第七話 届くのに帰れない
律が小さな戸をもう少し引くと、向こうで人影が動いた。
「灯りを向けます。眩しかったら、言ってください」
岳が作業灯の角度を変えた。木枠の奥に開いた口から、白い光が差し込む。
高梨がしゃがみ、横から顔を寄せた。目の下に汗が乾いた跡があった。さっきよりも近く、息を吸う音がした。
「本当に、そこにいるんですね」
小田が頷くと、高梨は手を伸ばした。指先が開口の縁まで来る。小田も手を出しかけたが、高梨はその前に引っ込めた。
「すみません。引っ張らないでください。ここ、狭い」
「引っ張らない。顔も、無理に出さなくていい」
岳が答えた。
現実の壁に残る、昔の薬の受渡口だった。木枠は幅五十五センチ、高さ四十センチほどある。しかし、実際に向こうへ通じている部分は、それよりずっと小さかった。
高梨に少し離れてもらい、岳が開いた部分を測る。横が二十八センチ、縦が十八センチ。下端は現実の床から九十センチほどだった。
手や物は通せそうでも、大人の身体を出せる大きさではない。
律は自分の時計を見た。午後二時を少し回っていた。
*
現場の隊員が高梨へ声を掛け、身体の状態を尋ねた。
息は苦しくない。どこかから落ちたわけでもない。出血はなく、強く痛むところもないという。高梨は一つずつ答えたが、途中で何度も唇をなめた。
「歩いてたから、脚は疲れました。寒いです。座っていると、余計に」
「今、何かにつかまって立てますか」
「椅子ならあります。でも、ここに座っててもいいですか」
立ち上がって見せなくてもよいと言われると、高梨は壁へ背を預けた。姿は開口から見えなくなったが、声は届いていた。
自分がどんな部屋にいるのか、高梨はまだ説明しにくそうだった。
「待合室なんです。椅子もあって、受付もある。でも、外へ出る戸がない。入ってきたはずの場所も、壁なんです」
小田が携帯電話に残っていた医院の写真を見せようとした。画面を口へ近づけると、高梨が顔を戻した。
「似てます。でも、椅子があるんです。この前、運んだのに」
先日の搬出で、現実の待合室から長椅子は運び出していた。向こうには二脚、壁に沿って並んでいるという。同じ品物かどうかまでは、今の写真では確かめられなかった。
「どうやって、そこへ入ったんですか」
律が尋ねると、高梨は少し黙った。
「棚の裏の毛布を、まとめてました。壁の何かに、端が引っかかっていて」
隠れていた金具を、戸の引き手だと見分けたわけではない。毛布を外そうと手を伸ばしたとき、壁だと思っていたものが動いたのだという。
「踏み直した足が、こっちの床に着きました。転ばなかったから、すぐ戻れると思ったんです。でも、振り返ったら」
声が止まった。
「戸はありませんでしたか」
「ありません。さっき動いたのが、どこだかもわからなくなって。それで、受付の方へ行けば出られるかと思って」
部屋の端まで歩き、椅子の間から壁を見て、また戻った。電話も何度か使ったが、つながらなくなった。今も電源は入るのに、画面は圏外のままだという。
「俺に、裏の物が残ってるって言ったのは」
小田が聞いた。
「棚の裏です。裏口じゃなくて、って。聞こえませんでしたか」
「聞き取れなかった。聞き返さなかったんだ」
小田はそれ以上、説明を足さなかった。
高梨が息を吐いた。
「こっちにも、戻ってこいって聞こえました。だから、まだ外にいるんだと思ってました」
「いるよ」
小田は答えた。
「今は、声の聞こえるところにいる」
*
岳は、受渡口の周囲を見ていた。
枠の角には、塗料に埋まったねじの頭がある。閉じ板は厚い壁そのものではなく、あとから枠の内側へ付けた物に見えた。
「この板だけなら、外せると思う」
道具箱からドライバーを取り出した。
「枠まで外して、周りがどうなってるか見られれば、人の通る幅にできるかもしれない」
「外せますか」
向こうで高梨が聞いた。
岳は開口へ顔を向けた。
「板と枠は、普通の作りです。まず、留まっているところを見ます」
律は、ねじへ向かった手を止めるように言った。
「枠と、開いてる場所が違う」
「板が残ってるからだろ」
「違うんだ。僕に見えていた戸は、この小さい四角だけだった。こっちのねじまで続いてなかった」
律は木枠の右端を指し、それから、実際に暗がりへ通じている右端を指した。二つの間には、白く塗られた板が残っている。
岳はドライバーを下ろさなかった。
「だから、その間を外してみるんだ。高梨さんがいる部屋は、その向こうに」
言いかけて、岳は受付の内側を見た。
現実の医院の受付には、棚がある。その向こう側もすでに調べていた。そこにもう一人の高梨が座っているわけではない。
「見えている部屋が、板の裏まで続いてるか、わからない」
律が言った。
「板は切れると思う。でも、これを切れば、向こうの口も広がるの?」
岳は返事をしなかった。
「切る前に、教えてください」
高梨の声がした。
「そっちで何をしてるか、ここからだと見えないんです。急に音がすると、また壁が動くのかと思って」
岳はドライバーを膝へ置いた。
「わかりました。まだ、何も外してません」
高梨が、小さく、はい、と答えた。
岳は律を見た。
「じゃあ、今は待ってもらうしかないのか」
問い掛ける声だった。怒っているのではない。それでも、律には胸の内側を押されるように聞こえた。
「何も渡さないで待たせるのは、やめたい」
律は足元のペットボトルを見た。自分はさっき、外で水を飲んだ。高梨は弁当も飲み物も、車に置いてきている。
「水は通ると思う。まず、渡せるか確かめたい。枠を切るかどうかは、それから考えよう」
岳もボトルを見た。
しばらくして、ドライバーを道具箱へ戻した。
「未開封のが、車にある。取ってくる」
*
高梨が口の前へ戻った。
今度は岳が、これから何をするか、先に話した。
「水の入ったボトルを、横向きに渡します。片手で持てそうですか」
「持てます」
「じゃあ、底の方から。こちらが放す前に、つかめたと言ってください」
律が作業灯を持った。高梨の手が見えるよう、白い光を少し下げる。
岳は五百ミリリットルのボトルを口へ差し入れた。途中で何かに当たることはなかった。底が向こうへ出て、高梨の指が回る。
「持ちました」
岳が手を放した。
透明なボトルが、向こうへ運ばれた。
高梨が蓋を開ける音がした。少し飲み、息をつき、それからもう一口飲んだ。
「飲めました」
そう言われるまで、律は自分も息を詰めていたことに気づかなかった。
高梨に食べられない物がないか確かめ、包装されたパンと、もう一本の水を渡した。隊員は、口の脇から本人の様子を見ていた。
小田は高梨の上着を車から持ってきた。丸めると口を通った。薄手の毛布も、一度に全部を押し込まず、端から少しずつ渡した。
「それ、小田さんの車のですね」
高梨が言った。
「借りると、毛がいっぱい付くやつ」
「ああ。悪い」
「いや、助かります」
少し間があり、包みを開ける音がした。
岳は小さな電池式の灯りを点け、消し方と明るさの変え方を見せた。高梨が受け取って自分で操作すると、開口の向こうにも、暖かい色の光が残った。
「天井の明かりもあるんですけど。これ、こっちに置いていいですか」
「使ってください」
「動かせる明かりが、ほしかったんです」
高梨は灯りを、手の届く椅子の上へ置いた。
*
日が傾くまでの間に、電話の充電用の電池とケーブルも渡せた。圏外の表示は変わらなかったが、電池の残量を気にせず時計を見られるようになった。
高梨が話す部屋の形を、律は紙へ描いた。
小さな口に向かって座ると、左の壁に長椅子が二脚。口のある壁の右側には、受付のカウンターがある。残る二面の壁には、今の高梨にわかる出入口はなかった。
「そこの椅子に座っても、声は聞こえますか」
高梨が灯りを持ち、二、三歩だけ離れた。
「聞こえる」
小田が答えた。高梨は椅子へ腰を下ろし、膝に毛布を掛けた。律は、それ以上部屋を歩き回るようには頼まなかった。
岳は、開いた小戸が動かないよう、小さな留め具を添えた。今のところ戸は勝手に動いていなかったが、誰かが道具や服を引っかけることは避けたかった。支えが口を狭めていないか、高梨にも見てもらう。
枠を外す工具は、箱へ戻したままだった。
小田は管理会社の担当者と、外への連絡や交代の段取りを相談した。警察と消防にも、声と姿を確認したこと、何を渡せたかを伝える。現実の建物の捜索を、全部終えたことにはしなかった。
白川の通路から探せないかという話も出たが、奥の様子はまだわからない。高梨が休めるよう補給と交代を整えたうえで、元の医院の図面と別の現場を支える人をそろえられる翌朝から、奥へ入る方法を具体的に考えることにした。
午後五時を過ぎ、小田は口の前へ丸椅子を運んだ。
「俺は、ここに座る。席を外すときは、別の人が声を掛けられるようにしてからにする」
「小田さんも、食べてください」
高梨が言った。
「こっちでパンを開けてる音、ずっと聞いてたでしょう」
小田は初めて、自分の腹へ手を当てた。
「わかった。ここで食べる」
岳が、残っていたパンの包みを渡した。小田は開ける前に、向こうにもそのことを伝えた。
高梨は、灯りを少し暗くします、と言った。
開口から届く光が弱まった。消えたのではなく、本人が明るさを変えていた。
小田が椅子に座り直し、聞こえてる、と短く言った。
今度は向こうからも、同じ返事があった。




