第4章 第二部 後送
第二部 後送
昼が、来た。
来たことは、土の温度ではなく、副線の応答の遅さで、白凪は気付いた。
笹倉が、後方からの応答を、いつもより半拍遅く、復唱していた。遅いのは、雑音が増えたから、ではなかった。応答する側が、忙しくなったということだった。後方が忙しくなる、というのは、どこかの陣地が、また削られた、ということだった。
白凪は、観測壕の手前に、まだいた。
引き金にかけた右手は、置いたままだった。
置いたままにしている右手の下、土嚢の表面が、朝より一段だけ、温まっていた。
昼だった。
「白凪二等兵」
笹倉が、副線の端末から、短く声を上げた。
「鷹見軍曹からです」
「了解」
白凪は、観測壕の手前から、本陣に降りた。
降りる動線で、踏み板の上を、二歩飛ばした。二歩飛ばす癖は、最近ついた。歩数を数えるより、土嚢の角度で位置を確かめるほうが、早い。
本陣に着くと、鷹見は、地図の前にいた。
地図の上には、午前中までになかった、新しい線が一本、引かれていた。線は、九番の脇から、東の方向へ、わずかに伸びていた。
「後送組、もうすぐだ」
鷹見は、白凪を見ずに、地図の線を指で押さえた。
「半日、ここに留まる」
「半日、ですか」
「向こうの輸送組の事情だ。詳しいことは、副線では届いてない」
「了解」
「お前、宍倉伍長の脇に付け」
「宍倉、というのは」
「来るうちの一人だ。腹部負傷。野戦病院まで搬送中。ここに半日いて、夜のうちに後方へ出る」
「脇に付くのは、何のためですか」
「中継だ。宍倉は、口がきける。だが、瀬名が手を空けられない。輸送組の輸送兵は、別の任務を抱えてる。お前が、宍倉と輸送兵のあいだで、必要な話を運ぶ」
「了解」
「もう一つ」
鷹見は、そこで一拍置いた。
「宍倉は、東斜面の別陣地から、来る。お前らとは、違う隊だ」
「違う隊、というのは」
「お前らが、知らない話を、向こうは知ってる。聞かされる話は、聞け。だが、こちらから訊くな」
「了解」
「以上だ」
白凪は頷いて、本陣を離れた。
離れる時に、地図の上の新しい線を、もう一度、視界の端に入れた。線は、九番の脇から、東に伸びていた。東に伸びた先の地名は、書かれていなかった。
書かれていない、ということは、書く必要がない、ということだった。
書かなくても、知ってる人間が、ここに来る。
後送組が壕の入口に着いたのは、昼の少しあとだった。
輸送兵が二人、担架を一つ、運んでいた。担架の上に、人がいた。動かない、ではない。動こうとしている人だった。
動こうとして、動けない。
白凪は、入口の脇で、輸送兵に道を開けた。輸送兵の片方が、白凪に短く頷いた。頷きの深さで、その兵が、何時間歩いてきたか、白凪は察した。深い頷きではなかった。深く頷くと、首が前に行きすぎて、戻ってこない。だから、浅い。
担架は、本陣の奥へ運ばれた。
瀬名は、名取の脇から、半歩だけ動いた。半歩、というのは、衛生箱に手が届く距離だった。それ以上動くと、名取の容態を、見続けられない。
担架の上の兵が、瀬名のところまで運ばれた時、初めて目を開けた。
目を開けた、というよりは、閉じる力が、なくなったように見えた。
白凪は、担架の脇に立った。
「宍倉伍長」
白凪は、名前を口にした。
兵は、白凪の顔を、見た。
見たが、すぐに視線を、別の場所に動かした。
動いた先は、名取だった。
名取は、寝かされたまま、息をしていた。息の上下は、午前中より、さらに浅かった。
宍倉は、名取を見て、何も言わなかった。
言わなかったことが、言ったのと、同じだった。
瀬名が、担架の脇に膝をついた。
「腹部、貫通ですか」
瀬名は、輸送兵に訊いた。
「分かりません」
輸送兵が答えた。
「東斜面で、応急だけ。詳しい確認は、できてません」
「分かりました」
瀬名は、宍倉の上着の合わせを、開いた。開いた下から、布が出てきた。布は、暗い色をしていた。
「血、止まってます」
「止まってる、というのは」
「外側は」
瀬名は、それだけ言って、布の端を、わずかにめくった。
めくったあと、すぐに戻した。
戻したのは、続けてめくると、内側の固まりが、剥がれるからだった。
「内側は、分かりません」
瀬名は、輸送兵に告げた。
「ここでは、開けません。後方の野戦病院まで、このまま保たせます」
「保ちますか」
「分かりません」
瀬名はそう答えてから、宍倉の額に、手のひらを当てた。
「熱は、あります。だが、まだ、上がりきっていない」
宍倉は、目を開けたまま、瀬名の手のひらを、受けていた。
受けながら、何か言おうとした。
「水」
声は、低かった。だが、聞こえた。
「飲ませてください」
瀬名は、白凪を見た。
見ただけで、何も言わなかった。
白凪は、自分の腰の水筒を外した。
外しながら、残量を確かめた。半分だった。朝に水城の指示で入れた半分が、まだ、半分のまま残っていた。
自分の分の水を、誰かに渡す、という動きを、白凪は、迷わなかった。
迷わなかった、ということを、白凪は、後で、引き出しに置いた。
水筒の縁を、宍倉の口元に当てた。少しだけ、傾けた。一口分。それ以上は、傾けなかった。
宍倉は、一口分だけ飲んで、口を閉じた。
閉じた口の端から、わずかに、水が漏れた。
漏れた分を、瀬名が、布で拭った。
「ありがとう」
宍倉は、白凪に向かって、短く言った。
声に、礼の温度はなかった。だが、ありがとう、という言葉だった。
「いえ」
白凪は答えた。
答えてから、自分の声が、いつもより、丁寧だったことに気付いた。
気付いたが、修正しなかった。
修正する、というのは、相手を、自分と同じ位置の兵として扱う、ということだった。
宍倉は、自分と同じ位置の兵では、なかった。
輸送兵の片方が、本陣の鷹見と、短く話していた。
話の内容は、白凪のところまでは、届かなかった。届いた断片だけ、白凪は拾った。
夜のうち、出る。
経路、変更。
枯枝街道、避ける。
断片は、断片のまま、白凪の引き出しに入った。
枯枝街道を避ける、というのは、後送組が、別のルートで後方に向かう、ということだった。別のルート、というのは、白凪の知らない道だった。
知らない道を、輸送兵は知っていた。
知っている、ということが、輸送兵の経歴の長さだった。
輸送兵のもう片方は、入口の脇に座って、目を閉じていた。閉じているが、寝ていない。寝ない、というのは、半日後に、また歩き出すからだった。
「白凪二等兵」
宍倉が、白凪を呼んだ。
声は、さっきより、少しだけ、明瞭だった。
「はい」
「お前、若いな」
「二十です」
「徴兵か」
「はい」
「そうか」
宍倉は、それだけ言って、目を閉じた。
閉じたが、すぐに、また開いた。
「俺が、この戦線に来た時は、まだ、志願だった」
「はい」
「隣の隊の半分は、俺と、同じだった」
宍倉は、そこで一拍置いた。
「志願が、枯れた」
言葉は、短かった。
だが、その短さの中に、何年分かの時間が、入っていた。
白凪は、その「枯れた」を、引き出しに入れた。
入れたが、すぐに、別の場所に動かした。動かす場所は、まだ決まっていなかった。
「枯れた、というのは」
白凪は、訊いた。
鷹見は「こちらから訊くな」と言った。だが、宍倉が話している。話している相手の続きを、訊くのは、訊く、とは、違う。
「枯れた、というよりは、足りなくなった」
宍倉は答えた。
「最初は、来る奴が、減った。次に、来る奴が、来なくなった。それで、徴兵が、来た」
「俺が、それです」
「そうだ」
宍倉は、白凪を見た。
「だが、来た理由が違っても、ここでやることは、同じだ」
「はい」
「同じ、というのは、生き残る、ということだ」
「はい」
「生き残る、というのが、できないやつから、消える」
宍倉は、そこで、また目を閉じた。
閉じた目の上を、瀬名が、布で拭った。
布は、汗を吸って、湿った。
半時間ほど、宍倉は、目を閉じたままだった。
閉じている、というのは、寝ている、ということではなかった。
白凪は、宍倉の身体の動きを、見ていた。
見ていた、というよりは、見えていた。
宍倉の右脚が、一定の間隔で、わずかに動いた。
動く、というほどの動きではない。指先が、ほんの一センチほど、上下する。それだけだった。
だが、間隔が、一定だった。
眠っているのに、身体が動こうとしている。
白凪は、その動きを、自分の身体の感覚と、重ねた。
朝、土嚢の影で目を開けた時、自分も、横になった瞬間に、身体が動こうとしていた。動こうとする身体を押さえて、目を閉じた。
その時の自分の身体の動きと、宍倉の右脚の動きは、同じだった。
白凪は、瀬名のほうを、見た。
瀬名は、宍倉の脚の動きを、見ていた。
見ていた、ということが、瀬名にも、それが何かが、分かっている、ということだった。
「瀬名さん」
白凪は、低い声で、呼んだ。
「これは、何ですか」
瀬名は、白凪の顔を、見た。
見たが、すぐに視線を戻して、宍倉の脚を見た。
「戦痕の兵に、多い動きです」
瀬名の声は、低かった。
白凪は、その声を、引き出しに入れた。
入れたが、すぐに、別の場所に動かした。動かす場所は、まだ決まっていなかった。
「多い、というのは」
「断定はしません」
「はい」
「ですが、私が見てきた中で、こういう動きをする兵は、戦闘の中で、半拍早い動きを、何度かしている兵でした」
白凪は、自分の右手を、見た。
右手は、引き金にかけた位置で、置いたままだった。
置いたままだから、震えていなかった。
「眠れますか」
瀬名は、白凪に訊いた。
訊いたが、答えを待っていなかった。
「眠ろうとしても、身体が動こうとする。動く身体を、押さえないと、眠れない。押さえているうちに、夜が明ける」
瀬名は、宍倉の脚の動きを、見ていた。
「これは、戦痕の兵の、代償の一つです」
「代償、というのは」
「身体が、戦闘を、続けようとする。寝ている時にも。動かない時にも」
「止まりますか」
「分かりません」
瀬名は、それだけ答えた。
答えてから、宍倉の上着の合わせを、半分閉じた。半分閉じたのは、温度を保つためだった。閉じきると、傷の状態が、見えなくなる。
白凪は、宍倉の右脚の動きを、もう一度、見た。
動きは、止まっていなかった。
止まらないまま、宍倉は、眠っていた。
夕方が近づいた頃、宍倉が、また目を開けた。
目を開けて、最初に、白凪を見た。
「水、もう一口、いいか」
宍倉は訊いた。
「はい」
白凪は、水筒を、もう一度、宍倉の口元に当てた。
一口分。それ以上は、傾けなかった。
宍倉は、飲んでから、口を閉じた。
閉じてから、白凪を、もう一度、見た。
「お前、家族に、手紙、書いたか」
訊かれた。
白凪は、答えに詰まった。
詰まった、というのは、答えがない、ということではなかった。答えを、口にする手順が、組めていないということだった。
「書いてません」
白凪は、結局、そう答えた。
「書けるうちに、書いとけ」
宍倉は、それだけ言った。
「書けなくなる、ということは、ありますか」
「ある」
宍倉は、即答した。
「書く時間が、なくなる、というのは、ある。だが、それより前に、書く言葉が、なくなる」
「言葉が、なくなる、というのは」
「書こうとして、書けなくなる」
宍倉は、目を、閉じた。
「俺は、最後の手紙を、書けなかった」
声は、低かった。
「書こうとした。だが、書く言葉が、出なかった。出なかったまま、ここまで来た」
「届けたい相手は」
白凪は、訊いた。
訊いた瞬間、訊いていいことかは、分からなかった。
宍倉は、目を閉じたまま、答えた。
「いる」
「分かりました」
「お前、書けるうちに、書け」
「はい」
「書ける言葉が、まだ、お前にある」
宍倉は、それだけ言って、また、息の間隔を変えた。
変えた間隔は、眠りの間隔だった。
だが、右脚の指先は、また、一定の間隔で、動いていた。
日が落ちる前、輸送兵が、本陣に短く声をかけた。
「鷹見軍曹、夜のうちに、出ます」
「分かった」
「宍倉伍長は、運べます。瀬名さんの応急処置で、夜まで保ちます」
「了解」
「ご厚意、感謝します」
輸送兵の言い方は、形式的だった。
形式的だったのは、これが何度目の通過か、輸送兵自身が、覚えていないからだった。
鷹見は、頷いた。
頷いてから、白凪を、見た。
「白凪、宍倉伍長を、入口まで運ぶのを、手伝え」
「了解」
白凪は、担架の片方の柄を、持った。
担架は、宍倉の体重で、わずかに、傾いた。
傾いたが、白凪の左手は、その傾きを、手のひらで受けた。
受けた手のひらの中に、荒瀬の脇腹を押さえた感覚が、まだ、残っていた。
残ったまま、宍倉の重さが、加わった。
二つの重さは、同じ場所に、入った。
入口で、宍倉は、目を開けた。
開けた目で、白凪を、見た。
「世話になった」
「いえ」
「水、ありがとう」
「いえ」
宍倉は、それだけ言って、目を閉じた。
閉じた目の上を、輸送兵が、布で軽く覆った。覆ったのは、夜のあいだに、目を開けた時に、外の冷気で、痛まないようにするためだった。
担架は、輸送兵に渡された。
白凪は、担架から手を離した。
離した手の中に、宍倉の体重の感覚が、残った。
残ったまま、輸送兵は、入口を出た。
出る方向は、九番の東。地図の上で、新しい線が引かれていた、東斜面の方向だった。
だが、輸送兵は、東に行く前に、北へ折れた。
北へ折れたのは、枯枝街道を、避けるためだった。
避けた先の道を、白凪は、知らなかった。
知らない道を、輸送兵は、宍倉を抱えて、進んでいった。
進んでいく音が、土の上に、消えた。
消えた音の代わりに、夕方の風が、入口から、入ってきた。
風は、冷たかった。
冷たい風の中に、宍倉の声の残響が、残っていた。
書けるうちに、書け。
白凪は、その言葉を、引き出しに入れた。
入れたが、置く場所は、まだ、決まらなかった。
壕の本陣に戻ると、瀬名は、名取の脇に戻っていた。
戻った瀬名の手の動きは、午前中より、わずかに、遅かった。
遅いのは、宍倉の応急に手を回したからだった。
名取の息は、午前中より、さらに、浅くなっていた。
瀬名は、名取の額に、手のひらを当てた。
当てたまま、しばらく、動かなかった。
動かないまま、白凪を、見た。
「白凪二等兵」
瀬名は、低い声で、呼んだ。
「はい」
「明日の朝までは、たぶん、保ちます」
「はい」
「ですが、明日の昼は、分かりません」
「了解」
白凪は、それだけ答えた。
答えてから、自分の右手を、見た。
右手は、引き金にかけた位置にはなかった。担架を持った時に、外したまま、戻していなかった。
白凪は、右手を握った。
握った瞬間、震えが、あった。
震えは、朝より、わずかに、強くなっていた。
白凪は、握って、止めた。
止めて、また開いた。
開いた手は、震えていた。
握って、止めた。
その繰り返しを、白凪は、二度した。
二度目に止めた時、瀬名が、白凪の手を、見た。
見たが、何も言わなかった。
何も言わない、というのが、瀬名の答えだった。
夜が、来た。
来たが、別働は、出なかった。
久我の双眼鏡は、断尾嶺の方向に、戻っていた。主力は、まだ、左から右に、動き続けていた。
白凪は、土嚢の影に、横になった。
横になった瞬間、身体が、動こうとした。
動こうとする身体を、押さえた。
押さえながら、目を閉じた。
閉じた目の奥で、宍倉の右脚の動きが、見えた。
身体が、戦闘を、続けようとする。
瀬名の言葉が、引き出しから、出てきた。
出てきた言葉を、白凪は、押さえなかった。
押さえると、押さえる手が、震える。
震える手で押さえると、また、震えが、止まらなくなる。
だから、押さえずに、置いた。
置いたまま、目を閉じた。
閉じた目の奥で、宍倉の声が、もう一度、聞こえた。
書けるうちに、書け。
白凪は、その声を、置いた場所に、もう一つ、重ねた。
重ねた重さが、自分の中で、夜の長さと、揃った。
揃った瞬間に、白凪は、ようやく、息を、深く吸った。
吸った息は、冷たかった。
冷たいまま、吐いた。
吐いた後で、また、身体が、動こうとした。
白凪は、もう、押さえなかった。
動こうとする身体を、動こうとするまま、置いた。
置いたまま、夜が、続いた。
続く夜の中で、白凪は、眠ったか、眠らなかったか、自分でも分からない時間を、過ごした。
過ごしながら、引き出しの中に、新しい場所が、また、増えた。
増えた場所が、何かは、まだ、見えていなかった。
見えていないまま、明日の朝が、来る。
明日の昼に、名取が、保つかは、まだ、分からなかった。




