第三話 赤い灯りのある場所
翌朝、岳は商店街の店の裏で、雨戸を外していた。
昨日、買い足したいと言っていた工具は、結局買わなかった。今ある道具で戸車を調べ、溝に固まった古い塗料を少しずつ取り除いている。
律は外したねじを皿に並べ、店主から預かった網戸を脇へよけた。
「そのねじ、短い方をこっちに」
岳に言われて渡す。雨戸を戻すと、さっきまで途中で引っ掛かっていた戸が、端まで滑った。
店主が自分で二度動かし、笑った。
「これなら、毎晩喧嘩しなくて済むね」
律は作業内容を伝え、代金を受け取って領収書を渡した。直ったところを、頼んだ人が自分で確かめられる。今日は、その当たり前のやり取りが妙にありがたかった。
車へ道具を積み終えたところで、電話が鳴った。管理会社の藤井からだった。
『今、お時間はありますか。同じ会社で管理している別の建物なんですが』
「また、戸ですか」
『戸かどうかも、まだわかりません。清掃員の方が、廊下から出られないと言っていて』
律は荷台を閉める手を止めた。
『電話はつながっています。でも管理人が建物を探しても、その方がいないんです』
律は通話をスピーカーに切り替えた。
白川ビルという、三階建ての小さな貸し事務所だった。行方がわからなくなったのは、清掃を担当する吉野という女性。今朝も普段どおり、二階の廊下を掃除していたという。
『警察と消防には、管理人から連絡しています。私も向かっています。二人なら、何か見つけられるかと思って』
岳が律の手元へ顔を寄せた。
「まず、今いるところから動かないように伝えてください。歩き続けて探すのは、いったんやめてもらって」
『わかりました』
「俺たちも行きます。ただ、入って助け出せるとは、まだ言えません。現場を見てからです」
藤井は、お願いします、と答えた。
律は地図を開いた。車で十五分ほどの場所だった。
*
白川ビルの二階には、まっすぐな廊下が一本あった。
東の端に階段、西の端に用具入れ。間には事務所の扉が四つ並んでいる。角を曲がるところも、別の廊下へ分かれるところもない。
管理人は、吉野が開けていた事務所も、階段も、屋上も探したと話した。
「いつも来ている人なんです。間違えるような建物じゃないんですが」
律は藤井の携帯電話を借り、スピーカーに切り替えた。藤井は吉野との通話を切らずに待っていた。
「吉野さん。便利屋の律といいます。今、ビルの二階にいます」
『私も、二階にいるはずなんです』
吉野の息が少し荒かった。
『でも、階段がないんです。歩いても歩いても、同じところに戻ってしまって』
「今いる場所で、何が見えますか」
『灰色の壁と、緑色の床。先で右へ曲がっています』
律は目の前の廊下を見た。床は茶色の長尺シートで、右へ曲がる場所はない。
岳が小さく首を振った。同じ建物にいるはずだから同じ廊下を見ている、と決めてはいけない。
「同じところに戻ったとわかったのは、どうしてですか」
『バケツを置いたんです。何度も持って歩くのがつらくなって。そのまま進んで、角を四つ曲がったら、またバケツがあったんです』
途中には短い横道もあったが、奥が壁で行き止まりになっており、そこにも戸や階段はなかったと吉野は話した。
「バケツは、今もそこに?」
『足元にあります』
岳が紙を出し、四角い輪を描いた。まだ正確な形はわからない。ただ、吉野は角を四つ通って、置いた物のところへ戻った。
「そのバケツを動かさないでください。そこを、今いる場所の目印にしましょう」
岳が言うと、吉野はわかりましたと答えた。
律は最後に、どこを掃除していたかを聞いた。
『用具入れの脇の壁です。上の汚れを拭こうとして、手をついたら、壁が開いて。体を支えようとして、向こうへ足を出してしまったんです』
「戻ろうとはしたんですね」
『しました。でも後ろを向いたら壁で。少し先に出口の案内があったから、そこへ行けば出られると思って』
案内に従って角を曲がり、また別の案内を見つけた。最後には、最初のバケツへ戻っていたという。
律は用具入れの前へ歩いた。
その右側の壁に、細い縦線があった。
線を目で追うと、頭より少し上で横へ折れ、もう一方の縦線へつながっていた。戸の形だ。管理人には、何を見ているのかわからないらしかった。
「ここに、戸が見えます」
律が言うと、岳は足元へ道具箱を置いた。
「触る前に、場所を残そう」
藤井が時刻を書き、岳が現実の壁の位置を測った。律は戸の輪郭と、吉野が手をついたと話した場所を紙へ描いた。
今日は、誰もいない部屋の確認ではない。今、帰れない人がいて、その声も聞いている。
岳は藤井に、戸を開けて現実側から確認することを伝えた。管理人は階段側へ戻り、到着する救急隊を案内する役を引き受けた。
「開けた先が見えなければ、入らない。床がおかしくても、進まない」
岳が言い、律は頷いた。
今度は、見えている線が縁になるように指を掛けた。戸は手前へ開いた。
向こうに、短い通路があった。
入口から三メートルほど先で、横向きの廊下に突き当たっている。左にも右にも曲がれる、T字の形だった。その奥の廊下の床は、緑色だった。
「緑の床が見えました」
律が電話へ伝えると、吉野の息が止まったようになった。
『どこですか。私は、何も見えません』
律の位置からも、吉野は見えなかった。T字の突き当たりの先は、左右の壁に隠れている。
「まだ、あなたの姿は見えていません。こちらから見える範囲を確かめます。そのまま待っていてください」
岳は戸が不用意に動かないよう留め、短い通路を照らした。床に穴はなく、継ぎ目にも段差はない。道具を押し当てて確かめても、床は動かなかった。
身体を支えるロープを現実側へつなぎ、律と藤井から姿が見える範囲だけに進む。岳が決めたのは、T字の突き当たりまでだった。
岳はロープをたるませすぎないようにしながら、ゆっくり通路へ入った。三メートル先まで進み、左右を見た。
「どちらも、その先で曲がってる。人はいない」
岳は角の向こうへは行かなかった。
緑色の廊下の壁には、古い案内板があった。出口、という文字と矢印。その下に、診察受付、とも書いてある。岳は、その文字を電話へ向けて読み上げた。
『その案内です』
電話の向こうで吉野が言った。
『私、同じものを何度も見ました。矢印の方へ行けば出られると思って』
岳は案内板の下に、道具箱から持ってきた赤い作業灯を置いた。普段は、暗い場所で作業中だと知らせるための灯りだ。
「これを、新しい目印にします。案内板じゃなく、俺たちが今、置いた灯りです」
岳は真っすぐ戻ってきた。律と藤井の前まで帰り、腰のロープを外す。
入口からは、T字の突き当たりに置かれた赤い灯りが見えていた。そこからこちらまでの道には、曲がり角がない。
「吉野さん。今いる場所から、壁に沿って歩けそうですか。右でも左でも構いませんが、途中で向きを変えずに」
『また、歩くんですか』
声が震えた。
『さっきも、それをやったんです。何回も。もう、自分がどっちへ歩いたのかわからなくなって』
「すみません。一周しろと言いたいんじゃありません」
岳は図を律へ示した。輪のどこかに吉野がいる。赤い灯りの位置も、その輪の途中につながっているらしい。ただ、二つの場所の間に何があるかまでは、確かめられていない。
「床に穴があるとか、道が違って見えるとか、何か変わったら止まって教えてください。灯りが見えても、すぐには曲がらなくていいです。まず、見えたと教えてもらえますか」
しばらく、電話から音がしなかった。
律は口を開いた。
「バケツを目印にしたのは、吉野さんですよね。戻ってきてしまうことは、それで僕らにもわかりました。今度は、こっちで目印を一つ増やしました」
『……赤い灯りですね』
「はい。それが、そちらからも見えるか、確かめたいんです」
靴の音が聞こえ始めた。
吉野が歩きながら、角を曲がったと伝える。律は図へ印を付けた。岳は入口から短い通路を見守った。床にも戸にも、変化はなかった。
『まだ、ありません』
少し間を置いて、また足音が続いた。
『次の角を曲がりました。あの、赤いのが』
三人が顔を上げた。
『灯りがあります。でも、これ、本当にあなたたちが置いたものですか』
吉野はすぐには近づかなかった。
『一度、消してもらえますか』
律は岳を見た。岳が頷き、もう一度身体を支えるロープを着けた。同じ短い通路を進み、作業灯の横へしゃがむ。
「今から消します」
赤い灯りが消えた。
『消えました。そこに、男の人が』
岳が顔を上げた。右手の廊下から、紺色の作業着を着た女性がこちらを見ていた。
「灯りを置いたのは、俺です」
岳がもう一度点灯すると、吉野は両手で口元を押さえた。
「ここから、真っすぐ三メートルです。部屋じゃなく、元のビルの廊下へ出ます。入口にもう二人います」
吉野が灯りのところまで近づくと、短い通路の先に、律と藤井も見えた。
「ここです。さっき、この横道に来たときは、奥が壁だったんです」
吉野が、今は二人の立っている入口を指した。
「俺たちは、そこを外から開けて入ってきました。今は通れます」
岳が答えた。吉野は出口を見落としていたのではない。さっき来たときには、出口が見えていなかったのだ。
「吉野さん!」
藤井が手を振った。
吉野はその顔を見て、短い通路へ一歩踏み出した。
岳は先に立って引っ張らず、横で歩いた。疲れて足が止まれば、同じところで待った。三メートルの通路を抜け、吉野の靴が茶色い床を踏んだ。
吉野はその場へ座り込んだ。
「戻った」
小さく言って、掌を床に押しつける。
「この床です。朝、私が拭いたのは」
藤井がその横へしゃがんだ。
岳は律と互いの姿を確認しながら、短い通路の作業灯を回収した。入口を留めていた道具も外し、全員がビル側にいることを確かめてから、戸を閉めた。
壁には、しばらく細い線が残っていた。
律は、消えるのを待つのではなく、見えている位置をそのまま図へ残した。
*
吉野は、到着した救急隊に身体の状態を確認してもらった。大きな怪我はなかったが、ずっと歩き続けていたせいで、膝が痛むと話していた。
管理人は吉野の姿を見ると、何度も頭を下げた。
「電話で、別の階じゃないですかなんて言って。すみませんでした」
「私だって、そう思いました」
吉野は床を見たまま答えた。
「自分の知ってる廊下がわからなくなったのかと。でも、違ったんですね」
「見えていたものが、こっちとは違いました」
律が言った。
「教えてもらったので、探せました」
吉野は少しだけ顔を上げた。それから、緑の廊下へバケツを置いてきたことを思い出した。
「会社の物なんですけど」
「今は、取りに戻りません」
岳が答えた。
吉野は頷いた。もう、同じ道を歩かなくていいとわかると、ようやく肩の力が抜けたようだった。
藤井は現場の記録を会社へ送り、用具入れの周囲に人を近づけないよう手配した。清掃の手順も変え、この壁を拭いたり押したりしないことを、ほかの担当者へ伝えることになった。
律が廊下の図を整えていると、岳がその端へ文字を書いた。
診察受付。
「このビル、前は病院だったんですか」
藤井は管理人に尋ねた。二人とも、少なくとも今は事務所しか入っていないことは知っていたが、昔の用途まではその場で言い切れなかった。
「資料を調べます。わかったら、お二人にも伝えます」
律は、案内板の文字と矢印の向きを記録した。
あの案内は、人を外へ導いてはくれなかった。どこか別の場所では、正しい案内だったのかもしれない。今はまだ、それも確かめる必要のある考えにすぎなかった。
車へ戻ると、岳は赤い作業灯の汚れを拭いた。
「消してくれって言われたとき、なるほどと思った」
「僕らが置いたって、言うだけじゃ足りなかったんだね」
「ずっと案内を信じて歩いてた人だからな」
律は今日の記録に、一行書き足した。
吉野さん本人が、灯りの操作を見て確認した。
それは、二人だけでは思いつかなかった帰り方だった。
岳が作業灯を、いつもの道具箱へ戻す。律は雨戸修理の領収書の控えと、白川ビルの記録を別々の封筒に入れた。
同じ一日に、ずいぶん違う二つの仕事をした。それでも、確かめたことを残すところは、どちらも変わらなかった。




