第九話 知っている道ではなかった
岳は入口を一歩越えたところで、律を待っていた。
白川ビルの廊下から、短い通路の奥まで見えている。三メートル先の突き当たりには、青い文字の案内板があった。
律はこれまで、何度もそこを見ていた。戸を開け、向こうへ行った岳が帰ってくるのを待っていた。
今日は、岳の隣まで進んだ。
靴底に、硬い床の感触があった。後ろを向くと、入口の外に藤井がいる。岳が留め具で開いておいた戸の脇に立ち、通り掛かる人が触れないよう見ていた。彼女のいる廊下も、さっきまでと変わらなかった。
「入った」
律が言うと、岳は頷いた。
「まず、あそこまで」
二人はT字の突き当たりまで歩いた。
左にも右にも、緑の床が続いている。岳が前に来たのは、ここまでだった。律は図の四角い輪を見た。吉野が四つの角を曲がってバケツの所へ戻ったという話から描いた、仮の形だ。
右手の廊下は、六メートルほど先で左へ曲がっていた。左手の先にも角があるが、その向こうは見えない。
「今日は、右から」
岳が言った。
昔の医院の図面では、案内のあった場所から一つ角を曲がると、待合室への入口があった。まず、それに近い並びを確かめることにしていた。
律はT字の壁へ、入口へ戻る向きを示した目印を付けた。置いてから、右手の廊下へ少し進み、振り返る。
目印は見えた。その先には、藤井の立つ入口がある。
「今度は、帰る方からも見える」
岳も振り返って確かめた。
*
曲がり角へ着くと、二人とも止まった。
岳がその先の床を照らす。段差はない。廊下はまだ続いていた。
律は歩いてきた長さを図へ書き、帰り側から見える位置へ目印を付けた。
角を左へ曲がり、四メートルほど進んだところに、戸があった。
左側の壁に付いた普通の戸だった。取っ手も、塗料のはげた縁も、岳に見えている。上の小さな札には、待合、と書かれていた。
律は図面を見た。
「この辺だ」
岳が戸の前へ来た。
「高梨さん。聞こえますか」
返事はなかった。
律は携帯電話を取り出し、医院にいる小田へかけた。短い呼出音のあと、声が聞こえた。
ここでは電話がつながった。律はその場所にも、小さく印を付けた。
「人が通れそうな戸の前にいます。今、こちらから呼びました。高梨さんに聞こえたか、聞いてもらえますか」
電話の向こうで、小田が受渡口へ同じことを伝えた。高梨の声は遠く、言葉までは聞き取れなかった。
『聞こえなかったそうです。今も、ここの椅子にいます』
岳は律と目を合わせた。それから、戸がどう開くかを確かめ、ゆっくり引いた。
狭い部屋に、椅子が一脚あった。壁際には流し台がある。受付のカウンターも、二脚の長椅子も見えなかった。
岳は敷居を越えず、灯りを左右へ向けた。人はいない。部屋の中から、さらに進めそうな開いた戸もなかった。
「違う」
律の声が、自分で思ったより大きく出た。
「ここの中は、椅子が一つと流し台です。高梨さんのいる場所とは、違います」
電話へ伝え、律は図に書きかけていた待合室の文字を消した。空いた小室、と書き直す。
岳が戸を元へ戻した。二人はそこから動かず、次にどこを見るかを考えた。
*
律は小室の周囲の壁を見た。
白い塗料に、細かなひびがあった。戸の形に見えかけるものもあったが、顔を動かすと、ただの継ぎ目だとわかった。
岳は何も言わずに待っていた。
律はもう一度、反対側の壁へ灯りを向けた。入口を見つけるために、一緒に来た。その役目を果たさないまま帰ることを考えると、足がその場を離れなかった。
「ここでは、見えない」
ようやく言うと、岳が頷いた。
「わかった」
「中へ来れば、もっとわかると思ってた。戸が見えたら、そこが高梨さんの所だって」
「見えた戸が、どこにつながるかは、まだわからないんだな」
「うん」
律は折った図面の端を握っていた。指を開くと、紙に深いしわが付いていた。
岳が図面と現場を交互に見た。
「札も、図面も、ここでは当てにならなかった。別の確かめ方にしよう」
律は電話を持ち直した。
「小田さん。高梨さんに、今いる場所の近くで、壁を叩けそうか聞いてください。遠くへ行ってもらうんじゃなくて」
しばらく、小田と高梨が話す声がした。
『長椅子と向かい合う壁に、小さな台があるそうです。その横なら、立ってすぐ手が届くと』
律は岳を見た。岳も頷いた。
「無理のない範囲で、二回、間を置いて叩いてもらえますか」
電話の音を下げ、二人は黙った。
こつ、と聞こえた。
少し間があって、もう一度。
岳が顔を上げた。律は、今閉めた戸を見た。
「こっちじゃない」
「もっと先だ」
岳が廊下の奥を指した。左側の戸ではなく、その向こうから音がした。
律はすぐに歩き出しかけた。
「足元」
岳の声で止まった。電話と図ばかり見ていた。
律は図をしまい、床へ灯りを落とした。岳が先に立ち、二人で二メートルほど進む。
そこで、律は右側の壁に線を見つけた。
床の近くから縦に上がり、頭の上で横へ折れている。引き手らしい小さなくぼみもあった。
「待って。ここ」
岳が止まった。
今度は律が、見えている範囲を指した。岳はその形を紙へ写し、二人の来た方角へ向けて目印を置いた。
「まだ、開けないで」
「ああ」
律は小田へ電話で、今度は三回と頼んだ。
線のある壁から、三つ、音がした。岳にも聞こえていた。
岳がその壁を二回たたく。小田に確認してもらうと、高梨は、台の横から聞こえたと答えた。
律は線を見た。図面の待合室とは、廊下の反対側だった。
でも今は、向こうにいる人と、同じ場所を確かめていた。
*
小田を通じて、高梨に壁から離れてもらった。外の入口で待つ藤井にも、見つけた場所を知らせてもらう。
「戸を、こちらへ開けます」
律が声を掛けた。
「はい」
今度の返事は、電話からではなかった。
岳が横で構え、律はくぼみへ指を掛けた。手前に引くと、壁の一部がゆっくり動いた。
部屋が見えた。
長椅子が二脚。受付のカウンター。それから、椅子の背に掛けられた見覚えのある上着。
高梨が立っていた。
同じ作業着だった。だが、医院で棚を動かしていたときより、肩が落ちている。壁に取り付けられた、腰ほどの高さの記入台へ片手を載せ、二人を見上げていた。
「そっちに、いたんですね」
高梨が言った。
律は返事をしようとして、戸口の下を見た。
「岳、待って」
こちらの床と、待合室の床がつながっていなかった。廊下の方が高い。戸の敷居の下に、垂直な段差がある。
岳は片足を引き、膝をついた。灯りを下へ向け、巻尺を下ろす。高梨にも底の位置を見てもらうと、床まで七十センチほどあった。
「かなり高いな」
「上がれますか」
高梨が一歩近づいた。台から手を離すと、すぐに身体を小さく揺らし、また触れた。
「脚に、力が入りにくいです。つったわけじゃないんですけど。持ち上げてもらえば」
岳は戸の幅と、部屋側の床を見た。高梨が足を載せられる段はなく、手を掛けるための物もなかった。
「椅子を、こちらへ動かせますか」
「床に留まってるんです。昨日、壁の裏を見ようとして引いたけど、動きませんでした」
高梨が長椅子の脚を指した。岳の灯りを向けると、金具が見えた。記入台も壁に付いていて、持ってきて踏み台にできる物はなかった。
「今、腕だけで引き上げるのはやめたいです。足を載せる台を持ってきます」
高梨は敷居を見たまま、口を閉じた。
「帰る道は、ここなんですよね」
「ここから、僕らが歩いてきた道があります」
律が答えた。
「角は一つ。その先のT字を曲がれば、白川ビルへ出ます。ただ、この高さを上がる支度をしていませんでした」
高梨が、また台へ体重を預けた。
「飛びつけと言われたら、どうしようと思ってました」
小さく笑おうとしたが、うまく形にならなかった。
岳が道具袋を下ろし、紙へ段差と、八十センチほどの戸口の幅を書いた。部屋側の床に台を置く場所があるか、高梨が立っている位置から見てもらう。家具を動かさなくても、そのための空きはあった。
「今から足元を作る物を用意して、今日、もう一度来ます。それまで、受渡口の方で話せる場所にいてもらえますか」
高梨は頷いた。
「小田さんは、まだいます」
「はい。向こうで、僕らからも説明します」
律は電話で小田に、顔を見たことと段差を伝えた。
「戸は、開けておきます。ここへ足場を作るまでは、一人で上がろうとしないでください」
岳が言うと、高梨は頷いた。
「しません。そっちへ戻って待ちます」
高梨に見える位置で、岳は戸の下へ留め具を添えた。今の開き方を保つためのものだった。留めたから、もう変わらないとまでは言えなかった。
「戸が動いたり、見え方が変わったりしたら、小田さんへ伝えてもらえますか」
「わかりました」
高梨は椅子に手を添えながら、受渡口の方へ歩いた。律は小田へも戸を開けておくと伝え、変化の連絡を頼んだ。やがて、小田の声が電話から聞こえた。
『こちらへ戻りました。今、話しています』
律は、高梨が小さな口へ向けて手を上げるのを見た。岳と戸の位置をもう一度確かめ、二人で来た道へ向き直った。
*
帰りは、自分たちの付けた目印をたどった。
見つけた戸から二メートル戻ると、右手に空いた小室の戸がある。そこから四メートルで角。右へ曲がり、六メートル先のT字で左へ行く。
短い通路の向こうに、藤井の姿が見えた。
律は最後の三メートルを急ぎそうになり、歩幅を戻した。岳が隣で、同じ速さに合わせた。
白川ビルの床へ出ると、藤井が二人の顔を順に見た。
「会えたんですね」
「はい。帰ってくる方も、同じ道を歩けました」
律は図を開いた。四角い輪の上ではなく、自分たちで長さを書き足した線の上に、入口から高梨の戸までの道があった。
岳は段差の寸法と高梨の様子を救助隊員に伝え、足場の手配に掛かった。入口は開いたまま、藤井たちが人や荷物の接触を防いでいる。
医院へ戻り、律は約束どおり受渡口の前へしゃがんだ。
「戻りました。叩いてもらえて、助かりました。僕の目だけでは、選べなかった」
律が図を差し出すと、高梨がのぞき込んだ。
「次は、どこに足を置けばいいか、教えてください」
「一緒に決めましょう」
岳が隣へしゃがんだ。律の描いた七十センチの段差に、足を載せる場所を描き加える。




