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聖女じゃないです。清掃員の清城です。  作者: 荒瀬 維人


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第10話 下水道の暗闇

 暗い場所の臭いは、目より先に足を止める。


 翌朝、誠司たちは城壁際の黒ずみの起点を追って、古い下水道の入口へ立っていた。


 入口といっても、立派な石門ではない。壁沿いの倉庫跡の床板を外した先に、半ば埋もれるように口を開けた縦穴だった。周囲には使われなくなった樽や割れた木箱が積まれ、上から見ただけではただの廃材置き場にしか見えない。隠したいのか、忘れたいのか、その両方なのか。


 だが蓋代わりの板をずらした瞬間、下から上がってきた空気が答えを出した。


 冷たく、重い。腐った水に、古い石と鉄の錆が混じる。その奥に、舌の裏へ苦みを残す瘴気の臭いがあった。地上の溝や排水口で嗅ぐ臭いではない。長く閉じ込められ、逃げ場をなくした汚れの臭いだ。


「……昨日より濃いですね」


 リュシエンヌが口元を押さえる。


「日が上がる前のほうが、下の空気が上がってきます」


 誠司は縦穴の縁を確かめた。石は湿り、苔ではなく黒いぬめりがこびりついている。足を掛ける場所を間違えれば滑る。


「降りるなら、先に道を作りましょう」


「待て」


 ガロが腕を組んだ。


「俺は降りたことがある。昔、荷が一箱落ちてな。二十歩先で床が抜けてた。真っすぐ行けば死ぬ」


 乱暴な口調のまま、声だけが少し低い。見てきた危険の重みがあった。


「助かってよかったですね」


「運が良かっただけだ。だから今日は運じゃなく行く」


 そう言って、彼は倉庫の隅から古縄を持ってきた。昨日のうちに準備していたのだろう。ぶっきらぼうだが、現場へ来る気のある男は手が早い。


 誠司は縄の繊維を指で潰した。まだ使える。縦穴の脇の石柱へ回し、体重を預けても外れない位置で結ぶ。


「僕が先に光を入れます」


 リュシエンヌが杖を掲げた。白い球がひとつ生まれ、ゆっくりと穴の中へ降りていく。石壁をなぞるように落ちた光が、途中でいくつもの染みを浮かび上がらせた。茶色、灰色、黒。雨水だけではつかない色だ。


 底は、思ったより浅かった。だが着地した先に続く通路は、すぐ左右へ曲がり、光を飲み込む。


「行けます」


 誠司が言うと、ガロが鼻を鳴らした。


「そういう台詞は、降りてから言え」


 先に降りたのはガロだった。重量のある体で縄を使い、音を立てず底へ着く。次いで誠司、最後にリュシエンヌが光球を連れて降りる。


 靴底が床に触れた瞬間、誠司は眉をひそめた。


 水がない。いや、完全にないわけではないが、流れるべき場所に流れがない。通路の中央に浅い溝が走っているのに、その半分以上が粘つく泥で塞がれ、左右の端に黒い水たまりが点々と残っている。流路が死んでいる証拠だった。


「ひどいな」


 ガロが呟く。


「上の連中は封じたって言ってたが、ただ閉めただけじゃねえか」


「封じるのと、詰まらせるのは違います」


 誠司は壁を見た。継ぎ目の高さに細い白線が残っている。昔の水位だ。今よりずっと上にある。つまり、本来はここをもっと多くの水が流れ、淀まず押し流していた。


「流れを殺して、入口だけ隠した。だから沈殿が育ったんです」


 リュシエンヌが周囲の空気を探るように目を細める。


「瘴気が濃いのに、動きが鈍い。自然に発生しているというより、澱のように留まっています」


「溜まる理由があるんでしょう」


 誠司は通路の奥へ灯りを向けた。左の壁際だけ、ぬめりが厚い。右側は乾き気味だ。風が左から来ている。


「まず、風の向きを見ます。臭いは出口を知っている」


 ガロが肩をすくめた。


「相変わらず変なこと言うな」


「変でも、役に立てば十分です」


 通路を進むと、数歩先で床の石が一枚だけ沈み込んでいた。ガロの言った抜け床だ。周囲より色が濃く、縁に細かな亀裂が走っている。脇の壁には爪で掴んだような擦れ跡まで残り、過去に誰かがここで体勢を崩したことを無言で伝えていた。


「ここです。踏まないで」


 誠司が止めると、リュシエンヌはすぐに光球を低く寄せた。


 沈んだ石の下には空洞があった。黒い水がわずかに揺れ、深さが読めない。しかも空洞の縁からは、ぬるい風が上がっている。


「落ちたら引き上げにくいですね」


「ええ。先に印をつけましょう」


 誠司は倉庫から持ってきた白布を裂き、縄へ結んで穴の手前へ渡した。派手な標識ではないが、暗い場所では白がいちばん目に残る。


「こういうの、上でも増やせます」


 リュシエンヌが言う。


「危険箇所の目印を、現場ごとに統一したほうがいい」


「その通りです」


 誠司は短く頷いた。彼女はもう、浄化だけでなく管理の言葉で考え始めている。


 抜け床を避けてさらに奥へ進むと、通路は三叉に分かれた。中央は泥で埋まり、右は石が崩れ、左だけが辛うじて人ひとり通れる幅を残している。


 だが臭いは、左からだけではなかった。


 中央の埋まった水路の上にも、薄い靄のようなものが漂っている。光球が触れるたび、白がわずかに濁った。瘴気が水面ではなく泥の層そのものへ染みているのだ。


 誠司はその場にしゃがみ、床の泥を指先で擦った。表面は冷たいが、その下に微かな温みがある。上流から新しい汚水が来ている証拠だ。しかも温みは筋になって続いている。漫然と染みたのではなく、流れる道を持っている。


「塞がった古水路に、別の流れが混じっていますね」


「別の流れ?」


 ガロが問う。


「新しく使われている排水です。量は多くない。でも繰り返し来ている。だから底だけぬるい」


 リュシエンヌが壁に光を寄せ、息を呑んだ。


「見てください。削った跡があります」


 左の石壁に、不自然に新しい傷が走っていた。古い構造物の摩耗ではない。何か硬い器具で、継ぎ目の一部をこじ開けた痕だ。そこから細い黒水が糸のように滲み出ている。


「誰かが、こっそり流してるってことか」


 ガロの声に、怒気が混じる。


「封じた下水道へ捨てれば、地上からは見えませんから」


 誠司は傷口の下へ手桶を置いた。ぽたり、ぽたりと落ちる水滴は、薄い灰色をしていた。生活排水だけではない。灰汁か、洗浄液に近い匂いが混ざっている。


「上の区画ですか」


 リュシエンヌが低く言う。


「神殿か、役所か、あるいは——」


「今は断定しないでおきましょう」


 誠司は彼女の言葉を切った。


「ただ、偶然ではない。隠して流しているなら、止める場所が別にある」


 その時、通路の奥で、ぴちゃんと水音がした。


 三人とも言葉を止める。


 鼠ではない。小さすぎない。だが人の足音とも違う。水が狭いところを抜け、どこか深い場所へ落ちた音だ。


 誠司は光球を少し先へ飛ばした。左通路の先で、床の泥が途切れている。そこから先は石段になっており、さらに下へ続いていた。


 同時に、空気が変わる。


 冷たい。湿っている。しかも瘴気が濃いのに、ただ腐る臭いではない。水そのものが何かを含んで傷み始めた時の匂いだった。


「地下で、別の水と繋がっています」


 誠司が言うと、リュシエンヌの顔が強ばる。


「地下水脈……」


「だとしたら最悪だ」


 ガロが低く唸った。


「ここだけ掃除しても、下から戻るってことだろ」


「だから、下を見ます」


 誠司は石段を見つめた。


 地上の溝、壁際の井戸、隠された古下水道。線は一本に繋がり始めている。問題はもう、目に見える詰まりだけではなかった。


 誰かが捨て、誰かが隠し、誰も底までは降りなかった結果が、この暗闇で息をしている。


「今日は入口の危険箇所だけ印をつけて戻ります」


 誠司は言った。


「次は灯りと受け口を増やす。下の水を触るなら、準備なしでは駄目です」


 ガロが意外そうに眉を上げる。


「突っ込まねえのか」


「暗い場所ほど、急ぐと足場を間違えます」


 誠司が答えると、ガロは短く笑った。


「嫌いじゃねえよ、そういう臆病さ」


 リュシエンヌは石段の奥を見たまま、静かに息を吸った。


「下に流れているのが本当に地下水脈なら、王都全体へ回ります」


「ええ」


 誠司は頷く。


「だからこそ、ここで根を見失いたくない」


 誠司の言葉に、リュシエンヌはゆっくり頷いた。昨日までなら、濃い瘴気を前に術式の規模を考えていたはずだ。今の彼女は、どこで止まり、何を分け、何を記録するべきかを先に見ている。その変化は小さいようでいて、この暗い現場では灯りそのものだった。


 光球の白が、石段の下へ落ちていく。


 届かない。


 暗闇は、まだ底を見せなかった。

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