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第4章 第三部 不達

第三部 不達

 夜が、明けた。

 明けた、というよりは、空の色が、灰色に戻った、と言ったほうが近かった。

 白凪は、土嚢の影で、目を開けた。

 眠っていたかは、分からなかった。

 夜のあいだに、身体が、何度か動いた。動こうとする身体を、押さえなかった。押さえなかったまま、夜が過ぎた。動いた身体は、土嚢の角に、二度、肩を当てた。当てた角度を、白凪は、寝ている自分が選んでいた。

 選んでいる、ということが、寝ている、ということではなかった。

 寝ているのに、選んでいる。

 その矛盾を、白凪は、起きてから、引き出しに入れた。

 入れる場所は、宍倉の右脚の動きの隣だった。


 壕の中の音は、いつもの朝より、少なかった。

 水城の踏み板の音が、ない。

 水城は、北側の踏み板の張り替えを、夜のうちに、終わらせていた。終わったあと、本陣の脇で、目を閉じていた。閉じているが、寝ていない。寝ない、というのは、夜半に副線が一度切れて、笹倉と一緒に繋ぎ直したからだった。

 笹倉は、副線の端末の前に、座っていた。

 座ったまま、応答を、待っていた。

 応答が来るまでの時間が、いつもより、長かった。

 長いのは、後方が、忙しい、ということだった。

 白凪は、本陣に降りた。

 降りる動線で、踏み板の上を、二歩飛ばさなかった。

 飛ばすと、震えていた手が、土嚢の角に当たる。当たると、震えが、強くなる。

 震えを、避ける動きを、白凪は、無意識に選び始めていた。

 選んでいる、ということを、白凪は、引き出しの別の場所に、置いた。


 本陣には、鷹見がいた。

 地図の前にはいなかった。

 地図の前ではない場所で、鷹見が立っているのを、白凪は、配属されてから、初めて見た。

 鷹見は、副線の端末の脇に立って、笹倉の応答を、待っていた。

「鷹見軍曹」

 白凪は、声をかけた。

「来たか」

「はい」

「今日は、別働、出ない」

 鷹見は、白凪を見ずに、副線の端末を、見ていた。

「根拠は」

「向こうも、こちらと同じだ。二度の夜と、昨日の戦闘で、削られてる。三度目を、すぐには出さない」

「了解」

「観測壕の手前は、久我に任せる。お前は、本陣で、待機」

「待機、というのは」

「副線の応答が来たら、復唱を聞け。それ以外は、休め」

「休め、というのは」

「言葉のままだ」

 鷹見は、それだけ答えた。

 答えてから、白凪を、見た。

 見たが、視線は、白凪の顔ではなかった。右手だった。

 白凪の右手は、ベルトの脇に、置いたままだった。引き金にかけてはいない。だが、握ってもいない。開いていた。

 開いている右手は、震えていた。

 鷹見は、その震えを、見た。

 見たが、何も言わなかった。

 何も言わずに、副線の端末に、視線を戻した。

 戻した、というのが、答えだった。

 休め、という言葉の意味が、白凪の中で、もう一度、置き直された。


 半時間ほど、白凪は、本陣の脇に、座っていた。

 座る、というのは、土嚢の影に、背を預けて、両膝を抱える姿勢だった。

 その姿勢で、右手は、膝の上に置いていた。

 膝の上の右手は、震えていた。

 震えていない時間は、短かった。

 短い時間の中で、白凪は、自分の右手を、見ていた。

 見ていたが、止めなかった。

 止める、というのは、握ることだった。握ると、止まる。だが、握ったまま、置いておくと、握る筋肉が、疲れる。疲れた手で、引き金を、引けるか、白凪には、まだ分からなかった。

 だから、開いて、置いておく。

 開いていると、震える。

 震える手を、見ている。

 見ている、というのが、今の白凪の、休みだった。


 笹倉が、副線の端末から、声を上げた。

「鷹見軍曹」

「読め」

「副線、後方より。後送便、本日夕、九番経由、昼過ぎ通過、確定」

「後送便、というのは」

「先ほどの後送組とは、別です。書類と私物を、後方に運ぶ便です」

「書類、というのは」

「死亡通知、負傷通知、欠員報告、その他、後方への提出書類です」

 鷹見は、頷いた。

「私物、というのは」

「兵の私物。後方の家族に、戻すものです」

 言葉が、本陣の中で、半拍、止まった。

 止まったのは、笹倉の声が、止まったから、ではなかった。

 戻すもの、という言葉に、本陣の中の全員が、わずかに、反応した。

 水城が、目を、開けた。

 瀬名が、名取の脇から、視線を上げた。

 荒瀬は、目を閉じたままだったが、息の間隔が、変わった。

 白凪は、自分の胸ポケットに、手を当てた。

 当てた手の下、湿った紙片が、まだあった。

 お前の、預かる、と、白凪が、名取に言った紙片だった。

 名取は、まだ、生きていた。

 生きていたが、明日の昼まで、保つか、分からなかった。

 保たなかったら、紙片は、戻すもの、になる。


「もう一つ、あります」

 笹倉が、続けた。

「後送便は、現役兵の手紙も、運びます」

「現役兵の、というのは」

「ここにいる兵が、書いた手紙を、後方に運びます」

「書いて、いいのか」

「書いていいです。一人、一通まで」

「期限は」

「夕方までです」

 鷹見は、それだけ聞いて、頷いた。

「白凪」

「はい」

「お前、書くか」

「分かりません」

 白凪は、即答した。

 即答した、というのは、答えがある、ということではなかった。

 答えを、組む手順が、組めていない、ということだった。

 鷹見は、白凪の即答を、聞いた。

 聞いたが、それ以上は、訊かなかった。

「書けるなら、書け」

 鷹見は、それだけ言った。

「書く時は、笹倉のところに、紙と、ペンが、ある」

「了解」

 白凪は、答えた。

 答えてから、自分の右手を、見た。

 右手は、震えていた。

 震えている手で、ペンを、持てるか。

 持てたとして、書けるか。

 書く言葉が、あるか。

 書く言葉が、なくなる。

 宍倉の声が、引き出しから、出てきた。

 白凪は、その声を、押さえなかった。

 押さえずに、置いた。

 置いた場所が、震えている右手の隣だった。


 昼が、近づいた頃、白凪は、笹倉のところへ、動いた。

 動いた、というよりは、動いてしまった、と言ったほうが近かった。

 動こうと、決めたわけではなかった。

 決める前に、身体が、立ち上がっていた。

 立ち上がってから、動いた。

「笹倉」

「はい」

「紙と、ペン」

「ここです」

 笹倉は、副線の端末の脇から、紙の束と、ペンを、出した。

 紙は、薄かった。

 薄いのは、後送便で運ぶ時に、嵩を減らすためだった。

 ペンは、短かった。

 短いのは、何度も削られて、使い続けられた、ということだった。

 白凪は、紙を、一枚、取った。

 取ったあと、ペンを、握った。

 握った瞬間、右手の震えが、止まった。

 止まった、というのは、ペンを握る力で、震える筋肉が、別の動きに、置き換わったからだった。

 置き換わった動きは、震えではなかった。

 だが、震えと同じ場所から、出てきた動きだった。


 白凪は、紙を、土嚢の縁に、置いた。

 置いた紙の前で、ペンを、構えた。

 構えてから、書こうとした。

 書こうとした瞬間、頭の中で、選択肢が、並んだ。

 無事である、と書く。

 無事ではない、と書く。

 書かない、と書く。

 何も書かない。

 四つの選択肢が、頭の中に、並列で、展開した。

 展開した瞬間、白凪は、自分の頭の動きを、認識した。

 戦闘の時と、同じ動きだった。

 別働の動きを、四つに分けて、並べる。

 各選択肢の結果を、最後まで、見る。

 見た上で、最も保たせる選択肢を、選ぶ。

 その動きが、ペンを構えた手の上で、勝手に、作動した。

 白凪は、ペンを、止めた。


 止めたまま、白凪は、四つの選択肢を、見た。

 無事である、と書く。

 書いた瞬間、白凪は、それが本当ではないことを、認識する。

 昨日、戦闘の中で、半拍、間に合っていた。間に合っていなかったのは、向こうのほうだった。だが、間に合っていなかった、というのは、紙一枚の差だった。紙一枚の差で、白凪は、生きていた。

 無事、というのは、その紙一枚を、なかったことにする言葉だった。

 なかったことに、できなかった。

 無事ではない、と書く。

 書いた瞬間、それを読んだ誰かが、何を考えるか、白凪は、想像できなかった。

 想像できなかった、というよりは、想像する手順が、組めていなかった。

 組めない手順を、紙の上に、書けない。

 書かない、と書く。

 書かない、と書くのは、書いている、ということだった。

 書いている時点で、書く言葉が、ある、ということになる。

 ある言葉を、書かない、と書くのは、矛盾だった。

 矛盾を、紙の上に、置けない。

 何も書かない。

 何も書かない、というのは、書こうとして、書けない、ということではなかった。

 書く時間を、最初から、取らない、ということだった。

 だが、白凪は、もう、紙を、取っていた。

 取った紙の前に、座っていた。

 座っている時点で、何も書かない、は、選べなかった。


 四つの選択肢の、どれも、選べなかった。

 選べないまま、ペンを、止めたまま、白凪は、紙の上を、見ていた。

 見ているうちに、頭の中の並列展開が、続いた。

 無事である、と書く。

 書いた時に、それを読む誰かは、書いた紙の重さで、本当ではないことを、知る。

 無事ではない、と書く。

 書いた時に、それを読む誰かは、紙を持つ手の角度を、変える。

 書かない、と書く。

 書いた時に、それを読む誰かは、白凪が、何かを言おうとして、言えなかったことを、知る。

 何も書かない。

 届かない。届かない時間が、続く。続いた時間の中で、それを待つ誰かが、何かを、想像する。

 どれを選んでも、向こうの誰かに、何かが、起きる。

 起きる何かが、白凪には、見えなかった。

 見えない、というのは、向こうの誰かが、誰かを、白凪が、決められない、ということだった。

 決められない、というよりは、決める手順が、組めていない。

 組めていない、ということを、白凪は、ペンを止めたまま、認識した。


 認識した瞬間、白凪は、自分の手を、見た。

 ペンを握った手は、震えていなかった。

 だが、震えていない手の中で、判断の並列展開が、勝手に、続いていた。

 その並列展開は、戦闘の時に、白凪が、別働の動きを読むために、使う動きだった。

 戦闘の時に、使う動きが、手紙を書く時にも、勝手に、作動している。

 白凪は、その作動を、止めようとした。

 止めようとして、止まらなかった。

 止まらないまま、四つの選択肢が、並列で、展開し続けた。

 展開し続ける選択肢の中で、ペンは、紙の上に、降りなかった。

 降りない、というのは、選べない、ということだった。

 選べない、というのは、選ぶ手順が、組めない、ということだった。

 組めない、というのは、自分の中の何かが、壊れている、ということだった。


 白凪は、ペンを、紙の上から、外した。

 外したペンを、握ったまま、土嚢の縁に、肘を、預けた。

 預けた肘の角度で、右手の震えが、戻った。

 戻った震えを、白凪は、止めなかった。

 止める手順が、ない。

 止めようとすると、また、並列展開が、作動する。

 作動した展開は、止まらない。

 これは、おかしい。

 白凪は、その認識を、初めて、持った。

 持った認識を、引き出しに入れた。

 入れる場所は、宍倉の右脚の動きと、夜のあいだに身体が動いた感覚と、同じ場所だった。

 同じ場所に、三つが、並んだ。

 三つが並んだのを、白凪は、見た。

 見て、初めて、それが自分の代償であることを、認識した。

 代償、という言葉を、瀬名が、昨日、口にした。

 戦痕の兵の、代償の一つです。

 その言葉が、引き出しから、出てきた。

 出てきた言葉を、白凪は、押さえなかった。

 押さえずに、自分の中に、入れた。

 入れた瞬間、白凪は、自分が、削られていることを、認識した。

 削られている、というのは、戦痕を、使うたびに、自分の中の何かが、減っている、ということだった。

 減っているのは、何か。

 まだ、見えなかった。

 見えないまま、減っている。


 書けるうちに、書け。

 宍倉の声が、また、引き出しから、出てきた。

 白凪は、その声を、もう一度、聞いた。

 聞いてから、ペンを、もう一度、紙の上に、降ろした。

 降ろしたペンの先で、紙の表面を、撫でた。

 撫でただけで、書かなかった。

 書こうとして、止まる。

 止まったまま、考える。

 考えると、並列展開が、作動する。

 作動した展開を、止めるために、もう一度、ペンを、紙の上に、降ろす。

 その繰り返しを、白凪は、何度かした。

 繰り返しの中で、ふと、選択肢の並列が、薄くなった瞬間が、あった。

 薄くなった、というよりは、並列の中の、四つ目が、消えた。

 何も書かない、が、消えた。

 消えたのは、白凪が、もう、紙を、取っていたからだった。

 取った紙を、戻せない。戻すには、戻す手順が、必要だった。手順を組むには、また、並列展開が、必要だった。だから、戻せない。

 戻せないなら、書かなければならない。

 書かなければならない、というのは、選ばなければならない、ということだった。

 残った選択肢は、三つになった。

 三つの中から、選ぶ。

 白凪は、ペンを、紙の上に、降ろした。

 降ろした位置は、紙の真ん中ではなかった。

 端だった。

 端から、書き始める、というのは、書く量を、最小にする、ということだった。

 最小にする、というのは、選ばない、を、選ぶ動きに、近かった。

 だが、最小でも、書く。

 書く、というのは、書かない、よりは、何かを、選んでいる。


 白凪は、書いた。

 書いた一行が、何かは、白凪自身の中に、残った。

 残ったが、ここで、紙の上に、書き写すことは、できない。

 書き写そうとすると、また、並列展開が、作動する。

 作動した展開を、止めるために、ペンを、紙の上から、外した。

 外したペンを、笹倉のところに、戻した。

 戻したペンの脇に、書いた紙を、折って、置いた。

 折る時に、紙の角を、揃えた。

 揃える動きは、白凪の指が、勝手に、動いた。

 揃える、というのは、急がない手の動きだった。

 配属の日に、補給品の包装紙を、白凪に渡した誰かの手の動きと、同じだった。

 白凪は、その動きを、自分の指で、再生した。

 再生した、というのは、思い出した、ということではなかった。

 身体が、覚えていた、ということだった。

 覚えていた身体が、急がない手で、紙の角を、揃えた。

 揃えた紙を、笹倉のペンの脇に、置いた。


「白凪二等兵」

 笹倉が、副線の端末の前から、白凪を、呼んだ。

「はい」

「書きましたか」

「書きました」

「夕方の後送便に、入れます」

「お願いします」

 笹倉は、白凪の折った紙を、受け取った。

 受け取って、副線の端末の脇の、別の小さな箱に、入れた。

 箱の中には、もう一通、別の紙が、入っていた。

 白凪は、その別の紙を、見なかった。

 見なかった、というのは、見るべきではない、と、笹倉が、箱の蓋の動きで、示していたからだった。

 別の紙を、誰が書いたかは、白凪には、分からなかった。

 分からないまま、箱の蓋が、閉じた。


 白凪は、本陣の脇に、戻った。

 戻った位置は、土嚢の影。座る姿勢に、戻った。

 戻った瞬間、右手の震えが、また、戻った。

 戻った震えを、白凪は、見た。

 見たが、止めなかった。

 止めようとすると、並列展開が、作動する。

 作動を、止めない。

 止めない、というのが、白凪の、新しい休みだった。


 瀬名が、名取の脇から、白凪のほうを、見た。

 見た目は、白凪の右手だった。

 見ていたが、何も言わなかった。

 言わない、というのが、瀬名の言葉だった。

 それが、戦痕の兵の、代償です。

 昨日、瀬名が、宍倉の脚の動きを見て、口にした言葉が、白凪の中で、もう一度、聞こえた。

 聞こえた言葉を、白凪は、押さえなかった。

 押さえずに、自分の中に、入れた。

 入れた瞬間、白凪は、自分が、宍倉と、同じ側にいることを、認識した。

 同じ側、というのは、戦痕の兵、という側だった。

 その側に、白凪は、自分の名前を、置いた。

 置いた場所は、引き出しの、また別の場所だった。

 別の場所に、置いた、というのは、置く場所が、まだ、決まっていない、ということだった。

 決まらないまま、白凪は、座っていた。


 昼が、過ぎた。

 名取の息は、午前中より、さらに、浅かった。

 瀬名は、名取の額に、手のひらを当てたまま、しばらく、動かなかった。

 動かないまま、名取の脇の、新規負傷者を、見た。

 新規負傷者は、夜のあいだに、息の間隔が、変わっていた。

 変わった間隔は、安定の方向へ、動いていた。

 こちらは、保つ。

 瀬名は、白凪に、目だけで、それを伝えた。

 白凪は、頷いた。

 頷いて、自分の胸ポケットに、手を当てた。

 当てた手の下、湿った紙片が、まだあった。

 名取の紙片だった。

 名取は、まだ、生きていた。

 生きているあいだは、紙片は、預かったものだった。

 保たなくなったら、紙片は、戻すものになる。

 戻すもの、というのは、後送便で、後方に運ばれる、ということだった。

 今、笹倉の脇の箱の中に、白凪が書いた一行が、入っていた。

 その箱の中に、もし、名取の紙片も、入ることになるなら、それは、夕方より前に、決まる。

 夕方までに、名取が、保つか、保たないか。

 白凪は、その境界を、引き出しの中で、別の場所に、置いた。

 置く場所は、まだ、決まらなかった。


 夕方が、近づいた頃、笹倉が、本陣に、声を上げた。

「鷹見軍曹」

「読め」

「副線、後方より。後送便、九番経由、確認。夕方、出発予定」

「了解」

 鷹見は、笹倉の脇の箱を、見た。

「中身は」

「二通です」

「二通、というのは」

「白凪二等兵と、もう一名」

 鷹見は、それだけ聞いて、頷いた。

 頷いてから、白凪を、見た。

 見たが、何も言わなかった。

 言わなかったのは、白凪が書いた、という事実が、それで足りる、ということだった。

 書いた中身は、誰も、訊かなかった。

 訊かれなかった、というのが、白凪が、書いた、という事実を、引き受けた、ということだった。


 名取は、夕方まで、保った。

 保った、というのは、息が、止まらなかった、ということだった。

 止まらなかったが、明日の昼まで、保つかは、分からなかった。

 瀬名は、名取の脇から、動かなかった。

 動かない瀬名の脇に、白凪は、夕方近くに、戻った。

「瀬名さん」

「はい」

「名取の、紙片」

「はい」

「明日まで、預かります」

「分かりました」

 瀬名は、それだけ答えた。

 答えてから、白凪の右手を、見た。

 白凪の右手は、震えていた。

 震えている手で、白凪は、自分の胸ポケットの、紙片の上を、押さえていた。

 押さえているのは、震えを、止めるためだった。

 止まっていなかった。

 だが、紙片は、白凪の手の下にあった。

 あるあいだは、預かったもの、のままだった。


 後送便が、九番の脇を通ったのは、日が落ちる前だった。

 通った、というのは、運搬兵が、入口で、笹倉から、箱を受け取った、ということだった。

 受け取った箱の中に、白凪の書いた一行と、もう一通が、入っていた。

 もう一通を、誰が書いたかは、白凪には、分からなかった。

 分からないまま、箱は、運搬兵の背に、入った。

 運搬兵は、入口を出た。

 出た方向は、北だった。

 北は、宍倉が、昨夜、運ばれた方向と、同じだった。

 同じ方向に、白凪の書いた一行が、運ばれていった。

 運ばれていく音が、土の上に、消えた。

 消えた音の代わりに、夕方の風が、入口から、入ってきた。

 風は、昨日より、少しだけ、冷たかった。


 白凪は、自分の右手を、見た。

 右手は、まだ、震えていた。

 震えているが、ペンを、もう、握っていなかった。

 握っていない手は、震える。

 握っているか、引き金にかけているか、どちらかでなければ、震える。

 震えない時間が、減っていく。

 白凪は、その認識を、引き出しに入れた。

 入れたが、置く場所は、もう、決まっていた。

 代償、という場所だった。

 代償の場所には、三つが、並んでいた。

 手の震え。

 眠っているのに身体が動こうとする感覚。

 戦闘的な並列展開が、戦闘以外でも、作動する歪み。

 三つを、白凪は、自分の中で、認めた。

 認めた、というのが、自覚だった。

 自覚したが、誰にも、言わなかった。

 言わない、というのが、瀬名が、何も言わなかったことの、白凪の側の、答えだった。


 夜が、来た。

 来たが、別働は、出なかった。

 久我の双眼鏡は、断尾嶺の方向に、向いたままだった。

 主力は、まだ、動き続けていた。

 動いている方向は、南だった。

 南、というのは、芦森補給廠の方向だった。

 白凪は、土嚢の影に、横になった。

 横になった瞬間、身体が、動こうとした。

 動こうとする身体を、押さえなかった。

 押さえずに、置いた。

 置いたまま、目を閉じた。

 閉じた目の奥で、四つの選択肢の、薄くなって消えた四つ目が、もう一度、見えた。

 何も書かない、が、消えた瞬間。

 消えた瞬間に、白凪は、書く側を、選んでいた。

 選んでいた、というのは、書かない、を、捨てた、ということだった。

 書かない、を捨てたのは、宍倉の声があったからだった。

 書けるうちに、書け。

 その声が、引き出しの中で、白凪の選択を、押した。

 押された結果、白凪は、書いた。

 書いた一行が、今、北に運ばれていく。

 運ばれていく先で、誰かが、それを受け取る。

 受け取った誰かが、何を、想像するかは、白凪には、見えなかった。

 見えないまま、書いた。

 見えないまま、書く、というのが、白凪の、選択だった。


 夜のあいだに、笹倉が、副線の端末の前で、応答を、待っていた。

 応答は、来なかった。

 来ない応答を、笹倉は、待ち続けた。

 待ち続けた笹倉の声が、夜のあいだに、一度、雑音越しに、薄くなった。

 薄くなったあと、戻ってきた。

 戻ってきた声は、いつもの笹倉の声より、低かった。

 低いのは、夜の温度だった。

 夜の温度の中で、白凪は、自分の身体の動きを、置いたまま、目を閉じていた。

 閉じた目の奥で、選択肢の並列が、もう、作動していなかった。

 作動していない、というのは、書いた、という事実が、置き場所を、作った、ということだった。

 置き場所が、できた。

 できた場所が、何かは、白凪には、まだ、見えていなかった。

 見えていないまま、夜が、続いた。

 続く夜の中で、名取の息は、まだ、止まっていなかった。

 止まっていないが、明日の昼まで、保つかは、まだ、分からなかった。

 分からないまま、白凪は、自分の胸ポケットの上に、震える右手を、置いた。

 置いた手の下、紙片は、湿ったまま、白凪の側に、あった


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