第五話 返すもの
「それは、捨てる方じゃないです」
浜田の声に、律は抱えていた箱を置いた。
中には、受付で使っていた伝票立てと、小さな時計が入っていた。浜田は時計を取り出し、裏の蓋を開ける。
「電池が入ったまま。よかった、気がついて」
隣で荷物を分けていた男が、箱の側面へ大きく、残す、と書いた。
「上に書くと、積んだら読めなくなりますから」
高梨という搬出作業員だった。残す、の下へ小さく高と書き添え、油性ペンを胸ポケットに戻す。箱は残す品物の山へ運んだ。
三崎医院の持ち主から、室内に残った家具を運び出してほしいと依頼があった。岳と律は浜田の紹介で、搬出を請け負った業者の手伝いに来ていた。医院の改装に向けた片付けだが、一日で全部を空にする仕事ではない。
玄関では、現場をまとめる小田が、外へ出した家具と伝票を見比べていた。
「待合の長椅子は、この二つで全部ですね」
浜田に確かめて印を付ける。搬出する物と残す物が混ざらないよう、外へ運ぶたび、一つずつ数えていた。
律は、小田の足元に置かれた丸椅子を持ち上げた。
「これは?」
「それは俺の休憩用。運ばないでくれると助かります」
小田が笑い、高梨も台車の陰から顔を出した。
「それがなくなると、昼も立ったままになりますよ」
律は椅子を元へ戻した。今度こそ運ぶ物を指して、どちらへ、と聞いた。
*
待合室の隣にある小物保管室に、大きな収納棚が残っていた。
中身はすでに出してある。岳が扉を外し、高梨が受け取った。ねじを小袋へまとめると、高梨はその袋を扉の裏へ貼った。
「こうしておかないと、あとで組む人が困るんで」
「これ、捨てるんじゃないの」
律が聞くと、高梨は棚を軽くたたいた。
「まだ使えます。次に使う人が決まってるって」
岳が棚の下へ道具を入れ、片側を少し浮かせた。高梨が台車を差し込む。二人で声を合わせ、壁からまっすぐ離した。
「裏、見ます」
高梨は棚と壁の間をのぞき込み、そのまま止まった。
「何かあります」
棚のあった場所の奥に、灰色のバケツが置かれていた。
律は棚の横からのぞいた。針金の持ち手には黒い握りが付いていて、その一部に青いテープが巻かれている。
「浜田さん、これも残しますか」
高梨が尋ねると、浜田は首をかしげた。
「うちの物かしら。こんな新しいの、使っていなかったと思うけど」
岳が横へしゃがんだ。
「白川」
バケツの側面に貼られたラベルを読んだのだと、律は一瞬遅れて気づいた。
白川二階。薄れかけた字の下には、清掃会社の名前と、管理用らしい番号もある。
律の頭に、電話の向こうの吉野の声が戻った。
バケツを置いたんです。
そのまま進んで、角を四つ曲がったら、またバケツがあったんです。
「まだ、動かさないで」
律が言うと、高梨は持ち手へ伸ばしかけた手を下ろした。
小田が来た。岳は、白川ビルで助けた清掃員が、会社のバケツを向こうへ残してきたことを説明した。看板の聞き取りで二人が医院へ来たことは、小田も依頼のときに聞いていた。しかし、ここにあるバケツの話となると、すぐには頷けないようだった。
「同じ会社が、ここも掃除していたとか」
「それを、確かめたいです」
岳が答えた。
小田は棚をその位置で止め、外へ出してある家具だけを積むことにした。高梨が場所を空け、律はバケツと壁と棚を一緒に写真へ収めた。
「見つけたのは、棚を動かしたあと。何時ごろ?」
高梨は携帯電話を見た。
「たった今です。でも、いつからあったのかはわかりません。裏は、今日初めて見たんで」
律はそのとおりに書いた。
ここへ来たばかりの物なのか。ずっと置かれていたのか。それさえ、棚をどかす前の二人にはわからなかった。
*
藤井へ連絡すると、吉野の勤める清掃会社へ確認を取ってくれた。
ラベルの番号は、白川ビル用に貸し出していた備品の番号だった。三崎医院へ貸した記録はなく、医院の清掃も請け負っていないという。
続いて、吉野から電話があった。
『持ち手に、テープが巻いてありませんか。青いのです』
「あります」
『握るところが割れたので、私が巻きました。内側で重なって、そこだけ太くなっていると思います。底の縁には、白い塗料が少し付いています』
持ち上げる前に、律は吉野の話を紙へ書いた。岳がバケツを傾けると、底の縁に、乾いた白い筋があった。
撮った写真を送る。吉野は、しばらく返事をしなかった。
『これです』
ようやく聞こえた声は、小さかった。
『ここに置いてきたんじゃありません。私、三崎医院というところには、行ったこともなくて』
「はい。医院へ置いたと思って、聞いているんじゃありません」
律は答えた。
「吉野さんの使っていた物か、確かめたかったんです」
『戻ったんですね』
律は、目の前のバケツを見た。
吉野がバケツを置いたのは、緑の床の廊下だった。その道具と同じ特徴の物が、今は医院の小物保管室にある。どこを通って来たのか。それとも、同じ特徴を持つ別の一個なのか。あの案内板を見たあとでは、簡単に決められなかった。
返事を探していると、吉野が続けた。
『会社へ、持ってきてもらえますか。私は夕方、事務所へ戻りますから』
「わかりました。会社の方とも、受け取りの話をします」
電話を切ると、岳がすぐに言った。
「持っていくのか」
「返してほしいって」
「わかるけど。これ、看板の写真とは違うんだぞ。あの向こうにあった物が、ここにある。洗われたり、また使われたりしたら」
岳はバケツの縁へ手を置いた。
「付いてる泥だって、何かの手掛かりかもしれない。せめて、一晩こっちで預かれないか」
岳は、持ち手の青いテープを見た。
「次に誰かが入ったとき、同じ戸を開けられるとは限らない。これが本当にあそこから来た物なら、ほかの出口を探せるかもしれないんだ」
律にも、調べたい気持ちはあった。内側の底に残った薄い汚れを見れば、何かがわかるのではないか。そんな期待が、すぐに浮かぶ。
「預かるなら、そう頼まないと」
「だから、今から頼むんだよ」
「吉野さんが、どうしたいのかも聞いてから」
岳の顔が険しくなった。
「取り上げたいわけじゃない」
「うん。でも僕らは、まだ返したくないって話ばかりしてる」
玄関の方で、台車の車輪が鳴った。
高梨が玄関にあった最後の家具を車まで運び終え、小田と一緒に荷台の帯を締めている。律は残す品物の箱を見た。さっきまで、誰の物をどこへ運ぶか、一つずつ確かめていたのだ。
「ちゃんと調べたい。だから、その間だけ借りられないかって聞こう。いつ返すかも決めて」
岳は黙っていた。それから、縁に置いた手を離した。
「……何を調べるのかも、先に決めないとな」
律は頷いた。
今の二人には、泥を詳しく調べる設備も、頼む相手も決まっていなかった。大事そうだからという理由だけで、自分たちの事務所へ運ぼうとしていた。
*
清掃会社は、夕方に受け取ると言った。
その前に、バケツの全体と底、ラベル、持ち手を撮影することを了承してくれた。岳が大きさを測り、律が記録する。番号は会社の貸出記録とも照合してもらった。撮影を終えると、バケツは室外へ運び、玄関脇に置いた。
小田からは、今日の搬出の写真を送ってもらえることになった。棚を動かす前の物もあったが、裏側までは写っていない。
「小物保管室は立入停止にします。持ち主には、俺から話します」
小田が言った。
「次の荷物の段取りも、いったん確認します。勝手に全部進めたことにはしたくないので」
高梨は使い終わった台車を畳み、小田の車へ積んだ。それから胸ポケットを探り、油性ペンを出した。
「これ、どなたのですか」
「俺の」
岳が受け取った。
「危なかった。こういうの、持って帰っちゃうんですよ」
高梨が笑った。小田に呼ばれて助手席へ乗り、窓を開けて、お疲れさまでした、と言った。
車が出ていくのを見送ってから、二人はバケツを自分たちの車へ積んだ。玄関に残った浜田は、搬出の伝票を鞄へしまっていた。小物保管室の戸は閉まり、小田が貼った立入禁止の紙が見えた。
「あの看板は、家に置きました」
律たちが別れを告げると、浜田は言った。
「家族に、受付はどこですかって言われてしまったけど」
岳が小さく笑った。
「しっかり読めたんですね」
浜田も頷いた。今日は、看板の話をするときに、まず笑ってくれた。
*
吉野は、清掃会社の事務所の入口で待っていた。
律がバケツを車から下ろすと、一歩近づき、それから足を止めた。
「そのまま、そこへ置いてもらっていいですか」
二人は入口脇の空いた場所へ置いた。吉野は少し離れたまま、ラベルと青いテープを見た。
「やっぱり、私の使っていた物です」
備品を管理している社員が、貸出簿を持ってきた。番号を確かめると、吉野へも見えるように開いた。返却の欄は空白になっていた。
「見つかった物、で受け取ります。あとは会社で保管しますから」
社員の言葉に、吉野は、お願いしますと答えた。
その声が、電話のときよりはっきりしていた。
「使いたかったわけじゃないんです」
吉野が律に言った。
「これを見ると、あの床を思い出します。だから、また使いなさいと言われたら、困ってしまう。でも、置いてきたっていう報告のままなのも、ずっと気になっていて」
自分で持ち出した物だった。怖くなって戻ってきたときには、それを置いてきた。会社には気にしなくていいと言われていたが、道具の片付けをするたび、空いた場所を見てしまったという。
「戻せたって、確かめたかったんです。私が持って帰ったわけじゃなくても」
律は、岳を見た。岳は貸出簿の空欄へ、今日の日付が書き込まれるのを見ていた。
「手掛かりなので、こちらで預からせてもらおうと思っていました」
岳が吉野へ言った。
「すみません。どうして今日返してほしいのか、先に聞けばよかった」
「いえ。調べるのに、必要なんでしょう?」
「まず、今日撮らせてもらった物を整理します。この物が必要になったら、会社に改めて相談します」
社員とは、当面は再使用せず、洗わない状態で別に保管してもらう話になった。詳しく調べるために借りる場合は、内容と期間を伝えて決める。
吉野はその話を聞き、もう一度バケツを見た。
「私も、何かした方がいいですか。見つかった場所へ行くとか」
「今日は、使っていた物だと確かめてもらえました。それで助かりました」
律が答えた。
「あの廊下で覚えていることは、前に話してくださった分も残してあります」
吉野は頷いた。それ以上の説明を求められないとわかると、入口の脇に置いた仕事鞄を持ち上げた。
会社の社員が、受け取ったバケツを奥へ運ぶ。その途中で、吉野が声を掛けた。
「青いテープの端、少し浮いてます。持つと、そこが手に貼りつくので」
社員は持ち手を見て、わかりました、と握る位置を変えた。
吉野はその手元を見届けてから、二人へ頭を下げた。
「返してくださって、ありがとうございました」
岳が、お疲れさまでしたと答えた。律も同じように挨拶をした。
吉野は会社の戸を開け、いつもの帰り道へ歩いていった。バケツはもう、その手にはなかった。




