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聖女じゃないです。清掃員の清城です。  作者: 荒瀬 維人


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第9話 城壁の向こうの臭気.txt

 臭気は、壁を越えてから本性を見せる。


 ガロに案内された先で、誠司は最初に風の高さを測った。


 王都の西壁に沿って続く細道は、途中から石畳が途切れ、踏み固められた土に変わっていた。片側は高い城壁、もう片側は粗末な板壁と布で継ぎ足した小屋が並ぶ。風は抜けるはずなのに、空気が重い。壁が日差しを遮り、洗い場も排水も足りず、湿気だけが低いところへ沈んでいる。


 鼻の奥へ刺さるのは、腐りかけた残飯の臭いだけではなかった。古い下水、濡れた藁、洗いきれない布、弱った身体の汗。その全部が薄く重なり、逃げ場を失って溜まっている。


「ひどいでしょう」


 リュシエンヌが小さく言った。神殿の回廊や孤児院の地下倉庫で嗅いだ瘴気とは、また違う。こちらは一箇所に凝っているのではなく、人の暮らし全体へ染み込んでいる。


「ひどい、で済めばまだましだ」


 ガロが前を向いたまま吐き捨てる。


「雨が降れば足元まで汚水が上がる。晴れりゃ乾いた臭いが舞う。咳は止まらねえし、子どもは腹を壊す。けど、城の連中からすりゃ壁のこっち側は見えねえ場所なんだとよ」


 声は荒いが、足は迷わなかった。見慣れた現場なのだろう。人をかき分けるたびに、住人たちが警戒の目を向ける。汚れより先に、神殿の外套が警戒を呼ぶ。


 誠司はそれを咎めなかった。見に来なかった側が、見られることを嫌がる資格はない。


 小屋の並びを抜けた先に、浅い溝があった。本来は雨水を逃がすためのものらしいが、今は灰色の泥が底へへばりつき、ところどころ黒い水が溜まっている。溝の脇には洗い桶が置かれ、少し離れた場所には炊き出し跡の灰が積まれていた。


 誠司はしゃがみ込み、泥の縁を指先で触れた。表面は乾いているのに、薄皮の下がぬるい。昨日今日の溜まりではない。上から細く流れ込み、乾き切る前に次が重なっている。


「洗い場と捨て場が近すぎますね」


「近くするしかねえんだよ」


 ガロが言う。


「水を運ぶだけで骨だ。離したら離したで、今度は持っていけずにそこらへんへ捨てる奴が出る」


「ええ。だから責める話ではありません」


 誠司は溝の傾きを見た。流れは西へ落ちるようで、途中の一箇所だけわずかに盛り上がっている。そこへ布くずと灰が引っかかり、汚水が脇へ滲んでいた。


「ただ、溜まる形になっている。少ない手間で崩せる場所があります」


 リュシエンヌがすぐに視線を巡らせた。


「傾きの切り替わるところ、ですか」


 誠司は頷いた。彼女の言葉に、ガロがちらりと横目を向ける。


「わかるようになってきたな、神殿さん」


「見えていなかっただけです」


 短い返答だったが、言い訳の響きはなかった。


 その時、小屋の陰から子どもの咳が聞こえた。細く、乾いた音が二つ続き、すぐに母親らしい女の低い声が重なる。誠司はそちらを見た。入口に吊られた布は裾が黒ずみ、内側の空気が動いていない。湿気と臭気が逃げず、寝床へ戻っている。


「ガロさん、ここで一番、水が溜まるのはどこです」


「朝なら共同洗い場だ。夜は壁際の溝。あと——」


 ガロは言いかけて、少しだけ眉を寄せた。


「井戸の脇が、最近おかしい。汲み上げた水まで臭う日がある」


 誠司とリュシエンヌの視線が重なる。


「案内してください」


 誠司が言うと、ガロは返事の代わりに歩き出した。


 共同井戸は、壁沿いの少し開けた場所にあった。石組み自体は古いが頑丈で、最近崩れた様子はない。だが周囲の土は踏み荒らされ、汲みこぼれた水が泥をこね、井戸枠のすぐ後ろには洗濯物をすすぐ桶が並んでいる。そのさらに奥、壁の陰に寄せるようにして簡易便槽が作られていた。


 誠司は息を止め、順に見た。


 井戸。洗い場。便槽。近すぎる。


 しかも壁際は日が当たりにくい。湿った土が乾かず、こぼれた汚水がしみ込み続ける。今は石枠の隙間に白い析出が浮き、底から上がる冷気にわずかな苦みが混じっていた。


「……まずいですね」


 リュシエンヌの声も低くなる。


「瘴気だけではありません。水そのものが傷み始めています」


「飲んだら腹をやられる、ってのはそういうことか」


 ガロの拳が鳴った。怒りを逃がすように、硬く握った指が骨を鳴らす。


「神殿も役人も、井戸は祝福して終わりだ。臭いが消えねえって言っても、祈祷を増やすだけだった」


「祈祷が無駄とは言いません」


 誠司は井戸枠へ手を置いた。


「でも、水が悪くなる順番は消えません。汚すものが近くにあって、逃がす流れがなくて、底へ染みる。そうなれば、清める前に止める場所がある」


「止めるって、どうやってだ」


「今日すぐ全部は変えられません」


 誠司は周囲を見回した。住人たちが遠巻きにこちらを窺っている。疑い、疲れ、諦め。そのどれもが混じっていた。


「ですが応急ならできます。井戸の周りを乾いた土と石で囲って、汲みこぼれをここへ落とさない。洗い桶は反対側へずらす。便槽には蓋を作る。溝の盛り上がりを崩して、壁際に溜めない」


「言うのは簡単だ」


 年嵩の女がひとり、前へ出てきた。腕の中で痩せた子どもが眠っている。


「誰がやるんだい。男手は日雇いに出るし、板も布も足りない。神殿は祈って帰る。あんたらもどうせそうだろ」


 刺のある言葉だった。だが、傷つけるための棘ではない。ただ、もう期待に使う力が残っていない声音だった。


 誠司は女の子どもを見た。唇が乾き、寝息が浅い。


「帰る前に、一本だけ流れを通します」


 そう言って立ち上がる。


「それで少し臭いが下がる。井戸の周りも今夜ぶんだけなら守れる。そのうえで、続きに必要な手間を話します」


 女はすぐには答えなかった。代わりにガロが前へ出る。


「聞いたろ。まず動くって言ってんだ」


 その声に、周囲の空気がわずかに動いた。粗暴だが、ここでは信用のある声なのだろう。


 誠司は溝の途中へ戻り、盛り上がった箇所に棒を差し込んだ。表面は泥だが、その下に木片が沈んでいる。さらに灰が水を吸って粘り、布くずが絡んで栓になっていた。第八話の排水口より浅いぶん、崩すだけなら早い。


「ガロさん、ここを押さえてください。浮いた泥を右へ逃がしたい」


「おう」


「リュシエンヌさんは、井戸の周りへ薄く膜を。跳ね返りを防ぎたい」


「できます」


 彼女は短く答え、すぐに杖を掲げた。淡い光が地面すれすれへ走り、石枠の周囲に透き通った膜が張る。派手ではない。だが、汚れを散らさないための正しい魔術だった。


 誠司は棒を捻り、泥の芯を外した。


 どろり、と黒い塊が崩れる。溜まっていた汚水が低い音を立てて走り、壁沿いの先へ流れていく。臭気が一度だけ濃く立ち上がったあと、風の通りが少し変わった。


「まだです」


 誠司は止まらず、次に灰を掻き分けた。灰は便利だが、水を吸えば溜まりを作る。便槽の脇に寄せられた灰袋まで湿っているのを見て、彼は舌打ちしそうになるのを飲み込んだ。


「灰は乾いた場所へ移してください。濡れると壁になります」


「壁?」


「水を止める壁です」


 住人の若者がふたり、顔を見合わせて動いた。女も子どもを抱いたまま、洗い桶を一つずつ引きずり始める。誰かが動けば、現場は少しだけ自分のものになる。


 十分ほどで、溝の流れは目に見えて変わった。黒い泡が減り、井戸脇の湿った臭いが一段薄くなる。劇的ではない。だが、悪化の向きは止まった。


 リュシエンヌが井戸を覗き込み、息を整えた。


「底の冷え方が変わりました。汚れの戻りが少し下がっています」


「今日はそれで十分です」


 誠司は周囲へ向き直った。


「今夜は井戸の脇で洗わないでください。汲みこぼれた水はここへ流さず、向こうの乾いた窪みへ。便槽には布でも板でもいい、必ず蓋をする。明日まで保てば、次を考えられます」


 住人たちは黙って聞いていた。拍手も礼もない。ただ、先ほどまでの拒む目つきが、少しだけ計算する目に変わっている。できるか、できないかではなく、どうやるかを測る目だ。


 ガロが鼻を鳴らした。


「祈って終わりじゃねえのは認める」


「終わらせないために来ました」


 誠司が言うと、ガロは初めて、はっきり笑った。短く、鋭い笑いだった。


 だがその直後、誠司の鼻先を別の臭いが掠めた。


 今しがた崩した溝の泥とは違う。もっと冷たい。石の腹の下で長く淀み、光のない場所で育った臭気だ。しかも、風上ではなく足元のさらに下から上がってくる。


 誠司は壁際の土を見た。溝の流れが戻ったせいで、逆に目立つ染みがある。細く黒ずんだ筋が、井戸の裏から城壁の基礎へ沿って伸びていた。


「……この下に、まだ何かありますね」


 ガロの表情が変わる。


「気づくかよ、そこ」


「臭いが浅くありません」


 誠司が答えると、ガロは壁の根元を顎で示した。


「昔の下水道だ。今は封じたって話になってる。だが雨のあとや、暑い日の夜になると、あそこからもっとひどい臭いが上がる」


 リュシエンヌが息を呑んだ。


「封じた下水道……」


「封じたなら、こんなふうには漏れません」


 誠司は黒ずみを見つめた。


 壁の向こうに溜まっているのではない。王都そのものの底で、まだ流れきっていないものがある。


 次に降りるべき場所は、足元の暗闇だった。

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それでは次回の更新をお楽しみに

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