第六話 戻るはずだった人
医院の前に止まったトラックには、一人分の弁当が残っていた。
助手席の足元に、持ち手を結んだ袋がある。小田はそこを見てから、律たちに頭を下げた。
「高梨のです。昼には戻るつもりで、置いていったんです」
前に一緒に搬出をしたとき、高梨は車へ荷物を載せるたびに手袋を脱いでいた。運転席を汚したくないのだと言って、律にも置き場所を教えてくれた。その手袋をした人が、今も医院から出てきそうだった。
吉野のバケツが見つかった日から、四日が過ぎていた。今日の搬出に、律と岳は入っていなかった。昼前、小田が自分で連絡してきたのだ。
警察と消防には、すでに知らせた。建物の中も外も探している。それでも、高梨がいない。
『前に聞いたことと、関係があるのかもしれません。私の説明が間違っているところも含めて、聞いてもらえませんか』
電話でそう言った小田は、玄関まで来ても、先に入ろうとしなかった。
「危ないとわかっているところを、作業させたわけではないんです」
「今日、どこまで搬出したんですか」
岳が尋ねた。小田は持っていた図面を広げた。
今日の作業は、小物保管室とは別の、玄関から待合室までだった。許可された家具を運び、床を保護していた板や毛布を引き上げる。バケツが見つかった小物保管室は立入停止のままで、仕切りも動かしていない。待合室の床や家具は作業前に点検したが、隠れた入口がないと保証されたわけではなかった。
「二人で家具を運んで、最後に軽い物を拾って戻る段取りでした。高梨は、裏口の方へ行ったと思います」
医院の奥には、職員用の出入口へ通じる短い廊下がある。そこは搬出には使わなかったが、作業前に小田が建物を確認した経路だった。
「行ったのを、見たんですね」
律が聞くと、小田は一度頷いた。
「私が外へ回ったあとです。最後の確認が、足りませんでした」
*
建物に入る前に、小田は現場の消防隊員へ二人を紹介した。岳は以前の救助で見たことと、律にだけ閉じた戸の線が見えることを伝えた。中に誰かがいる場所を、遠くから探し当てられるわけではないことも話した。
隊員は待合室の入口まで一緒に来て、これまでに確認した部屋を教えてくれた。管理会社の担当者は鍵をそろえ、警察官と出入りの記録を確かめている。
律たちは、小田が最後の行き先だと話した裏口への廊下を見た。
壁は白かった。塗り直した長方形の跡があり、床の隅には、外した棚のねじ穴が残っている。
律は立つ位置を変えた。しゃがんでから、もう一度見上げる。目を細めても、塗料の境目が戸の線になることはなかった。
「どうですか」
小田に尋ねられ、律は首を振った。
「ここでは、まだ見えません」
「前のビルでは、すぐに見つかったんですよね」
そう聞いたのは、裏口で待っていた搬出仲間だった。責める声ではなかった。誰かが、どこへ行けばいいのか教えてくれる。その人を待っていた声だった。
「最後にいた場所がわかれば、もう少し」
答えかけて、律は口を閉じた。
最後の場所を教えてもらえれば、見つけられるのか。
今、自分が見ている白い壁の向こうに高梨がいるとしても、そこに戸が現れるとは限らなかった。
岳は廊下の突き当たりから、外壁までの幅を測っていた。
「この横は物入れか。裏からも見られますか」
管理会社の担当者に鍵を開けてもらう。物入れには脚立と空箱があり、人はいなかった。岳は図面と測った値を比べ、また廊下へ戻った。
「間に、部屋を一つ隠せる隙間はない」
「前にも、なかった」
律が言った。
岳の指が、距離計のボタンの上で止まった。
「そうだったな」
小さな声だった。
「壁の裏側がわかれば、探す方角を決められると思ってた。普通の建物なら、それでいいんだけど」
測った数字を消さず、岳は図面を畳んだ。
律は廊下の時計を見た。到着してから、もう四十分近くたっていた。高梨の所在を示すものは、一つも見つかっていない。
小田は何度目かの電話をかけた。耳へ当て、すぐに下ろす。
「つながりません」
律は白い壁に視線を戻した。さっきと同じだった。
*
休憩にするつもりではなかったが、岳が玄関の外へ水を取りに行こうと言った。
律はついていった。外に出ると、眩しくて目を伏せた。建物の中ばかり見ていたせいだった。
「見えないときは、見えないって言ってくれ」
岳がペットボトルを渡した。
「言ったよ」
「まだ、って言ってた」
律は蓋を回した。
「ずっと見てれば、見つかるような言い方だった?」
「俺も、そういうつもりで待ってたかもしれない」
岳はトラックへ目を向けた。
「別のことも、見よう」
荷台には、空になった低い戸棚が載っていた。その脇に小さな台車があり、持ち手へ緑のテープが巻かれている。律が高梨の使っていた物かと尋ねると、小田は頷いた。
「これを出してきたあと、戻ったんです」
「裏口の方へ?」
「はい。まだ裏の物があると、電話で」
小田はそう言い、荷台の端を握った。
岳が台車を見た。
「これは、誰が載せたんですか」
「私です」
搬出仲間が答えた。
「玄関に置いてあったので。高梨さんは、中で片付けてると思って」
小田がその人を見た。
「高梨から受け取ったんじゃないのか」
「いえ。台車だけでした」
しばらく、誰も話さなかった。
トラックの屋根から、一滴、水が落ちた。朝の雨が残っていたらしい。小田は手を離して、自分の掌を見た。
「私は、出てきたところを見ていません」
律はペンを止めた。
「台車が外にあったから、本人も一度出たと思いました。高梨が裏へ行ったと言ったのも、そのあとだと思っていました」
「最後に見たのは、どこですか」
「待合室です。あの戸棚を二人で玄関まで運んだあと、高梨が待合室へ引き返す姿を見ました。それから私は、車を動かしに外へ出ました」
小田は荷台の戸棚を指した。幅はあるが背は低く、何も入っていない棚だった。
「電話で、正確には何と?」
「裏の分だけ残ってる、と。私は、裏口の方だと思って。もうそこはいいから戻れと言いました」
「高梨さんは、何と答えましたか」
小田はなかなか答えなかった。
「車を下げていて、警告音が鳴っていました。何か言い直したのは覚えています。でも、聞き返しませんでした」
律は顔を上げた。小田の視線は、開いた医院の玄関に向いていた。
「戻れと言ったから、戻ってくる。そう思っていました。待っている間も、別の人と一緒なんだろうと」
小田が携帯電話を開いた。通話の時刻を、一つずつ指でたどる。
「いなくなったとわかるまで、二十分近く空いています。私が最後の場所を知っているように話せば、その分だけ早く探せると思った。でも、見たことまで増やしてしまいました」
「増やしたところを、戻しましょう」
律は紙を小田へ向けた。
裏口へ行った。その一文に線を引く。
最後に姿を見たのは、待合室。電話で、裏の分が残っていると聞いた。
小田はそれを読み、頷いた。
「私からも、訂正してきます」
玄関へ向かう足が途中で止まった。小田は振り返り、搬出仲間にも同じ説明をした。相手は責めずに聞き、じゃあ待合室の片付けはまだだったんですね、と答えた。
小田の顔が、そこで少し変わった。
「棚の裏か」
*
待合室へ戻ると、戸棚が置かれていた壁の前に、薄い保護板と毛布が残っていた。
高梨が拾うはずだった軽い物だ。搬出用のベルトも一本、毛布の端からのぞいている。最初の捜索で人がいないことを確かめたあと、動かさずに残されていた。
小田は戸棚があった場所を示した。
「裏の養生は、最後にまとめると言っていました。棚を出してからでないと、手が届かなくて」
律はしゃがんだ。毛布の脇の壁を、近づきすぎない位置から見た。
ここにも、人が通れる戸の線はなかった。
それを伝えると、小田は唇を結んだ。それでも、さっきのように次の答えを待たず、周囲を見回した。
「ここから先も、私にはわからないんですね」
「はい。今は」
律は頷いた。
「でも、探していなかった場所を、一つ見られました」
保護板に崩れたところはなく、血の跡もなかった。だから無事だと決めることも、見える戸がないからここで何も起きなかったと決めることもできなかった。
岳は毛布やベルトの位置を撮影してから、消防隊員と相談し、通る場所を確保する分だけ片付けた。壁を押したり、ベルトを引いて同じ動きを試したりはしなかった。
空いた床に立つと、受付の横の壁が近かった。
大きな受付窓の下ではない。その右へ一歩ずれたところに、木枠の付いた小さな四角がある。閉じ板は壁と同じ色に塗られていた。
小田によると、薬を渡していた口だという。今は使っていない。枠の下端は、律の腰より少し低かった。
「さっき、そこの裏も見ました」
管理会社の担当者が言った。
受付の内側には棚があるだけで、人はいなかった。岳も受付へ回り、こちらの壁の厚さでは待合室がもう一つ入るはずがないと確かめた。
律は返事をせず、膝を折った。
枠全体ではなかった。その奥の閉じ板に、もっと小さな線がある。
最初に待合室を見たとき、律は戸棚の周囲の壁と、人が通れそうな戸ばかりを探していた。この高さまで目を下げてはいなかった。
「ここに、小さい戸が見える」
岳が戻ってきた。
「枠じゃなくて?」
「板の中。右端から、これくらい離れてる」
律は触れずに指した。岳は同じ高さにしゃがんだが、首を振った。
「俺には、塗った板だけだ」
律は小さな戸の端を見た。引き手らしいくぼみもある。人は通れない。ここが開いたからといって、高梨がいるとは限らない。
小田が現場の隊員を呼んだ。律は見えている位置を伝え、岳は枠の下へ作業灯を置いた。白い光が板を照らす。
「高梨さん。こちらに人がいます」
律が呼んだ。
返事はなかった。
岳と目を合わせてから、律はくぼみに指を掛けた。冷たい縁が、指先に当たった。左へ引くと、板の中だけが横へ動いた。
黒い、細長い隙間が開いた。
岳が息を止めた。今は、その隙間が彼にも見えていた。
「高梨さん」
小田が呼んだ。
こつ、と音がした。
全員が黙った。もう一度、今度は続けて二つ。木を叩くような音だった。
「聞こえます。小田です。声が届いたら、もう一度」
小田は開口へ顔を押しつけず、その前に膝をついた。
向こうで何かが擦れた。
「……小田さん?」
声は細かった。だが、名前を呼び返していた。
小田は返事をしようとして、一度、喉を鳴らした。
「いる。こっちにいる」
岳が隊員へ顔を向けた。隊員も声を聞いており、無線へ手を伸ばしていた。
律は隙間の端に添えた指を動かさず、向こうから次の言葉が来るのを待った。まだ姿は見えない。どこを通れば会えるかも、わからない。
それでも今、小田は、誰のいる場所へ話しているのかを間違えていなかった。




