第3章 空白
第三部 空白
Day1夜の伝令は、半分だけ届いた。
白凪が走ったのは、副線の前縁側から本陣までの一段だった。距離は短い。だが、夜の壕は色を持たない。踏み板の位置を、目ではなく身体で覚えた通りに踏んだ。木枝の目印が、月の光ではなく、自分の影との位置関係で見えた。
走り終えて本陣に着いたとき、もう一段の伝令は戻っていなかった。
白凪が知らなかった兵だ。名前は、走り出す前に一度だけ聞いた。古川。それだけだった。古川は本陣から後方への一段を任されて、夜のうちに走った。
戻らなかった。
夜が明ける前に、もう一度走らせる、という判断は出なかった。鷹見はそれを「未帰還」とは呼ばなかった。「次便、別経路」と、笹倉に向かって短く言った。それで、古川の名前は、地図の上から消えた。
朝が来て、白凪は起き上がった。
眠ったかどうかは分からなかった。身体は冷えていた。脚の感覚が、一拍遅れて戻ってきた。立ち上がるときに、靴底で土を強く押した。一拍を消すのは、もう癖になっていた。
戦闘可能五。
数は、誰も声に出して言わなかった。
だが、壕の中の動線の間が、また少し伸びた。それで分かった。
昼が過ぎる頃、後方からの伝令兵が、別の経路で本陣まで来た。
白凪は知らない顔だった。背負い袋の汚れ方が、宇野とも古川とも違う。一晩、地面の上で寝た顔だった。
「補給は」
鷹見が訊いた。
「動かしてる」
伝令兵は短く答えた。
「だが、遅れる」
「理由は」
「枯枝街道、夜間も動いてる。だが、向こうも撃ってる」
白凪はその一言を、副線の脇で立ったまま聞いた。
手は動かさなかった。動かさなかった、というよりは、動かしかけて止まった。さっき、欠員表の再交付を受け取ったときに、台帳の縁に親指を当てた、その指の位置で、止まっていた。
枯枝街道、夜間も動いてる。
だが、向こうも撃ってる。
その言葉は、地図の上で見たときの「枯枝街道」とは違うものだった。地図の上では、線だった。後方へ伸びる細い線。今、伝令兵が口にしたのは、線ではなかった。撃たれている場所だった。
(後方も、戦場になりかけてる)
白凪はそれを、頭の中で言葉にしなかった。
言葉にすると、少し遅れる。
遅れる代わりに、欠員表の縁に当てた親指が、わずかに沈んだ。台帳の紙は、湿っていた。指の腹が、紙の繊維に引っかかった。
その引っかかりに、何かが、半拍だけ近づいた。
近づいた、とだけ分かった。
何が近づいたのかは、分からなかった。
白凪は親指を離した。離したとき、近づいたものも、離れた。
「白凪」
荒瀬の声だった。
白凪は顔を上げた。
「何だ、その台帳」
「再交付です。古川さんの分が消えました」
「消した側の手で受け取ったか」
「はい」
「そうか」
荒瀬はそれだけ言った。
台帳の文字は、白凪の名前の脇に、空白がひとつ増えていた。空白には、線が一本引かれていた。線は、笹倉の字だった。
午後になって、空の色が変わった。
曇天は変わらない。だが、光の量だけが、一段だけ落ちた。日没にはまだ早い。光が落ちる時間が、昨日より、半時間ほど早いだけだ。
その半時間の中で、三つのことが、ほぼ同時に起こった。
最初は、副線が落ちた、という報告だった。
「副線、雑音」
笹倉の声が、本陣から飛んだ。
「位置、二箇所目の目印」
白凪は、その場所を覚えていた。昨日のうちに、自分の手で土を払った場所だった。
次に、北側の遮蔽が崩れた。
「土嚢、抜けます」
水城の声だった。
「補修、間に合わん」
水城は、間に合わない、と先に言った。間に合わないが、やる、ということだ。やらなければ、人が一人通れない。
最後に、観測壕の手前で、別の兵が膝をついた。
白凪が知らない兵だった。古川と同じだ。名前を、白凪はまだ覚えていなかった。
「腹だ」
荒瀬が、その兵の脇に駆け寄りながら言った。
「破片だ。さっきの音、あれが当たってる」
さっきの音、というのは、白凪も聞いていた。遠い破裂音だった。一発だけ。それで終わったと思っていた。終わっていなかった。一発でも、当たれば、当たる。
瀬名が動こうとした。
だが、瀬名は名取の脇から離れられなかった。離れた瞬間に、名取の止血が崩れる。崩れたら、名取が先に死ぬ。
「瀬名さんは動けません」
白凪が言った。
「動かさないで」
瀬名は短く頷いた。礼ではなかった。確認だった。
三つのことが、同時に動かなかった。
笹倉は副線の補修を始めた。だが、笹倉が補修している間、本陣からの命令は止まる。命令が止まれば、北側の水城も、観測壕の手前の負傷者対応も、自分で判断するしかない。
水城は、土嚢を抜ける前に支えに入った。だが、支えに入った水城は、その場所から動けない。動けない水城は、ほかの場所の補修ができない。
負傷した兵は、瀬名が動けない以上、誰かが応急の手当てをするしかない。だが、その「誰か」は、白凪と荒瀬しかいない。荒瀬は前線の動線を維持する役目だ。動かすなら白凪だ。
白凪は、その兵の脇にしゃがんだ。
名前は、まだ知らない。
だが、瀬名が以前、白凪の腰の水筒に視線を落とした顔を思い出した。瀬名は、自分の水を渡そうとした白凪の手を、咎めなかった。受け取らなかったが、咎めなかった。
あれは、たぶん、こういう時のための訓練だった。
誰の水を、いつ、どの順番で減らすか。
白凪は腰の水筒を外した。半分強。自分の分だ。
兵の口元に、水筒の縁を当てた。少しだけ傾けた。一口。それ以上は減らさなかった。
「動かさない」
白凪は言った。
「ここで止血だけする」
「……」
兵は答えなかった。だが、目は動いた。聞いていた。
白凪は、配属の日に瀬名が名取に巻いていた包帯の手順を、頭の中でなぞった。完全には覚えていなかった。だが、止血の位置だけは、瀬名がいつも最初に押さえる場所だった。腹の、傷口より少し心臓寄り。そこを押さえる。押さえる強さは、瀬名は決めていた。白凪には決められない。だから、押さえながら、押さえ続けるだけにした。
その間、笹倉は副線を補修していた。
水城は土嚢を支えていた。
荒瀬は、本陣の前線寄りで、命令を出せない鷹見の代わりに、自分の判断で動ける位置にいた。
鷹見は、地図の前にいた。
動けなかった。
動かなかった、ではない。動けなかった。
全員がそれぞれの場所で動けない、ということが、指揮の本陣には、見えていた。見えていても、動かす相手がいなかった。
白凪は兵の腹を押さえながら、視界の端で、瀬名のしている手の動きを見た。
瀬名は、名取の包帯を巻き直す手を止めていなかった。
止めなかった、ではない。止められなかった。
その瀬名の足元に、何かが落ちていた。
布の切れ端だった。泥に汚れていた。文字が、滲んでいた。
瀬名は、それを拾わなかった。拾う暇がなかった。だから、白凪の視界の端に、それは残った。
文字は、読めなかった。
読めなかったが、紙の形と、滲み方で、それが手紙だと分かった。
名取の私物だった。
誰かが、名取に書いて送ったものだった。
白凪は、それを直視しなかった。直視する暇がなかった。だが、視界の端に入った形は、消えなかった。
(兵にも、戻る場所がある)
その認識だけが、押さえている手の中に、半拍だけ落ちた。
名取は、寝かされている。
息はある。
だが、止まっていない、というだけだ。
止まっていない名取の脇に、誰かが書いた文字が、滲んだまま落ちている。
その文字を書いた誰かは、名取がここにいることを、知っているのだろうか。
知らせは、届いているのだろうか。
届いていたとして、それは、いつのものだろうか。
白凪は、その問いの並びを、頭の中から外した。
外す、というよりは、押さえている手の中に、それ以上の余裕がなかった。
兵の腹の下から、滲みの量が、少しだけ増えた。
白凪は押さえる位置を、半拍だけ心臓寄りにずらした。ずらしてから、そのままで保った。
保つこと、だけが、できることだった。
笹倉が、副線の補修から戻ってきた。
「副線、生きてます」
声は、荒れていた。
「ですが、二箇所目の目印の場所、補修材が足りません。仮で、巻線で代用しました」
「保つか」
鷹見が訊いた。
「半日です」
「分かった」
鷹見はそれだけ答えた。
半日、というのは、夜まで保つかどうか、という意味だった。夜に、保たなかったら、伝令二段に戻る。だが、伝令を出せる兵が、もう五人しかいない。
水城が、北側から戻ってきた。
「土嚢、支えました。抜けはしません。ですが、これ以上、踏ませると崩れます」
「迂回経路は」
「ありません」
「分かった」
また、それだけだった。
迂回経路がない、ということは、その場所を通らずに動くことができない、ということだ。土嚢が崩れたら、壕全体の動線が、その場所で切れる。
切れたら、前と後ろが分かれる。
分かれたら、戦線が、二つになる。
瀬名が、ようやく顔を上げた。
「白凪二等兵」
「はい」
「兵の名前は」
「分かりません」
「分からないままで、いいです」
瀬名はそう言って、名取の包帯から手を離した。離したのは、止血が安定したからではなかった。これ以上は、巻き直しても変わらない、という判断だった。
瀬名は白凪のところへ来た。
白凪の押さえている手の上に、自分の手を重ねた。重ねた瞬間、押さえる強さが変わった。瀬名の手は、白凪の手より、強かった。だが、強い、というのとは違う。決まっていた。押さえる場所と、押さえる量が、決まっていた。
「離してください」
瀬名は言った。
「ここから、私が引き継ぎます」
「はい」
白凪は手を離した。
手の中から、温度が抜けた。さっきまであった重みが、消えた。
代わりに、手のひらの中に、湿った跡が残った。
その湿った跡を、白凪は土嚢の角で拭った。拭わずに動くと、次に何かを持つときに、滑る。前線では、滑る、ということが、命令を遅らせる。
「兵は」
白凪は訊いた。
「持ちます。今は」
瀬名は短く言った。
「ですが、後送できる状態にはなりません。ここで持たせます」
「了解」
白凪は立ち上がった。
立ち上がるときに、視界の端で、さっきの紙の切れ端が、まだ落ちていた。
瀬名は、それを拾わなかった。
白凪も、拾わなかった。
拾う、ということが、誰かの仕事ではなかったからだ。
本陣に戻ると、鷹見が地図の前で、点線を一本、消していた。
古川の経路だった。
消したあと、別の点線を、別の方向に引き直していた。
新しい点線は、本陣から、副線の中継点を経由して、後方へ続いていた。距離は、古川の経路より、長かった。長いが、副線が生きているうちは、そちらのほうが安全だった。
「白凪」
鷹見が、白凪に視線を上げた。
「兵の状態は」
「瀬名さんが引き継ぎました。持ちますが、後送できる状態にはならないそうです」
「分かった」
「鷹見軍曹」
白凪は続けた。
「枯枝街道、夜間も撃たれてる、という話でしたが」
「聞いたか」
「はい」
「で」
鷹見は短く返した。
白凪は、そこで一拍だけ詰まった。
訊いていいことか、訊かなくていいことか、まだ判断がついていなかった。だが、訊かないと、自分の中で判断が組めない、という感覚だけは、配属の日からずっと変わっていなかった。
「補給が遅れる、ということは、ここの食料と弾薬が、いつまで持つか、ということになります」
「そうだ」
「持たないとなったら、どうしますか」
「持たせる」
鷹見はそれだけ答えた。
持たせる、というのは、配給を減らす、ということだった。配給を減らせば、兵の動きが鈍る。鈍ったら、判断が遅れる。遅れたら、誰かが先に死ぬ。
その順番を、鷹見は飲み込んだ上で、「持たせる」と言った。
飲み込んでいる、ということが、白凪には分かった。
飲み込んだ顔は、配属の日から、変わっていなかった。
「白凪」
鷹見はそのまま続けた。
「お前、最近、台帳の縁を撫でる癖がついてるな」
白凪は、自分でも気付いていなかった。
気付いていなかったが、そう言われてみれば、欠員表を受け取ったとき、確かに親指の腹を、紙の縁に当てていた。
「気をつけます」
「気をつけなくていい」
鷹見は短く言った。
「だが、覚えとけ。手の癖は、頭が考えてるより先に、何かを思い出してる時に出る」
白凪は、その言葉を半拍で取った。
頭が考えているより先に、何かを思い出している。
それが何かは、鷹見も訊かなかった。
訊かれたら、白凪も答えられなかった。
答えられないものを、鷹見は訊かない。
空の色が、もう一段落ちた。
日没にはまだ少しある。だが、壕の中はもう、影と影の境目が曖昧になっていた。
久我は、双眼鏡を構えていた。
構えたまま、声を出さなかった。
断尾嶺の並びは、まだ動かなかった。
動かないまま、こちらの副線が、半日しか保たない。
動かないまま、こちらの土嚢が、これ以上踏めない。
動かないまま、こちらの兵が、また一人、後送できない状態で残る。
動かないまま、こちらの戦闘可能が、五。
「断尾嶺、変化なし」
久我の声が落ちた。
変化なし、という言葉の意味が、また一段、変わっていた。
最初は、揃いすぎている、ということが異常だった。
次に、揃いすぎたまま、変化しない、ということが異常だった。
その次に、変化しないまま、それ以上整えもしない、ということが異常だった。
今は、こちらが崩れていく速度に、向こうが合わせている、ということが、異常だった。
向こうは、こちらを見ている。
こちらが、自然に崩れるのを、待っている。
完成した配置のまま、崩れる側を待つ。
それが、今、向こうがしていることだった。
白凪は、自分の位置に戻った。
動線の脇の、土嚢の影。半分立ったまま、すぐに動ける位置。
水筒の重さを、無意識に確かめた。半分弱。さっき、兵に一口だけ飲ませた分が、減っていた。
飲む時刻ではなかった。
白凪は水筒を戻した。
戻すときに、腰のベルトの位置で、水筒の底が、わずかに台帳の縁に当たった。
その当たり方で、半拍だけ、また何かが近づいた。
近づいて、すぐに離れた。
白凪は、その近さを、追わなかった。
追ったら、半拍ずれる。
半拍ずれたら、次の動きが遅れる。
次の動きが遅れたら、誰かが、また足りなくなる。
白凪は、追わないことを選んだ。
選んだ、というのも、正確ではなかった。選ぶ前に、身体が、もう次の位置に動いていた。
壕の中の動きは、半拍ずつ、さらに減っていた。
誰も、声を上げなかった。
動いている兵は、五人。
そのうち、瀬名は名取と新しい負傷者の二人を抱えている。
水城は北側の土嚢を支えている。
笹倉は副線の補修材を待っている。
久我は断尾嶺を見ている。
残りは、白凪と、荒瀬と、鷹見。
前線で動けるのは、白凪と荒瀬の二人だけ。
二人で、伝令を出すことは、もうできない。
動ける人間が、動かなくてはならない場所に、貼り付いている。
夕方の、最後の光が落ちる前に、副線が一度、切れた。
雑音ではなかった。完全な無音だった。
笹倉が、すぐに端末を組み替えた。
「副線、断線。仮接続、組みます。十分」
十分。
その十分のあいだ、九番観測壕は、後方とも前縁とも、つながらない。
久我は、双眼鏡を下ろさなかった。
水城は、土嚢を支える手を緩めなかった。
瀬名は、二人の負傷者の脇を離れなかった。
白凪は、自分の位置に立ったまま、十分を数えた。
数える、というのは、頭の中で時計を刻む、という意味だった。一秒、一秒。十分は、六百秒。長くも短くもない。だが、その六百秒のあいだに、向こうが動いたら、こちらは知ることができない。
知ることができない、ということが、今、最も近い死だった。
白凪は、その死の近さを、言葉にしなかった。
言葉にすると、半拍遅れる。
遅れる代わりに、足の裏で、踏み板の沈み方を確かめた。沈み方は、変わっていなかった。
動線は、まだ生きていた。
動線が生きているうちは、誰かが、まだ走れる。
走れる人間が、まだいる。
それだけが、今、確かなことだった。
久我の声が、十分の途中で、一度だけ落ちた。
「断尾嶺、変化なし」
変化なしのまま、夜が来ようとしていた。




