第二話 開けない戸の調べ方
三日後の朝、岳は事務所の机に、二枚のアルミ板を立て掛けた。
佐伯を運び出すために、穴の上へ渡した板だ。端に深い擦り傷が付いている。
「これ、次の仕事には使わない。曲がってないか、ちゃんと見てもらってから」
律は頷き、道具の一覧に使用保留と書いた。
あの日の片付けは、ほとんど進まなかった。代わりに、二人の机には測った長さを書いた紙と、事故の説明を求める連絡が積み重なっていた。
岳は椅子に腰を下ろし、律の描いた廊下の図を指で押さえた。
「聞いていいか」
「何を?」
「あの線。いつから見えてたんだ」
律はペンを置いた。
「押し入れで見つけたときのことじゃない。今までにも、同じことがあったのか」
救助の最中には、聞く余裕がなかった。戻ってからも、人に説明し、道具を片付けているうちに一日が終わった。
律は机の上の図を見た。
「一番古いのは、小学校二年のとき」
「そんな前から?」
「体育館の用具室だった。壁に、戸みたいな四角い線が見えたんだ。すごく細くて、白っぽくて。壁の塗り直した跡だと思った」
隣にいた同級生へ、その線を指して教えた。相手はどこを指しているのかわからず、壁に付いていたボールの汚れを指さした。
律が見ていたのは、その汚れよりずっと大きな四角だった。
「開けたのか」
「開けてない。触る前に先生に呼ばれた。放課後にもう一度行ったけど、なかった」
「それからも?」
「駅の行き止まりで見たことがある。古い店の壁でも。覚えてるのは、十回もないと思う。次に通ると、だいたい消えてた」
岳は図から手を離した。
「その向こうに、人がいたことは」
「ない。声も聞いてない。戸を開けて、向こうを見たのは、この前が初めてだよ」
岳はしばらく黙っていた。
「なんで俺に言わなかったんだ」
責める口調ではなかったが、律はすぐに答えられなかった。
「見えるって言っても、何を見てるのか、自分でもわからなかったから」
白い四角が見える。ほかの人には見えない。翌日にはない。そこまで話したところで、何をしてほしいのかもわからなかった。
「変なものが見えるやつだって思われたくなかった。それに、仕事で役に立ったことなんか、一度もなかったし」
「この前は、役に立ったな」
岳が言った。
「でも、俺はまだ驚いてる。お前に言われた場所を触ったら、本当に金具があった。板だと思ってたところが開いた。どう考えたって普通じゃない」
「うん」
「なぜ見えるかは、自分でもわからないんだな」
「わからない。いつも見えるわけでもない。目を凝らせば何でも見える、ってものでもない」
岳は新しい紙を取り、最初に覚えていること、と書いた。その下へ、小学二年、体育館の用具室、と続ける。
「ほかの場所も、思い出せる範囲で書こう。日付がわからないなら、わからないでいい」
「信じるの?」
「用具室のことは、俺は見てない。でも、お前がそう覚えてることは書ける」
岳は廊下の図を、その紙の隣へ置いた。
「こっちは俺も見た。そこは分けとこう」
律は、少し息がしやすくなった。
*
藤井が事務所へ来たのは、そのあとだった。
手にはアパートの図面と、会社からの依頼書を持っていた。
「佐伯から、お二人にお礼を言いたいと。電話でもよろしいですか」
藤井が携帯電話を机に置いた。スピーカーから、あの日よりずっと落ち着いた佐伯の声が聞こえた。
『足首の捻挫だそうです。今は家で、なるべく動かないようにしています』
「骨は大丈夫だったんですね」
律が言うと、佐伯は、はい、と答えた。
『それから、本当にすみませんでした。片付けを頼んだのに、あんなことまで』
「戻れてよかったです」
『あの、仕事の話じゃないんですが』
佐伯は言いよどんだ。
『家でも、戸を開けるときに、一度止まるんです。ちゃんと床があるか、確かめたくなって』
岳が、机の端を見た。
「俺も、昨日それをやりました」
律は相棒を見た。岳は律には目を向けず、電話へ話した。
「急いで慣れなくても、いいんじゃないですか。今は足も痛いんだし」
電話の向こうで、佐伯が小さく息を吐いた。
『そうですね。……ありがとうございます』
通話が終わると、藤井は図面を広げた。
「今日は、もう一度あの部屋を確認していただきたくて来ました」
警察は、三人から聞いたことと現場の状態を記録した。建物を調べた建築士は、壁や床に、別の廊下が隠れているような構造はないと確認した。隣室も、図面どおりの広さだった。
「調べられるところは、調べてくださっています。ただ、あの廊下を実際に見た人と、戸を開けた人に、もう一度見てもらいたいんです」
藤井の指が、三〇二号室の押し入れを指した。
「私も佐伯も、そこへ人が入って、戻ってきたのを見ています。なかったことにはできません」
「今は、誰か入っていますか」
岳が聞いた。
「貸し出しも片付けも止めています。会社が鍵を預かって、調査に入った人と時間も記録しています。勝手に入らないよう、担当者にも伝えてあります」
律は図面を引き寄せた。
「見に行くくらいなら、今日でも」
その言葉の途中で、岳が依頼書を律の前へ置いた。
「先に、何をする仕事なのか決めよう」
「中を調べて、もう安全か確認していただければと」
藤井が言うと、岳は首を振った。
「そこまでは引き受けられません。戸がどうして出るのかも、消えたあとどうなるのかも、俺たちは知らないんです」
藤井の表情が曇った。
「では、何ならお願いできますか」
律は少し考えてから答えた。
「今、僕にあの線が見えるかどうか。部屋のどこに変化があるか。それを調べて、前の記録と比べることなら」
「俺は、床や建具の傷みを見ます。普通の修理で直せるものと、理由のわからないものを混ぜないようにします」
岳が続けた。
「今日は戸を開けません。何かあっても、準備なしで向こうへ入らない。部屋の側から確認できる範囲だけです」
律は依頼書の余白に、その条件を書いた。
確認結果を残すこと。安全の保証はしないこと。変化があれば作業を止め、管理会社へ知らせること。
「何も見つからなくても、二人分の調査料はいただきます。それでもいいですか」
岳が聞くと、藤井は頷いた。
「何も見つからなかった、という記録も必要です。今日見た人が、明日には別のことを言ってしまわないように」
藤井は料金と作業時間を確認し、依頼書を会社へ送った。承認の返信が来てから、三人はアパートへ向かった。
*
三〇二号室は、三日前のままだった。
食器棚も、二つの箪笥も残っている。佐伯を座らせた畳には、靴についた土が少し付いていた。
藤井が入室の時刻を記録した。岳は部屋の入口から押し入れまで、足元に新しい傷や傾きがないか確かめた。
律は押し入れの手前で立ち止まった。
「待って」
二人が止まった。
薄茶色の奥板に、細い四角があった。右端には、金属の引き手も見える。
三日前、閉めたあとには消えていたものだ。
「戸が、また見える」
藤井が息をのんだ。
「同じものですか」
「同じ位置に見えます。でも、向こうまで同じかどうかは、わかりません」
律は手を伸ばしかけ、止めた。
佐伯が偶然金具を動かしたときも、最初は、ただの物入れだと思ったはずだ。
触れば開くかもしれない。開けば、何かがわかるかもしれない。
岳は律の横に来たが、手首をつかんだりはしなかった。
「今日は、開けない約束だったな」
「うん」
律は手を下ろした。
三人で静かに耳を澄ました。奥から声も物音も聞こえなかった。ただ、それだけで中に何もないとは言えない。
律は紙へ戸の形を描いた。岳が現実の壁の幅を測り、律の指す位置を図面に落としていく。奥板には触らず、押し入れの手前から確かめられる位置だけを記録した。
「俺には線も引き手も見えない」
「私にもです」
岳と藤井が言い、律はそれも書き加えた。
誰が何を見たかを分けておけば、あとで読み返しても、三人全員が戸を見たことにはならない。
藤井が会社へ連絡した。律たちの確認が終わるまでもなく、貸し出しは引き続き止める、と返事が来た。
「帰る前に、普通の戸だけ閉めてもいいですか」
藤井が押し入れの襖を指した。
岳は、襖と布団が奥板に触れないことを確認した。律にも位置を見てもらってから、手前の襖をゆっくり閉めた。
「これは、奥に触れないためです。あの戸が出なくなるように直したわけじゃありません」
岳が説明すると、藤井は頷いた。
襖の前へ、会社が用意した立入禁止の表示を置く。異常を知らない作業員が、布団を引っ張ったり、奥板を押したりしないよう、入室する人へ記録を渡すことになった。
調査はそこで終わった。
誰も廊下へ入らず、何かを追い掛けることもなかった。それでも、三日前に戸が消えたからといって、この部屋を使ってよいとは限らないとわかった。
*
事務所へ戻ると、律は今日の結果をまとめた。
午後一時二十二分。三〇二号室。押し入れの奥板。
律には戸の輪郭と引き手が見えた。岳と藤井には見えなかった。接触も開閉もしていない。
書いてから、原因、という見出しを作った。手が止まった。
「そこ、まだ書けないだろ」
岳が言った。
律は見出しを消さず、その下に、現時点では不明、と書いた。
「調べたら、もっとわかるかと思ってた」
「一度消えても、また見えることはわかった」
「この場所では、ね」
岳が頷いたので、律はその言葉も記録に足した。
仕事が終わったことと、全部がわかったことは、同じではなかった。
藤井から、報告を受け取ったという連絡が来た。今回の費用は管理会社が支払い、今後の確認が必要になれば、改めて範囲と日程を相談したいという。
律は返事を書く前に、岳を見た。
「また頼まれたら、引き受けたいと思ってる」
「どうして」
「あの戸を見たのに、説明できないからって、見なかったことにするのは嫌だ。でも、一人で開けて確かめるのも違うと思った」
昔の用具室では、もう一度行って見えなくなったら、それで話が終わった。今は、何が見えたのか聞き、測って記録してくれる相手がいる。
「こういう調べ方なら、仕事にできるかもしれない。自分だけの、変な見間違いで済ませないで」
岳は使用保留にしたアルミ板へ目を向けた。
「俺も、やる意味はあると思う。けど、調べる金で、命まで預けたことにはしないぞ」
「入るなら、別に考える」
「準備も、人数も、引き返す条件も。無理なら断る。お前が見えるからって、全部お前の責任じゃない」
律は返事の文面を打った。
次の確認についても、内容を伺ってからお見積もりします。
送信する前に岳へ見せると、岳は、それでいい、と言った。
机の隅には、翌日の仕事の伝票が置かれていた。商店街の店から頼まれた、雨戸の修理。こちらは二人とも、どの戸のことかわかっている。
律はその伝票を岳へ渡した。
「工具、足りる?」
「もう一つ、あると便利なやつが」
「まず、あるもので考えて」
岳はしばらく道具箱を眺め、しぶしぶ頷いた。
律は、普通の仕事を入れる時間も、きちんと残しておくことにした。わからない戸を調べ続けるためにも、店を続けていかなければならなかった。




