第四話 矢印を書いた人
藤井が持ってきた古い伝票には、三崎医院、と書いてあった。
「白川ビルに、医院が入っていたんですか」
律が尋ねると、藤井は伝票の下の行を指した。
「これは、建具を運んだときの記録です。三崎医院から、白川ビルへ」
清掃員の吉野を助けてから、数日が過ぎていた。藤井は約束どおり、あのビルの昔の用途を調べていた。借り手の記録だけでは手掛かりが見つからず、改装工事の書類までさかのぼったのだという。
医院で使われていた木製の戸と枠が、白川ビルへ運ばれていた。工事の記録には、二階の用具入れ付近で使う、とある。
律は自分たちの図を横へ並べた。吉野が手をついた壁。その隣の用具入れ。
「このあたりだ」
「ただ、どの部分が運ばれた物なのかは、まだわかりません。今の管理人も、工事には立ち会っていなくて」
岳は伝票を裏返した。品物の数はあったが、写真はない。
「看板の記録は?」
「ここにはありません」
あの緑色の廊下には、出口と診察受付の案内があった。けれど二人が持ち帰ったのは、文字と矢印の向きを書いた紙だけだった。吉野を連れ戻すことに気を取られ、写真は撮っていなかった。
「三崎医院は、もう診療していません。以前、受付をしていた方に連絡がつきました。浜田さんという方です。あの案内について、お話を聞かせてくださるそうです」
藤井はそこで、少し困った顔をした。
「でも、『診察受付』だけでは、どこにでもあると言われまして」
「それは、そうですよね」
律は図の端に書いた四文字を見た。覚えているつもりだったのに、文字の色さえすぐには言えなかった。
*
先に、白川ビルで写真を撮ることになった。
管理会社から頼まれたのは、入口の外から見える範囲の撮影と、浜田への聞き取りだった。用具入れの前は、今も人が近づかないよう仕切られている。藤井が立ち会い、廊下を通る人がいないのを確かめてから、二人は壁の前へ立った。
律には、前と同じ場所に戸の線が見えた。帰ったあともずっとそこにあったのか、一度消えて戻ったのかはわからない。
縁へ指を掛け、手前へ引く。
短い通路の先に、緑の床が見えた。三メートルほど先で左右へ分かれ、その正面の壁に案内板が掛かっている。岳が戸を留め、律は白川ビル側に立ったまま、携帯電話のカメラを向けた。
「少し下。矢印の端が切れてる」
岳に言われ、画面を下げる。
白い板に、青い文字。上の段には出口、その横に矢印。下の段には診察受付。拡大すると、受付の二文字だけ、ほかより少し太かった。
「この下、白い色が違う」
律は撮った画像を岳に見せた。受付の文字の下だけ、横長に塗り直されている。白い塗料の下から、前に書いた線が少し透けていた。
「もう一枚。明るさを変えてみよう」
岳は自分の電話でも撮った。二つの画面で板の全体が写っていることを確かめ、戸を閉じる。今日は誰も中へ入らなかった。
壁に残った細い線を見ていると、律の肩へ岳の手が触れた。
「撮れた」
「うん」
携帯電話をしまった途端、律は指が冷えていることに気づいた。
*
三崎医院の玄関には、診療を終えたことを知らせる紙が貼ってあった。
約束の時刻より少し早く着いたが、浜田はもう中にいた。閉院後も、頼まれて保管品の整理を手伝っているのだという。眼鏡を頭にのせたまま、鍵を開けてくれた。
「すみません、片付いていなくて。あっちの箱はそのままでいいんです。こちらへどうぞ」
患者のいない待合室に、畳んだ段ボールが積まれていた。浜田は長椅子の端から布袋をどかし、三人が座れる場所を作った。
藤井が事情を説明している間、浜田は膝の上で両手を重ねていた。人が帰れなくなったこと、普段の廊下とは違う場所があったこと。話が進むにつれ、指が少しずつ強く組み合わされていく。
「その方は、もう帰れたんですね」
「はい。大きな怪我はありませんでした」
律が答えると、浜田は長く息を吐いた。
「それで、この案内なんですが」
律は携帯電話を差し出した。浜田は頭の上の眼鏡を下ろし、画面をのぞいた。
すぐに口が開いた。しかし、何も言わないまま顔を上げ、律を見た。
「これを、今日、撮ってきたんですか」
「白川ビルで。二人とも、同じ物を撮っています」
岳も自分の画面を出した。
浜田は二つを見比べ、それから立ち上がった。
「ちょっと、待っていてください」
受付のカウンターの内側へ入り、棚の下から平たい包みを引き出す。抱え上げようとしたとき、中で木のこすれる音がした。
「持ちます」
岳が手を貸し、空いた机へ運んだ。包んでいた布を浜田が取る。
白い板だった。青い文字と矢印があり、周囲に細い木枠が付いている。
出口。
診察受付。
律は手の中の電話と、机の上の板を交互に見た。
「私が書いたんです」
浜田が言った。
「あの写真は、これを撮ったように見えます」
受付の文字の下に、色の違う白い帯があった。律が画面を拡大すると、浜田も身をかがめた。
「ここ。一度、小さく書きすぎて、消したんです。塗料がもったいなくて薄く塗ったから、下の字が残ってしまって」
現物の白い塗料の下には、斜めの青い線が透けていた。写真にも、同じ位置に線がある。受の字の最後の払いが、長くはみ出しているところも似ていた。
「同じ物を、もう一枚書いたことはありますか」
「小さい案内はいくつも作りました。でも、この大きさで、この二つを一緒に書いたのは、これだけです。少なくとも、私は一枚しか書いていません」
浜田は板の端へ指を添えた。
「閉めるとき、もらって帰ろうと思ったんです。でも、家に持っていってどうするんだろうと考えて、ずっとここに」
板はそこにあった。岳が下へ敷いた布の上に、重みでしわを作っている。
この看板が白川ビルへ運ばれたのだと考えれば済むはずだった。だが、目の前の板と、今日撮った写真が、その考えに収まらない。
「写真に写っている方も、木なんですか」
浜田が聞いた。
「触ってはいません。遠くから見ただけです」
岳が答えた。
「こっちは薄い板に枠を付けてありますね。向こうも同じ作りかは、この写真じゃわかりません」
岳は現物を持ち上げかけ、すぐ手を止めた。
「この角、外れかけてる。枠だけ持つと、板が落ちます」
「ああ、だからさっき、音がしたのね」
浜田は、枠の下へそっと手を入れた。
*
「最初は、なくても平気だと思っていたんです」
浜田は案内を机に置いたまま話した。
「毎日ここにいると、受付がどこかなんて、考えなくなるでしょう。でも、初めて来た方は違うのね。診察が終わったあとも、どちらへ行けばいいかわからなくなる方がいて」
職員を呼び止める人ばかりではなかった。忙しそうだからと黙って立っていて、こちらから声を掛けて初めて困っていたとわかることもあった。
「一度、具合が悪くて座りたいのに、ずっと立って待っていた方がいたんです。自分が聞かなかったから、と謝られてしまって」
そのあと、余っていた板に案内を書いた。
出口と受付のある方角だけでも、大きな字でわかるように。細い筆では頼りなく見えて、何度も同じ線をなぞった。
「だから、下手でしょう。ここなんか、書き終わりに欲張ったせいで」
浜田は、受の字の長い払いを指した。
「読めます」
岳が言った。
「三メートル先からでも、読めました」
浜田は少し笑った。だが、机の上の電話に目を落とすと、その笑みは消えた。
「その人、この矢印を見て歩いたんですよね」
律は頷いた。
「帰ろうとして。何度も」
浜田の指が、矢印の上で止まった。
「外してもらうわけには、いかないですか。あちらの方を。また誰か、これを頼りに歩いたら」
律は、わかりましたと言いかけた。
写真の看板までは、入口から三メートル。岳はそこへ行って、赤い作業灯を置いて帰ってきた。自分にもできることのように思えた。
けれど、枠の裏がどうなっているかさえ知らない。板を外す間、どこに立ち、何を支えればいいのか。考え始めると、あの緑の床の向こうが急に遠くなった。
「今は、取りに行くと約束できません」
律が言うと、浜田は手を引いた。
「そうですよね。無理を言って、ごめんなさい」
「違うんです。頼まれたことが嫌なんじゃなくて」
うまく言えず、律は膝の上で両手を握った。
「今日、写真を撮るときも怖かったんです。外に立っていたのに。取れると返事をしてから、やっぱりできませんでした、とは言いたくなくて」
岳は口を挟まなかった。律が言葉を探す間も、浜田と同じように待っていた。
「あの場所に人が近づかないよう、今は管理会社で止めてもらっています。案内をどうするかも、この話と一緒に考えさせてください」
「ええ」
浜田は頷き、藤井へも目を向けた。藤井が、用具入れの前を立入禁止にしていることを短く説明した。
「私が書いたものなら、私が片付けなくちゃと思ってしまって」
浜田は困ったように笑った。
「でも、あの方を助けてくださった人を、また行かせる話でしたね」
律は看板を見た。太い青い文字は、もう写真の中だけにある得体の知れない案内ではなかった。目の前の人が、筆を持って何度もなぞった文字だった。
「ここでは、ちゃんと役に立っていたんですよね」
「ええ。看板を見て、自分で受付まで来られた方がいた。それが、うれしかったんです」
浜田の指が、また長い払いに触れた。
*
「こちらの枠なら、直せます」
岳が、板の外れかけた角を示した。
「文字を触らずに?」
「裏から留めます。表は、そのままで」
浜田はしばらく板を眺めたあと、お願いしますと言った。
律が小修繕の代金を伝え、浜田が頷く。岳は車から道具箱を取ってきた。机に厚い布を敷き、文字の面を下へ向ける。緩んだ金具を外すと、木枠の角がわずかに開いた。
「そこ、押しててくれるか」
律は言われた角を支えた。岳がずれを戻し、裏側へ小さな補強の金具を取り付ける。ねじを締めるたび、指の下の木がしっかりと一つになっていった。
浜田は椅子に座って、その手元を見ていた。
「文字、書き直さなくてよかった」
「書き直したかったんですか」
「捨てるか、きれいにするか、どちらかしかないと思っていたから」
岳は板を表へ返し、枠を両手で支えてみせた。どの角も浮かなかった。
浜田も受け取り、同じように持ってみる。
「これなら、家へ持って帰れますね」
「枠をつかんでも、もう大丈夫です」
浜田は看板を膝へ載せた。白い塗り直し跡も、はみ出した払いも、そのままだった。
律は許可をもらい、その板の表と裏を撮影した。白川ビルで撮った写真とは、別の組に分けて保存する。
電話をしまうと、浜田が布の片側を差し出した。
「包むの、手伝ってもらえますか」
律と岳で布を回し、角を覆った。浜田は平たい袋を広げ、看板をゆっくり中へ入れた。今度は、木枠のこすれる音はしなかった。
帰り際、浜田は受付のカウンターへ一度だけ顔を向けた。それから、看板の入った袋を抱え直し、二人と一緒に玄関を出た。




