第3話 村に来た、土を知る男
本作は全70話で完結予定です。
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村に入ると、人の気配が逃げていった。
家の前にいた老人が、俺たちを見るなり戸の奥へ消える。井戸端にいた女が、桶を抱えて足早に去る。歓迎されていない。それは分かりきっていた。よそ者の貴族など、この村にとっては「また何か奪いに来た者」でしかない。
そんな中で、たった一人、逃げない人間がいた。
村はずれの畑で、腰の曲がった老婆が、黙々と土を打っていた。鍬を振る手つきは、若い者よりよほど確かだった。
――この人だ。
俺は馬を降りた。ウォルトが先に進み出て、声を張る。
「レイム・オルドラント様が、ダールム分領の管理者として着任された。村の者は――」
「またお偉いさんかい」
老婆は振り返りもせずに言った。
「どうせ、すぐ帰るんじゃろ。今までの連中と、同じようにな」
声に棘はなかった。ただ、長い年月をかけて固まった諦めが、そこにあった。ウォルトが言葉に詰まる。
俺はウォルトの肩に手を置いて、前に出た。そして老婆の返事を待たずに、畑に膝をついた。
土に、手のひらを当てる。
その瞬間、感覚が指先から流れ込んできた。乾き具合、水の含み方、栄養の偏り、土の中の小さな命の気配。土壌感知。前世の知識が、その感覚に意味を与えていく。
「……酸性に傾いてますね。窒素が足りない。同じ作物を、十年以上続けて植えてる。土の中の栄養が、すっかり偏ってます」
老婆の鍬が、止まった。
「雨だけに頼って、水の流れが安定してない。だから乾く年は一気に枯れる。このまま、あと二年か三年も同じことを続ければ――この畑は、本当に何も育たなくなります」
しんとした。
風が、枯れた畝の上を撫でていく。
老婆が、ゆっくりと振り返った。皺に埋もれた顔の中で、目だけが、妙に若かった。その目が、まっすぐに俺を見ていた。
「……あんた」
声が、少しかすれていた。
「土を触っただけで、そこまで分かるのか」
「分かります。これが、俺の仕事なので」
「仕事」
老婆は、その言葉を確かめるように繰り返した。それから、鍬を地面に突き立てて、腰を伸ばした。
「わしはラナだ。この村で、一番長く生きてる。一番長く、この土を見てきた」
「レイムです。よろしくお願いします、ラナさん」
俺が頭を下げると、ラナは奇妙なものを見るような顔をした。貴族が、農婦に頭を下げる。この世界では、ありえない光景なのだろう。
「あんた、変な貴族だな」
「よく言われます」
ラナはふん、と鼻を鳴らした。だが、その目から、最初の冷たさは消えていた。
「水路はな」ラナがぽつりと言った。「二十年前から、壊れたままだ。直そうとした者は、誰もおらん」
「水路ですか」
「川から水を引いてた。それが崩れて、それきりだ。あれがあった頃は、この畑はもっと――」
ラナは言いかけて、口をつぐんだ。昔の話をしても仕方ない、とでも言うように。
俺は崩れた畝の向こう、村の奥に目をやった。水路があったという方角だ。土を触ったときから、地面の下を流れる水の気配を、かすかに感じていた。水脈は、まだ生きている。
やることは、見えていた。土。水。種。順番にやればいい。急がず、確実に。
「ラナさん」
「なんだ」
「この村の畑を、全部見せてもらえませんか。一枚残らず」
ラナは、しばらく俺の顔を見つめていた。
そして、ぽつりと言った。
「……来い。全部、見せてやる」
それが、俺とラナの、最初の約束だった。




