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第3章 回収

第五部 回収

 夜は、終わらなかった。

 終わった、というよりは、続いたまま、朝が来た、と言ったほうが近かった。

 砲声は、夜半過ぎに一度静まった。静まったあと、別働の歩兵が九番の正面に到達した。距離は、最後に久我が報告した時点で、二百を切っていた。

 白凪は、その時、本陣の脇から動かされなかった。

 動かしたのは、荒瀬だった。

 荒瀬は、前縁壕からの帰還の途中で、別働と接触した。接触したのが、九番の正面の手前、白凪が走っていない側の斜面だった。荒瀬は、別働の進路を、自分一人で、半時間遅らせた。

 半時間、というのは、本陣で鷹見が再編成を組み直すのに、ぎりぎり足りる時間だった。

 その半時間のあいだに、鷹見は、戦闘可能の配置を、もう一度組み直した。

 白凪は、本陣の脇から、観測壕の手前に動かされた。

 水城は、北側の土嚢から、前縁壕側の土嚢の支えに動かされた。

 笹倉は、副線の端末を、本陣ではなく、観測壕の側へ動かした。

 瀬名は、動かされなかった。動かす場所がなかった。名取と新規負傷者の二人を、瀬名が抱えたまま、本陣の奥に残された。

 久我は、観測の位置を変えなかった。変えれば、観測の連続性が切れる。

 配置が決まったあとで、白凪は、観測壕の手前で、初めて引き金を引いた。

 引いたのは、白凪が知らない別働の兵に向かってだった。

 当たったかは、分からない。

 分からなかった、というよりは、確かめる暇がなかった。

 引いてから、頭を下げた。下げた瞬間に、土嚢の縁を、向こうの撃った何かが擦った。

 その擦った音で、白凪は、自分が引いたのと、向こうが引いたのが、同じ瞬間だったことを、遅れて理解した。

 半拍、間に合っていた。

 間に合っていなかったのは、別働のほうだった。


 夜が明けたのは、その引き金から、二時間後だった。

 空の色が変わる前に、別働は退いた。

 退いた、というよりは、左から右に動いていた主力に合流した、という形だった。九番の正面に張り付いていた別働は、白凪が動かした位置と、荒瀬が遅らせた半時間で、当初の予定より遅れていた。遅れたまま動き続けると、こちらに観測される時間が長くなる。観測される時間が長いと、こちらの砲が届く距離まで来る前に、位置を読まれる。

 だから、退いた。

 久我の観測では、そう分析された。

 ただし、久我は「断定はしません」と最後に付け加えた。

 断定はしなかったが、否定もしなかった。

 白凪は、その分析を黙って受け取った。

 退いたのは、こちらが追い払ったのではない。

 こちらが、追い払う前に動いた。

 動かしたのは、荒瀬の半時間だった。

 その荒瀬は、まだ戻っていなかった。


 空の色が変わって、しばらくしてから、荒瀬は戻った。

 歩いて戻った。

 歩く速度は、配属の日に荒瀬が壕の動線を確認して回った時より、半分以下だった。

 左の脇腹を、右手で押さえていた。

 押さえている布は、白凪のものではなかった。瀬名が出した包帯でも、なかった。荒瀬が、自分の上着の裾を裂いて、当てた布だった。

「戻った」

 荒瀬は、入口で短く言った。

 声に、いつもの低さはなかった。低さの代わりに、息が混ざっていた。

「鷹見軍曹に報告」

「分かった」

 鷹見が答える。

「別働、退いた。主力に戻った」

「見たか」

「見た。退き方が、揃ってた」

「揃ってた、というのは」

「指示が出てから動いた、ということだ。誰かが、向こうに『退け』を出した。撃ち合いの最中に、揃って退ける部隊は、指揮系統が生きてる」

 白凪は、その報告を観測壕の手前で聞いた。

 指揮系統が生きている、というのは、向こうにも、こちらの鷹見のような兵がいる、ということだった。

 いる兵が、こちらと同じ時間に、こちらの兵と同じことを考えている。

 同じことを考える兵が、向こう側にもいる。

 その認識を、白凪は、初めて持った。

 持ったが、言葉にはしなかった。

 言葉にすると、頭が考え始める。

 今は、考えるより、動くほうが、先だった。


「瀬名さん」

 鷹見が、荒瀬の脇に立ったまま、本陣の奥を見た。

「動けるか」

「動けません」

 瀬名は、即答した。

「名取と、昨日の新規。二人を抱えて、私の手は、もう空きません」

「分かった」

 鷹見は、それだけ答えて、白凪のほうへ視線を上げた。

「白凪、来い」

 白凪は、観測壕の手前から動いた。動線を最短に取って、本陣に降りた。

 降りた瞬間に、荒瀬の脇腹の血が、自分の足元の踏み板に、点々と落ちているのが見えた。

 荒瀬は、その血の跡を、踏まないようには歩いていなかった。

 歩くだけで、精一杯だった。

「お前、瀬名の代わりに、荒瀬の処置をしろ」

 鷹見が言った。

「処置は、できません」

「分かってる」

「分かってる、というのは」

「止血はできるか、と訊いてる」

 白凪は、間を置いた。

 止血。

 昨日、新規負傷者の腹を、瀬名が引き継ぐまで押さえ続けた。あれは、押さえ続けただけで、止血ではなかった。だが、押さえ続けるうちに、瀬名の手の動きを、白凪は見ていた。

 見ていた、ということが、できる、ということではない。

 だが、見ていた、ということが、やる、ということに、繋がる位置まで、来ていた。

「やります」

 白凪は答えた。

「瀬名から、必要なものを受け取れ」

「了解」

 白凪は、瀬名のところへ動いた。

 瀬名は、名取の脇から顔を上げた。上げた顔は、白凪の顔ではなく、白凪の手元を見ていた。

「右手」

 瀬名は短く言った。

「血で湿ってないほうの手で、布を押さえてください。湿った手で押さえると、布が滑ります」

「了解」

「布は、これです」

 瀬名は、自分の脇に置いてあった布を、白凪の右手に渡した。渡しながら、布の折り方を、指で示した。

「四つ折りにして、傷の上に置く。置いたら、上から、左の手のひらで押さえる。押さえる強さは、自分の心臓の鼓動と同じ強さです。それより強いと、血が止まる代わりに、組織が死にます。それより弱いと、血が止まりません」

 白凪は、瀬名の指の動きを、目で追った。

 追いながら、自分の左手の感覚を、確かめた。心臓の鼓動と同じ強さ。鼓動は、走った後で、まだ早かった。早い鼓動と同じ強さで押さえると、強すぎる。

 白凪は、息を整えた。

 整えるのは、走った疲労を抜くためではなかった。鼓動を、押さえるのに適した速さに戻すためだった。

「整ってから、押さえてください」

 瀬名は、白凪の整え方を、横で待っていた。

 待ちながら、自分は名取の脇に戻っていた。


 白凪は、荒瀬の脇に戻った。

 荒瀬は、本陣の隅で、土嚢に背を預けて座っていた。座っている、というよりは、倒れる前の姿勢で止まっていた、という形だった。

「荒瀬さん」

「白凪か」

「処置します」

「やれ」

 荒瀬は短く答えた。

 白凪は、布を四つ折りにした。折る指の動きが、瀬名の動きの覚えと、ずれていた。ずれた分を、もう一度折り直して、合わせた。

 合わせてから、傷の上に布を置いた。

 置いた布の上に、左の手のひらを当てた。

 当てる強さを、整えた息と合わせた。

「鼓動と同じ強さ、です」

「分かってる」

 荒瀬は、それだけ言った。

 言った言葉が、いつもの荒瀬の言葉より、長かった。

 長いのは、息が混ざっていたからだった。

 白凪は、押さえる強さを変えなかった。

 変えると、止まらない。変えなくても、止まる保証はない。だが、変えないことだけが、瀬名から渡された手順だった。


 押さえているあいだ、荒瀬は何も言わなかった。

 何も言わない時間は、長かった。

 長い時間、白凪は、自分の左手の押さえている強さだけに、意識を集中した。集中している、というのは、ほかのことを考えない、ということではなかった。ほかのことが、勝手に頭に流れてきても、左手の強さが乱れないように、流す、ということだった。

 頭に流れてきたのは、夜のあいだに、白凪が観測壕の手前で引いた引き金の感触だった。

 引いた瞬間に、向こうも引いていた。

 半拍、間に合っていた。

 間に合っていなかったのは、向こうの兵だった。

 その兵は、白凪が引いた後、どうなったか、白凪は確かめていない。

 確かめる暇がなかった、というのは、第三者が言うことだった。

 白凪自身の中では、確かめる暇はあった。

 あったが、確かめなかった。

 確かめなかった、ということが、白凪の中で、重くなっていた。

 その重さを、白凪は、左手の強さで、押さえていた。


 空が、薄い灰色になった頃、別の音が、後方から来た。

 車輪の音だった。

 白凪は、左手を押さえたまま、耳だけを動かした。

 車輪は、二輪。

 軽い荷だった。重い荷の車輪は、もっと低く沈む。沈むと、土の上で軋む音が違う。

「補給か」

 荒瀬が、息の混ざった声で言った。

「分かりません」

「来た。たぶん」

 来た、と荒瀬が言った時、本陣の入口のほうから、笹倉の声が落ちた。

「補給、到着しました。一輌だけです」

 一輌。

 昨日の伝令兵が「動かしてる、だが遅れる」と言った、その「動かしてる」分が、一輌、来た。

「内容は」

 鷹見が訊いた。

「水、半分。携行食、二日分。包帯と、止血材、少々。弾薬、想定の三分の一」

 笹倉が、復唱するように読み上げた。

「副線の補修材は」

「ありません」

「分かった」

 鷹見はそれだけ答えた。

 補修材はない。

 副線は、夜のあいだに、二度切れた。二度とも、笹倉が仮接続で繋ぎ直した。仮接続のまま、朝まで持ったが、いつ完全に切れるかは分からない。切れたら、伝令しかなくなる。

 走れる兵は、白凪と、荒瀬。

 荒瀬は、今、白凪が押さえている。


 補給の輸送組は、二人だった。

 一人は、宇野だった。

 もう一人は、白凪が知らない兵だった。

 宇野は、荷を降ろすと、本陣の入口で、鷹見と短くやり取りをした。やり取りの内容は、白凪のところまでは届かなかった。届かなかったが、宇野の表情が、最初に来た時より、少しだけ硬かった。

 硬いまま、宇野は本陣の中に入って来た。

 白凪のところまで、近づいてきた。

「お前、補充の二等兵だな」

「白凪です」

「覚えてる」

 宇野は、それだけ言った。

 言ってから、自分の背負い袋から、小さな包みを一つ、出した。

「これ、笹倉に渡せって、後方の通信主任から預かった。副線の補修材の代わりだ。仮の、接続用だ。完全な補修にはならない」

「分かりました」

 白凪は、左手を押さえたまま、右手で受け取った。

 受け取った包みは、油紙で巻かれていた。油紙の端が、わずかに反っていた。

 その反りが、夕方、白凪の中に近づいた紙の縁の反り方と、似ていた。

 似ていた、というだけだった。

 別の紙だった。

 別の紙だが、手の中の感触が、一瞬だけ重なった。

 重なって、すぐに分かれた。


「白凪」

 宇野は、包みを渡したあと、立ち去らなかった。

 立ち去る前に、もう一つ、何かを言いたい顔をしていた。

 言いたい、というよりは、言わなければいけない、という顔だった。

「枯枝街道、昨夜、また撃たれた」

「はい」

「今朝、もう一輌出すはずだった分は、出せなかった」

「分かりました」

「お前らのいる九番、ここが抜かれたら、芦森が落ちる」

 宇野はそう言った。

 言い方が、冷たくも熱くもなかった。

 事実を、事実のまま渡した、という言い方だった。

 白凪は、その言葉を、左手の押さえている強さを変えずに、受け取った。

 受け取って、すぐに、頭の中で組み直した。

 九番が抜かれたら、芦森が落ちる。

 芦森が落ちたら、後方の補給が、ここに届かない。

 届かなかったら、ここの兵が、保たない。

 保たなかったら、ここが、抜かれる。

 抜かれた先に、芦森がある。

 九番と、芦森は、互いを支え合っていた。

 どちらかが先に落ちたら、もう片方も、続けて落ちる。

「分かりました」

 白凪は、それだけ答えた。

「分かったな」

「分かりました」

 宇野は、それ以上は言わなかった。

 言わずに、本陣の入口へ動いた。

 動きながら、もう一度だけ、白凪のほうへ振り向いた。

 振り向いた顔は、最初に来た時の顔より、年嵩に見えた。

 白凪は、その顔の年嵩さの理由を、すぐに理解した。

 宇野は、夜のあいだに、枯枝街道で撃たれる側にいた。

 撃たれて戻ってきて、ここに荷を運んできた。

 運んできたあとで、もう一度、撃たれる側へ戻る。

 戻る前に、白凪に「ここが抜かれたら、芦森が落ちる」と告げた。

 告げる側として、宇野が選ばれた理由は、白凪には分からない。

 分からないが、宇野は、それを、自分の役目として受け取った。


 補給の包みの中に、携行食が入っていた。

 携行食の包装紙は、白凪の知っているものだった。

 知っている、というのは、配属前に、後方の集積所で見たことがあるから、ではなかった。

 もっと前に、見ていた。

 包装紙の角の折り方が、特定のやり方で揃っていた。揃え方が、軍の規格ではなかった。手で揃えた折り方だった。

 手で揃える人間が、後方のどこかに、いた。

 その人間がいる場所には、台があった。

 木の台だった。

 台の上に、包装紙を並べる。並べた紙の角を、手で揃えていく。揃えながら、誰かが、何かを言っている。言葉は、聞こえない。聞こえないが、言葉の調子だけが、空気の中に残っている。

 調子は、急いではいなかった。

 急いでいないことが、後方の温度だった。

 その温度の中で、包装紙が、揃えられて、ここまで来た。

 ここまで来て、白凪が、それを開ける。

 開けた瞬間に、後方の温度が、ここに、来る。

 来て、すぐに、消える。

 消えるまでの一瞬のあいだに、白凪は、揃えていた誰かのいる場所を、見た。

 台の隣に、窓があった。

 窓の外には、平らな地面があった。

 平らな地面は、ここの土とは違っていた。湿っていなかった。

 その平らな地面の上を、誰かが歩いていた。

 歩いている誰かは、白凪に背を向けていた。

 背を向けたまま、歩いていた。

 戻る場所、というのは、こういう温度だった。

 白凪は、その認識だけを、受け取った。

 受け取って、包装紙を、半分に折り直した。

 折り直してから、左手の押さえに、強さを戻した。


「白凪」

 荒瀬が、息の混ざった声で言った。

「お前、止まったか」

「止まってません」

「止まってない、というのは」

「左手、押さえています。強さは、変えていません」

「変えてないか」

「変えていません」

「そうか」

 荒瀬はそれだけ言った。

 白凪は、自分の左手の感覚を、もう一度確かめた。

 強さは、変わっていない。

 だが、一瞬、緩んだ瞬間が、あった。

 包装紙の折り方を見た瞬間、強さがわずかに緩んだ。

 緩んだ瞬間は、すぐに戻した。

 戻したから、止まらなかった。

 だが、緩んだ瞬間があった、ということを、白凪は、自分で覚えておくことにした。

 覚えておかないと、次に同じことが起きた時に、また緩む。


 瀬名が、本陣の奥から、白凪のところへ来た。

 来た時、瀬名は、自分の手の中に、別の布を持っていた。

「交代します」

 瀬名は短く言った。

「血、止まりましたか」

「半分」

 瀬名は答えた。

「半分というのは」

「布の下では、止まっています。ですが、組織の奥では、まだ滲んでいます。私の手で、もう一段、押さえ直します」

「了解」

 白凪は、左手をゆっくり離した。

 離す動きを、段階に分けた。一度に離すと、布の下で止まっていた血が、また動き出す。

 瀬名は、白凪の手が離れるのを待ってから、自分の手を布の上に置いた。置いた時に、白凪の手の温度が残っているうちに、瀬名の手の温度を重ねた。

 温度が変わらないように、繋いだ、ということだった。

 白凪は、その手順を、瀬名がやるのを見ながら、覚えた。

「白凪二等兵」

 瀬名は、押さえながら、目だけを白凪に向けた。

「あなたの手の強さは、一度、緩みました」

「はい」

「ですが、強さを変えなかった。緩んだあと、戻した」

「はい」

「それでいいです」

 瀬名は、それだけ言った。

 言ってから、もう白凪のほうを見なかった。


 白凪は、荒瀬の脇から離れた。

 離れて、自分の位置に戻ろうとした。

 戻ろうとした足を、止めた。

 止めたのは、本陣の奥に置かれている名取の位置だった。

 名取の脇には、瀬名がさっきまで使っていた布が、まとめて置かれていた。

 その布の山の脇に、昨日の夕方、瀬名の足元に落ちていた紙の切れ端が、まだあった。

 拾われていない。

 拾う暇が、まだ、なかった。

 白凪は、その紙片の方へ、半歩動いた。

 半歩動いてから、止まった。

 拾うかどうかは、白凪が決めることではなかった。

 名取の私物だった。

 名取が起きていれば、名取が判断する。起きていない以上、瀬名が判断する。瀬名は、まだ拾わない判断を、している。

 白凪は、半歩戻した。

 戻したが、紙片の位置は、目で覚えた。

 覚えた、というのは、いつか拾われる時のために、ではなかった。

 いつか、自分が、名取の代わりに、それを誰かに渡すことになるかもしれない、という考えが、頭をよぎった、ということだった。

 考えた、というよりは、考えそうになった、と言ったほうが近かった。

 白凪は、その考えを、止めなかった。

 止めなかったが、追わなかった。

 追ったら、ずれる。

 ずれたら、次の動きが遅れる。


「鷹見軍曹」

 白凪は、本陣に戻って、声を低くした。

「次の指示は」

「お前は、観測壕の手前に戻れ。久我の補助だ」

「了解」

「ただし」

 鷹見は、地図から目を上げて、白凪を見た。

「もし、もう一度、別働が出たら」

「はい」

「お前が、判断する」

 白凪は、その言葉を、黙って受け取った。

「自分が、ですか」

「お前だ。荒瀬は動けない。俺は本陣を離れられない。久我は観測から動けない。水城と笹倉は、それぞれの場所から動けない。瀬名も動かせない」

「分かりました」

「判断する、というのは」

「いえ」

 白凪は、首を半分振った。

「分かりました、というのは、聞こえました、という意味です。判断できる、という意味では、ありません」

「正直でいい」

 鷹見は、それだけ言った。

「だが、お前は、判断する」

 白凪は、もう一度頷いた。

 頷いた瞬間に、左手の押さえていた感覚が、まだ手のひらに残っていた。

 残っていたまま、白凪は、観測壕の手前へ動いた。


 動きながら、白凪は、宇野の言葉を、もう一度頭の中に置いた。

 九番が抜かれたら、芦森が落ちる。

 九番が、ここだった。

 ここを、保たせる。

 保たせるのは、自分たち五人。

 五人のうち、荒瀬は動けない。

 動ける兵は、四人。

 そのうちの一人が、白凪。

 白凪が動かなければ、ここが抜かれる確率が、上がる。

 ここが抜かれれば、芦森が落ちる。

 芦森が落ちれば、後方への補給が、絶える。

 補給が絶えれば、後方の、包装紙を揃えていた誰かのところにも、何かが届かなくなる。

 届かなくなったら、何が起きるか、白凪は知らない。

 知らないが、何かは起きる。

 その「何か」が、白凪の知らないところで起きる、ということが、白凪の中で、重くなった。

 重くなったが、白凪は、足を止めなかった。

 止めたら、観測壕の手前までの動線が遅れる。

 遅れたら、久我の観測の補助が遅れる。

 遅れた分だけ、別働が動いた時の、こちらの対応が遅れる。

 対応が遅れたら、九番が抜かれる確率が、上がる。

 抜かれたら、芦森が、落ちる。

 全部が、繋がっていた。

 白凪は、その繋がりを、初めて、自分の中で繋いだ。

 繋がりの一番後ろに、後方の、包装紙を揃えていた誰かがいた。

 その誰かは、白凪に背を向けて、平らな地面の上を歩いていた。

 その背中を、抜かせない。

 抜かせない、というのは、白凪が選んだ言葉ではなかった。

 動いたら、自然にそうなった。


 観測壕の手前で、久我は、双眼鏡を構えていた。

 昨日の夕方から、たぶん、ほとんど構え続けていた。

「白凪二等兵、戻りました」

「お疲れ様です」

 久我は、双眼鏡を下ろさなかった。

「何かありますか」

「断尾嶺、主力、左から右、揃って動いています。速度、変わらず。ただし」

「ただし」

「九番の正面、別働の予兆は、まだ出ていません」

「予兆、というのは」

「土の崩れ方です。誰かが動こうとする前に、土の表面が、わずかに変わります。今は、変わっていません」

「分かりました」

「ですが、変わるのは、これからです」

 久我は、断定をしなかった。

 しなかったが、双眼鏡の角度が、わずかに、左にずれていた。

 左、というのは、九番の正面の、さらに左側だった。荒瀬が遅らせた半時間で、別働が退いた方向の、その先だった。

 久我は、そちらに、もう一度別働が出ると、見ていた。

 断定はしないが、見ていた。

 白凪は、久我の双眼鏡の角度を、覚えた。


 覚えてから、白凪は、自分の位置を、組み直した。

 別働が、もう一度、左から出てくる場合、白凪のいる観測壕の手前から、左への射線は通っているか。

 通っていた。

 ただし、通っているのは、土嚢の隙間の、特定の角度だけだった。その角度から外れた位置に動くと、通らない。

 通る位置に、白凪は身体を置いた。

 置いた瞬間、左手のひらの中に、まだ荒瀬の傷を押さえていた感覚が、残っていた。

 残ったまま、引き金に、右手をかけた。

 かけたが、引かなかった。

 引く時は、まだ、来ていない。

 引く時が来た時に、引けるように、置いておく、というのが、今の白凪の役目だった。

 置いておきながら、白凪は、息を整えた。

 整えながら、左手の中の感覚を、もう一度確かめた。

 感覚は、消えていなかった。

 消えていない感覚が、引き金にかけた右手の重さを、変えていた。

 自分が押さえた誰かが、まだ生きているということが、引き金の重さを、変えていた。

 その変わり方を、白凪は、まだ言葉にしなかった。

 言葉にしないまま、息を整え続けた。

 空の色は、もう、夜の名残を残していなかった。

 灰色の朝が、九番の上に広がっていた。

 断尾嶺の方向で、土の表面が、まだ変わっていなかった。

 久我の双眼鏡の角度は、左にずれたまま、動かなかった。

 白凪は、その角度の先を、自分の引き金の方向と、揃えた。

 揃えた瞬間に、自分の中に、何かが繋がった。

 包装紙を揃えていた誰かと、引き金にかけた右手と、押さえた左手の感覚と、抜かせない九番と、落とさせない芦森が、全部、一本の線で、繋がった。

 繋がったが、白凪は、それを、責任とは呼ばなかった。

 呼ぶ言葉を、白凪は、まだ持っていなかった。

 持っていないまま、白凪は、引き金にかけた右手の位置を、変えなかった。


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