第67話 ラナの手
祭りの音が、遠くで、聞こえていた。
夜の農地は、静かだった。月が、出ている。水路の、水音が、絶え間なく、響いていた。
ラナと、俺は、農地の端に、並んで、立っていた。
◇
「前に……話すって、言っていたことを。今、言う」
ラナが、口を、開いた。
「聞かせて、ください」
ラナは、月明かりの畑を、見つめながら、ゆっくりと、話し始めた。
「お前は……最初から、変だった。村に来て、すぐに、土を、触って。何かを、確認して。誰にも、信じてもらえないのに、諦めなかった」
その声は、低かった。
「俺は、思っていた。どうせ、こいつも、すぐに、帰る、と。貴族の三男坊が、こんな、死にかけの村で、長く、もつわけがない。そう、思っていた」
◇
ラナが、俺の方を、向いた。
「でも――お前は、帰らなかった」
その目は、まっすぐ、俺を、見ていた。
「農業が、失敗しそうな時も。病害虫で、畑が、枯れた時も。グライが、村ごと、買い取ろうとした時も。ヴィンスが、管轄を、奪おうとした時も。――俺は、何度も、思った。『今度こそ、こいつは、去るだろう』と」
ラナの声が、少し、震えた。
「でも、お前は……いつも、農地に、いた。土に、手を、当てていた。何度、見ても、お前は、ここに、いた」
◇
しばらく、沈黙が、あった。
水路の音だけが、聞こえていた。
そして、ラナが、言った。
「……あんた、ここに、来て、よかったな」
その瞬間。
ラナの手が、俺の手を、握った。
老いた、農業で、節くれ立った、荒れた手だった。五十年、土と、生きてきた手。何度も、裏切られて、何度も、諦めて、それでも、土を、離さなかった手。
その手が、俺の手を、強く、握っていた。
俺は――返す言葉を、失った。
◇
胸の奥が、熱くなった。目の縁が、潤むのを、感じた。
前世で、できなかったこと。
変えられなかった、農村。離農していった、農家の、背中。「先生が、もう少し、早く来てくれたら」と、言われた言葉。二十二年間、積み重ねてきた、無力感と、後悔。最後の日も、診断の、途中で、土の上に、倒れた。
あの、すべての、やりきれなさが――。
今、この、握られた手の中に、収まった気が、した。
ここで、できた。
前世で、できなかったことが――この村で、できた。
◇
俺は、何も、言わなかった。
言葉は、いらなかった。
ただ、ラナの手を、握り返した。
それだけが、答えだった。
◇
祭りの音が、遠くで、している。
ラナが、先に、農地から、戻っていった。その背中は、来た時より、少しだけ、軽く見えた。
俺は、しばらく、農地の端に、立っていた。
水路の音が、聞こえる。星が、出ている。風が、麦の切り株を、渡っていく。
ここが、俺の、場所だ。
初めて――迷いなく、そう、思えた。




