第3章 分岐
第四部 分岐
夜は、音から来た。
最初に、断尾嶺の方向で、低い破裂音が一つ鳴った。
遠い。だが、鳴り方が、これまでの散発的な音とは違っていた。一発で済まない音だった。一発のあとに、間を置いて、もう一発。さらに間を置いて、三発目。間隔が、揃いすぎていた。
「来ました」
久我の声だった。
双眼鏡は、もう構えていなかった。代わりに、暗視のためのレンズに切り替えて、土嚢の隙間に押し当てていた。
「数、増えてます。動き、出ました」
短い。
断定の言い方だった。
久我が断定を出すのは、配属されてから初めて聞いた。
「どっちだ」
鷹見が訊いた。
「左から右です」
「速度は」
「歩兵速度。だが、揃ってます」
鷹見はそれだけ聞いて、地図のほうへ動いた。
動かなかった、ではない。動けなかった鷹見が、動いた。判断を出す段階に、ようやく入った。
「副線、生きてるか」
鷹見が笹倉に訊いた。
「生きてます。仮接続のままです」
「後方への伝達は」
「片道、いけます」
「白凪」
鷹見が振り向いた。
白凪は、自分の位置から動いた。動線の脇の、土嚢の影。すぐに動ける位置にいた。
「前縁の観測壕まで、走れるか」
「走れます」
「久我の観測情報を、前縁壕の小隊に渡せ。向こうも目視に切り替わってる」
「了解」
「走る経路は、副線沿いだ。木枝の目印のある側を通れ。土嚢の崩れた北側は、絶対に通るな」
「了解」
「行け」
白凪は、その言葉が落ちる前に、もう動いていた。
壕の連絡路は、闇だった。
月はない。曇天は、夜になっても消えなかった。光の量は、ほぼ無いに等しい。だが、白凪は走った。
副線沿いに、木枝の目印が立っていた。立っているはずだった。立ったままなら、足元の踏み板の位置が分かる。倒れていたら、覚えで通る。
最初の目印は、立っていた。
二つ目も、立っていた。
三つ目の手前で、足の感覚が、いつもと違った。
踏み板の沈み方が、覚えと違う。
白凪は止まった。
止まる、というより、半歩だけ後ろに引いた。引いた瞬間、土嚢の角に肩が当たった。当てる位置を、白凪は身体が選んでいた。当てた瞬間に、その位置から見える夜の角度を、確かめていた。
目の前の踏み板が、半分、土に沈んでいた。
誰かが、踏み抜いた跡だった。
白凪は、踏み抜かれた位置を、すぐに計算した。
走っている途中で、もう一人、別の経路を取った兵がいた、ということだ。あるいは、踏み抜いた本人は、ここで足を取られて転んだ。転んだまま、起き上がれずに、別の方向へ動いた。
誰、というのは、考えなかった。
考える時間が、惜しい。
白凪は、踏み板を一枚飛ばして、次の踏み板に足を置いた。
飛ばす、というのは、踏み板の上で一歩を二歩分にする、ということだ。普段ならやらない。やったら、バランスが崩れて、後ろにずれる。後ろにずれたら、土嚢の角度に肩が当たる。
当たった。
予定通りだった。
肩で支えながら、次の一歩を、もう一段先に置いた。それで、踏み抜かれた場所の上を、踏まずに越えた。
四つ目の目印が、見えなかった。
倒れている、ではない。無い。
白凪は、その時点で、覚えに切り替えた。
四つ目の目印があった場所は、副線が一度大きく曲がる手前だった。曲がりの手前で、踏み板の幅が、わずかに狭くなる。狭い幅の上で、頭の高さを下げる。下げた高さで、土嚢の張り出しを越える。
覚えていた。
覚えていたから、走れた。
覚えていなかったら、立ち止まって、手で確かめる時間が必要だった。その時間で、後ろが詰まる。
壕の中で、背後から、音が増えた。
断尾嶺の方向の破裂音が、また三発。間隔は、さっきと同じだった。
揃っている。
揃っているまま、近づいてきていた。
三発目のあとに、別の音が混じった。
遠くから、こちらに向かう何かの音。風を切る音。
白凪は、その音を聞いた瞬間、身体を低くした。
低くした、ではない。低くなっていた。
判断の前に、身体が動いていた。
低くなった姿勢のまま、踏み板の上で、半歩だけ進んだ。半歩進んでから、頭を上げた。上げた時に、目の高さに、土嚢の角度が合った。
目の上のほうで、何かが、土嚢の上を擦った。
破片だった。
頭の高さを、半拍前に下げていなかったら、当たっていた。
白凪は、自分の身体の動きを、遅れて理解した。
走り続けた。
前縁壕の手前まで、あと二つの曲がり。
曲がりの直前で、白凪の腰のベルトに、水筒が当たった。
当たった、というほど強い当たり方ではなかった。走っている振動で、ベルトの中で水筒の位置がずれて、台帳の縁に底がぶつかっただけだった。
夕方にも、同じことがあった。
あの時は、ぶつかった瞬間に、何かが近づいた。近づいて、すぐに離れた。
今度は、離れなかった。
走っている途中で、それは、白凪の中に、しっかりと入ってきた。
手の中に、紙の感触があった。
走っているのに、ない。
走っている自分の手は、空だ。何も持っていない。だが、感触として、紙が、あった。
厚紙だった。
縁が、わずかに反っていた。
受け取った瞬間に、誰かが、その紙の角を指で撫でた。
誰か、というのは、白凪の指ではなかった。誰かが、白凪の手に紙を渡したあとで、その紙の角を、もう一度撫でた。撫で方が、ゆっくりだった。
声は、なかった。
声の代わりに、息の音が、近かった。
息の音は、白凪の耳の高さより、少し低い位置から来ていた。
誰かが、白凪に紙を渡したあと、頭を白凪より少し下げて、もう一度紙の角を撫でた。
何か、言った。
言葉は、覚えていない。
覚えていないが、声の温度は、覚えていた。
温度は、夜のものではなかった。昼の、屋内の温度だった。
その紙には、判が押してあった。判の位置を、白凪は受け取る前に知っていた。受け取る前に知っていた、ということが、その紙が来ることを、誰かが先に知っていた、ということだった。
白凪自身は、その紙が来るまで、知らなかった。
知らなかったが、来ることは、決まっていた。
決まっていた、ということを、紙を渡した誰かは、白凪より先に、受け入れていた。
白凪は、その時、何かを言った。
言ったが、言葉は、覚えていない。
覚えているのは、紙を持った手の重さだった。
厚紙は、重くなかった。だが、手のひらの上で、重かった。
砲声が、また鳴った。
白凪は走っていた。
前縁壕の入口は、もう二つ目の曲がりの先だった。
走りながら、白凪は、自分の右手の指先が、走っているリズムと違う動きをしているのに気付いた。指先が、空気の中で、何かを撫でていた。撫でているのは、紙の縁だった。紙はなかった。なかったが、指先は撫でていた。
白凪は、その指先を、握った。
握った瞬間、紙の感触は消えた。
息の音も、温度も、消えた。
残ったのは、走っている自分の呼吸の音と、踏み板を蹴る靴底の音と、断尾嶺の方向から来る破裂音だけだった。
覚えているのは、紙の重さだった。
手に持っていた重さ。
あの時から、白凪は、何かを「持って」ここまで来ていた。
持っていることに、気付いていなかった。
今、走っている途中で、握った手の中に、それがある、と分かった。
前縁壕の入口で、白凪は、一度膝をついた。
息を整えるためではなかった。整える前に、口に出さなければいけない情報があった。
「九番から、伝令、白凪二等兵」
「来た」
前縁壕の中から、声が返った。
知らない声だった。前縁壕の小隊長の声だろう。配属されてから、一度も声を交わしたことのない人間だった。
「報告、お願いします」
声が短い。礼儀ではなかった。時間がない、という意味の短さだった。
「断尾嶺、左から右、歩兵速度、揃って動いています。久我観測員より。数は、増加中。詳細は不明です」
「分かった。九番、副線は」
「仮接続のまま、生きています」
「ここからの観測情報、戻れるか」
「戻れます」
「では、五分待て。観測を一度、整理する」
白凪は頷いた。
頷いてから、立ち上がった。立ち上がるときに、膝の感覚が、遅れて戻った。
遅れたのは、走った疲労ではなかった。
握った手の中に、まだ何かが残っていた。残ったまま、立ち上がっていた。
白凪は、もう一度、手を開いた。
空だった。
当たり前だ。空だ。
空のはずなのに、何かが、まだあった。
五分の間、白凪は前縁壕の入口の脇で、息を整えた。
整える、というのは、吸って吐くを揃える、ということだ。荒瀬に教わった。一定にしろ、と。
吸って、吐く。
吐く長さを、吸う長さに揃える。
揃えながら、白凪は、握った手の中の感覚を、もう一度確かめた。
夕方、欠員表の縁に親指を当てた時に、近づいたもの。
夕方、水筒の底が台帳の縁に当たった時に、もう少し近づいたもの。
走っている途中で、ベルトの揺れで水筒が台帳の縁に当たった時に、入ってきたもの。
全部、紙だった。
紙が来た時の、誰かの息の温度。
手の動き。
言葉は覚えていないこと。
その全部が、走っている最中に、白凪の中で一度だけ通り抜けた。
通り抜けて、握った手の中に、わずかな重さだけを残した。
白凪は、息を整えながら、その重さを、置く場所を探した。
置く場所は、なかった。
壕の中に、置く場所はなかった。
戦闘中の身体の中にも、置く場所はなかった。
だから、白凪は、握ったままにした。
握ったまま、走れる。
走れるなら、置く必要はなかった。
砲声が、近くなった。
断尾嶺の方向ではない。もっと左だった。
左、というのは、九番観測壕に近い方向だった。
「白凪二等兵、もう一度、九番に戻れるか」
前縁壕の中から、声が来た。
「戻れます」
「観測情報、こちらでまとめた。これを九番に渡せ」
手渡されたのは、紙片だった。手書きの数字と、簡単な図が入っていた。
白凪は、それを胸ポケットに入れた。入れる時に、手のひらの中の重さと、紙片の重さが、一瞬だけ重なった。
重なって、すぐに分かれた。
手のひらの中の重さは、紙片の重さとは、別のものだった。
「行きます」
「気をつけろ。北側、抜けるな」
「了解」
白凪は、もう走り出していた。
戻る道は、来た道と同じだった。
同じだが、状況が違う。
砲声が、近い。
近いということは、こちらが見えている、ということだ。
見えている、というのは、観測されている、ということだ。
観測されているなら、走るリズムを変えなければいけない。
白凪は、副線沿いに走りながら、踏み板の踏み方を、変え続けた。一定のリズムで踏むと、上から見た時に位置が読まれる。だから、二歩走って一拍空ける。空けた時に、頭の高さを変える。それから、三歩走って、一拍空ける。
ずらすたびに、自分の身体のバランスが、半分崩れた。
崩れた半分を、土嚢の角度で支えた。
支えながら、次のずらしを、考えた。
考えるのではない。並べていた。
頭の中に、いくつもの動きが、同時に並んでいた。
二歩走って、左に半歩ずれて、土嚢の角に肩を当てる。 三歩走って、右に半歩ずれて、踏み板を一枚飛ばす。 一歩走って、止まって、頭の高さを下げて、もう一歩進む。 四歩走って、しゃがんで、立ち上がる。
全部、同時に頭の中で起きていた。
全部の動きを、白凪は、それぞれの結果まで、一拍で見た。
二歩走って左にずれた場合、肩が土嚢に当たる強さが、合わない位置だった。当たり方が浅いと、跳ね返って踏み板から外れる。外れたら、北側の踏み抜き跡に近づく。近づいたら、足を取られる。
三歩走って右にずれた場合、踏み板を一枚飛ばすことになる。飛ばす先の踏み板は、夕方に水城が「踏まれていない側」と言って先に直した場所だった。直した直後で、まだ沈み方が分からない。沈み方が分からない場所に飛ぶのは、リスクが大きい。
一歩走って止まる場合、止まった瞬間に、上から見た位置が固定される。固定された位置に、次の砲が来る確率が一番高い。
四歩走ってしゃがむ場合、しゃがんだ位置から立ち上がるのに、余分な時間がかかる。余分な時間がかかれば、その間に何か当たる確率が増える。
四つ全部、同時に並べた。
並べたまま、白凪は、二歩走って、左に半歩ずれた。
ただし、肩を当てる強さを、半分にした。
跳ね返らない強さで、当てた。
当てた瞬間、肩の位置が、踏み板の中央に戻った。
戻ったまま、次の二歩を、リズムを変えて踏んだ。
砲が、来た。
来たのは、白凪が今いる場所の、二歩前だった。
二歩前、というのは、白凪が今ずらしていなかったら、いた場所だった。
白凪は、走り続けた。
走り続けた、ではない。走り続けるしかなかった。
止まると、当たる。
当たる場所が、一拍ずつ、後ろに移動していた。
誰かが、白凪を狙っていた。
狙っているのが誰かは、分からない。だが、狙う側の調整が、入っていた。
白凪は、狙いの調整より、自分の動きを早く出した。
先んじる、というのは、相手の調整より、自分の動きを早くする、という意味ではなかった。相手が次にどこを撃つかを、自分の動きで決める、という意味だった。
白凪が止まれば、その位置が次の的になる。 白凪が一定リズムで走れば、そのリズムの先が次の的になる。 白凪がリズムを変えれば、変えた先が次の的になる。 白凪が変える先を、変え続けたら、的が、決まらない。
決まらない的に、砲は来ない。
砲は来るが、当たらない。
当たらないように、的を決めさせない走り方をする。
白凪は、それを、頭で考えていなかった。
考えるより先に、四つの動きが並んでいて、その中から、的が決まらない動きを選び続けていた。
九番観測壕の入口が、見えた。
入口の前に、誰かが立っていた。
荒瀬だった。
荒瀬は、入口の脇で、白凪が来る方向を見ていた。見ている、というより、聞いていた。砲声の落ちる位置で、白凪がどのあたりを走っているかを、耳で計算していた。
「来た」
荒瀬は短く言った。
白凪は、入口の最後の踏み板を踏んだ。踏んでから、しゃがんで、土嚢の影に滑り込んだ。
滑り込む直前に、もう一度、砲が来た。
来た位置は、白凪がさっき踏み板を踏んだ位置だった。
半拍、間に合っていた。
「胸ポケットだ」
白凪は、息を整える前に、紙片を出した。
「前縁壕、観測情報、まとめた紙です」
「分かった」
荒瀬は紙片を受け取って、本陣のほうへ動いた。動きながら、振り向かずに、声を落とした。
「白凪、お前」
「はい」
「いつもより、半拍、早かった」
半拍、早かった。
白凪は、その言葉を、すぐに飲み込んだ。
走っているあいだ、白凪は、半拍を稼いだのではなかった。半拍を、稼ぐ前に、選んでいた。選び続けていた。
選び続けたから、的にならなかった。
その「選び続けた」あいだ、白凪の頭の中には、四つの動きが並んでいた。
四つの動きが、同時に、結果まで見えていた。
その並びを、白凪は、これまでに一度だけ経験していた。
配属された日の夜、名取を引きずって戻った時。
あの時も、四つの動きが並んでいた。
あの時は、選んだ後で、選んだことに気付いた。
今は、選んでいる間に、選んでいる、と分かっていた。
壕の中に戻ると、笹倉が、副線の端末の前で、声を落としていた。
「副線、雑音」
笹倉の声だった。
「もちません。あと、十分、もたない」
「分かった」
鷹見が答える。
「白凪、紙、本陣に来てるか」
「荒瀬さんが持って行きました」
「読む」
鷹見は、紙片を広げた。
暗がりの中で、紙片の数字を、指でなぞった。指でなぞる、というのは、暗くて読めないからだった。
「左から右、歩兵速度、揃って動いている。数、増加。だが、こちらに直接向かってない」
「向かってない、ですか」
白凪は訊いた。
「左から右に、横に動いてる。九番への正面じゃない」
「では、どこへ」
「南。芦森補給廠の方向だ」
白凪は、その言葉を、すぐに飲み込んだ。
南。
補給廠。
補給廠が落ちれば、ここの補給は、来ない。
補給が来なければ、ここは、保たない。
保たない、ということは、ここを守る意味が、後送のためだけになる、ということだった。
いや、違う。
ここを守ることが、補給廠を守ることだった。
ここの兵が抜けたら、向こうは横から補給廠を取れる。
ここが残っているから、向こうは横を抜けない。
白凪は、その「接続」を、初めて、自分の中で繋いだ。
「白凪」
鷹見が、紙片から目を上げた。
「お前は、副線の補修材が来るまで、本陣の脇にいろ」
「了解」
「動くな、ではない。動かす相手がいないから、ここに置いておく、というだけだ」
「分かりました」
「動かす指示は、俺か荒瀬から出る。それまで、息を整えろ」
白凪は、本陣の脇の、土嚢の影に身体を預けた。
預けた瞬間、脚の感覚が、遅れて戻ってきた。
戻ってきたのは、疲労だった。
走っている間は、疲労はなかった。なかった、ではない。置いてあった。走り終わったから、戻ってきた。
白凪は、握った手を、もう一度開いた。
空だった。
空のはずなのに、まだ何かが、残っていた。
紙の重さだった。
夕方からずっと、白凪の中に来ようとしていたものが、走っているあいだに、入ってきた。入ってきて、置く場所がなかったから、握ったままにした。
今、握った手を開いても、消えなかった。
消えなかったが、形は、はっきりしていなかった。
はっきりしているのは、紙が来た時の温度だけだった。
昼の、屋内の温度。
息の音が、白凪の耳の高さより、少し低い位置から来ていた。
手の動きが、ゆっくりだった。
声があった。覚えていない。
覚えていないことが、覚えていることだった。
白凪は、土嚢に身体を預けたまま、息を整えた。
息は、整わなかった。
整わない理由は、走った疲労ではなかった。
手の中の重さが、整わない理由だった。
その重さは、置く場所が、まだ、なかった。
久我の声が、本陣の上から落ちた。
「断尾嶺、左から右、変わらず。ですが」
言葉が切れた。
「ですが、九番の正面、別働、出てます」
白凪は、その言葉を聞いた瞬間、土嚢から身体を起こした。
起こした、ではない。起きていた。
別働。
九番の正面。
左から右に動いている主力とは別に、こちらに向かう動きが、出ている。
「数は」
鷹見が訊いた。
「五から八。歩兵です。距離、まだ離れています」
「距離、おおよそ」
「七百」
七百。
歩兵で、十分。
走れば、半分の時間。
白凪は、自分の脚を、もう一度、土の上に置いた。
置いた瞬間に、四つの動きが、頭の中に並んだ。
迎え撃つ。 迂回させる。 遮蔽を増やす。 退却の経路を確保する。
四つ全部、同時に並んだ。
並んだまま、白凪は、自分が選ぶ番ではないことを、すぐに理解した。
選ぶのは、鷹見だった。
「鷹見軍曹」
白凪は声を低くした。
「自分が、走って観測壕に戻れます。前縁壕からの追加情報、もう一度取れます」
「いや」
鷹見は短く答えた。
「お前は、もう走るな。さっきの戻りで、半拍、早かった」
半拍、早かった。
その言葉を、荒瀬も、鷹見も、同じように使った。
使い方が、評価ではなかった。
警告だった。
半拍早く動ける兵は、半拍早く撃たれる場所に、自分から入る。
鷹見は、それを、知っていた。
知っているから、白凪を、走らせなかった。
「分かりました」
白凪は、それだけ答えた。
「荒瀬」
鷹見が、荒瀬に振り向いた。
「お前が走れ。前縁壕から、もう一度、別働の情報を取って戻れ」
「了解」
荒瀬は、もう動いていた。
動きながら、白凪のほうへ、視線を一度だけ落とした。
頷きはなかった。
だが、視線の落ち方が、配属された日の夜、名取を引きずって戻った白凪を見た時と、同じだった。
行ってきた、を、見送る視線。
今度は、行ってくる、を、置いていく視線だった。
荒瀬が、壕の連絡路の闇に消えた。
白凪は、本陣の脇で、息を整え続けた。
砲声は、まだ続いていた。
断尾嶺の方向の主力は、左から右へ動いていた。
九番の正面の別働は、まだ近づいていた。
副線は、あと十分も保たない。
補修材は、来ていない。
名取は、寝かされている。
新規の負傷者は、瀬名の脇で、まだ持っていた。
戦闘可能五。
そのうち、走れるのは、白凪と、荒瀬。
今、荒瀬が走っている。
白凪は、走らない。
走らない代わりに、本陣の脇で、息を整える。
整えながら、白凪の手の中には、まだ、紙の重さがあった。
その紙は、白凪が受け取った時、誰かが、もう先に受け入れていたものだった。
受け入れた誰かが、白凪の手に渡して、もう一度、紙の角を撫でた。
声があった。覚えていない。
覚えているのは、温度と、息の音と、手の動きだけだった。
白凪は、その重さを、握ったまま、息を整えていた。
握っているのは、走っている間に思い出した、何かだった。
その「何か」は、白凪が選んで来たものではなかった。
送られて、来たものだった。
送ってきた誰かは、白凪より先に、その紙が来ることを知っていた。
白凪自身は、知らなかった。
知らなかったが、来た。
来たから、白凪は、ここにいる。
ここにいる白凪が、今、走らない。
走るのは、荒瀬。
荒瀬が走っているあいだ、白凪は、本陣の脇で、ここにいる。
ここに、いる。
いる、ということが、今、白凪にできることだった。
いる、ということは、走らされる時に、走れる、ということだった。
走れる、ということが、ここにいる意味だった。
白凪は、その意味を、まだ言葉にしなかった。
言葉にしないまま、握った手の中の重さを、もう一度、握り直した。
砲声が、また鳴った。
九番の正面の別働は、まだ近づいていた。
夜は、まだ、半分も過ぎていなかった。




