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帰り道の修理屋  作者: 130


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第二話 開けない戸の調べ方

 三日後の朝、岳は事務所の机に、二枚のアルミ板を立て掛けた。


 佐伯を運び出すために、穴の上へ渡した板だ。端に深い擦り傷が付いている。


「これ、次の仕事には使わない。曲がってないか、ちゃんと見てもらってから」


 律は頷き、道具の一覧に使用保留と書いた。


 あの日の片付けは、ほとんど進まなかった。代わりに、二人の机には測った長さを書いた紙と、事故の説明を求める連絡が積み重なっていた。


 岳は椅子に腰を下ろし、律の描いた廊下の図を指で押さえた。


「聞いていいか」


「何を?」


「あの線。いつから見えてたんだ」


 律はペンを置いた。


「押し入れで見つけたときのことじゃない。今までにも、同じことがあったのか」


 救助の最中には、聞く余裕がなかった。戻ってからも、人に説明し、道具を片付けているうちに一日が終わった。


 律は机の上の図を見た。


「一番古いのは、小学校二年のとき」


「そんな前から?」


「体育館の用具室だった。壁に、戸みたいな四角い線が見えたんだ。すごく細くて、白っぽくて。壁の塗り直した跡だと思った」


 隣にいた同級生へ、その線を指して教えた。相手はどこを指しているのかわからず、壁に付いていたボールの汚れを指さした。


 律が見ていたのは、その汚れよりずっと大きな四角だった。


「開けたのか」


「開けてない。触る前に先生に呼ばれた。放課後にもう一度行ったけど、なかった」


「それからも?」


「駅の行き止まりで見たことがある。古い店の壁でも。覚えてるのは、十回もないと思う。次に通ると、だいたい消えてた」


 岳は図から手を離した。


「その向こうに、人がいたことは」


「ない。声も聞いてない。戸を開けて、向こうを見たのは、この前が初めてだよ」


 岳はしばらく黙っていた。


「なんで俺に言わなかったんだ」


 責める口調ではなかったが、律はすぐに答えられなかった。


「見えるって言っても、何を見てるのか、自分でもわからなかったから」


 白い四角が見える。ほかの人には見えない。翌日にはない。そこまで話したところで、何をしてほしいのかもわからなかった。


「変なものが見えるやつだって思われたくなかった。それに、仕事で役に立ったことなんか、一度もなかったし」


「この前は、役に立ったな」


 岳が言った。


「でも、俺はまだ驚いてる。お前に言われた場所を触ったら、本当に金具があった。板だと思ってたところが開いた。どう考えたって普通じゃない」


「うん」


「なぜ見えるかは、自分でもわからないんだな」


「わからない。いつも見えるわけでもない。目を凝らせば何でも見える、ってものでもない」


 岳は新しい紙を取り、最初に覚えていること、と書いた。その下へ、小学二年、体育館の用具室、と続ける。


「ほかの場所も、思い出せる範囲で書こう。日付がわからないなら、わからないでいい」


「信じるの?」


「用具室のことは、俺は見てない。でも、お前がそう覚えてることは書ける」


 岳は廊下の図を、その紙の隣へ置いた。


「こっちは俺も見た。そこは分けとこう」


 律は、少し息がしやすくなった。


     *


 藤井が事務所へ来たのは、そのあとだった。


 手にはアパートの図面と、会社からの依頼書を持っていた。


「佐伯から、お二人にお礼を言いたいと。電話でもよろしいですか」


 藤井が携帯電話を机に置いた。スピーカーから、あの日よりずっと落ち着いた佐伯の声が聞こえた。


『足首の捻挫だそうです。今は家で、なるべく動かないようにしています』


「骨は大丈夫だったんですね」


 律が言うと、佐伯は、はい、と答えた。


『それから、本当にすみませんでした。片付けを頼んだのに、あんなことまで』


「戻れてよかったです」


『あの、仕事の話じゃないんですが』


 佐伯は言いよどんだ。


『家でも、戸を開けるときに、一度止まるんです。ちゃんと床があるか、確かめたくなって』


 岳が、机の端を見た。


「俺も、昨日それをやりました」


 律は相棒を見た。岳は律には目を向けず、電話へ話した。


「急いで慣れなくても、いいんじゃないですか。今は足も痛いんだし」


 電話の向こうで、佐伯が小さく息を吐いた。


『そうですね。……ありがとうございます』


 通話が終わると、藤井は図面を広げた。


「今日は、もう一度あの部屋を確認していただきたくて来ました」


 警察は、三人から聞いたことと現場の状態を記録した。建物を調べた建築士は、壁や床に、別の廊下が隠れているような構造はないと確認した。隣室も、図面どおりの広さだった。


「調べられるところは、調べてくださっています。ただ、あの廊下を実際に見た人と、戸を開けた人に、もう一度見てもらいたいんです」


 藤井の指が、三〇二号室の押し入れを指した。


「私も佐伯も、そこへ人が入って、戻ってきたのを見ています。なかったことにはできません」


「今は、誰か入っていますか」


 岳が聞いた。


「貸し出しも片付けも止めています。会社が鍵を預かって、調査に入った人と時間も記録しています。勝手に入らないよう、担当者にも伝えてあります」


 律は図面を引き寄せた。


「見に行くくらいなら、今日でも」


 その言葉の途中で、岳が依頼書を律の前へ置いた。


「先に、何をする仕事なのか決めよう」


「中を調べて、もう安全か確認していただければと」


 藤井が言うと、岳は首を振った。


「そこまでは引き受けられません。戸がどうして出るのかも、消えたあとどうなるのかも、俺たちは知らないんです」


 藤井の表情が曇った。


「では、何ならお願いできますか」


 律は少し考えてから答えた。


「今、僕にあの線が見えるかどうか。部屋のどこに変化があるか。それを調べて、前の記録と比べることなら」


「俺は、床や建具の傷みを見ます。普通の修理で直せるものと、理由のわからないものを混ぜないようにします」


 岳が続けた。


「今日は戸を開けません。何かあっても、準備なしで向こうへ入らない。部屋の側から確認できる範囲だけです」


 律は依頼書の余白に、その条件を書いた。


 確認結果を残すこと。安全の保証はしないこと。変化があれば作業を止め、管理会社へ知らせること。


「何も見つからなくても、二人分の調査料はいただきます。それでもいいですか」


 岳が聞くと、藤井は頷いた。


「何も見つからなかった、という記録も必要です。今日見た人が、明日には別のことを言ってしまわないように」


 藤井は料金と作業時間を確認し、依頼書を会社へ送った。承認の返信が来てから、三人はアパートへ向かった。


     *


 三〇二号室は、三日前のままだった。


 食器棚も、二つの箪笥も残っている。佐伯を座らせた畳には、靴についた土が少し付いていた。


 藤井が入室の時刻を記録した。岳は部屋の入口から押し入れまで、足元に新しい傷や傾きがないか確かめた。


 律は押し入れの手前で立ち止まった。


「待って」


 二人が止まった。


 薄茶色の奥板に、細い四角があった。右端には、金属の引き手も見える。


 三日前、閉めたあとには消えていたものだ。


「戸が、また見える」


 藤井が息をのんだ。


「同じものですか」


「同じ位置に見えます。でも、向こうまで同じかどうかは、わかりません」


 律は手を伸ばしかけ、止めた。


 佐伯が偶然金具を動かしたときも、最初は、ただの物入れだと思ったはずだ。


 触れば開くかもしれない。開けば、何かがわかるかもしれない。


 岳は律の横に来たが、手首をつかんだりはしなかった。


「今日は、開けない約束だったな」


「うん」


 律は手を下ろした。


 三人で静かに耳を澄ました。奥から声も物音も聞こえなかった。ただ、それだけで中に何もないとは言えない。


 律は紙へ戸の形を描いた。岳が現実の壁の幅を測り、律の指す位置を図面に落としていく。奥板には触らず、押し入れの手前から確かめられる位置だけを記録した。


「俺には線も引き手も見えない」


「私にもです」


 岳と藤井が言い、律はそれも書き加えた。


 誰が何を見たかを分けておけば、あとで読み返しても、三人全員が戸を見たことにはならない。


 藤井が会社へ連絡した。律たちの確認が終わるまでもなく、貸し出しは引き続き止める、と返事が来た。


「帰る前に、普通の戸だけ閉めてもいいですか」


 藤井が押し入れの襖を指した。


 岳は、襖と布団が奥板に触れないことを確認した。律にも位置を見てもらってから、手前の襖をゆっくり閉めた。


「これは、奥に触れないためです。あの戸が出なくなるように直したわけじゃありません」


 岳が説明すると、藤井は頷いた。


 襖の前へ、会社が用意した立入禁止の表示を置く。異常を知らない作業員が、布団を引っ張ったり、奥板を押したりしないよう、入室する人へ記録を渡すことになった。


 調査はそこで終わった。


 誰も廊下へ入らず、何かを追い掛けることもなかった。それでも、三日前に戸が消えたからといって、この部屋を使ってよいとは限らないとわかった。


     *


 事務所へ戻ると、律は今日の結果をまとめた。


 午後一時二十二分。三〇二号室。押し入れの奥板。


 律には戸の輪郭と引き手が見えた。岳と藤井には見えなかった。接触も開閉もしていない。


 書いてから、原因、という見出しを作った。手が止まった。


「そこ、まだ書けないだろ」


 岳が言った。


 律は見出しを消さず、その下に、現時点では不明、と書いた。


「調べたら、もっとわかるかと思ってた」


「一度消えても、また見えることはわかった」


「この場所では、ね」


 岳が頷いたので、律はその言葉も記録に足した。


 仕事が終わったことと、全部がわかったことは、同じではなかった。


 藤井から、報告を受け取ったという連絡が来た。今回の費用は管理会社が支払い、今後の確認が必要になれば、改めて範囲と日程を相談したいという。


 律は返事を書く前に、岳を見た。


「また頼まれたら、引き受けたいと思ってる」


「どうして」


「あの戸を見たのに、説明できないからって、見なかったことにするのは嫌だ。でも、一人で開けて確かめるのも違うと思った」


 昔の用具室では、もう一度行って見えなくなったら、それで話が終わった。今は、何が見えたのか聞き、測って記録してくれる相手がいる。


「こういう調べ方なら、仕事にできるかもしれない。自分だけの、変な見間違いで済ませないで」


 岳は使用保留にしたアルミ板へ目を向けた。


「俺も、やる意味はあると思う。けど、調べる金で、命まで預けたことにはしないぞ」


「入るなら、別に考える」


「準備も、人数も、引き返す条件も。無理なら断る。お前が見えるからって、全部お前の責任じゃない」


 律は返事の文面を打った。


 次の確認についても、内容を伺ってからお見積もりします。


 送信する前に岳へ見せると、岳は、それでいい、と言った。


 机の隅には、翌日の仕事の伝票が置かれていた。商店街の店から頼まれた、雨戸の修理。こちらは二人とも、どの戸のことかわかっている。


 律はその伝票を岳へ渡した。


「工具、足りる?」


「もう一つ、あると便利なやつが」


「まず、あるもので考えて」


 岳はしばらく道具箱を眺め、しぶしぶ頷いた。


 律は、普通の仕事を入れる時間も、きちんと残しておくことにした。わからない戸を調べ続けるためにも、店を続けていかなければならなかった。


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