第八話 外にいた人
翌朝、律が医院へ着くと、小田は受渡口の前で、丸椅子に座っていた。
膝の上に紙コップが二つある。片方は自分の分で、もう片方は、向こうの高梨が飲み終えて返したものだった。
「少し眠れたそうです」
小田は声を落として言った。
昨夜から、現実側では人を替えながら、高梨と話をしていた。藤井が交代の段取りを整え、小田もいったん休むように言われた。少し離れたものの、早く目が覚めて戻ってきたらしい。
「眠ってる間、声を掛けない方がいいかと思って。でも、何も聞こえなくなると、心配で」
小田が口の向こうを見た。
「起こしてしまいました。二回」
律は隣にしゃがんだ。
「高梨さん。律です。来ました」
少しして、靴が床を擦る音がした。
「おはようございます」
狭い開口に、高梨の顔の一部が見えた。
「朝なんですね」
その言葉で、律は待合室には外の明るさが届いていないことを思い出した。こちらでは窓から朝の光が差し、小田の靴の脇に細い影を作っている。
「何か、変わったことはありますか」
「ありません。あれから、奥へは行ってません」
高梨は少し黙り、それから付け加えた。
「あの。今日は、どうするんでしょう」
律は、すぐには答えなかった。
*
浜田が持ってきたのは、昔の医院を紹介する薄い冊子だった。
患者のいない待合室と、受付、それから廊下の写真が載っている。開院案内に使った物で、片付けのとき、自分の家へ持ち帰っていたという。
藤井が管理側から借りた昔の図面と、冊子を机へ並べる。岳は白川ビルの通路を描いた紙を、その横へ置いた。
「そっくりというほど、全部が同じわけじゃないんですね」
藤井が言った。
写真の廊下は緑色だった。白川の向こうで見た床によく似ている。青い文字の案内板も写っている。だが、昔の図面では、廊下をぐるりと歩いて元の場所へ戻ることはできなかった。
「高梨さんのいる部屋も、似てるんです」
律は、高梨から聞いた家具の位置を記した図を見せた。
ただ、受渡口から見通せるのは、正面の一部分だけだった。高梨には、危なくない範囲から部屋の写真を撮ってもらい、その電話を口から一度渡してもらった。どの写真にも、人が通れそうな開いた戸は写っていない。画像を確かめて写しを取ったあと、電話は本人へ返してある。
「この写真から、線は見つけられないか」
岳が尋ねた。
「今は、見えない」
律は画面を拡大してから、元に戻した。
「写真から入口を見つけられたことはないんだ。だから、これだけで、戸がないとも言えない」
岳は机の上で、二枚の図を離した。
「白川から、もう少し先を見てくる。俺が実際に歩いたのは、まだあのT字のところまでだから」
「僕も行く」
岳の手が止まった。
「中へ?」
「うん」
「外から位置を教えてくれればいい。前も、それでできた」
「前は、目の前に人がいたから」
佐伯は穴の向こうに見えていた。吉野は、開けた入口へ自分で歩いてこられた。
高梨の前には、今、人の通れる出口が見えていない。
「閉じた戸が途中にあったら、岳には見えないかもしれない。戻ってきて説明してもらってから、僕がそこだけ見に行くの?」
「そうした方が」
「そこまでの道が、毎回同じだったらね」
岳は口を閉じた。
律は言い方が強くなったと思った。少し息を置いて、続ける。
「僕が入れば、見つかるとは言えない。でも、岳一人で調べてもらってからじゃないと何もできないのか、一緒に考えてほしい」
「お前、外から写真を撮るときだって怖かったって言っただろ」
「今も怖いよ」
律は岳を見た。
「だから、帰り方を教えてほしいんだ」
*
岳はすぐには返事をしなかった。
いったん玄関へ出て、車から道具を下ろしてきた。重い物から床へ置き、使わない物を脇へ分けていく。
律も手を出しかけたが、岳が何を考えているのか、まだわからなかった。
「怒ってる?」
「怒ってない」
岳は道具袋の口を開けた。
「自分が見られない物を、お前に見てもらわなきゃ進めないのが、嫌なんだよ」
律は黙って聞いた。
「俺だけで済めば、お前は外にいられる」
「それ、昨日までの僕も思ってた。危ない作業は、岳ができるから任せればいいって」
岳が顔を上げた。
「僕だけ外にいれば、二人とも無事でいられるわけじゃないだろ」
律は道具の並ぶ床へ目を落とした。
「できないことは、できないって言う。教わっただけで、岳みたいにできるとは思わない。そのうえで、僕にも決めさせて」
外で、小田のトラックのエンジンが掛かった。別の作業員へ荷物を渡すため、車を動かしている。
岳はその音が消えるまで、何も言わなかった。
「まず、ここで一緒に歩いてみよう」
ようやくそう言って、道具袋から灯りを二つ出した。
「入ると決める前に。俺が後ろのお前を見る余裕があるか、お前が俺の動きを見られるか。それができないなら、別の方法を考える」
律は片方を受け取った。
「うん」
*
立入停止の小物保管室を避け、片付けの済んだ現実の廊下を一緒に歩いた。岳が足元を見て、律が壁や分かれ道を図にする。
律は灯りと紙を持ったまま、床の箱へ足を出しかけた。
「止まって」
岳の声で、足を戻す。
「記録するときは、歩くのをやめよう」
律は図を畳んだ。次の曲がり角では、自分から岳に止まってもらい、図を描いて目印を付けた。
ところが帰りには、そこで付けた目印が見えなかった。行きとは反対側から見ると、箱の陰に隠れていた。
「自分で置いたのに」
二人で位置を変え、戻る方からも見えるところへ付け直した。
玄関へ戻ると、岳は道具袋から重い工具を出した。
「全部は使わない。でも、なくて困ったことがあると、次も入れたくなる」
机へ置いた工具へ、一度手を伸ばしかけて引っ込める。
「今の荷物じゃ連れ出せないなら、その準備をして戻る。今日の一回で、見つけるのも運ぶのも済ませようとしない」
律は頷いた。
「止まるって、僕が言っても止まって」
岳が顔を上げた。
「さっきも、言ってくれたな」
「練習じゃなくて、中でも。見える物があっても、わからないかもしれないから」
「わかった。俺が止めたときも、な」
「うん」
二人の決めたことを、藤井と、救助に当たっている人たちにも伝えた。白川側には現実の入口を管理する人を置き、医院の受渡口には高梨と話す人が残る。二つの現場の連絡を切らさない。
*
高梨へ伝えに行くと、向こうでは椅子の背に上着が掛けられていた。
「白川ビルって、あのバケツがあった場所ですか」
「はい。その向こうの廊下から、こちらへつながる道がないか、調べます」
帰れるとは、まだ約束できなかった。高梨は黙って話を聞き、最後に開口へ顔を寄せた。
「何も見つからなかったら、それも話してもらえますか」
高梨が言った。
「待っててくださいって言われて、次に誰が来るのか、何をしてるのかわからなくなるのが、いちばんつらいんです」
「戻ったら、ここで話します。見つかったことも、わからなかったことも」
律が答えると、高梨は頷いた。
「じゃあ、待ってます。こっちも、何か変わったら伝えます」
小田が隣から顔を見せた。高梨へ、自分が次の交代までここにいると話す。そのやり取りを聞いてから、律は立ち上がった。
玄関で、岳が軽くした道具袋を持った。律も、自分の灯りと、折り直した図を確かめる。
「行こう」
岳が言った。
律は頷き、相棒と並んで外へ出た。今日はもう、入口を開けたあと、一人で外に残るつもりではなかった。




