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第3章 断線

第二部 断線

 昼を過ぎても、空の色は変わらなかった。

 曇天は朝から動かない。風もない。土の表面が乾いているのに、地面の奥は湿ったままだ。踏み板を踏むと、表は硬いのに底からじわりと水が押し上げてくる。それが踏み板の脇から滲んで、土嚢の根元を黒くしていた。

 白凪は二度目の中継点往復を終えて、壕に戻ったところだった。

 二度目は、宇野はいなかった。当然だった。次便は未定だ。中継点には、空の木箱が一つと、簡易型の有線端末だけが残されていた。白凪は端末の前にしばらく立ち、「次便確認」と一度だけ後方に投げて、雑音まじりの「未定、了解」だけを受け取って戻った。

 それで一往復になる。

 来たときと帰るときで、運ぶものは変わらない。情報だけだ。「次は来ない」という情報を、運ぶ。

「白凪、戻ったか」

 壕の入口で、笹倉が言った。

 受話器を肩に挟んだまま、視線は手元の有線端末に落ちている。指が線の被膜を辿る速度が、朝より速い。速いのに、確認の一拍が長い。動きが速いのに、確認に時間をかける、というのは、線の状態が悪くなっている合図だった。

「戻りました」

「中継点の端末、雑音は」

「行きより、帰りのほうが大きかったです」

「どのあたりから」

「二回目の曲がり手前です」

 白凪はそう答えた。

 答えながら、自分が場所で答えていることに気付いた。「どのあたりから」と訊かれたとき、時間で答えることもできた。「五分ほど前から」とか、「中継点を出て少し経ってから」とか。だが、笹倉は時間を訊いていない。場所を訊いている。場所が分かれば、線のどこを直すべきかが決まる。

 時間で答える人間は、まだ慣れていない。

「分かりました」

 笹倉はそれだけ言って、受話器を耳に戻した。

「九番から後方、線量低下。位置、二回目曲がり手前」

 復唱は、半拍遅れて返ってきた。

「九番から後方、線量低下、位置、二回目曲がり手前、了解。確認、出します」

 声が遠い。

 雑音越しに、相手の言葉が一語ずつ削れていく。意味は分かる。だが、削れている。削れた言葉を補うのは、聞き手の側だ。聞き手が経験で補う。経験で補える人間は、笹倉のような兵だけだ。

 白凪はその雑音を、自分の耳で確かめた。

 ザザ、と一定の間隔で混ざる音。線そのものの劣化ではない。接続点の劣化に近い。被膜が裂けて、土の水分が中の銅線にまわりかけている。完全に切れる前段階の音だった。

(持って、あと半日くらいか)

 白凪はそう判断した。判断したことを、口には出さなかった。判断は笹倉がする。笹倉が言うまで、こちらの判断は要らない。

 壕の中ほどでは、水城が踏み板の角度を直していた。

 二度目の往復の最中に、白凪が一度だけ滑った場所だった。滑ったのは中継点側で、こちらの壕に戻る側ではなかった。だが水城は、白凪が戻るのを見て、こちらの壕の似た角度の踏み板から先に直し始めていた。

「お前、向こうで滑ったろ」

 水城が、白凪を見ずに言った。

「滑りました。中継点側です」

「こっちは、向こうとは別だな」

「同じ角度に見えますが」

「同じ角度でも、踏まれた回数が違う」

 水城はそう言って、木槌で杭を一つ打ち直した。

「向こうは今日、お前と宇野が二往復した。こっちはお前一人分しか乗ってない。同じ角度でも、沈み方が違う。先に直すのは、踏まれてないほうだ」

 白凪は、その理屈を半拍考えた。

 踏まれていないほうを先に直す、というのは、直感に反する。普通なら、傷んでいるほうを先に直したい。だが水城は逆を取った。

(傷んでるほうは、もう直しても保たない。直すのは、これから保たせたいほうだ)

 すぐに分かった。

 保たないものに時間を使わない。保つ可能性のあるものに、先に手を入れる。それが、減ったままで回す現場の手順だった。

「分かりました」

「分からんでもいい。覚えとけ」

 水城はそれだけ言って、もう次の場所へ移っていた。

 壕の上で、久我は双眼鏡を下ろしていた。

 下ろしている、というのは、白凪がここに来てから初めて見る姿勢だった。久我はずっと構えていた。観測を切らさないことが、彼女の役目だからだ。

 その久我が、双眼鏡を膝の上に置いている。

 代わりに、油布で双眼鏡のレンズを拭いていた。

 拭くことは、手入れではない。久我のレンズは、朝のうちに済ませている。今、もう一度拭いている。一度拭いたものを、もう一度拭いている。

「久我さん」

 白凪は壕の縁の下から声をかけた。

「曇りますか」

「曇ります」

 久我は短く答えた。

「気温下がってきました。レンズの内側に、息で曇りが乗ります」

「外、撃ってきますか」

 白凪は、自分でも訊くつもりのなかった問いを口にしていた。

 久我は油布の動きを止めなかった。

「断定はしません」

「はい」

「ですが、曇りの出る時間帯は、向こうも一度こちらを確認したい時間帯です」

 白凪はその言葉を受け取った。

 受け取って、すぐに頭の中で並び替えた。曇りが出るということは、こちらの観測が一時的に弱くなる。弱くなる時間帯に、向こうも確認をかけたい。確認だけなら撃ってこない。だが、確認の延長で射撃に切り替わることがある。

 今のは、警告だ。

 だが警告とは言わない。久我はそう言わない。

「……ありがとうございます」

 言ってから、礼が要らない場面だと気付いた。

 久我は何も言わなかった。

 壕の奥で、瀬名が動いた。

 名取の脇にしゃがみ、包帯を巻き直している。汗で緩んだ部分を締め直しているのではない。下に染み出してきたものを、上から拭き取っているのだった。色は濃い。だが、血の鮮度ではなく、滲み続けているだけのものに見えた。

「瀬名さん」

 白凪は近づいて、声を低くした。

「進んでますか」

「進んではいません」

 瀬名は包帯を巻く手を止めずに答えた。

「ですが、止まってもいません。後送できれば変わります。今は変わりません」

「水は」

「半分。残りで一日もちません」

 白凪は腰の水筒に、無意識に手を当てた。半分強。自分の分だ。

 動かしかけて、止めた。

 自分の水を瀬名に渡す、というのは、ここでは判断にならない。判断になるのは、誰の水を、いつ、どの順番で減らすか、を全体で決めるときだけだ。個人の感情で渡しても、渡された側の運用が乱れる。

 瀬名は、白凪の動きに気付いた顔をしなかった。

 気付いていても、咎めないし、受け取らない。受け取らないことを、表情で示さないだけだった。

「白凪二等兵」

 瀬名はそのまま、別のことを訊いてきた。

「中継点から戻る道、滑りやすい場所はどこでしたか」

「二回目の曲がり手前です。水城さんが、こちらは先に直してます」

「向こうは」

「直していません」

「分かりました」

 瀬名は短く言った。

 訊いた理由は、白凪には分かった。担架で名取を運ぶことになった場合、どの経路を使うかを、頭の中で先に組んでいる。動かす予定がない、と言いながら、動かす場合の準備だけはしている。

 動かさない、という判断は、動かさなくても済む状況を維持できているあいだの話だ。

 その状況が崩れた瞬間に、判断は逆になる。

 瀬名は、その「逆になった瞬間」のために、今のうちに経路を聞いていた。

「白凪」

 今度は荒瀬の声だった。

 壕の前線寄りの位置から、低く呼んでいる。

 白凪は瀬名のところを離れて、荒瀬のいる位置へ動いた。動線を最短に取る。土嚢の張り出しを避けて、踏み板の位置だけで進む。曲がり角ごとに頭の高さを下げる。

「来たか」

「来ました」

「これだ」

 荒瀬は、地面の上の有線を顎で示した。

 白凪は視線を落とした。

 有線が一本、土に半分埋もれて這っている。朝までは見えていた被膜が、今は土と区別がつかない色になっていた。誰かが踏んだのではない。土が崩れてかぶさったのだった。

「これ、笹倉さんの線ですか」

「南東枝壕への、副線だ」

 荒瀬は短く言った。

「主線とは別だ。主線は、お前が今朝から雑音だと言ってる、後方への線。こっちは、前縁の観測壕と本陣をつなぐ短い線だ」

「短い線でも、被膜は」

「被膜は同じだ。土の重さも同じだ」

 荒瀬はしゃがんで、被膜の上の土を指の腹で払った。払ったところから、古い切れかけが見えた。被膜の傷は、今日のものではない。何日か前から少しずつ傷んでいたものを、土がかぶさったことで、ようやく目に入る形で出てきた。

「笹倉に言うか」

 荒瀬は白凪を見た。

「言うべきです」

「言って、どうなる」

 白凪は半拍黙った。

 言って、笹倉が直しに来るか。来ない。笹倉は今、主線の劣化を扱っている。副線まで手が回らない。来るとしても、主線が落ち着いた後だ。だが、主線は落ち着く見込みがない。落ち着く前に、副線が先に切れる可能性がある。

「主線のあと、になります」

「そうだ」

「副線が先に切れるかもしれません」

「切れる」

 荒瀬は短く言い切った。

「で、お前が判断するなら、どうする」

 訊かれた。

 白凪は地面を見た。被膜の傷の位置。土の崩れ方。線の通っている方向。前縁の観測壕までの距離。本陣までの距離。今、誰がどこにいるか。誰の手が空いているか。

 手は空いていない。

 全員が、自分の役目を回している。

 その中で、副線の補修に手を割けるのは、白凪と荒瀬しかいない。だが、荒瀬は前線の動線を維持する役目だ。動かすなら白凪のほうだ。

 白凪は、その判断の手前で、もう一度迷った。

 迷う、というよりは、確かめた、と言ったほうが近い。自分が動くなら、何が止まるか。前縁手前の中継点に出る命令は、もう二往復で完了している。次便は未定だ。だから今は、白凪自身が動ける。

「自分が、被膜の上の土を払って、傷んでる部分を露出させます」

 白凪は言った。

「補修はしないか」

「補修材を持っていません。露出させて、笹倉さんが来られたときにすぐ手をつけられる状態にします」

「補修材が要らないと判断したんじゃないな」

「はい。判断ではなく、持っていないだけです」

「正直でいい」

 荒瀬は短く笑った。笑いに見える顔だった。

「やれ。ただし、線そのものに触るな。土だけ払え。指で払うな。布を使え。いまお前の手汗が乗ったら、明日切れる」

「了解」

 白凪はしゃがんだ。

 胸ポケットから、宇野が中継点で渡してくれた巻線の余りを少し裂いて、布の代わりに使った。指は使わない。布越しに、被膜の上の土を一つ一つ払う。払ったところから、被膜が現れる。被膜には、針で引っ掻いたような細い傷が、いくつも走っていた。

 白凪は、その傷の位置に小さく目印をつけた。木枝を一本、被膜の脇の土に立てるだけだ。木枝に意味はない。だが、笹倉が来たときに、傷の位置をすぐに見つけられる。

 その作業の途中で、笹倉の声が壕の本陣のほうから飛んだ。

「主線、断線します」

 短い。

 復唱を待つ言い方ではなかった。報告でもなかった。判断の宣言だった。

 白凪は手を止めなかった。

 手を止めて壕の本陣に戻っても、笹倉の判断には影響しない。今やっている副線の露出のほうが、結果的に役に立つ。

 壕の中の動きが、半拍だけ揃った。

 誰も走らない。誰も声を上げない。だが、全員が次にやるべきことを、半拍で組み直した。

 水城は、踏み板の補修をやめなかった。やめたら踏み板が崩れて、伝令が走れなくなる。

 瀬名は、名取の包帯を巻き直す手を止めなかった。止めたら、滲みが広がる。

 久我は、双眼鏡を膝から取り上げた。レンズは、すでに油布で拭き終わっていた。

 荒瀬は、白凪のいる位置から離れて、本陣の前線寄りの位置へ動いた。命令が遅れる前提で、自分の判断で動ける位置に身体を移した。

 白凪は、副線の露出を続けた。

「主線、断ちます」

 笹倉の声がもう一度、本陣から響いた。

「補修不可。後方への報告は、副線経由で短縮します。受け取り側、了解か」

 受け取り側、というのは、後方ではない。本陣の鷹見への確認だった。

「了解」

 鷹見の声が即座に返った。

 短い。一語だ。

 その一語を聞いて、白凪は理解した。

 今、笹倉は、主線を切る判断を出した。切れたから切ったのではない。切れる前に、自分の判断で切った。完全に切れるのを待つと、最後の一瞬で何か重要な信号が送れなくなる可能性がある。だから、まだ残っているうちに切って、副線に集約する。

 切るほうが、生かすほうだった。

(指揮を、一本に絞ったってことだ)

 白凪は手を動かしたまま、それを飲み込んだ。

 主線が切れる、ということは、九番観測壕から後方への直接の線が消える、ということだ。これからは、副線経由でしか後方とやり取りできない。副線は短い線で、前縁の観測壕と本陣をつないでいる。後方とつなぐためには、副線の途中から別の経路に渡さなければならない。

 その別の経路は、今のところ、伝令だ。

 人間の足だ。

 白凪は、自分の足元を見た。

 今やっている被膜の露出は、副線の補修準備だった。つまり、後方とつながる唯一の経路の、補修準備だった。

 手の動きが、一段だけ慎重になった。

 布越しに、土を一粒ずつ払う。指を使わない。線に触れない。傷の位置に目印をつける。

 その単純な作業が、今は壕全体の指揮を支えていた。

 誰もそれを言わなかった。

 言う必要がなかった。

 言っても、白凪が今の作業を止める理由にはならない。

「白凪」

 荒瀬が、本陣寄りの位置から声をかけてきた。

「終わったら戻れ。次の指示がある」

「あと、五箇所です」

「分かった。雑にするなよ」

「しません」

 白凪はそれだけ答えて、また布を動かした。

 空の色は、まだ変わらない。

 風もない。

 砲声も聞こえない。

 戦闘がない時間に、戦闘の準備が崩れている。

 壕の上では、久我が双眼鏡を構え直していた。

 レンズは、もう曇っていなかった。

「断尾嶺、変化なし」

 久我の声が落ちた。

「印、増えていません」

 白凪は、その報告のほうに引っかかった。

 朝、印は増えた。位置ではなく、間隔の精度が上がった。だが、午後になって、それ以上は増えていない。

 増えないこと自体が、また異常だった。

 最初は、揃いすぎている、ということが異常だった。

 次に、揃いすぎたまま、変化しない、ということが異常だった。

 今は、変化しないまま、それ以上整えもしない、ということが、異常だった。

 完成している、ということだ。

 もう、向こうは準備を終えている。

 動き出すのを待つだけの段階に入っている。

 白凪は布を動かした。

 手は止めない。

 止めた瞬間に、頭が考え始める。考え始めると、手が遅れる。遅れた分だけ、笹倉が補修に取りかかれない。取りかかれない時間が長くなれば、副線も切れる。

 副線が切れたら、伝令しかなくなる。

 伝令は、足だ。足は遅い。足が遅い指揮で、向こうの完成した配置に対応するのは、難しい。

 難しい、というのは、この前線の言葉では、人が足りなくなるということだった。

 白凪は、五箇所目の目印をつけ終えた。

 立ち上がる。

 脚が、半拍だけ重い。さっきまではなかった重さだった。座っていた時間が短いのに、立ち上がるときに膝が一拍遅れる。疲労ではない。集中の終わり方だった。集中していた時間が短くても、終わったあとには、必ずこの一拍の重さが残る。

 その重さを、靴底で消した。

 動線を最短に取って、本陣へ戻る。

 本陣では、笹倉が有線端末を組み替えていた。主線の入っていた差し込み口から、線そのものを抜いている。抜いた線は、束ねて、土嚢の上に置いた。再使用するためではない。記録のためだった。

「白凪さん、副線は」

 笹倉が顔を上げた。

「五箇所、目印をつけました。土だけ払って、傷の位置を露出させてあります。指は使ってません」

「ありがとうございます」

 笹倉は、それだけ言った。

 礼の言い方が、白凪が今朝の中継点で「受領、確認、復唱」と返したときと、同じ強さだった。仕事に対する礼で、人間に対する礼ではない。だが、それでよかった。人間に対する礼を始めると、ここでは間が空く。

「鷹見軍曹」

 笹倉が、続けて報告した。

「主線、切断しました。副線、現状で生きています。補修材到着まで、副線に依存します」

「分かった」

 鷹見が答える。

「副線が切れた場合は」

「伝令、二回」

「二回、というのは」

「一往復、では戻れないと判断しました。前縁から本陣、本陣から後方、二段で動かします。前縁から後方を直接走らせると、距離が長くなって、走者が落ちる可能性が高くなります」

 白凪はその説明を、半拍で取った。

 走者が落ちる、というのは、撃たれる、ということだ。距離が長ければ、それだけ撃たれる時間が長い。だから、二段に分ける。一段ごとの距離を短くする。

 効率は落ちる。

 だが、走者が落ちる確率は下がる。

 効率より、確率を取る判断だった。

「了解」

 鷹見はそう答えた。

 即答だった。

 即答できる、ということは、笹倉の判断が、鷹見の中の優先順位と一致している、ということだ。即答できない場合、軍曹は「考える」と言うか、別の問いを返す。今は、どちらでもなかった。

「白凪」

 鷹見が、白凪に視線を移した。

「お前は、副線の前縁側から本陣までを、覚えとけ」

「覚えてます」

「もう一度、歩け」

「今、ですか」

「今だ」

 白凪は短く返事をした。

「了解」

 もう一度、壕の連絡路へ戻る。

 今度は副線に沿って歩く。被膜の露出している場所を、目で確認しながら通る。木枝の目印が、土の上に立っている。立っているうちは、まだその場所を覚えていられる。風が出れば倒れる。倒れたら、目印は消える。だから今のうちに、身体に入れる。

 歩きながら、白凪は耳を澄ませた。

 砲声はない。

 銃声もない。

 風の音もない。

 自分の足音だけが、踏み板の上で鳴っている。

 その足音が、半拍ずつ、いつもより強い。強くなったのではない。周りの音が減っているから、自分の足音が相対的に強く聞こえる。

 壕の中の音が減っている、ということは、誰も動いていない、ということではない。動きの種類が、減っている。

 補修の音がない。水城が手を止めたのではなく、補修できる場所がもうない、という段階に入った可能性がある。

 復唱の音がない。笹倉が止めたのではなく、復唱する相手が、副線の向こうに集約された、ということだった。

 包帯を巻き直す音がない。瀬名は今、巻き直すよりも、止血を維持するほうに手を移している。

 観測の声がない。久我は、構えたまま、声を出していない。出すべき変化がない、という報告を、出さないことで伝えている。

 全部の音が、半拍ずつ減っている。

 減っているが、止まっていない。

 止まる前の、最後の段階だった。

 白凪は、副線の前縁側の終点に着いた。

 前縁の観測壕と、本陣をつなぐ線の、観測壕側の差し込み口だ。土嚢の影に、簡易な端子箱がひとつ。蓋は閉じられている。

 白凪は端子箱には触れなかった。

 触れる必要がない。今、線は生きている。生きているうちに触れば、雑音が増えるか、最悪、こちら側で切れる。

 位置だけを確認して、戻る。

 戻る道で、白凪は足元の踏み板を、もう一度数えた。

 九枚。

 行きと同じだ。減っていない。減っていないことを確認できた、ということが、今日の中で最も具体的な確認だった。

 本陣に戻ると、鷹見が、地図の上に新しい線を一本、書き加えていた。

 主線の上に、太い線で消し印を入れている。副線の経路は、そのままだ。だが、副線の途中に、点線が一本、後方へ向かって延びていた。

 点線は、伝令の経路だった。

 線ではない経路は、人間の足だった。

 足は、線より遅い。

 遅い経路を、地図に書き加える、ということは、これからの判断は、その遅さを前提に組まれる、ということだった。

「白凪、戻ったか」

「戻りました」

「副線、覚えたな」

「覚えました」

「今夜、一度、伝令を出す」

 鷹見は短く言った。

「お前と、もう一人。白凪が前縁から本陣、もう一人が本陣から後方だ」

 白凪は、その命令を半拍で取った。

 夜の伝令。距離は短い。だが、夜だ。配属の日の夜、白凪は夜の伝令で、名取を引きずって戻ってきた。あの夜と、今夜は条件が違う。あの夜は、主線が生きていた。命令が遅れずに届いていた。だから、撃たれた瞬間に「下がれ」が即時に来た。

 今夜は、それがない。

 下がれ、が遅れる。

 下がれ、が来ない可能性もある。

 その前提で、走る。

「もう一人は、誰ですか」

 白凪は訊いた。

「決めてない」

 鷹見は、即答しなかった。

 それで分かった。

 今、走らせられる人間が、もう壕の中にほとんどいない。観測、通信、工兵、衛生、それぞれの役目を抜けない。前線で動けるのは、白凪と荒瀬だけだ。荒瀬を後方への伝令に出すと、前線の動線を維持する人間がいなくなる。

 もう一人は、たぶん、白凪が知らない兵だ。昨日の夕方、点呼の時に「戦闘可能六」と数えられた中の、白凪と荒瀬と、それ以外の三人のうちの一人。その三人の名前を、白凪はまだ全部は知らない。

 知らない兵と、夜に走る。

「了解」

 白凪はそう答えた。

「指示は、夕食後に出す」

 鷹見はそれだけ言った。

 夕食、と呼べるものはなかった。携行食を一つ齧る程度の時間が、夕方のどこかにある。それだけだ。

 白凪は、自分の位置に戻った。

 位置、というのは、寝床ではない。寝床は壕の中の決められた場所にあるが、白凪はそこに座らなかった。動線の脇の、土嚢の影に、半分立ったまま身体を預ける位置。すぐに動ける位置だった。

 壕の上で、久我が双眼鏡を構え直していた。

 空の色は、ほんの少しだけ落ちていた。

 日没にはまだ早い。だが、曇天の下で光が弱まる時間が、もう来ている。

「断尾嶺、変化なし」

 久我の声が落ちる。

 白凪は、その「変化なし」を、もう前のようには受け取らなかった。

 変化がない、ということは、向こうが完成した配置を保っている、ということだ。

 保っているまま、夜になる。

 夜になれば、こちらの観測は弱くなる。

 弱くなった瞬間に、向こうは、最初の動きを出す。

 その最初の動きを、こちらは主線では受けられない。副線で受ける。副線が落ちれば、伝令で受ける。

 白凪は腰の水筒を、無意識に外した。

 残量を確かめた。半分強。朝と変わらない。

 飲む時刻ではない。

 白凪は水筒を戻した。

 戻すときに、ふと、首筋に汗が落ちた。気温は下がっているはずだった。なのに、汗が出ている。緊張だった。緊張に身体が反応しているのに、頭はそれを「緊張」とは呼んでいなかった。呼ぶ時間が惜しい、というのが理由だった。

 壕の中の音は、まだ減ったままだった。

 減ったまま、止まっていない。

 止まる前の音だ。

 白凪は、その音のあいだに、自分の呼吸の音を一つだけ混ぜた。

 吸って、吐く。

 吐く長さを、吸う長さに揃えた。

 配属された日に、荒瀬に教わったことだった。揃ってりゃ気付かれにくい。一定にしろ。

 今日は、それを自分の身体に向けて使っていた。気付かれないために揃えるのではない。揃えないと、自分の中の半拍が乱れるからだった。

 夜は、まだ来ていない。

 だが、夜に向けた準備は、もう終わりかけていた。

 主線は切れた。

 副線は生きている。

 伝令は決まった。

 配置は、減ったまま動いていた。

 その全部の上で、断尾嶺の並びが、揃ったまま、動かなかった。


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