離した瞬間に、何かが、起こる。

 何が、起こるかは、白凪には、見えなかった。

 見えないが、起こる側の手だった。


 夜の壕の中は、静かだった。

 砲声は、近くなかった。

 遠くで、ときどき、断尾嶺の方向に、土が落ちる音がした。

 土が落ちる音は、戦闘ではなかった。夜のあいだに、地形が、動いている音だった。

 動いた地形を、明日の朝、久我が、双眼鏡で、確認する。

 確認した変化を、笹倉が、副線で、後方に伝える。

 その繰り返しが、明日の朝にも、続く。

 続くあいだは、九番は、保たれている。

 保たれている、というのが、今の白凪の、立っている場所の意味だった。


「白凪」

 荒瀬が、口を開いた。

 声は、低かった。だが、いつもの荒瀬の声だった。

「はい」

「お前、徴兵か」

「はい」

「いつ、来た」

「今年の春です」

「春、というのは」

「三月の終わり、です」

 荒瀬は、それだけ聞いて、頷いた。

 頷いた、というのは、答えを受け取った、ということだった。

 受け取って、しばらく、何も言わなかった。

 白凪も、訊かなかった。

 訊かなかったのは、訊くべきではない、と、思ったから、ではなかった。

 訊く順番が、まだ、来ていない、と、感じたからだった。

 順番が来るまで、白凪は、構えを、外さなかった。

 外さない手は、震えなかった。


「俺は」

 荒瀬が、続けた。

「志願だ」

「いつ、ですか」

「最初の年だ」

「最初の年、というのは」

「お前らが、徴兵で来るようになる、何年か前だ」

 白凪は、その「何年か」を、引き出しに入れた。

 入れたが、すぐに、別の場所に動かした。

 動かしたのは、その「何年か」の中身を、訊くべきではない、と、感じたからだった。

 感じた、というよりは、荒瀬の声の温度が、訊かせなかった。

「最初は」

 荒瀬が、続けた。

「俺と、同じ年に来たやつが、隊に、何人もいた」

「はい」

「同じ年、というのは、同じ志願の年、という意味だ」

「はい」

「その何人かは、最初の冬で、半分になった」

「半分、というのは」

「死んだ、半分」

 荒瀬は、それだけ言った。

 断定しない、とは、言わなかった。

 言わなかったのは、もう、断定する以外の言い方が、できない、ということだった。

 白凪は、その言い方の温度を、引き出しに入れた。

 入れた場所は、宍倉が「いない。今は」と言った時の、温度の隣だった。


「次の年」

 荒瀬が、また、続けた。

「来たのは、最初の年より、少なかった」

「はい」

「その次の年は、もっと、少なかった」

「はい」

「その次の次の年は、来る奴が、来なくなった」

「はい」

「来なくなったのは、来る奴が、いなくなったから、ではない」

「では」

「志願する、という選び方が、減った」

 白凪は、その「減った」を、宍倉の「枯れた」と、重ねた。

 二人の言い方は、違った。

 違っていたが、指している方向は、同じだった。

 志願が、足りなくなった。

 その事実が、二人の言い方の中で、別の角度から、置かれていた。

「それで」

 荒瀬が、続けた。

「徴兵が、来た」

「俺が、それです」

「そうだ」

 荒瀬は、頷いた。

「だが、来た理由が、違っても、ここで、やることは、同じだ」

「はい」

「同じ、というのは、生き残る、ということだ」

「はい」

「生き残れない奴から、消える」

 荒瀬は、そこで、一拍、置いた。

「お前は、消えない側に、いる」

「消えない側、というのは」

「生き残る側だ」

「はい」

「だが」

 荒瀬は、白凪の右手を、見た。

 白凪の右手は、銃の構えの中に、入っていた。

 入っているから、震えていなかった。

 荒瀬は、その構えを、見た。

 見たが、構えそのものは、見ていなかった。

 構えていないと、震える、ということを、見ていた。

「お前は」

 荒瀬は、低い声で、続けた。

「まだ、削れる側に、いる」

 言葉が、夜の壕の中で、置かれた。

 白凪は、その言葉を、すぐには、引き出しに入れなかった。

 入れる場所が、決まらなかった。

 代償の場所か、生き残る側の場所か、別の場所か。

 決まらないまま、白凪は、訊いた。

「削れる側、というのは」

 荒瀬は、答えなかった。

 答えなかった、というのは、答えを、口にしなかった、ということだった。

 口にしなかったのは、口にする言葉が、なかったから、ではなかった。

 口にすると、白凪が、その言葉に、合わせて、動き始めるからだった。

 動き始めると、削れる速度が、変わる。

 変える、というのは、荒瀬の役割では、なかった。


 白凪は、答えを、待たなかった。

 待たない、というのは、訊いたことを、取り下げる、ということではなかった。

 訊いた、という事実を、置いておく、ということだった。

 置いておけば、いつか、答えが、来る。

 来ないまま、夜が、続いた。

 続く夜の中で、白凪は、構えを、外さなかった。

 外さない手は、震えなかった。

 震えない手で、白凪は、空を、見た。

 空には、星は、なかった。

 曇天だった。

 曇天の下で、白凪と荒瀬は、二人で、座っていた。


「荒瀬さん」

 白凪が、口を開いた。

「はい」

「最初の年に、隊に、どんな兵が、いましたか」

 訊いた、というのは、訊いていいことか、白凪自身も、分かっていなかった。

 分かっていなかったが、訊いた。

 訊いた、というのは、訊く順番が、来た、と、感じたからだった。

 感じた、というのは、荒瀬が「削れる側」と言ったあとの、夜の温度の中だった。

 荒瀬は、しばらく、答えなかった。

 答えなかった時間の長さは、宍倉が「いる」と答える前の時間と、同じだった。

「いた」

 荒瀬は、答えた。

「お前みたいなのが」

「俺みたいな、というのは」

「半拍、早い兵だ」

 言葉が、夜の壕の中で、また、置かれた。

 半拍、早い。

 白凪は、その言葉を、知っていた。

 知っていたのは、白凪自身が、半拍、早い、と、何度か、言われていたからだった。

 鷹見も、荒瀬も、白凪に、その言葉を、使った。

 今、荒瀬が、その言葉を、別の兵に、使った。

 別の兵、というのは、白凪と、同じ場所に、いた兵だった。

「その兵は」

 白凪は、訊いた。

「いない。今は」

 荒瀬は、答えた。

 答え方が、宍倉が「いない。今は」と言ったのと、同じだった。

 白凪は、その重なりを、引き出しに、入れた。

 入れる場所は、もう、決まっていた。

 戦痕の兵の、行き先、という場所だった。


「死んだ、ですか」

 白凪は、訊いた。

 訊いた声が、いつもより、低かった。

「断定しない」

 荒瀬は、答えた。

「だが、いない」

 断定しない。

 宍倉が、白凪に「届けたい相手は」と訊かれた時に、「いる」とだけ答えた。

 断定はしないが、否定もしない。

 その言い方を、宍倉は、使った。

 その同じ言い方を、今、荒瀬が、使った。

 世代を、超えて、同じ言い方が、置かれている。

 白凪は、その重なりを、引き出しの中で、揃えた。

 揃えた瞬間に、白凪は、自分の名前が、その重なりの中に、入っていることを、認識した。

 断定はされない側に、自分が、入る。

 いつ、入るかは、まだ、見えなかった。

 見えないが、入る順番は、来ている。


「その兵は」

 白凪は、続けた。

「どんな兵でしたか」

 荒瀬は、しばらく、答えなかった。

 答えなかった時間の中で、夜の風が、入口から、入ってきた。

 風は、冷たかった。

「お前と、同じだった」

 荒瀬は、答えた。

「同じ、というのは」

「動きが、半拍、早い。判断が、半拍、早い。引き金が、半拍、早い」

「はい」

「早すぎる兵だった」

「早すぎる、というのは」

「自分が、早く動く分だけ、自分が、削れる」

 言葉が、夜の壕の中で、置かれた。

 白凪は、その言葉を、自分の右手の感覚と、重ねた。

 構えていないと、震える。

 震える時間が、増えていく。

 増えていく分だけ、自分が、削れている。

 その認識を、白凪は、もう、引き出しに入れた。

 入れる場所は、代償の場所だった。

 代償の場所には、もう、四つが、並んだ。

 手の震え。

 眠っているのに身体が動こうとする感覚。

 戦闘的な並列展開が、戦闘以外でも、作動する歪み。

 自分が、削れている、という認識。


「その兵は」

 白凪は、また、訊いた。

「どこで、いなくなりましたか」

「分からない」

 荒瀬は、答えた。

「分からない、というのは」

「ある朝、点呼で、いなかった」

「いなかった、というのは」

「いなかった。それだけだ」

 荒瀬は、それ以上、答えなかった。

 答えなかったのは、それ以上の答えを、持っていない、ということだった。

 持っていないのは、確かめなかったから、ではない。

 確かめても、見つからなかったから、だった。

 白凪は、その温度を、引き出しに入れた。

 入れる場所は、宍倉が、自分の最後の手紙を、書けなかった、と言った時の、温度の隣だった。

 二つの温度は、似ていた。

 似ていたが、同じではなかった。

 同じではないが、同じ場所から、出てきた温度だった。


「荒瀬さん」

 白凪は、訊いた。

「俺も、ある朝、いなくなりますか」

 訊いた声は、低かった。

 低いのは、夜の温度だった。

 荒瀬は、答えなかった。

 答えなかった時間の中で、白凪は、自分の右手を、構えの中で、握り直した。

 握り直した手は、震えなかった。

 震えない手の重さが、配属の日の重さとは、違っていた。

 違いを、白凪は、認識した。

 認識したが、まだ、何とも、呼ばなかった。

「分からない」

 荒瀬は、ようやく、答えた。

「分からない、というのは」

「お前次第だ」

「俺次第、というのは」

「お前が、自分を、どこまで、削るか、だ」

「削る、というのは」

「使うか、使わないか、だ」

「戦痕を、ですか」

 白凪は、初めて、その名前を、口にした。

 口にしたのは、口にしてもいい、と、思ったから、ではなかった。

 口にしないと、答えが、組めない、と、感じたからだった。

 荒瀬は、白凪の言った「戦痕」を、聞いた。

 聞いたが、否定しなかった。

 肯定もしなかった。

 そう呼ぶか、呼ばないかは、お前が、決める、という顔だった。

「使えば、削れる」

 荒瀬は、答えた。

「使わなければ、削れない、ですか」

「使わなければ、お前以外が、削れる」

 言葉が、夜の壕の中で、置かれた。

 白凪は、その言葉を、引き出しに入れた。

 入れた場所は、代償の場所では、なかった。

 動機、という場所だった。

 動機の場所には、まだ、何も、置かれていなかった。

 最初に、置かれたのが、その言葉だった。

 使わなければ、お前以外が、削れる。

 白凪は、その言葉の重さを、自分の中で、確かめた。

 確かめた重さは、配属の日の厚紙の重さでは、なかった。

 補給品の包装紙を揃えていた誰かの手の重さでも、なかった。

 荒瀬を押さえた左手のひらの感覚でも、なかった。

 名取の紙片の湿りでも、なかった。

 新しい重さだった。

 新しい重さを、白凪は、自分の中の、新しい場所に、置いた。


「荒瀬さん」

 白凪は、しばらくしてから、訊いた。

「最初の年に、いた兵は、削った側ですか、削られた側ですか」

「両方だ」

 荒瀬は、即答した。

「両方、というのは」

「自分を削って、他の兵を、削られないようにした」

「他の兵、というのは」

「同じ隊の、誰か、だ」

「全部、ではないですか」

「全部は、無理だ。全部を救おうとすると、削り切る前に、自分が、いなくなる」

「では、誰を、救うんですか」

「お前が、選ぶ」

 荒瀬は、それだけ答えた。

 答えてから、白凪を、見た。

 見たが、白凪の顔ではなかった。

 白凪の右手だった。

 白凪の右手は、銃の構えの中に、入っていた。

 入っているから、震えていなかった。

「選んだ結果が、合っていれば」

 白凪は、訊いた。

「お前が、削れる」

 荒瀬は、答えた。

「合っていなければ」

「お前が、削れて、誰かが、消える」

「どっちにしても、削れるんですか」

「そうだ」

「削れない選択は、ないんですか」

「ある」

「何ですか」

「選ばないことだ」

 荒瀬は、答えた。

「選ばなければ、削れません、というのは」

「選ばなければ、全員が、削れる」

 言葉が、夜の壕の中で、置かれた。

 白凪は、その言葉を、引き出しに入れた。

 入れた場所は、動機の場所の隣だった。

 動機の場所には、もう、二つが、並んだ。

 使わなければ、お前以外が、削れる。

 選ばなければ、全員が、削れる。

 二つは、同じ方向を、指していた。

 削るか、削れるか。

 その二択ではなかった。

 自分を削って、他を救うか、選ばずに、全員を、削るか。

 その二択だった。

 白凪は、その二択を、自分の中で、確かめた。

 確かめた瞬間に、自分の選んでいる側が、もう、決まっていることを、認識した。

 自分を、削る側を、白凪は、選んでいた。

 選んでいた、というのは、選ぼうとして選んだ、ということではなかった。

 配属の日から、選び続けていた動きの、行き先だった。

 行き先が、今、見えた。

 見えた行き先を、白凪は、引き出しに、置いた。

 置く場所は、動機の場所の、中央だった。


「荒瀬さん」

 白凪は、訊いた。

「俺は、削れていますか」

「削れている」

 荒瀬は、即答した。

「分かりますか」

「分かる」

「どこで」

「手だ」

 荒瀬は、白凪の右手を、見た。

 見ている荒瀬の目の温度は、いつもの荒瀬の温度ではなかった。

 確かめている目だった。

 確かめている、というのは、白凪が、まだ、削り切っていないか、確かめている、ということだった。

 削り切っていないか、というのは、まだ、戦える側に、いるか、ということだった。

「俺は、まだ、戦えますか」

 白凪は、訊いた。

「戦える」

 荒瀬は、答えた。

「いつまで」

「お前次第だ」

 荒瀬は、それだけ答えた。

 答えてから、土嚢の縁に置いた手を、握った。

 握った瞬間、荒瀬の右手も、震えていることが、分かった。

 震えは、わずかだった。

 わずかだったが、白凪の震えと、同じ場所から、出てきた震えだった。

 白凪は、それを、見た。

 見たが、何も、言わなかった。

 言わなかったのは、言うべきではない、と、感じたからだった。

 感じた、というのは、荒瀬が、白凪の右手を見て、何も言わなかったのと、同じだった。

 世代を超えて、同じ場所から、出てきた震えを、二人とも、抱えていた。

 抱えている、ということを、口にしないことが、二人の、答えだった。


 夜が、また、半分、過ぎた。

 壕の入口の方向で、空の色が、わずかに、変わり始めていた。

 明け方が、近かった。

 白凪は、構えを、外さなかった。

 荒瀬は、土嚢の縁に置いた手を、握ったまま、置いていた。

 二人とも、震えていなかった。

 震えていない時間の中で、白凪は、もう一度、訊いた。

「荒瀬さん」

「はい」

「最初の年に、隊にいた、半拍早い兵は、何人ですか」

「一人だ」

 荒瀬は、即答した。

「一人、というのは」

「俺の、隊では、一人だ。他の隊の話は、俺は、知らない」

「その一人が、いなくなった後、隊に、半拍早い兵は、いましたか」

「いなかった」

「次に、半拍早い兵が、入ってきたのは」

「お前だ」

 言葉が、夜の壕の中で、置かれた。

 白凪は、その言葉を、引き出しに入れた。

 入れた場所は、もう、決まっていた。

 動機の場所の、中央だった。

 中央には、もう、三つが、並んでいた。

 使わなければ、お前以外が、削れる。

 選ばなければ、全員が、削れる。

 お前だ。

 三つが、同じ方向を、指していた。

 白凪は、その方向を、認識した。

 認識した、というのが、第三部の昼に、引き出しに入れた自覚の、続きだった。

 続きは、役割だった。

 役割、という言葉を、白凪は、まだ、口にしなかった。

 口にすると、戻れなくなる。

 戻れなくなる、というのは、配属の日の自分の重さに、戻れなくなる、ということだった。

 戻れなくなる、ということを、白凪は、もう、引き受けていた。

 引き受けたが、口には、しなかった。


 明け方の風が、入口から、入ってきた。

 風は、冷たかった。

 冷たい風の中で、荒瀬が、ゆっくり、立ち上がった。

 立ち上がる速度は、座った時より、さらに、遅かった。

 遅いが、立ち上がった。

「白凪」

 荒瀬は、立ち上がってから、言った。

「はい」

「見張り、交代だ」

「了解」

「次は、久我に、来てもらえ」

「了解」

「お前は、本陣で、休め」

「休め、というのは」

「休めるうちに、休め」

 荒瀬は、それだけ言った。

 言ってから、白凪の右手を、もう一度、見た。

 見たが、何も、言わなかった。

 言わなかったのは、もう、二度目だった。

 二度目だから、白凪は、それが、荒瀬の答えであることを、知っていた。


 荒瀬は、観測壕の手前から、本陣に、戻っていった。

 戻る速度は、来た時より、わずかに、速かった。

 速いのは、立ち上がる動きが、出てから、身体が、慣れたからだった。

 慣れた、というのが、前線復帰可能、ということだった。

 白凪は、荒瀬の背中を、見送った。

 見送りながら、自分の右手を、構えの中で、握り直した。

 握り直した手は、震えなかった。

 震えなかったが、構えを外せば、また、震える。

 震える時間が、また、来る。

 来る時間を、白凪は、もう、避けなかった。

 避けない、というのが、削れる側にいる、ということを、引き受ける動きだった。


 久我が、観測壕の手前に、来た。

 来た時、久我の双眼鏡は、肩に、提げられていた。

「白凪二等兵」

「久我さん」

「変化は」

「ありません」

「了解です」

 久我は、双眼鏡を、構えた。

 構えた角度は、断尾嶺の方向だった。

 角度の中に、左へのずれは、残っていた。

「主力は」

「南へ、動き続けています」

 久我は、双眼鏡を構えたまま、答えた。

「速度は、変わっていません」

「変わらない、というのは」

「変える理由が、向こうに、ない、ということです」

 白凪は、その言葉を、引き出しに入れた。

 入れた場所は、芦森補給廠、という場所だった。

 芦森補給廠の場所は、配属の日から、白凪の引き出しの中に、あった。

 あった場所に、新しい情報が、入った。

 向こうは、変える理由がない。

 変える理由がない、というのは、こちらに、変えさせる動きが、ない、ということだった。

 こちらに、変えさせる動きを、作るのは、誰か。

 白凪には、まだ、見えなかった。

 見えないが、作る側に、自分が、入ることを、感じていた。

 感じていた、というのは、引き出しの動機の場所の、中央に、自分の名前が、置かれている、ということだった。


 白凪は、観測壕の手前から、動いた。

 動いた先は、本陣だった。

 本陣に降りると、荒瀬は、また、隅に、座っていた。

 座って、目を、閉じていた。

 閉じているが、寝ていない。

 寝ない、というのが、荒瀬の、これからの状態だった。

 前線復帰可能、というのは、寝ない側に、戻った、ということだった。

 白凪は、荒瀬の脇を、通った。

 通る時に、荒瀬は、目を、開けなかった。

 開けなかったのが、答えだった。

 話したことを、忘れろ、ということではなかった。

 話したことを、置いたまま、明日を、迎えろ、ということだった。

 白凪は、頷かなかった。

 頷かない、というのが、白凪の、答えだった。


 白凪は、本陣の脇の、土嚢の影に、戻った。

 戻った位置で、横にならなかった。

 座る姿勢で、両膝を、抱えた。

 抱えた膝の上に、右手を、置いた。

 置いた右手は、震えていた。

 震えを、白凪は、見た。

 見たが、止めなかった。

 止めない、というのが、削れる側にいる、ということの、引き受け方だった。


 明け方の光が、壕の入口から、入ってきた。

 光は、薄かった。

 薄い光の中で、瀬名は、名取の脇に、いた。

 いる、というのが、瀬名の、答えだった。

 名取の息は、まだ、止まっていなかった。

 止まっていないが、保つかは、まだ、分からなかった。

 白凪は、自分の胸ポケットに、手を当てた。

 当てた手の下、名取の紙片が、まだあった。

 名取は、まだ、生きていた。

 生きていたが、明日の昼までは、分からなかった。

 保たなくなったら、紙片は、戻すもの、になる。

 戻すもの、になった時に、後送便で、運ばれる。

 運ばれた紙片は、誰かに、届く。

 届く誰かは、紙片を、持つ。

 持った瞬間に、その誰かは、待っていた側から、受け取った側に、変わる。

 変わる動きの先を、白凪は、まだ、見ていなかった。

 見ていないが、動きの先に、自分の書いた一行が、混ざっていることを、感じていた。

 白凪が書いた一行は、後送便で、北に運ばれた。

 北に運ばれた便は、宍倉の運ばれた道と、同じ方向だった。

 同じ方向で、宍倉の後送組は、着いていない。

 白凪の書いた一行も、着いていないかもしれない。

 その認識を、白凪は、引き出しに入れなかった。

 入れる場所が、なかった。

 待っている、の場所か、断定はしないが、いない、の場所か、決まらなかった。

 決まらないまま、白凪は、震える手を、胸ポケットの上に、置いたままにした。


 昼が、来た。

 来たが、別働は、出なかった。

 久我の双眼鏡は、断尾嶺の方向に、向いたままだった。

 主力は、まだ、南へ、動き続けていた。

 白凪は、本陣の脇で、座っていた。

 座って、待っていた。

 待っているのは、何かだった。

 何か、というのは、まだ、見えていなかった。

 見えていないが、来る。

 来た時に、白凪は、動く。

 動くために、ここに、いる。

 動くために、削れていく。

 削れていく自分を、白凪は、もう、止めなかった。

 止めない、というのが、削れる側にいる、ということを、引き受けた、ということだった。

 引き受けたまま、白凪は、昼の光を、見ていた。

 見ている目の奥で、引き出しの中の、動機の場所の中央に、置かれた言葉が、まだ、残っていた。

 お前次第だ。

 荒瀬の声だった。

 声は、夜の壕の中の温度のまま、白凪の中に、置かれていた。

 置かれた声を、白凪は、もう、動かさなかった。

 動かさないまま、昼が、過ぎていった。

 過ぎていく昼の中で、別働の動きは、なかった。

 なかったが、今日のうちに、何かが、起こることを、白凪は、感じていた。

 感じていたのは、久我の双眼鏡の角度が、午前中より、わずかに、下がっていたからだった。

 下がった、というのは、より近い距離を、見ている、ということだった。

 近い距離を、久我は、見始めていた。

 見始めた、というのは、そこに、何かが、出てくる、ということだった。

 出てくる時刻は、まだ、見えなかった。

 見えないが、来る。

 来た時に、白凪は、動く。


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