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帰り道の修理屋  作者: 130


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3/7

第三話 赤い灯りのある場所

 翌朝、岳は商店街の店の裏で、雨戸を外していた。

 昨日、買い足したいと言っていた工具は、結局買わなかった。今ある道具で戸車を調べ、溝に固まった古い塗料を少しずつ取り除いている。

 律は外したねじを皿に並べ、店主から預かった網戸を脇へよけた。

「そのねじ、短い方をこっちに」

 岳に言われて渡す。雨戸を戻すと、さっきまで途中で引っ掛かっていた戸が、端まで滑った。

 店主が自分で二度動かし、笑った。

「これなら、毎晩喧嘩しなくて済むね」

 律は作業内容を伝え、代金を受け取って領収書を渡した。直ったところを、頼んだ人が自分で確かめられる。今日は、その当たり前のやり取りが妙にありがたかった。

 車へ道具を積み終えたところで、電話が鳴った。管理会社の藤井からだった。

『今、お時間はありますか。同じ会社で管理している別の建物なんですが』

「また、戸ですか」

『戸かどうかも、まだわかりません。清掃員の方が、廊下から出られないと言っていて』

 律は荷台を閉める手を止めた。

『電話はつながっています。でも管理人が建物を探しても、その方がいないんです』

 律は通話をスピーカーに切り替えた。

 白川ビルという、三階建ての小さな貸し事務所だった。行方がわからなくなったのは、清掃を担当する吉野という女性。今朝も普段どおり、二階の廊下を掃除していたという。

『警察と消防には、管理人から連絡しています。私も向かっています。二人なら、何か見つけられるかと思って』

 岳が律の手元へ顔を寄せた。

「まず、今いるところから動かないように伝えてください。歩き続けて探すのは、いったんやめてもらって」

『わかりました』

「俺たちも行きます。ただ、入って助け出せるとは、まだ言えません。現場を見てからです」

 藤井は、お願いします、と答えた。

 律は地図を開いた。車で十五分ほどの場所だった。

     *

 白川ビルの二階には、まっすぐな廊下が一本あった。

 東の端に階段、西の端に用具入れ。間には事務所の扉が四つ並んでいる。角を曲がるところも、別の廊下へ分かれるところもない。

 管理人は、吉野が開けていた事務所も、階段も、屋上も探したと話した。

「いつも来ている人なんです。間違えるような建物じゃないんですが」

 律は藤井の携帯電話を借り、スピーカーに切り替えた。藤井は吉野との通話を切らずに待っていた。

「吉野さん。便利屋の律といいます。今、ビルの二階にいます」

『私も、二階にいるはずなんです』

 吉野の息が少し荒かった。

『でも、階段がないんです。歩いても歩いても、同じところに戻ってしまって』

「今いる場所で、何が見えますか」

『灰色の壁と、緑色の床。先で右へ曲がっています』

 律は目の前の廊下を見た。床は茶色の長尺シートで、右へ曲がる場所はない。

 岳が小さく首を振った。同じ建物にいるはずだから同じ廊下を見ている、と決めてはいけない。

「同じところに戻ったとわかったのは、どうしてですか」

『バケツを置いたんです。何度も持って歩くのがつらくなって。そのまま進んで、角を四つ曲がったら、またバケツがあったんです』

 途中には短い横道もあったが、奥が壁で行き止まりになっており、そこにも戸や階段はなかったと吉野は話した。

「バケツは、今もそこに?」

『足元にあります』

 岳が紙を出し、四角い輪を描いた。まだ正確な形はわからない。ただ、吉野は角を四つ通って、置いた物のところへ戻った。

「そのバケツを動かさないでください。そこを、今いる場所の目印にしましょう」

 岳が言うと、吉野はわかりましたと答えた。

 律は最後に、どこを掃除していたかを聞いた。

『用具入れの脇の壁です。上の汚れを拭こうとして、手をついたら、壁が開いて。体を支えようとして、向こうへ足を出してしまったんです』

「戻ろうとはしたんですね」

『しました。でも後ろを向いたら壁で。少し先に出口の案内があったから、そこへ行けば出られると思って』

 案内に従って角を曲がり、また別の案内を見つけた。最後には、最初のバケツへ戻っていたという。

 律は用具入れの前へ歩いた。

 その右側の壁に、細い縦線があった。

 線を目で追うと、頭より少し上で横へ折れ、もう一方の縦線へつながっていた。戸の形だ。管理人には、何を見ているのかわからないらしかった。

「ここに、戸が見えます」

 律が言うと、岳は足元へ道具箱を置いた。

「触る前に、場所を残そう」

 藤井が時刻を書き、岳が現実の壁の位置を測った。律は戸の輪郭と、吉野が手をついたと話した場所を紙へ描いた。

 今日は、誰もいない部屋の確認ではない。今、帰れない人がいて、その声も聞いている。

 岳は藤井に、戸を開けて現実側から確認することを伝えた。管理人は階段側へ戻り、到着する救急隊を案内する役を引き受けた。

「開けた先が見えなければ、入らない。床がおかしくても、進まない」

 岳が言い、律は頷いた。

 今度は、見えている線が縁になるように指を掛けた。戸は手前へ開いた。

 向こうに、短い通路があった。

 入口から三メートルほど先で、横向きの廊下に突き当たっている。左にも右にも曲がれる、T字の形だった。その奥の廊下の床は、緑色だった。

「緑の床が見えました」

 律が電話へ伝えると、吉野の息が止まったようになった。

『どこですか。私は、何も見えません』

 律の位置からも、吉野は見えなかった。T字の突き当たりの先は、左右の壁に隠れている。

「まだ、あなたの姿は見えていません。こちらから見える範囲を確かめます。そのまま待っていてください」

 岳は戸が不用意に動かないよう留め、短い通路を照らした。床に穴はなく、継ぎ目にも段差はない。道具を押し当てて確かめても、床は動かなかった。

 身体を支えるロープを現実側へつなぎ、律と藤井から姿が見える範囲だけに進む。岳が決めたのは、T字の突き当たりまでだった。

 岳はロープをたるませすぎないようにしながら、ゆっくり通路へ入った。三メートル先まで進み、左右を見た。

「どちらも、その先で曲がってる。人はいない」

 岳は角の向こうへは行かなかった。

 緑色の廊下の壁には、古い案内板があった。出口、という文字と矢印。その下に、診察受付、とも書いてある。岳は、その文字を電話へ向けて読み上げた。

『その案内です』

 電話の向こうで吉野が言った。

『私、同じものを何度も見ました。矢印の方へ行けば出られると思って』

 岳は案内板の下に、道具箱から持ってきた赤い作業灯を置いた。普段は、暗い場所で作業中だと知らせるための灯りだ。

「これを、新しい目印にします。案内板じゃなく、俺たちが今、置いた灯りです」

 岳は真っすぐ戻ってきた。律と藤井の前まで帰り、腰のロープを外す。

 入口からは、T字の突き当たりに置かれた赤い灯りが見えていた。そこからこちらまでの道には、曲がり角がない。

「吉野さん。今いる場所から、壁に沿って歩けそうですか。右でも左でも構いませんが、途中で向きを変えずに」

『また、歩くんですか』

 声が震えた。

『さっきも、それをやったんです。何回も。もう、自分がどっちへ歩いたのかわからなくなって』

「すみません。一周しろと言いたいんじゃありません」

 岳は図を律へ示した。輪のどこかに吉野がいる。赤い灯りの位置も、その輪の途中につながっているらしい。ただ、二つの場所の間に何があるかまでは、確かめられていない。

「床に穴があるとか、道が違って見えるとか、何か変わったら止まって教えてください。灯りが見えても、すぐには曲がらなくていいです。まず、見えたと教えてもらえますか」

 しばらく、電話から音がしなかった。

 律は口を開いた。

「バケツを目印にしたのは、吉野さんですよね。戻ってきてしまうことは、それで僕らにもわかりました。今度は、こっちで目印を一つ増やしました」

『……赤い灯りですね』

「はい。それが、そちらからも見えるか、確かめたいんです」

 靴の音が聞こえ始めた。

 吉野が歩きながら、角を曲がったと伝える。律は図へ印を付けた。岳は入口から短い通路を見守った。床にも戸にも、変化はなかった。

『まだ、ありません』

 少し間を置いて、また足音が続いた。

『次の角を曲がりました。あの、赤いのが』

 三人が顔を上げた。

『灯りがあります。でも、これ、本当にあなたたちが置いたものですか』

 吉野はすぐには近づかなかった。

『一度、消してもらえますか』

 律は岳を見た。岳が頷き、もう一度身体を支えるロープを着けた。同じ短い通路を進み、作業灯の横へしゃがむ。

「今から消します」

 赤い灯りが消えた。

『消えました。そこに、男の人が』

 岳が顔を上げた。右手の廊下から、紺色の作業着を着た女性がこちらを見ていた。

「灯りを置いたのは、俺です」

 岳がもう一度点灯すると、吉野は両手で口元を押さえた。

「ここから、真っすぐ三メートルです。部屋じゃなく、元のビルの廊下へ出ます。入口にもう二人います」

 吉野が灯りのところまで近づくと、短い通路の先に、律と藤井も見えた。

「ここです。さっき、この横道に来たときは、奥が壁だったんです」

 吉野が、今は二人の立っている入口を指した。

「俺たちは、そこを外から開けて入ってきました。今は通れます」

 岳が答えた。吉野は出口を見落としていたのではない。さっき来たときには、出口が見えていなかったのだ。

「吉野さん!」

 藤井が手を振った。

 吉野はその顔を見て、短い通路へ一歩踏み出した。

 岳は先に立って引っ張らず、横で歩いた。疲れて足が止まれば、同じところで待った。三メートルの通路を抜け、吉野の靴が茶色い床を踏んだ。

 吉野はその場へ座り込んだ。

「戻った」

 小さく言って、掌を床に押しつける。

「この床です。朝、私が拭いたのは」

 藤井がその横へしゃがんだ。

 岳は律と互いの姿を確認しながら、短い通路の作業灯を回収した。入口を留めていた道具も外し、全員がビル側にいることを確かめてから、戸を閉めた。

 壁には、しばらく細い線が残っていた。

 律は、消えるのを待つのではなく、見えている位置をそのまま図へ残した。

     *

 吉野は、到着した救急隊に身体の状態を確認してもらった。大きな怪我はなかったが、ずっと歩き続けていたせいで、膝が痛むと話していた。

 管理人は吉野の姿を見ると、何度も頭を下げた。

「電話で、別の階じゃないですかなんて言って。すみませんでした」

「私だって、そう思いました」

 吉野は床を見たまま答えた。

「自分の知ってる廊下がわからなくなったのかと。でも、違ったんですね」

「見えていたものが、こっちとは違いました」

 律が言った。

「教えてもらったので、探せました」

 吉野は少しだけ顔を上げた。それから、緑の廊下へバケツを置いてきたことを思い出した。

「会社の物なんですけど」

「今は、取りに戻りません」

 岳が答えた。

 吉野は頷いた。もう、同じ道を歩かなくていいとわかると、ようやく肩の力が抜けたようだった。

 藤井は現場の記録を会社へ送り、用具入れの周囲に人を近づけないよう手配した。清掃の手順も変え、この壁を拭いたり押したりしないことを、ほかの担当者へ伝えることになった。

 律が廊下の図を整えていると、岳がその端へ文字を書いた。

 診察受付。

「このビル、前は病院だったんですか」

 藤井は管理人に尋ねた。二人とも、少なくとも今は事務所しか入っていないことは知っていたが、昔の用途まではその場で言い切れなかった。

「資料を調べます。わかったら、お二人にも伝えます」

 律は、案内板の文字と矢印の向きを記録した。

 あの案内は、人を外へ導いてはくれなかった。どこか別の場所では、正しい案内だったのかもしれない。今はまだ、それも確かめる必要のある考えにすぎなかった。

 車へ戻ると、岳は赤い作業灯の汚れを拭いた。

「消してくれって言われたとき、なるほどと思った」

「僕らが置いたって、言うだけじゃ足りなかったんだね」

「ずっと案内を信じて歩いてた人だからな」

 律は今日の記録に、一行書き足した。

 吉野さん本人が、灯りの操作を見て確認した。

 それは、二人だけでは思いつかなかった帰り方だった。

 岳が作業灯を、いつもの道具箱へ戻す。律は雨戸修理の領収書の控えと、白川ビルの記録を別々の封筒に入れた。

 同じ一日に、ずいぶん違う二つの仕事をした。それでも、確かめたことを残すところは、どちらも変わらなかった。


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