第一話 見積書にない廊下
午前九時、律と岳は、古いアパートの三階で食器棚を見上げていた。
二人で営んでいる便利屋の、今日の仕事は退去後の片付けだった。住人が引っ越したあとに残された家具を運び出し、部屋を掃除する。依頼してきたのは、このアパートを管理している会社だ。
「この棚も、お願いできますか。見積もりを取ったあとで、残すものが増えてしまって」
管理会社の藤井が、申し訳なさそうに言った。
律は普段、依頼の聞き取りや見積もりを受け持っている。細かい傷や汚れにはよく気づくのに、困った顔をされると断るのが苦手だった。
「一台くらいなら、ついでに」
「一台分、追加でお願いします」
横から岳が言った。
家具の搬出や建具の修理は、相棒の岳の得意分野だ。重い物を持つだけでなく、どう動かせば人も部屋も傷つけずに済むかを考える。料金にも律よりずっと厳しい。
「皿を出して、扉を外して、三階から下ろすんです。ついでに終わる量じゃない」
「そうですよね。お願いします」
藤井が頷いたので、律は見積書へ一行書き加えた。
岳は道具箱を開け、小さな機械を取り出した。
「それ、前から持ってた?」
「新しい距離計。壁までの長さを測るやつ」
「また買ったの」
「前のは屋外向きなんだよ」
工具の代金を払うのも、同じ店の財布だ。律が何か言う前に、岳は機械をポケットへしまった。
「先に作業しよう」
律は苦笑して、六畳間へ入った。
玄関から短い廊下を進んだ先の、家具の少ない部屋だった。奥の壁には押し入れがあり、襖が半分開いている。中には、紐でまとめた布団が残っていた。
「そういえば、佐伯が先に来ているはずなんですが」
藤井が部屋を見回した。
「同じ会社の者です。水回りと残置物を確認すると言っていて」
台所にも浴室にも、人はいなかった。藤井が携帯電話で呼び出すと、押し入れの中から着信音がした。
「携帯を置いていったのかな」
律が布団を手前へ引いたとき、板を叩く音がした。
「誰か、そこにいますか」
男の声だった。
「佐伯さん?」
「藤井さん? 出られないんです。足を痛めて」
声は、押し入れの奥板の向こうから聞こえていた。
律は奥板を見つめた。薄茶色の板の上に、細い四角い線が見える。その右端には、小さな金属の引き手があった。
「ここ、戸になってる」
「どこが?」
岳が律の肩越しにのぞき込んだ。
「ただの板だろ」
藤井も首を振った。二人には、線も引き手も見えていなかった。
律には、時々こういう線が見える。どうして自分だけに見えるのか、本人にもわからない。けれど今回は、その向こうに人がいる。
律は引き手へ手を伸ばした。指先に、金属の冷たさが触れた。
「見えないだけで、触れるものはある」
岳の手をその位置へ導くと、岳も引き手をつかめた。
「本当だ」
二人で左へ引いた。奥板の一部が、引き戸のように横へ滑った。
幅八十センチほどの入口が開いた。
その向こうに、廊下があった。
「今は、見える?」
律が聞くと、岳は頷いた。藤井も、開いた入口を見たまま動かなかった。
閉じている戸を見分けられたのは律だけだった。だが、開いたあとの入口と、その先の廊下は、三人とも見ることができた。
廊下はまっすぐ四メートルほど続き、突き当たりで終わっていた。天井には古い蛍光灯が点いている。奥の床に、灰色の作業着を着た男が座っていた。
入口のすぐ先にも床はある。そこから一メートルほど進んだところで、床が途切れていた。
床のない部分は、さらに一メートルほど続く。佐伯はその穴を挟んだ、向こう側の床にいた。こちらへ戻ろうとしても、穴を越えられないのだ。
「この壁の向こうは、隣の部屋です」
藤井がかすれた声で言った。
「こんな廊下、あるはずがないんです」
律にも、なぜこんな場所があるのかはわからなかった。
「佐伯さん。どうやって、そこへ入ったんですか」
岳が声を掛けた。
「布団が、奥の何かに引っかかって。引っ張ったら板が動いたんです。裏に収納があるのかと思って、のぞいたら」
佐伯は、床にあいた穴を指した。
「入ったときは、あそこにも床があったんです。踏んだら抜けて、向こうへよろけて。足をひねってしまって」
佐伯も、閉じた戸を見つけたわけではなかった。布団に引っかかった金具が偶然戸を動かし、開いた入口から入ってしまったのだ。
そのあと戸は閉まり、携帯電話も手の届かないところへ落ちた。こちらからの着信音が聞こえて、ようやく人を呼べたらしい。
「穴、一メートルくらいだ。俺が向こうへ跳べば」
律が言いかけると、岳が腕をつかんだ。
「跳んだあと、足の痛い人を抱えて戻れるか?」
律は黙った。
「助ける人数に俺たちも入れろ」
岳は手を放すと、藤井に救急車を呼んでもらった。足を痛めた人がいて、床が抜けて近づけないこと。場所は三〇二号室の押し入れの奥だということ。説明しづらくても、見えていることをそのまま伝えてほしいと頼んだ。
「こういう場所、知ってるのか」
律が小声で聞くと、岳は首を振った。
「知らない。だからまず、どこに足を置けるのか調べる」
岳が距離計を使い、入口から穴までの長さと、穴の向こう側までの長さを測った。律は紙に簡単な図を描く。入口、手前の床、穴、奥の床、佐伯。その順に、見えているものを書いていった。
調べている途中で、穴の縁に残っていた木の床板が一枚落ちた。
下から音は返ってこなかった。
「下がどこまで続いてるか、見えない」
律が言うと、岳は穴をのぞき込まずに頷いた。
「落ちない道を作ろう」
穴の両側には、コンクリートの床が残っていた。木の床板が落ちても、コンクリートの縁と壁の位置は変わっていない。岳は何度か測り直し、律にも、図と見比べながら変化を見ていてほしいと言った。
「今のところ、動いてない」
「今のところ、な。動いたら教えてくれ」
岳は車から、家具の運搬に使う二枚の長いアルミ板と、低い台車を持ってきた。板は段差に渡して台車を通すためのものだ。穴より十分に長く、両端をコンクリートの床に載せられる。
「これで橋にする。佐伯さんには、台車に座ってもらおう」
岳は、押し入れの外に運搬用の固定器具を据えた。自分の腰に着けたベルトと、太いロープでつなぐ。
「足場が抜けたときのため。これがあるから平気ってわけじゃないぞ」
律に言ってから、岳は入口すぐ先の床を確かめた。板を置いて押し、体重を少しずつ移してみる。床が割れたり沈んだりしないのを確認してから、初めて廊下へ一歩入った。
何も起こらなかった。閉じている戸を見つけることはできなくても、開いた入口を通ることはできる。
岳は手前の床からアルミ板を差し出し、穴の向こうの床へ渡した。二枚を並べ、互いにずれないように留めると、台車が通れる幅の橋になった。あとで部屋から引き戻せるよう、板の手前端には回収用のロープも結んでおいた。
入口から橋までの短い床は残っている。橋の先には、佐伯のいる床がある。戻る順番も、同じ道を逆にたどるだけだ。
岳は橋を強く押して、両端が外れないか確かめた。
「怖くないの」
律が聞くと、岳は振り向かずに答えた。
「怖い。だから、確かめてる」
岳が台車を押してゆっくり橋を渡り、佐伯の横へしゃがんだ。
律は入口で、床と橋を見張った。今のところ、どちらも動いていない。藤井は救急への電話をつないだまま、佐伯が受け答えできていることを伝えていた。
岳が佐伯の身体を支え、低い台車へ座ってもらった。痛めた足をぶつけない位置に置き、身体がずり落ちないよう運搬用のベルトを添える。
そのとき、律の右側で板が擦れた。
さっき開けた戸が、ひとりでに右へ戻り始めていた。
開いていた入口が、少しずつ狭くなっている。
「岳、戸が閉まる」
律は引き手をつかんで、左へ引いた。戸は止まった。力を緩めると、また閉まる方へ動く。
橋は廊下の中にある。この戸が閉じれば、橋を渡って戻ってきても、最後に部屋へ出られなくなる。内側から開け直せるのかどうかも、まだわからない。
「俺が持ってる間に、戻って」
「頼む。無理になりそうなら、先に言ってくれ」
岳は台車を橋へ載せ、自分は後ろで支えながら、少しずつ進んだ。
佐伯が穴を見下ろした。
「前を見ていてください。もう、そっちへ動きます」
岳の声に、佐伯が顔を上げた。律と目が合った。律は頷き、戸を握り直した。
手に力を入れている間は、戸は閉まらない。律にはこの廊下の正体はわからなかったが、それだけは今、自分で確かめられていた。
台車が橋を渡り終えた。
岳が手前の床まで押してくる。藤井が入口から手を伸ばし、佐伯の肩を支えた。岳と藤井で身体を持ち上げ、押し入れの外の畳へ移す。
佐伯が部屋へ戻った。
「岳も」
律が言うと、岳は頷いた。穴を越えたのを確かめてから、最後に入口をくぐった。
岳の足が畳を踏んだのを見て、律はようやく息を吐いた。
律が戸を支えている間に、岳は部屋側から台車と身体を支えていたロープを回収した。最後に、板へ結んでおいた回収用のロープを引く。橋にしたアルミ板も、入口を通って部屋へ戻ってきた。もう中へ入り直す必要はなかった。
「全員、こっちだな」
岳が確認した。
藤井が頷き、佐伯も畳の上で頭を下げた。
律は引き手を少しずつ放した。戸は横へ滑り、最後まで閉まった。
線も引き手も消え、押し入れの奥には、薄茶色の板だけが残った。
*
到着した救急隊に佐伯を引き継ぐと、律と岳は、ようやく腰を下ろせた。
佐伯は歩けなかったが、意識ははっきりしていた。病院で足を診てもらうことになり、担架に乗る前に何度も礼を言った。
二人は藤井に頼んで、隣の部屋の間取りを確かめた。やはり、さっきの廊下が入る場所はなかった。
「戸は消えたみたいです。でも、もう大丈夫とは言えません」
律が伝えると、藤井は三〇二号室を使わせないよう、会社へ連絡した。
救急隊から連絡を受けて来た警察官には、三人で見たことを説明した。律の描いた図と、岳の測った長さも渡した。わからないことを聞かれたときは、わからないと答えるしかなかった。
午後になって、今日の片付けは中止になった。
「作業の途中なのに、すみません」
藤井が言った。
「いえ。佐伯さんが戻れて、よかったです」
律が道具箱を持ち上げると、掌が少し痛んだ。引き手を握っていた跡が、赤く残っている。
「追加の費用も、出してください。会社には私から説明します」
藤井に言われ、律は朝の見積書を開いた。
家具搬出。清掃。
その下には、追加した食器棚の一行がある。
「さっきの仕事って、何て書けばいいんだろう」
「やったことを書けばいい」
岳が道具を数えながら答えた。
「中を調べた。足場を作った。佐伯さんを運び出した。少なくとも、その分は仕事をしてる」
律は頷いた。怖い目に遭った人から金を取るのではない。この建物を預かる会社へ、頼まれた現場で行った作業を報告する。その費用の話だった。
「あの距離計、役に立ったね」
「だろ」
「でも次は、買う前に相談して」
岳は目をそらした。
帰り際、藤井が玄関の戸を開けようとして、つかえた。下駄箱の扉が少し垂れ、角がぶつかっていた。朝から引っ掛かっていたのを、今になって律は思い出した。
近くにあったドライバーを拾うと、岳が手を伸ばした。
「それ、俺の担当だろ」
律は柄を渡した。
代わりに見積書へ、下駄箱の扉の調整、と書き足す。
今度は、直す前に値段を伝えた。




