第十話 足を置く場所
「高梨さん。そのまま座っていてください」
岳と救助隊員が、二段の踏み台を戸口から下ろした。白川ビル側からたどり着いた緑の廊下と、待合室の床。その七十センチの段差の下に、小さな階段ができた。
医院の受渡口で先に本人へ見せ、支える位置も相談してきた台だった。上段が四十五センチほどで、そこから廊下までは約二十五センチ。両脇には、手を掛けられる支えがある。
律は廊下側で灯りを持っていた。ここまでの目印も、二つの戸の留め具も変わっていなかった。白川の入口は藤井たちが見ており、医院の受渡口には、高梨に頼まれた小田が残っている。
岳が先に下り、脚が浮いていないか、足を載せる所に邪魔な物がないかを確かめた。隊員は廊下側に残り、戸口に片膝をついた。
律は灯りを向けたまま、初めて部屋の床に立つ岳を見た。
肩の位置が、思っていたより低かった。高梨の方から見れば、この戸は壁の高い所に開いた穴だったのだ。
「実際に下りると、高いな」
岳が言った。
「そうなんです」
高梨の声に、少し力が戻った。
*
岳は長椅子の前にしゃがんだ。隊員が立ったときの様子を聞くと、高梨は自分の膝へ手を置いた。
「痛いというより、膝が、思ったより曲がるんです。上へ行くとき、急に駄目になったら怖くて」
「止まりたいときは、言ってください。途中でも」
岳が近くへ寄る。高梨は椅子の座面へ手を置き、ゆっくり立った。すぐには歩かず、そのまま息を整えていた。
戸の向こうで、細い声が聞こえた。
「高梨、今から上がるのか」
小田だった。受渡口の向こうにいる。
「まだです。今、立ちました」
「わかった」
声が途切れた。今度は、返事を待っていた。
高梨は岳の腕を借り、踏み台の前まで来た。上段の向こうには、隊員の手がある。律は一歩横へ寄り、二つの段を照らした。
「右足からで、いいですか」
高梨が聞いた。
「自分で出しやすい方から。俺は、ここにいます」
岳は高梨の横に立った。
最初の一段に、靴が載った。手の支えを握り、もう片方の足を寄せる。台の上で、作業着の裾が小さく揺れた。
「次、上の段へ」
岳が声を掛けたとき、律には、高梨の右の靴が見えた。段の端に、かかとの半分が残っている。高梨は上の隊員を見上げ、足元を見ていなかった。
「岳、待って。足を置き直したい」
岳が止まった。
高梨が下を向く。灯りが近すぎたのか、目を細めた。
「すみません。まぶしいですか」
「少し」
律は灯りを横へずらした。靴の後ろに濃かった影が、薄くなった。
「かかとが、少し出てます。足元、見えますか」
「見えました」
高梨が靴をずらす。岳は急がせず、支える位置を変えた。
上段へ足が載ったところで、今度は高梨が言った。
「待ってください」
誰も動かなかった。
高梨の息が、近くで聞こえた。律は灯りを動かさずにいた。岳も、上の隊員も、次の動作を促さなかった。
「もう、上がってるんですね」
高梨が下を見て言った。
「はい」
「下を見たら、脚が止まって」
「今は止まったままで大丈夫です」
岳の手に、高梨の身体の重さが掛かっていた。額に汗が浮いている。楽そうではなかったが、岳は高梨の顔を見ていた。
律は、岳の靴も見た。片方が台の脚に近い。
「岳、右足。あと少し、外へ置ける?」
岳が足元を確かめ、立ち位置を変えた。
「助かった」
短く答え、高梨へ向き直る。
やがて、高梨が廊下へ片足を出した。上の隊員が身体を支える。岳は下から急に押さず、本人が足に重さを移すのを待った。
「載りました」
「わかりました。もう片方も、ゆっくり」
二つの靴が、廊下へそろった。
高梨はその場へ座り込んだ。隊員が隣に付き、顔を見て何か聞いている。律は灯りを下げた。高梨の足と自分の足が、同じ床にあった。
まだ、白川ビルへは出ていなかった。
*
岳は受渡口へ、高梨が廊下へ上がったと伝えた。小田が、聞こえた、と答えた。
高梨の電話や上着、渡してあった灯りを袋へまとめて律へ渡し、岳も踏み台で上がった。台は隊員と廊下へ引き上げ、端へ寄せる。高梨を両側から支えるため、今は運ばずに置いていく。
律は電話で小田へ、全員でここを離れると伝えた。次の連絡は、白川へ出てからだ。
立てそうです、と高梨が言った。
岳と隊員が両側に付き、律が少し先を歩いた。振り返れば三人が見える距離を保ち、角に着く前に止まる。
「ここで、右です」
律は、帰り側から見えるように付けた目印を指した。
高梨は、壁の目印と律の顔を交互に見た。次の一歩が出るまで、律も待った。
律は図を出さなかった。今は足元と、後ろの人を見ていた。
角を曲がり、六メートル先のT字まで来る。左へ折れると、短い通路の先に藤井がいた。
高梨の歩幅が急に大きくなった。
「見えました」
声が上ずっていた。
「見えてます。あと少しです」
岳も一緒に足を出した。隊員が横から支えている。
律は先に、白川ビルの廊下へ出た。振り向くと、高梨が入口の手前で止まっていた。
床には穴も、段差もない。それでも、高梨は敷居を見下ろしていた。
「ここを越えたら、そっちですか」
「はい」
律は片手を差し出した。
高梨がその手を握った。律は引かずに待った。作業靴が一足、白川の床へ載る。続いて、もう一足。
廊下の窓から、斜めの光が差していた。
高梨はまぶしそうに目を閉じ、その場に用意された椅子へ座った。岳と隊員も入口を越えた。
律は小田へ電話をかけた。
「出ました。今、白川ビルです」
『高梨は』
律は本人へ、話せますか、と聞いた。高梨が手を伸ばしたので、電話を渡す。
「小田さん」
しばらく返事がなかった。高梨は、窓の外を見た。
「外、晴れてますね」
今度は、小田の声が聞こえた。
『ああ。こっちも、晴れてる』
*
高梨は、そのまま身体を診てもらうことになった。歩けたからもう平気だとは、本人も言わなかった。
律と岳も、そこで仕事を終えたわけではなかった。残した踏み台や、開いた戸の扱いを、現場の人たちと確かめる必要があった。
道に変化がないことを確認してから、二人は救助隊員と踏み台を回収した。待合室には誰も残っていない。戸を閉め、最後に白川側の入口から全員が出たことを数えてから、そちらも閉じた。
医院の受渡口も、現実側で人が不用意に触れないよう囲われた。小物保管室と合わせて、まだ使えない場所として残る。
どうしてこの二つの建物の間を歩けたのかは、わからなかった。案内板の矢印も、古い図面も、それを説明してはくれなかった。
ただ、帰ってきた人の名は、書けた。
*
翌日の昼、小田が事務所へ来た。
紙袋に、弁当が三つ入っていた。
「高梨からです。昨日、診てもらってから帰れました。しばらく休ませます」
律は弁当を受け取りかけて、手を止めた。
「お昼、車に残ってたんですよね」
「それは、もう食べさせませんよ」
小田が初めて少し笑った。
岳が机の工具を片付け、三つ置ける場所を空けた。請求する作業と費用の整理は、藤井たちと別に進めていた。
小田は椅子へ座る前に、携帯電話を出した。
「本人が、話せるならと」
電話の向こうから、高梨の声がした。昨日までより大きく聞こえた。
『踏み台、返せましたか』
「返しました」
岳が答えた。
『よかった。借りたままだと思って』
律は、医院で岳のペンを返していた高梨を思い出した。
『でも、次に会ったときは、あの台の話は、少し後でもいいですか』
「もちろんです」
律が答えると、高梨の息が、電話越しに聞こえた。
『何か、普通の話をしたいです』
岳が弁当の蓋を開けた。端に、黄色い卵焼きが二切れ入っていた。
「じゃあ、この卵焼き。甘い方ですか」
『甘いです。そこのは、かなり』
岳は一切れ食べ、ほんとだ、と言った。
律も椅子を引いた。今日は三人とも、机へ向かって普通に座れた。誰かの声を聞くために、小さな穴へ顔を寄せなくてもよかった。




