第4章 第一部 残響
第一部 残響
二度の夜が、過ぎた。
九日目の昼に「夜、また来る」と鷹見が言った夜は、来た。次の夜も、来た。二度とも、別働が出た。二度とも、退かせた。退かせたが、退かせた、というのは、こちらが追い払ったのではなく、向こうが時間を計算して退いた、という意味だった。
退いた向こうの分だけ、こちらの何かが、減った。
弾薬が減った。水が減った。包帯が減った。
兵は、減らなかった。減らなかったのは、増えなかったから、ではない。誰も、新しく死ななかったから、ではない。動けない兵が、動けないまま残っているだけだった。
白凪は、二度の夜のあいだに、二度とも観測壕の手前にいた。
二度とも、引き金を引いた。
二度とも、当たったかは確かめなかった。
十一日目の朝、白凪は土嚢の影で目を開けた。
眠っていたかは、分からなかった。
眠っていなかった、ともいえなかった。
眠ろうとして横になった瞬間に、身体が動こうとする感覚があった。動こうとする身体を押さえて、目を閉じる。閉じた目の奥で、別働の動きの並列が、勝手に展開する。展開しているあいだ、目を閉じている意味はない。だが、開けても、見るものはない。
だから、開けるか、閉じるかの違いだけになる。
十一日目の朝は、開ける側だった。
「白凪、起きてるか」
水城の声だった。
水城は、北側から戻ってきていた。土嚢の補修ではない。踏み板の張り替えを始めていた。張り替え、というのは、補修の段階を超えた作業だった。補修できるあいだは、補修する。補修できなくなったら、張り替える。張り替えれば、しばらくは保つ。だが、張り替えに使う材料は、有限だった。
「起きてます」
「水筒」
水筒、と水城は短く言った。
白凪は、腰の水筒を確かめた。残量は、四割を切っていた。
二度の夜のあいだに、自分の水を、二度、別の兵に分けた。一度は荒瀬に。一度は、瀬名から「名取に少し」と頼まれて。
頼まれた時、白凪は黙って渡した。渡しながら、自分の水筒の重さが、配属の日の重さと、もう違っていることを確かめた。
水城は、白凪の水筒の振り方を見て、頷いた。
「補給、来てる」
「来てるんですか」
「二輌目だ。昨日の夕方に着いた。お前、戦闘中だったから、知らないか」
「知りません」
「水、半分、入れろ」
「半分、ですか」
「半分以上は、入れるな。次が、いつかは、また分からん」
白凪は分かりました、と返事をした。
返事をした自分の声が、いつもより、低かった。
低かったのは、起きたばかりだから、ではなかった。
壕の本陣に降りると、鷹見は地図の前にいた。
地図の上には、二度の夜の戦闘の経過が、点線で書き込まれていた。点線は、二本とも、九番の正面に出ていた別働の経路だった。一本目と二本目で、経路が違っていた。
違っていた、ということは、向こうが学習している、ということだった。
学習している敵に対して、こちらは、毎回同じ位置で受け止めている。
毎回同じ位置で受け止められるのは、こちらが選んでいるからではなかった。動かせる位置が、それ以外にないからだった。
「白凪」
鷹見が、地図から目を上げた。
「観測壕の手前、戻れ」
「了解」
「ただし」
鷹見は、地図の上の点線を、指で辿った。
「今日は、別働、出るかどうか分からん。出ない可能性のほうが、高い」
「根拠は」
「二度、退いた。三度目は、向こうも、別の手を考える」
「別の手、というのは」
「分からん。だが、二度同じ手を取った後、三度目に同じ手を取るのは、揃って動く部隊では珍しい」
白凪は、それを覚えた。
覚えた、というのは、頭の中の引き出しに置いた、という意味だった。今日の判断のために置く。今日が終わったら、別の場所に動かす。動かす場所は、まだ決まっていなかった。
「もう一つ」
鷹見が続けた。
「副線、後方から連絡。東斜面、別陣地、後送組、通過予定だ」
「東斜面、というのは」
「ここから、東に二里。別の陣地が、夜のあいだに、削られた。負傷者の後送組が、九番の脇を通る。たぶん、昼過ぎだ」
「滞在しますか」
「分からん。状態次第だ」
鷹見はそれだけ言った。
白凪は、その情報を、引き出しの別の場所に置いた。後送組、という言葉が、手紙、という言葉と、自分の中で半分繋がりかけた。繋がりかけて、止まった。
止まったのは、繋ぐ理由が、まだ分からなかったからだった。
観測壕の手前に戻ると、久我が双眼鏡を構えていた。
構え方が、二度の夜の前と、少しだけ違っていた。
前は、断尾嶺の主力の方向に、双眼鏡が固定されていた。今は、固定の位置から、ゆっくりと左へ振れていた。
「久我さん」
「白凪二等兵、お疲れ様です」
「双眼鏡、左に振ってますね」
「振ってます」
「断定はしません、ですか」
白凪は、いつもの久我の口癖を、先回りした。
久我が、口を開きかけて、止めた。
止めたあと、双眼鏡から目を離さずに、答えた。
「断定はしません」
「ですが」
「ですが、左から右に動いていた主力の、最後の二輌だけが、昨日の夜に、止まりました」
止まった。
白凪は、その「止まった」を、黙って受け取った。
左から右に、揃って動き続けていた主力。その最後の二輌が、止まった。揃って動く部隊の、最後の二輌が止まる、ということは、主力の動きが、完了に近いということだった。
完了したら、次の段階に入る。
次の段階が、何かは、まだ分からない。
だが、主力が動き終わった後の、こちらの位置が、これからの戦闘の鍵になる。
「鷹見軍曹に、伝えます」
久我は短く言った。
「自分が、伝えに行きます」
白凪は、観測壕の手前から、本陣へ動いた。
動きながら、自分の脚の感覚を、確かめた。
脚は、二度の夜の疲労が、まだ抜けていなかった。だが、抜けていない疲労が、白凪の動きを遅くはしていなかった。遅くはしていない、というのは、疲労が動きの一部に組み込まれた、ということだった。
本陣で、白凪は鷹見に久我の観測を伝えた。
鷹見は、すぐに地図に書き加えた。
書き加えながら、笹倉のほうへ振り向いた。
「副線、後方への伝達。九番、断尾嶺主力、最後尾二輌停止を観測。久我観測員、断定なし。九番から、状況送付」
「断尾嶺主力、最後尾二輌停止、観測。久我観測員、断定なし。九番から、状況送付」
笹倉が復唱した。
復唱の声が、二度の夜の前と、わずかに違っていた。
声の質ではない。復唱の速さだった。
以前の笹倉は、復唱を、相手の言葉の語尾に被せるように出していた。今は、語尾の終わりまで聞いてから、復唱を始めていた。
その差を、白凪は、すぐには言葉にできなかった。
言葉にできないが、笹倉が聞き取りにくくなっていることを、認識した。
雑音のせいではなかった。
たぶん、笹倉自身の耳が、消耗している。
本陣の奥から、瀬名が顔を上げた。
「鷹見軍曹」
瀬名の声が、いつもより、わずかに低かった。
「名取、悪化しています」
鷹見は、地図から目を上げた。
「どの程度」
「明日まで、持つかどうかです」
「分かった」
鷹見はそれだけ答えた。
答え方が、いつもの「分かった」と、違っていた。
違っていたが、白凪には、何が違うかを、すぐには言葉にできなかった。
言葉にできないまま、瀬名のほうへ視線を移した。
瀬名は、名取の脇に戻っていた。包帯を巻き直す手の動きが、二度の夜の前と、変わっていなかった。
変わっていなかったのは、瀬名がそれを「持たせる」という形でやっているからだった。
持たせる、というのは、状態を維持する、という意味ではなかった。最後まで、保たせる、という意味だった。
白凪は、観測壕の手前に戻った。
戻る道で、自分の右手の感覚を、確かめた。
右手は、引き金にかける位置で、止まっていた。
止まっていた、というのは、握っているのでも、開いているのでもない、引き金にかける形のまま、固まっている、ということだった。
二度の夜のあいだに、引き金を引いた回数は、合わせて七回だった。
七回のうち、当たったかは、確かめなかった。
確かめないことが、自分の手順になっていた。
手順になっていることが、二度の夜の前とは、違っていた。
昼が近づいた頃、別働の予兆は、まだ出なかった。
久我の双眼鏡は、左の方向を、見続けていた。
断尾嶺の主力の、最後尾二輌は、止まったままだった。
止まったまま、他の輌は、もう前に進んでいた。前に進んでいる輌と、止まっている輌のあいだに、距離が開いた。距離が開けば、揃って動く部隊の隊列が、崩れる。崩れた隊列を、向こうの指揮系統は放置できない。放置できないなら、何かを動かす。
動かすのは、止まっている二輌か、進んでいる輌か、どちらかだった。
止まっている二輌が動けば、後尾の合流。 進んでいる輌が止まれば、前進の中断。
どちらでも、こちらにとっては、観測の対象になる。
その時、断尾嶺の方向で、低い音が一つ鳴った。
砲声ではなかった。
もっと近い。距離は、九番の正面の中ほど。
「九番、正面、来ました」
久我の声だった。
「数」
鷹見の声が、本陣から飛ぶ。
「四。歩兵」
「速度」
「速いです」
速い、と久我が言ったのは、二度の夜の別働とは違う、ということだった。
二度の別働は、止まっていた。あるいは、ゆっくり前進していた。
今度は、速い。
速いということは、こちらの観測に間を与えない、ということだった。
間を与えない、ということは、こちらの判断に時間を取らせない、ということだった。
鷹見が言った「別の手」が、これだった。
白凪は、引き金にかけた指の力を、抜かなかった。
抜くと、戻すのに時間がかかる。
久我の観測角度が、左から正面へ振れた。振れた瞬間、白凪の射線も、正面へ動いた。
動いた、というのは、白凪が動かしたのではなかった。
身体が、久我の双眼鏡の角度を、勝手に追っていた。
考える前に、合っていた。
考えるのは、合った後で、やればいい。
その手順が、二度の夜のあいだに、白凪の中に入った。
入ったまま、起きていた。
別働の四人は、土嚢の隙間の遠い側に、入った。
入った瞬間、白凪は引き金を引いた。
引いた、というよりは、引いていた。
引いた音が、自分の耳に届く前に、別働の中の一人が、姿勢を崩した。
崩した、というのは、撃たれた、ということだった。
白凪は、確かめなかった。
確かめる前に、二発目を、別の角度に置いた。
二発目は、当たらなかった。当たらなかったが、別働の三人の進路を、わずかに右へ寄せた。寄せた先で、水城の射線と、笹倉の射線が、重なっていた。
水城の射線から、一発。
別働の中の、もう一人が、姿勢を崩した。
残った二人が、止まった。
止まった、ということは、進む選択肢を捨てた、ということだった。
捨てた選択肢の代わりに、二人は退いた。退いた方向は、断尾嶺の正面ではなかった。左。主力の最後尾二輌が止まっている方向だった。
退いた二人が、止まっている二輌に合流すれば、こちらの観測対象が、また増える。
増えるが、それは、後の話だった。
今は、別働四人のうち、二人を倒し、二人を退かせた、という事実だけが、残った。
「白凪」
鷹見の声が、本陣から飛んだ。
「観測、続けろ。久我、左への動きを追え」
「了解」
白凪は、引き金にかけた指を、離した。
離した瞬間、右手が、震えた。
震えは、最初は気付かなかった。
気付いたのは、土嚢の縁に右手を置いた時に、土嚢の表面に、わずかな振動が伝わったからだった。
白凪は、自分の右手を、見た。
震えている。
握れば、止まる。
握って、止めた。
止めたが、開けば、また震える。
開いて、また握って、止めた。
止めたまま、引き金にかけた位置に、置き直した。
置き直した手は、震えなかった。
置き直したから、震えなかった。
置き直さない位置にいる時に、震える。
戦闘の終結を、笹倉が後方に伝達した。
「九番、正面、別働、四接近、二倒、二退却」
復唱が、後方から返ってきた。
復唱の声は、雑音にまみれていた。
笹倉は、復唱の語尾を、最後まで聞いてから、応答を返した。
応答の声が、いつもの笹倉の声より、わずかに高かった。
高かったのは、雑音越しに聞こえやすくするため、ではなかった。
笹倉自身が、自分の声を、もう一度、自分で聞き直そうとしているように、白凪には聞こえた。
その聞き直しの動きを、白凪は、自分の右手の握り直しと、半分重ねた。
別働の左への退却を、久我は追い続けた。
追い続けた先で、退いた二人は、断尾嶺の主力の最後尾二輌に、合流しなかった。
合流せずに、別の方向へ消えた。
消えた方向は、地図の上で、九番の後方に当たる方向だった。
後方、というのは、こちらの後方ではなかった。
別働から見ての、後方。
つまり、向こうの陣地の方向だった。
向こうの陣地の方向に、別働は退いた。
退いた、ということは、戦闘の継続を、向こうが捨てた、ということだった。
捨てた、というのは、今日の戦闘を、ということだった。
明日のために、今日は退く。
「白凪」
鷹見が、観測壕の手前まで来た。
来た、というのは、本陣から鷹見が動いた、ということだった。
鷹見が本陣を離れるのは、二度の夜のあいだに、一度もなかった。
「お前の、引き金、いつもより、早かったか」
「いつもと、変わらない、です」
「そうか」
鷹見は、それだけ言った。
言ってから、白凪の右手を、見た。
見た、というのは、視線を合わせたのではなかった。右手だけを、見た。
白凪は、右手を、引き金にかける位置に、置いたままにしていた。
置いたままだから、震えていない。
鷹見は、その位置を、確かめた。
確かめてから、何も言わずに、本陣へ戻った。
戻る背中が、いつもの鷹見の背中と、同じだった。
同じだったが、何かを、確かめた背中だった。
確かめた、というのは、白凪が引き金にかけた手を、置いたままにしている、ということだった。
昼が、過ぎた。
戦闘は、終わっていた。
別働は、戻ってこなかった。
主力の最後尾二輌は、まだ止まっていた。
白凪は、観測壕の手前で、引き金にかけた手を、置いたまま、息を整えた。
整えながら、もう一度、右手を、握った。
握った瞬間に、震えが、戻った。
戻った震えを、白凪は、握りで止めた。
止めたまま、開けば、また震える。
開かない。
開かないなら、震えない。
開かないことを、選んだ。
選んだあと、白凪は、自分の選択を、引き出しの別の場所に、置いた。
置く場所が、また一つ、増えた。
増えた場所が、何かは、まだ分からなかった。
分からないまま、白凪は、笹倉の応答の声を、聞いていた。
「九番から、後方。状況、安定。継続観測」
笹倉の声が、雑音越しに、薄くなって、消えた。
消えたが、戻ってくる声は、まだ、聞こえていた。
夕方が近づいた頃、笹倉が、本陣に短く声を上げた。
「鷹見軍曹」
「読め」
「副線、後方より。東斜面、後送組、九番経由、昼過ぎ通過予定、変更」
「変更、というのは」
「九番、滞在予定、半日」
半日。
白凪は、その「半日」を、引き出しの中で、別の場所に置き直した。
半日、というのは、後送組が、九番に半日、留まる、ということだった。
留まる、ということは、留まる理由がある、ということだった。
理由は、後送組の負傷者の状態か、輸送組の事情か、どちらかだった。
どちらにしても、九番に、外から人が来る、ということだった。
外から人が来る、ということは、外の話が、入ってくる、ということだった。
外の話、というのは、白凪が知らない、別の戦線の話だった。
別の戦線の話を、白凪は、まだ、知る必要があるとは思っていなかった。
だが、来る。
来たら、聞く。
聞くのは、聞きたいから、ではなかった。聞くしかないからだった。
白凪は、自分の右手を、引き金にかけた位置で、置いたままにした。
置いたまま、夕方の光が落ちるのを、待った。
壕の中の音は、いつもの夕方より、少しだけ多かった。
水城が、踏み板の張り替えの音を、いつもより速く、立てていた。
笹倉が、副線の応答を、いつもより遅く、返していた。
瀬名が、名取の脇で、布を変える間隔が、短くなっていた。
久我は、双眼鏡を構えたまま、動かなかった。
荒瀬は、本陣の隅で、目を閉じていた。だが、寝ていなかった。寝ていない、というのは、息の間隔で分かった。
白凪は、自分の右手を、置いたままにした。
置いたまま、後送組の到着を、待った。
来る後送組の中に、誰がいるかは、分からなかった。
分からないまま、白凪は、息を整え続けた。
二度の夜が過ぎた。
三度目の夜は、まだ、来ていなかった。
来ていないあいだに、外から人が来る。
来た人が、白凪に何を渡すか、白凪には、まだ見えていなかった。
見えていないまま、白凪は、待った。




