第50話 視察の準備と、静かな覚悟
辺境伯の、視察まで、あと、わずかだった。
「何か、特別なことを、しますか」
ミリアが、聞いてきた。
「しません」
俺は、答えた。
「いつも通りで、いいです」
ミリアが、意外そうな顔をした。
「特別に、見せようとしたものは、すぐに、見抜かれます。取り繕った畑は、土を触れば、分かる。経験のある人間ほど、そうです。だから――いつもの、ダールムを、見てもらう。それが、一番、強い」
◇
準備として、やったのは、一つだけ。
農業記録帳を、一年分、通して、読めるように、整理した。
アナが、積み上がった記録帳を、見て、改めて、言った。
「これ、全部……記録が、あるんですね。毎日の」
「これが、証拠書類に、なります」
俺は、言った。
「言葉は、いくらでも、飾れる。でも、毎日の記録は、飾れない。一日も、欠かさず、つけてきた。それが、この村の、本当の姿です」
◇
住民にも、説明した。
「辺境伯が来たら、質問されたことに、正直に、答えてください。聞かれていないことは、無理に、言わなくていい。ただし――嘘だけは、つかないでください」
ラナが、落ち着かない様子で、言った。
「辺境伯に、話したことなんて……ないな」
緊張しているのが、分かった。村で、最も、肝の据わった女が、だ。
「ラナさんが、話すことは、何でも、重みが、あります」
俺は、言った。
「二十年、この土地を、見てきた人の言葉です。どんな、報告書より、重い」
ラナは、しばらく、黙ってから、小さく、言った。
「……そうか」
そして、少し、背筋を、伸ばした。
◇
ミリアが、ぽつりと、言った。
「『いつも通り』って……それが、一番、難しいですね」
「そうですね」
俺は、笑った。
「でも、皆さんは、もう、十分、いつも通りに、農業を、やれています。それを、見せるだけです」
◇
その夜、俺は、一人、机に向かいながら、思っていた。
成果は、出ている。住民は、変わった。農業は、続いている。
これ以上、できることは、もう、ない。あとは、見てもらうだけだ。
前世では――一度も、こんな場まで、来られなかった。
俺の仕事は、いつも、途中で、終わった。畑を、見てもらう前に、評価される前に、次の現場へ、回された。最後の日も、診断の、途中だった。
でも、ここでは、違う。
最後まで、やり遂げた村を、見てもらえる。
◇
辺境伯が来る、前夜。
俺は、一人で、農地を、歩いた。
水路の、水音が、聞こえる。麦の種が、地面の中で、眠っている。空には、星が、出ていた。
この場所は、確かに、変わった。
俺は――ここが、好きだと、初めて、はっきり、思った。




