第3章 前兆
第一部 前兆
朝が来たことは、光ではなく音で分かった。
遠くで誰かが土嚢の角を叩いている。湿気を含んだ布が鈍い音を返す。水城だった。昨日のうちに北側に固定された配置のまま、夜のあいだに緩んだ部分を打ち直しているらしい。白凪は瞼を開ける前に、その音の間隔を数えていた。
四回。
間。
三回。
間。
均一だ。眠っていない人間の手の動きだった。
白凪は壕の壁に背を預けたまま、首だけを動かした。視界の端で、瀬名が衛生箱の蓋を閉じるところだった。閉じ方が静かすぎる。中身を減らさないように扱っているのではない。減ったことを音で確認したくないだけだろうと、白凪は思った。
名取は同じ位置で寝かされている。
昨日の夕方より、息の上下が浅い。
だが、止まってはいない。
それで足りる。今は、それで足りる場所だ。
「起きてるなら、立て」
声は荒瀬だった。怒鳴ってはいない。日課を読み上げるような調子だった。
白凪は身体を起こした。脚の感覚が遅れて戻ってくる。眠っていたわけではない。目を閉じていただけだ。それでも、立つときには一拍だけ重さが残った。その一拍を消すために、土の上に靴底を強く押し付ける。
「水を確認しろ」
荒瀬が言う。
白凪は腰の水筒を外した。振る前に、重さで残量が分かる。半分よりやや上。昨日と変わっていない。昨日のうちに、時刻で飲むことを徹底したからだ。
「半分強です」
「飲むのは正午と日没後だけだ。喉が渇いたら塩を舐めろ。塩は瀬名のところに少しある」
「了解」
短く返す。返事の長さに気を配るのは、もう癖になりかけていた。息を残せ、と最初に言われた。あれは比喩ではなかったのだと、今では分かる。
壕の中の動線を、白凪は目だけで辿った。
踏み板の位置は変わっていない。土嚢の張り出しも同じだ。有線の這う角度も昨日のままだった。だが、人の数が減った分、空白の作り方が違っている。一人分の幅で通る道は同じでも、その道のあいだに挟まる「人と人の距離」が長くなっていた。
六人で回す壕は、昨日までの八人で回す壕とは別の形をしている。
動線は同じでも、間が伸びる。間が伸びれば、ひとつの動作にかかる時間が増える。増えた時間の分だけ、命令が遅れる。
(穴が空いてる場所は変わらないのに、穴の意味が変わる)
白凪はそう思った。だが口には出さなかった。気付いたことを口にする習慣は、ここでは要らない。気付いたうえで動けるかどうかだけが見られる。
壕の上では、久我がもう双眼鏡を構えていた。
いつから構えているのかは分からない。少なくとも、白凪が目を開ける前から動いていた。それは確かだった。久我の姿勢は、夜のあいだもほとんど崩れていなかったように見えた。
「断尾嶺、左斜面、同位置」
久我の声は低い。
「数、変化なし」
一拍置いて、続ける。
「ただし、間隔が」
言葉を切る。
白凪はその切り方を聞いた。報告として完結していない。だが、久我は完結させない。完結させるための材料が、まだ揃っていないからだ。
「同じです」
最後にそう言った。
鷹見は壕の縁にしゃがんで地図を広げていた。視線を上げない。
「同じ、というのは」
「昨日と同じ、ではありません。今朝から、ずっと同じ」
その言い方で、白凪は理解した。
昨日と今日で違うのではない。今朝のなかで、変化が起きていない。土の色が変わるはずの時間帯にも、影の位置が動いていない。鳥が立つ気配もない。風で土が崩れた跡もない。
動かない、ではない。
動かさないようにしている、だ。
「印は」
「維持しています」
「数を増やせ。位置じゃなく、間隔の印を」
「了解」
久我は双眼鏡を下ろさずに頷いた。
白凪はその指示の意味を、半拍遅れて飲み込んだ。これまで久我が記録していたのは「敵がどこにいるか」だった。位置の印だ。だが今の指示は違う。位置ではなく、並び方を記録しろと言っている。何が動いていないかではなく、何が揃ったままかを見ろという指示だ。
戦場で観測されるのは、たいてい変化のほうだ。
変化しないことが観測対象になるのは、変化しないこと自体が異常なときだけだった。
白凪は壕の縁に近づいて、土嚢の隙間から外を見た。
断尾嶺の稜線は、薄い曇り空の下で鈍く沈んでいる。距離が遠すぎて、肉眼ではただの線にしか見えない。だが、その線の手前にある低い起伏のあたりに、わずかな盛り上がりが点々と並んでいるのは分かった。
四つ。
いや、五つ。
数えようとして、白凪は気付いた。間隔が同じだ。
戦場でこれだけ等間隔の盛り上がりが自然にできることは、まずない。砲撃の跡なら不規則になる。土の崩れなら、傾斜に沿う。風化なら、上から下へ流れた形が残る。
それが、ない。
ただ、横一列に、同じ間隔で並んでいる。
「久我さん」
白凪は声を低くした。
「あれ、手で並べてますね」
久我は双眼鏡から目を離さずに、ほんの少しだけ口角を動かした。笑ったのではない。確認した、という顔だった。
「断定はしません」
「はい」
「ですが」
その一言だけで、白凪は黙った。
久我は断定をしない。だが、否定もしない。それが久我の言葉の使い方だった。「断定はしません、ですが」という形で挟まれたものは、久我のなかでは「ほぼ確定している」と同じ意味だ。
白凪は壕の中に視線を戻した。
水城が、北側の補修を終えたところだった。木槌を脇に挟み、踏み板の位置を靴先で確認している。位置がずれていないことを確かめるたびに、わずかに頷く。確認が終わると、次の場所へ移る。
笹倉は、有線の手前にしゃがんでいた。
受話器を肩に挟み、線の被膜を指で辿る。指の動きは速くない。だが、止まらない。
その手元を見ながら、白凪はもう一度、頭の中で位置を組み直した。
観測――久我。
通信――笹倉。
工兵――水城。
衛生――瀬名。
前線――白凪、荒瀬、それから戦闘可能のうち残り。
六人で、これだけの役割を回している。
数が足りていないのではない。
(足りないまま、回せる形に詰めただけだ)
その認識は、昨日のうちに身体に入った。今日は、その認識のままで動く必要がある。考え直す時間はない。考え直したら、間が空く。
「白凪」
鷹見が呼んだ。
白凪は壕の縁から離れて、地図のそばへ降りた。膝を折る位置は、有線を踏まない場所。土嚢の影。頭が出ない高さ。三つを同時に満たす位置に、自然に身体が入った。昨日まではひとつずつ確認していたものが、今は半拍で揃う。
「お前は前縁手前の中継点に出る」
「はい」
「弾薬の通し直しだ。昨夜の未達分は、補給廠から再送が来てる」
「来てるんですか」
声が上ずらないように気をつけた。気をつけた時点で、もう半分上ずっている。
「来てる」
鷹見はそれだけ答えた。
白凪は地図に視線を落とした。鷹見の指先が、後方へ伸びる細い線をなぞっている。集積所から夕凪集落を経由して、九番観測壕の手前まで続く一本の補給路。その線の根元に、別の線が合流している。さらに後ろから来ている線だった。
「枯枝街道」
鷹見が短く言った。
「昨日の昼までは、ここで止まってた。夜のあいだに、三輌通った」
「三輌、ですか」
「足りん」
その一言で終わった。
白凪は地図の上の線を見た。
枯枝街道、という名前は、白凪も配属前に一度だけ聞いたことがある。後方の補給路として書類のなかに出てきた。それだけだ。地名としての印象は薄い。後方の道はいくつもあって、どれがどれかは新兵には区別がつかない。
だが、鷹見が「足りん」と言った言葉の重さは分かった。三輌通って足りない、ということは、五輌でも六輌でも足りないということだ。元の必要量に対して、半分も届いていないのだろう。
そして、枯枝街道の根元には、地図の端に小さく書き込まれた文字があった。
芦森補給廠。
白凪はその四文字を、初めて目で確かめた。
名前は、聞いたことがあった。だが、自分の目で地図上の位置を見たのは、これが初めてだった。
九番観測壕からは、思ったより近い。
いや、近いというより――この位置が落ちれば、自分たちのいる場所への補給が即座に止まる、というのが地図ひとつで分かる距離だった。
「ここから何キロですか」
白凪は訊いた。訊いていいかどうかは分からなかったが、訊かないと自分の判断が組めない気がした。
「十六」
鷹見は即答した。
「歩兵で半日。輸送車で二時間。砲は届かない」
「届かないんですか」
「今は、届かない」
その「今は」が引っかかった。
届かない、ではない。今は届かない、だった。
鷹見は地図を巻いた。それで会話は終わりだった。続けて訊くことはできなかった。いや、できなくはないが、訊いた瞬間に「お前が訊くべきことか」と返されるのが分かっていた。前線では、訊いていいことと訊かなくていいことが、最初に決まっている。
「行け」
鷹見が言う。
「中継点で、笹倉の指示を受けろ。線の上を踏むな。空はもう見上げるな。お前が顔を上げる時間で、後ろが詰まる」
「了解」
白凪は立ち上がった。
立ち上がる動きの途中で、横を向いた荒瀬と目が合った。荒瀬は頷きもしなかった。だが、視線をすぐには逸らさなかった。それが「行ってこい」だった。
壕を出る前に、笹倉が短く言った。
「白凪さん」
「はい」
「中継点に着いたら、復唱を待ってください。私が一回繰り返します。繰り返さなかったら、もう一度言ってください」
「分かりました」
「昨日より、線が悪いです。途中で切れる前提で動いてください」
切れる前提。
その言葉は、昨日までならもう少し怖かったはずだった。
今日は、怖くなかった。
怖いと感じる時間が、惜しいだけだった。
白凪は壕の連絡路を進んだ。
幅は人一人分。膝下までの浅い区間と、胸まで沈む深い区間が、不規則に続く。深い区間に入るたびに、肩の高さが土の中に隠れる。隠れたほうが安全だが、足元が見えにくい。見えにくい場所では、踏み板の位置を覚えで通る。覚えで通るためには、昼のうちに身体に入れておくしかない。昨日のうちに、その作業は済ませてあった。
歩く。
止まらない。
曲がり角ごとに、頭の位置を半拍だけ低くする。その半拍を、考えてからやるのではなく、身体が先にやるようになっていた。
(昨日より、少しだけ早い)
その自覚は、嬉しさではなかった。
早くなった分だけ、早くなければ通らない場所に出てきた、というだけだ。
中継点は、壕の枝が三方向に分かれる場所だった。
通信の中継器が一つ、土嚢の影に置かれている。受話器の代わりに、簡易型の有線端末が差し込まれている。横に、欠けた木箱が一つ。中には、昨夜の未達分の代替として持ち上げる予定の弾薬が積まれていた。
別の兵が一人、すでに到着していた。
白凪より少し年嵩の兵だった。背負い袋の位置からして、後方からの補給輸送組らしい。顔は覚えていない。たぶん、初めて見る顔だ。
「補充の二等兵か」
「はい。白凪です」
「俺は宇野。後方からだ」
名前だけのやり取りだった。それ以上の自己紹介はなかった。出身も部隊もここでは要らない。いま動かす荷の名前のほうが先に必要だ。
「弾薬、これだけだ」
宇野は箱を顎で示した。
「全部か」
「全部だ。文句があるなら後ろに言え」
「文句はないです」
白凪はそう答えた。
言いながら、自分の声に少しだけ冷たい響きが混ざったのが分かった。怒っているのではない。文句を言う先がないと知っているだけだった。文句を言う相手がいない返事は、自然と短く、平らになる。
宇野は端末に手を伸ばし、後方への報告を始めた。
「中継点、宇野到着。受け渡し開始。受け手、白凪二等兵」
端末の向こうから、笹倉の声が返ってくる。
「中継点、受け渡し開始、受け手白凪二等兵、了解」
短い。
復唱だけが、過不足なく返ってくる。
笹倉の声は雑音にまみれていた。被膜の損傷か、接続点の劣化か、どちらかだろう。だが意味は通る。意味が通ればいい。今日の通信に、それ以上の品質は要らない。
宇野はもう一つ、別の周波で何かを言った。今度は白凪に向けた言葉ではなかった。後方の補給統制に向けた報告らしい。
「――芦森側、補給維持が最優先」
その一言が、白凪の耳に残った。
雑音のなかで、ほかの言葉は聞き取れなかった。だが、その一言だけは、はっきりと届いた。
芦森側、補給維持が最優先。
白凪はそれを、頭の中で繰り返さなかった。繰り返すと、考え始める。考え始めると、手が遅れる。だから繰り返さない。だが、消えもしない。
(最優先、ということは、二番目以降がある)
その認識だけが、奥のほうに沈んだ。
二番目以降がある、ということは、何かを後回しにしているということだ。九番観測壕への補給は、何番目だろうか。聞かなくても分かる気がした。一番ではない。たぶん、上の何番目かではある。だが一番ではない。
「持つぞ」
宇野が短く言った。
「ああ」
白凪と宇野は、木箱の両端を持った。重さは昨日と同じくらいだ。中身は弾薬と、巻線が一束。
歩く。
戻る。
壕の枝を、来た道とは違う経路で抜ける。同じ道を二度通らないのは、規則ではない。規則ではないが、そのほうが敵に位置を読まれにくい、という習慣だった。
二人で運ぶ箱は、一人で運ぶより速い。
だが、二人で運ぶときは、足の運びを揃えなければならない。揃わなければ、揺れる。揺れれば、どちらか一方の身体が遮蔽から外れる。
白凪は宇野の足音を聞いた。一拍。一拍。半拍ずれている。後方の人間の歩幅は、前線の人間の歩幅より広い。広い歩幅は、平らな道では速いが、踏み板の上では危ない。
白凪は意識して、自分の歩幅を宇野に合わせて少し広げた。広げるたびに、足元の確認が一段減る。減る分だけ、危ない。
(合わせる側がリスクを取る)
そう判断した。判断した時点で、もう動いていた。
壕の中継点から九番観測壕の本陣まで、二回曲がる。一回目を越えたところで、宇野が小さく息を吐いた。慣れていない呼吸の吐き方だった。
「お前ら、ここで何日目だ」
歩きながら、宇野が訊いた。
会話のためではない。歩幅の合わせ方を確認しているのだろう。
「七日です」
「七日か」
宇野はそれだけ言った。
長くも短くもない言い方だった。たぶん、後方から見たときの七日と、ここでの七日は、長さが違う。違うが、宇野はそれを口にはしなかった。
二回目の曲がりを越えると、九番観測壕の入口が見えた。土嚢の積み方の癖で、そこだけ自分の知っている形に変わる。家ではない。家ではないが、戻ってきた、と身体が反応した。その反応に、白凪は少しだけ違和感を持った。
(ここを「戻る場所」と感じ始めてる)
昨日まで、ここは「送り込まれた場所」だった。
今日は、戻る場所になっている。
その違いを、白凪はまだ言葉にしていなかった。
壕の入口で、笹倉が待っていた。
「弾薬、確認します」
「お願いします」
笹倉は箱を開けず、外側の封だけを確認した。封が割れていなければ、中身は数えない。数える時間が惜しいからだ。封の状態と、後方からの送り状の照合。それで終わる。
「受領、確認」
「受領、確認、復唱」
白凪が繰り返す。
「以上です」
笹倉は受話器に向かって短く伝えた。
「中継点、受領完了、白凪二等兵」
雑音のなかから、後方の声が返ってきた。
「中継点、受領完了、白凪二等兵、了解。次便、未定」
次便、未定。
白凪はその言葉を、最初に出した「最優先」の言葉と並べた。
最優先と言われている経路で、次便が未定。
矛盾しているわけではない。最優先だからこそ、いつ次が出せるか分からない。最優先のものから先に消費される、というのが補給の現場では普通だった。だがその「普通」は、白凪のなかではまだ習慣になっていない。
宇野は弾薬を引き渡すと、もう自分の役目は終わったという顔で、踵を返しかけた。
「戻れるか」
荒瀬が、いつのまにか入口の脇に立っていた。
「戻る」
宇野は短く答えた。
「ご苦労」
「言うほどじゃない」
二人の会話はそれだけだった。
宇野は来た道を戻っていった。その背中を見送る暇は、誰にもなかった。
白凪は壕の中に戻った。
弾薬箱は、昨日まで穴だった場所のすぐ脇に置かれた。仮置きの位置。濡らさず、線を踏まず、人の動線を塞がず、そして必要なときに最も早く取り出せる場所。
その位置の選び方も、昨日までは荒瀬に直されていた。今日は、直されなかった。直されないことが、今日の評価だった。
「白凪」
久我の声が落ちた。
白凪は壕の縁を見上げた。
久我は双眼鏡を構えたままだった。だが、視線の角度が、少し変わっていた。
「断尾嶺、増えました」
「数、ですか」
「印の数です」
白凪は、久我の言葉の意味を半拍で取った。
位置ではなく、間隔の印を増やせ、と鷹見が言ったのが今朝のことだった。その印が、増えた。
ということは、向こうの並び方が、さらに整ったということだ。
数は同じ。位置も同じ。だが、揃い方の精度が上がっている。
自然にはあり得ない。
「鷹見軍曹」
久我が呼ぶ。
「来た」
鷹見は短く答えた。
「断定はしませんが」
「分かった」
鷹見はそれだけ言った。
久我のあとの言葉は、続かなかった。続ける必要がなかった。
白凪は壕の中の空気が、ほんのわずかに変わったのを感じた。
誰も声を上げていない。誰も走っていない。誰も騒いでいない。だが、全員の手の動きが、半拍だけ早くなっている。それだけだった。
その半拍は、敵がまだ撃ってこないうちに、敵が動く前の準備をやり切るための、半拍だった。
「白凪」
鷹見が呼んだ。
「中継点、もう一往復しろ。次便は未定だが、念のため受け取りの準備だけしておく」
「次便、未定なのに、ですか」
訊いてしまった。
訊いた瞬間、口にした自分が嫌だった。前線では、訊いていいことと訊かなくていいことが決まっていた。今のは、訊かなくてよかった。
だが鷹見は、怒らなかった。
「未定だからこそ、来たときに遅れない位置にいろ」
それだけ言った。
「了解」
白凪はもう一度、壕の連絡路へ戻った。
来た道を、また逆に辿る。だが完全に同じ道ではない。少しずつ経路を変える。変えながら、自分の身体に「同じ場所を二度踏まない」感覚を入れる。
歩きながら、白凪は今朝の言葉をひとつだけ思い出した。
芦森側、補給維持が最優先。
たぶん、自分が思っているよりも、その言葉は重い。
重いはずだ。
だが、その重さの正体を、白凪はまだ知らない。
知らないまま、運ぶ。
知っていても、運ぶことしかできない。
知らないことと、知っていることのあいだに、今のところ差はなかった。差ができるのは、たぶん、もう少し先のことだった。
壕の上で、久我はまだ双眼鏡を下ろしていない。
断尾嶺の並びは、まだ揃っていた。
揃っているまま、動かない。
動かないまま、ひとつだけ印が増える。
誰もそれを攻撃と呼ばなかった。
だが、攻撃の前に必ず起こるはずのものが、起こらなかった。土埃も、銃声も、馬の声も、起こらなかった。
起こるはずのものが起こらないことは、戦場では、起こることよりも先に来る。
白凪はそれを、まだ言葉にできない。
だが、足の運びは、もう昨日と違っていた。
半拍、早い。
その半拍を、誰も褒めなかった。
褒める必要がなかった。
ここでは、半拍早いことが普通になった、というだけだった。




