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第3章 戦果

第六部 戦果

 昼が来たことは、空の色ではなく、土の温度で分かった。

 観測壕の手前、白凪が引き金にかけた右手の下、土嚢の表面が、朝より一段だけ温かくなっていた。曇天は変わらない。だが、雲の向こうで、太陽が、ある場所まで動いていた。動いた分だけ、土が温まった。

 白凪は、温まった土に、左の手のひらを当てた。

 当てた瞬間、左手の中の感覚が、戻ってきた。

 荒瀬の脇腹を押さえていた感覚。心臓の鼓動と同じ強さ。一度緩んで、戻した強さ。

 その感覚は、消えていなかった。

 消えていないまま、土の温度に重なった。

 重なって、白凪は、自分の手のひらが、土と荒瀬の傷を、同じ温度で覚えていることに気付いた。

 気付いたが、追わなかった。

 追ったら、ずれる。


「土、変わりました」

 久我の声だった。

 短い。

 声の速度が、これまでの観測報告と違っていた。

「位置」

 鷹見が即座に訊いた。

「九番の正面、左寄り。距離、四百」

 四百。

 夜半に来た別働は、最初の観測時で七百だった。今度は、最初から四百で見えた。

 近づいてから、見えた。

 地形の遮蔽を使って、ここまで近づいてから、土の表面に動きが出た。久我の観測の角度から外れる位置を、向こうは知っていた。知っていて、夜のうちに、そこまで動いていた。

「数」

「四から六。歩兵」

「速度」

「止まっています」

 止まっている。

 白凪は、その「止まっている」の意味を、すぐに理解した。

 夜半の別働は、動いていた。動いていたから、観測された。

 昼の別働は、止まっている。

 止まって、こちらの応対を、観察している。

 こちらが先に動くのを、待っている。


 壕の中の音が、止まった。

 音が止まる、ということは、誰も動かない、ということではない。動きの種類が、止まる、ということだった。

 水城は、踏み板の補修を中断した。

 笹倉は、副線の端末から手を離した。

 瀬名は、名取の脇で、布を巻く動作を止めた。

 久我だけが、双眼鏡を構えたままだった。

 鷹見は、地図の前にいた。

 動かない。

 動けば、こちらの位置が、向こうに知られる。

 動かなければ、向こうも動かない。

 両方が動かないまま、時間だけが、進む。

 時間が進めば、副線がいつ切れるか分からない。仮接続のまま、もう半日近く保っているが、限界に近い。

 時間が進めば、瀬名が抱えている二人の負傷者の容体が、どうなるか分からない。

 時間が進めば、荒瀬の止血が、どこまで保つか分からない。

 時間が進めば、補給が、いつ次に来るか分からない。

 時間は、こちらの味方ではなかった。

 向こうは、それを、知っている。

 知っているから、待っている。


「白凪」

 鷹見が、本陣から声をかけた。

 声が、低かった。

 低いのは、緊張ではなかった。判断を、白凪に渡そうとしている声だった。

「お前は、向こうが何をしてくると、見ている」

 訊かれた。

 白凪は、自分の引き金にかけた右手を、見た。

 位置は、変わっていない。久我の双眼鏡の角度の先と、白凪の射線は、揃っている。

 揃っているまま、引かない。

 引いたら、こちらの位置が、向こうに知られる。

 知られたら、土嚢の隙間の特定の角度から外れた瞬間に、撃たれる。

 そこまで考えて、白凪の頭の中に、四つが並んだ。

 向こうが、待ち続ける。  向こうが、こちらの後方への補給路を、迂回して塞ぎに行く。  向こうが、こちらの観測壕を、別角度から狙撃する。  向こうが、退いて、夜にもう一度出てくる。

 四つ、同時に並んだ。

 並んだ中で、白凪は、優先順位を組んだ。

 待ち続ける、というのは、こちらの消耗を待つ選択肢だった。これは、こちらが動かない限り、向こうも動かない。両方が動かないまま、時間だけが過ぎる。だが、時間はこちらに不利だ。だから、向こうは、これを「とりあえずの状態」として続けながら、別の選択肢の準備をしている可能性がある。

 補給路を迂回して塞ぐ、というのは、向こうの主力が左から右に動いていることと、整合する。主力が南へ動き、別働が後方の補給路へ回る。前と後ろから挟む形になる。これが、最も有効な手だった。

 観測壕を狙撃する、というのは、こちらの観測能力を消す選択肢だった。久我が消えれば、こちらは、向こうの動きを把握できない。把握できないまま動けば、こちらの判断が遅れる。だが、これは、こちらが動かない限りは、向こうがリスクを取って撃つ必要はない。

 退いて夜にもう一度、というのは、夜半の別働と同じ手だった。同じ手を、同じ夜に二度繰り返すのは、向こうの指揮系統が、それを許さない可能性が高い。揃って動く部隊は、繰り返しを避ける。

 白凪は、四つを並べた中で、二番目を、最も確率が高いと判断した。

 判断した。

 判断したが、口に出すまでに、もう一拍、間があった。

 その一拍のあいだに、白凪は、自分の判断が間違っていた場合を、考えた。

 間違っていた場合、この九番の正面に、向こうの本気が来る。

 来た時、こちらは、白凪の判断に従って、後方補給路の警戒に手を割いている。

 九番には、人が足りない。

 足りない人で、本気の攻撃を、受け止める。

 受け止められるかは、分からない。

 分からないまま、答えなければならない。

「補給路です」

 白凪は、答えた。

 声が、自分でも、思ったより落ち着いていた。

 落ち着いていたのは、判断が確実だったからではない。

 間違っていた場合の覚悟まで含めて、答えたからだった。


「根拠は」

 鷹見が、即座に訊いた。

「主力が、左から右に揃って動いている、というのが、観測の最初からの情報です。揃って動いているのは、目的地が決まっている、ということです。目的地が芦森補給廠なら、こちらの後方の補給路を、塞ぐのが筋が通ります」

「他は」

「他の三つは、優先度が低い、と判断しました」

「順に言え」

 白凪は、三つを並べた。

 並べながら、自分の声が、最初の答えより硬くなっているのに気付いた。

 硬くなっているのは、根拠を説明しなければいけない側に立たされたからだった。

 判断する側は、誰でも一度は答えられる。

 判断の根拠を説明しなければならない側は、答えた言葉を、もう一度自分で確かめる必要がある。

 白凪は、確かめながら、説明した。

 鷹見は、白凪が言い終わるまで、口を挟まなかった。

 言い終わった後、鷹見は、間を置いて、笹倉に向かって、短く言った。

「副線、後方への伝達。九番の正面に別働四から六、止まり。後方補給路の警戒を要請。九番から、白凪二等兵の判断による」

「白凪二等兵の判断による」

 笹倉が、復唱した。

 復唱の声が、強かった。

 強かったのは、笹倉の癖ではなかった。


 白凪は、復唱を聞いた瞬間、自分の名前が、後方への伝達の中に入ったことを、すぐに理解した。

 白凪二等兵の判断による。

 この言葉は、後方の通信主任の手元に、今、残った。

 残ったということは、もし、後方の補給路への警戒が間に合わず、何かが起きた場合、その判断の根拠が、白凪の名前で記録される、ということだった。

 間違っていたら、白凪の名前が、間違いの根拠として残る。

 合っていたら、白凪の名前は、たぶん、すぐに消える。残るのは、「警戒が間に合った」という結果だけだ。

 判断は、合っても、消える。

 間違ったときだけ、判断者の名前は、残る。

 白凪は、その非対称を、引き受けた。

 引き受けたあと、引き金にかけた右手の位置を、変えなかった。


 時間が、進んだ。

 久我の声は、落ちなかった。

 別働は、まだ止まったままだった。

 止まっている、ということは、こちらが動かない限り、向こうは動けない、ということだった。

 動けないまま、向こうの後方では、別の動きが進んでいる。

 白凪の判断が合っていれば、その「別の動き」は、補給路への迂回だった。

 白凪の判断が間違っていれば、その「別の動き」は、九番の正面への、本気の準備だった。

 どちらかは、向こうが動き始めるまで、こちらには分からない。

 分からないまま、待つ。

 待つあいだ、白凪の引き金にかけた右手の重さが、変わっていった。

 最初は、ただの引き金の重さだった。

 時間が進むにつれ、自分の判断の重さが、その上に乗った。

 判断の重さの上に、後方の通信主任の手元に残った自分の名前の重さが、乗った。

 名前の重さの上に、もし間違っていた場合、ここに来る本気の攻撃の重さが、乗った。

 全部が、引き金にかけた右手の上に、積み重なっていた。

 白凪は、引き金を引かなかった。

 引いたら、これまで積み重なったものが、全部、一発の発砲で決まる。

 決まる前に、待つ。

 待つことが、判断を出した者の役目だった。


「白凪」

 久我の声が、観測壕の縁から落ちた。

「動きません」

「動いてないんですね」

「動いてないんじゃない」

 久我は、言葉を直した。

「こちらの動きを、観察してます」

 白凪は、その違いを、すぐに理解した。

 動いていない、というのは、結果としての観察。

 観察している、というのは、向こうの意図の認識。

 向こうは、白凪が引き金にかけた右手の位置を、見ている可能性がある。見ているなら、白凪が動いた瞬間に、撃ってくる。

 動かない、ということが、判断と同じ重さで、必要になっていた。


 その時、別働の中の一人が、わずかに姿勢を変えた。

「動きました」

 久我の声。

「数、変わらず。位置も、変わらず。ですが、一人だけ、姿勢を低くしました」

 姿勢を低くした、というのは、撃つ準備、ということだった。

 白凪は、引き金にかけた右手の力を、抜かなかった。抜くと、引ける状態が崩れる。崩れたら、撃たれた瞬間に、撃ち返せない。

「誰、ですか」

 白凪は、低く訊いた。

「左から二番目」

「自分の射線、通ってますか」

「通ってます」

 通っていた。

 白凪は、その兵を、土嚢の隙間から見た。

 顔は、見えない。距離が遠い。だが、姿勢の変化は、目で取れる。低くなった肩。預けた肘。こちらの方向を、見ている目の角度。

 白凪は、その角度を、自分の射線と、揃えた。

 揃った瞬間、引き金にかけた指の力が、わずかに増した。

 増したが、まだ引かなかった。

 引くのは、向こうが先に動いた時。

 動かなかったら、こちらも動かない。

 動かないまま、両方が、相手の動きを待つ。


 その時、後方から、足音が来た。

 走っていない足音だった。

 歩いてくる音。だが、急いでいる。

 白凪は、足音の主が、本陣の入口に着くまで、視線を別働から外さなかった。

 外せば、その瞬間に、向こうが動く可能性がある。

 外したら、見落とす。

「九番、伝令、後方より」

 声が、本陣の入口から落ちた。

 白凪が知らない兵だった。

 白凪は、その声を、視線を外さずに聞いた。

「鷹見軍曹、報告」

「読め」

「後方補給路、別働接近、確認。距離、二百」

 二百。

 ここの正面の別働と、ほぼ同じ距離。

 白凪の判断は、合っていた。

 しかし、合っていた、ということが、戦闘の終わりを意味するわけではなかった。

 後方補給路の別働は、まだ来ている。

 ここの正面の別働も、止まったまま、姿勢を変えた一人が、こちらを狙っている。

 合っていたが、ここで気を緩めれば、合っていた意味が消える。

「警戒態勢、間に合いますか」

 鷹見が、伝令兵に訊いた。

「間に合います。ただし、こちらの正面の別働が動くと、後方の人員を割けません」

「動かさない、ということだな」

「そうです」

 白凪は、その応答を聞いた。

 動かさない。

 ここの正面の別働を、動かさない。

 動かさないためには、こちらも動かない。

 こちらが動かない限り、向こうは、撃ってこない。

 ただし、向こうが先に動いた瞬間に、撃ち返さなければ、後方の警戒が崩れる。

 白凪は、その役目を、引き受けた。

 引き金にかけた右手の力を、保ったまま、別働の中の、姿勢を低くした兵を、見続けた。


 時間が、また進んだ。

 壕の中の音は、止まったままだった。

 誰も、動かなかった。

 久我の双眼鏡だけが、ゆっくりと、別働の動きを追っていた。

 白凪の射線は、左から二番目の兵に、合っていた。

 合っているまま、向こうが、動かなかった。

 動かないあいだ、白凪の頭の中に、また四つが並んだ。

 今度の四つは、走り方ではなかった。

 撃つ/撃たない/待つ/退かせる、の四つだった。

 撃つ、を選んだら、向こうも撃つ。撃ち合いになれば、こちらの位置が、ほかの別働にも知られる。  撃たない、を選んだら、向こうの兵は、こちらを撃てる位置に居続ける。撃たれた時に、白凪は撃ち返せるが、初弾を受ける。  待つ、を選んだら、向こうがいつ動くかは、向こう次第になる。時間は、こちらに不利。  退かせる、を選んだら、向こうの兵を、撃たない方法で、姿勢から離させる。これは、こちらの存在を見せることで成立する。見せれば、撃たれる確率は上がる。だが、見せた後で、すぐに位置を変えれば、外せる。

 四つ、並んだ。

 並んだまま、白凪は、四番目を選んだ。


 白凪は、引き金から指を外した。

 外しはしないが、いつでも戻せる位置に、置いた。

 外した右手で、土嚢の上の小石を、一つ、つまんだ。

 つまんで、左斜め前へ、軽く投げた。

 投げた小石は、土嚢の張り出しの向こうの、別の土嚢の角に当たった。

 音が、立った。

 乾いた音。石が土嚢に当たる音。人の動きとは違う音。

 だが、姿勢を低くした兵にとっては、こちらの方向で何かが動いた、という情報になる。

 白凪は、小石を投げた瞬間に、自分の身体の位置を、半歩、右へ動かした。

 動いた先で、引き金に、もう一度、指をかけた。

 かけた瞬間、別働の中の、左から二番目の兵が、姿勢を変えた。

 白凪がいた位置に、わずかに、銃口を向けた。

 いる位置ではなかった。

 いた位置だった。

 兵は、小石の音を、人の動きと、誤認した。

 誤認した瞬間、その兵は、銃口を、こちらに見せた。

 見せた銃口は、白凪が今いる位置からは、横向きに見える角度だった。

 横向きの銃口は、こちらに向かっていない。

 向かっていない一瞬のあいだに、白凪は、引き金に乗せた指の力を、抜いた。

 抜いた、というよりは、引かない選択肢を、選び直した。

 撃たない。

 撃たないが、向こうの位置は、見えた。

 見えた位置を、白凪は、自分の引き金の射線と、もう一度、揃え直した。


 別働の中で、もう一人の兵が、姿勢を低くした兵に、何かを言った。

 白凪のところまでは、聞こえない。

 だが、姿勢を低くした兵が、銃口を、もとに戻した。

 戻した銃口は、もう、こちらを見ていなかった。

 見ていない銃口は、撃てない。

 撃てない時間が、わずかに、生まれた。

 わずかに生まれた時間のあいだに、別働の全体が、姿勢を変えた。

「動きました」

 久我の声。

「方向」

 鷹見。

「左側、後ろへ。退きます」

 退いた。

 別働は、退いた。

 ただし、退いた理由は、白凪が撃ったからではなかった。

 こちらが、撃たないまま、向こうの兵に銃口を見せさせたからだった。

 銃口を見せた兵は、揃って動く部隊では、規律違反に近い。揃って動く部隊は、相手の動きに先立って銃口を出さない。出した瞬間に、こちらに位置を読まれる。

 読まれた位置を、向こうの指揮系統は、放置できない。

 放置すれば、次に動いた時、こちらに撃たれる位置から始まる。

 だから、退いた。

 白凪が、撃たずに、撃てる状況を作ったことが、向こうを退かせた。

 白凪は、その結果を、引き金にかけた右手の力を抜きながら、確かめた。


「鷹見軍曹」

 笹倉が、本陣の中から、声を上げた。

「副線、後方から、応答」

「読め」

「後方補給路、警戒態勢、開始。九番の判断、確認。詳細、追って」

 短い。

 応答は、それだけだった。

 だが、それだけで、十分だった。

 白凪は、応答を聞いた瞬間、引き金にかけた右手を、ゆっくり外した。

 外したが、銃の角度は、固定したままにした。

 外したら、また何かが起きた時に、戻せない。

 戻せない時間で、誰かが、足りなくなる。


 昼の半ばを過ぎた頃、後方から、別の伝令兵が来た。

 白凪が知らない兵だった。

 宇野ではなかった。

 その伝令兵は、補給ではなく、報告を運んできた。

「後方補給路、別働接近、確認。警戒態勢で、撃退、完了」

 短い。

 それだけだった。

 それだけだったが、それだけが、必要だった。

 白凪の判断は、合っていた。

 合っていたから、白凪の名前は、後方の通信主任の手元から、消えた。

 消えた、というのは、記録から消えた、ということではなかった。

 結果が出たから、判断者の名前を残す必要がなくなった、ということだった。

 残らない名前は、残らない。

 残らないことが、合っていた、ということの証だった。


 伝令兵が帰った後、本陣の中は、わずかに緩んだ。

 緩んだ、というのは、誰かが座った、誰かが息を吐いた、誰かが声を上げた、ということではなかった。

 誰も、座らなかった。誰も、息を吐かなかった。誰も、声を上げなかった。

 ただ、空気の圧が、減った。

 減ったのは、別働が退いて、後方補給路の警戒が間に合った、という事実が、壕の中の全員に、共有されたからだった。

 共有された、というのは、誰かが言ったから、ではなかった。

 言わなくても、伝わった。

 伝わるのは、配属の日からの七日のあいだに、白凪が身体に入れてきた、この壕の癖だった。


「白凪」

 鷹見が、地図の前から、白凪を呼んだ。

「お前、さっき、何をしたか、分かってるか」

「判断、しました」

「判断したのは、誰の判断だ」

「自分の、判断です」

「合ってたか」

「合っていたかどうかは、まだ、分かりません」

「合ってた」

 鷹見は、それだけ言った。

「向こうが退いた。退いた方向が、お前が判断した先と、合ってる。これで、こちらの後方補給路の警戒は、間に合った」

「はい」

「合ってたが」

 鷹見は、間を置いた。

「お前の判断は、合ってても、合ってなくても、お前が下したものだ」

 白凪は、その言葉を、引き受けた。

 合っても、合わなくても、白凪が下したもの。

 結果ではなく、下したこと自体に、白凪の名前が乗る。

 判断した、ということは、結果を、自分のものとして引き受ける、ということだった。

 合った時の結果も、白凪のもの。

 合わなかった時の結果も、白凪のもの。

 合った時、白凪が引き受けるのは、自分の名前が消えること。

 合わなかった時、白凪が引き受けるのは、自分の名前が残ること。

 どちらにしても、引き受ける。

「分かってます」

 白凪は、答えた。

 答えた声が、自分でも、いつもより、強かった。

 強かったのは、緊張ではなかった。

 引き受けることを、自分の中で確かめた、その確認の強さだった。


「白凪」

 鷹見は、もう一つ、白凪に訊いた。

「お前、なぜ、ここで判断した」

「鷹見軍曹に、訊かれたからです」

「俺は、お前の判断を、訊いた。お前が答えるかどうかは、別だ」

「答えました」

「答えた理由を、訊いている」

 白凪は、黙った。

 黙ったが、頭の中で、答えを並べてはいなかった。

 並べる前に、答えは、もう自分の中にあった。

「……保たせるためです」

 白凪は、答えた。

「ここを、ですか」

「ここと、その先、です」

「その先、というのは」

「補給廠、です。それと、その向こうです」

 その向こう、と白凪は言った。

 言ってから、自分が「その向こう」と言った時、何を見ていたかを、確かめた。

 包装紙を揃えていた誰か。

 平らな地面の上を、背を向けて歩いていた誰か。

 その誰かの上に、戦争の湿気を、入れない。

 そのために、ここを保たせる。

 白凪は、それを、声に出してはいなかった。

 声に出さなかったが、鷹見は、頷いた。

 頷いた後、鷹見は、もう何も訊かなかった。


 名取の脇を、白凪は、もう一度通った。

 名取は、寝かされている。

 息は、ある。

 昨日の夕方、瀬名の足元に落ちていた紙の切れ端は、まだそこにあった。

 拾われていない。

 白凪は、その紙片の前で、半歩、止まった。

 止まってから、しゃがんだ。

 しゃがんで、紙片を、拾った。

 拾った、というのは、瀬名に断ってから、ではなかった。

 瀬名は、本陣の奥で、別の手当てをしていた。

 白凪は、瀬名の判断を待たなかった。

 待たなかったのは、自分が拾うべきだ、と判断したからだった。

 判断した、というのは、頭で組み立てたものではなかった。

 しゃがむ前に、もう、決まっていた。

 白凪は、紙片を、自分の胸ポケットに入れた。

 入れた紙片は、湿っていた。文字は、滲んでいた。読めなかった。

 読めないまま、白凪は、紙片を持ったまま、立ち上がった。


 名取は、寝ていた。

 白凪は、名取の脇に、もう一度しゃがんだ。

「名取」

 声をかけた。

 名取は、答えなかった。

「お前の、預かる」

 白凪は、名取に向かって、それだけ言った。

 預かる、というのは、紙片を、名取の代わりに、誰かに渡す、という意味ではなかった。

 ここから、先まで、保たせる、という意味だった。

 ここから先、というのは、名取が起きるまで、ではなかった。

 名取が、もう一度、自分の手で、その紙片を持てる場所に、戻れるまで。

 戻れない場合、ということを、白凪は、考えなかった。

 考えなかったのは、考える必要がない、というよりは、考えない、と決めたからだった。

 決めてから、白凪は、立ち上がった。


 立ち上がった白凪を、瀬名が、本陣の奥から、見ていた。

 目が合ったが、瀬名は、何も言わなかった。

 言わなかったが、瀬名の顔が、わずかに、緩んだ。

 緩んだのは、咎めない、という意味だった。

 咎めない、というのは、許す、ではなかった。

 白凪の判断を、白凪のものとして、置いておく、という意味だった。

 白凪は、瀬名のほうに、頷いた。

 頷いた後、本陣の中央へ、戻った。


「鷹見軍曹」

 白凪は、本陣の中央で、声を低くした。

「次の指示は」

「今日の昼は、もう動かない」

「動かない、というのは」

「向こうも、動かないから、こちらも動かない」

「夜は」

「夜は、また来る」

「了解」

「白凪」

 鷹見は、白凪の名前を、もう一度呼んだ。

「お前、走れるか」

「走れます」

「走れる兵は、お前だけだ」

「分かっています」

「分かってる、というのは」

「自分が走れなくなったら、ここから、誰も走れない、ということです」

「そうだ」

 鷹見は、それだけ答えた。

 答えてから、地図の上に、もう一本、点線を引いた。

 今度の点線は、九番から、後方の補給廠へ、伸びていた。

 その点線の根元には、白凪の名前は、書かれなかった。

 書かれなかったことが、白凪の役目を意味していた。

 書かれない名前で、走る。

 走った結果が、合っていれば、名前は残らない。

 合っていなければ、名前が、残る。

 残らない名前で、走るために、白凪は、走れる状態を、保つ。


 白凪は、本陣の脇に戻った。

 戻った位置は、動線の脇の、土嚢の影。半分立ったまま、すぐに動ける位置だった。

 配属の日から、白凪が、自分の位置として、選び続けた場所だった。

 その位置に立ったまま、白凪は、息を整えた。

 整えながら、胸ポケットの中の、湿った紙片の重さを、確かめた。

 紙片は、湿っていた。

 手に持っていた、もう一枚の紙の重さも、まだあった。

 配属された日に、誰かが、白凪の手に渡した、厚紙の重さ。

 補給品の包装紙を揃えていた誰かの、急がない手の温度。

 荒瀬を押さえた左手のひらに、まだ残っている感覚。

 名取の代わりに、預かった紙片の湿り。

 全部が、白凪の中に、まとまっていた。

 まとまった重さを、白凪は、引き受けた。

 引き受けた、というのは、置く場所を作った、ということ

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