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聖女じゃないです。清掃員の清城です。  作者: 荒瀬 維人


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第8話 ガロの拳と排水溝の詰まり

 排水溝は、怒鳴る前に泡を吹く。


 第三排水路西口へ着くより早く、誠司はそれを鼻で知った。


 古い泥の臭いではない。腐った水に油と灰が混じり、そこへ乾ききらない布の湿気まで重なっている。喉の奥へ貼りつくような臭いだった。しかも流れが死んでいる臭いだ。ただ汚れているのではなく、どこかで詰まり、戻ってきている。


「急ぎましょう」


 リュシエンヌも顔をしかめた。孤児院で見た地下倉庫の重さとは質が違う。これは街の奥から運ばれてくる種類の汚れだ。


 西口は、王都の整った石畳が切れた先にあった。壁際の道は狭く、荷車がすれ違うたびに泥水が跳ねる。排水路の格子蓋の隙間から、黒ずんだ泡がぶくぶくと押し返していた。


 そして、その格子へ半ば体当たりするようにして棒を差し込み、詰まりをこじ開けようとしている男がいた。


 大柄だった。肩幅が広く、腕は縄のように太い。汗と泥にまみれた上着の袖を肘まで捲り、舌打ちしながら格子を蹴る。


「ちっ、まだ噛んでやがる。おい、そっち抑えろ! 流れが戻るぞ!」


 怒声に、近くの荷運びたちが慌てて木箱をどける。だが肝心の詰まりは動かない。格子の手前で押し戻された水が、小路の低いところへじわじわ広がっていた。


 誠司は足を止めなかった。


「棒、貸してください」


 男が振り向いた。鋭い目だった。誠司とリュシエンヌの服装を一瞥し、露骨に眉をひそめる。


「はあ? 神殿の連中が今さら何しに来た」


「喧嘩をしに来たわけではありません」


 リュシエンヌが言うより早く、誠司は格子の縁へしゃがみ込んだ。泡の出方を見る。左側だけ勢いが弱い。流れが中央で止まっているのではなく、少し奥で布か木片が引っかかり、その手前へ別のごみが重なって塊になっている。


「正面から突いても締まるだけです。右を少し浮かせてください」


「……見ただけで言うのかよ」


「泡の返り方が違うので」


 男は怪訝そうな顔をしたが、次の瞬間には棒を渡していた。仕事の現場では、疑うより早く試したほうが早い時がある。その手つきだった。


 誠司は棒の先を格子の右端から斜めに差し入れた。硬い感触のあとに、布のような柔らかさが引っかかる。さらに奥で、板切れの角。やはり一枚ものではない。


「そこです。今、左から叩けますか」


「おう」


 男はためらわず拳大の石で格子脇を打った。鈍い音がして、詰まりの層がわずかにずれた。


「もう一回」


「任せろ」


 次は拳だった。格子ごと壊しかねない荒っぽさだが、力の入れ方は意外に正確だ。衝撃で固まりが緩む。誠司は棒を捻り、引っかかった布を手前へ寄せた。


 ずるり、と黒い塊が顔を出す。


 濡れた麻布、藁、割れた木箱の板、油の染みた包装紙。その中に、白い紙片が何枚も混じっていた。金の縁取りが残っている。


 リュシエンヌが息を呑む。


「これ、祭具の包み紙です」


 誠司は頷いた。見覚えがあった。神殿の祭具庫で見たものと同じ紙質だ。水を吸って重くなり、布と絡んで栓になっている。


「やっぱり神殿絡みか」


 男が吐き捨てるように言った。


「上で捨てたもんが、どうせ下に流れてくる。いつものことだ」


 リュシエンヌの顔が強ばる。だが彼女は言い返さなかった。代わりに裾を押さえてしゃがみ込み、紙片を一枚拾い上げる。


「……認印があります。孤児院の箱に残っていたものと同じ印です」


「なら、なおさら今は片づけましょう」


 誠司は言った。


「証拠も、流れも、両方逃がしたくない」


 男がじろりと見た。


「口だけじゃねえな、おっさん」


「詰まりは待ってくれませんから」


 それだけ返し、誠司は次の動きを考えた。塊を抜いただけでは不十分だ。このまま流せば、奥の沈殿が一気に崩れて別の曲がりで詰まる。


「水を流し切る前に、ここで受けます。籠か網はありますか」


「荷運び用の縄籠ならある」


「借ります。あと、踏み板を二枚」


 男は舌打ちしたが、すぐに近くの若い運搬人へ怒鳴った。


「聞こえただろ! 籠と板だ。さっさと持ってこい!」


 手配が早い。荒っぽいが、人を動かす声だった。


 誠司は格子の周囲に板を渡して足場を作り、流れ出すごみを受ける位置へ籠を据えた。リュシエンヌには術で周囲の水を散らさないよう薄い膜を張ってもらう。前なら彼女はもっと大きな浄化を選んだだろう。だが今は、まず汚れを逃がさない補助を選んでいる。


「こちらで保持します。三十息ほどしかもちません」


「十分です。では、引きます」


 誠司が棒を捻ると、塊が一気に崩れた。


 ごぼ、と排水路が咳き込むような音を立てる。黒水が押し寄せ、籠へ布と紙片が流れ込んだ。男が横から格子を持ち上げ、さらに拳で縁を叩いて流れ道を開ける。


 次の瞬間、止まっていた水が一斉に走った。


 小路に溜まっていた泥水が、低い唸りとともに引いていく。泡の色が薄くなり、舌に残る苦みもわずかに軽くなった。


 周囲で見ていた荷運びたちが、おお、と息を吐く。


「流れた……」


「朝から何刻も噛んでたのによ」


 だが誠司はまだ棒を離さなかった。流れが戻った直後ほど、底に沈んでいたものが動く。今ここで手を止めれば、少し先でまた別の詰まりになる。


「喜ぶのはあとです。格子の脇に溜まった泥を掻き出します。長い柄の匙はありますか」


「まだやるのかよ」


「やります。いちばん汚れるのは、流れたあとです」


 男は一瞬だけ呆れた顔をしたが、すぐに荷運びのひとりから木匙をひったくって放った。誠司はそれを受け取り、格子の縁にへばりついた黒泥を掬い上げる。泥の中には細い骨、砕けた貝殻、蝋の塊まで混じっていた。


 リュシエンヌが眉を寄せる。


「排水へ流していいものではありませんね」


「だから詰まります」


 誠司は短く言った。あたりまえのことほど、現場では誰も拾わない。


 彼は泥の量と色を見た。表面だけの詰まりではない。ここしばらく、似た性質のごみが繰り返し流れてきている。祭具の包み紙、油、布、生活ごみ。誰かが一度に捨てたというより、日常的に下へ押し流してきた結果だ。


「この西口、掃除はどのくらいの間隔で」


 誠司が問うと、男は肩を竦めた。


「俺らが溢れそうになった時にやるだけだ。役所も神殿も、ここまでは滅多に来ねえ。来たとしても臭ぇ顔して帰る」


 その答えを聞き、リュシエンヌの指先がわずかに強ばった。だが彼女は言い訳を飲み込み、代わりに籠の中の紙片を一枚ずつ分け始める。汚染物、布、紙、木片。前なら浄化術でまとめて焼こうとしたかもしれない。今は記録と分類を先にしていた。


「誠司さん、こちらは乾かして保管します。認印の比較ができるかもしれません」


「お願いします。濡れたままだと崩れるので、板の上へ広げて」


「はい」


 男はそのやり取りを黙って見ていたが、やがて格子を下ろし、誠司を見た。


「神殿の連中は祈るだけかと思ってたが、あんたらは違うらしいな。臭ぇ泥を前にして、顔だけじゃなく手が動く」


「祈りを否定する気はありません。ただ、詰まりには先に触る場所があります」


 誠司がそう言うと、男は鼻で笑った。


「気に入った。俺はガロだ。運び屋をやってる」


 リュシエンヌが軽く会釈する。


「リュシエンヌ・アルトワです。王宮神殿の浄化官見習いです」


「見習い、ね。そっちのほうがまだ信用できる」


 言い方は刺がある。だが敵意一辺倒ではなくなっていた。


 誠司は籠の中のごみを見下ろした。神殿の包み紙に、下町の生活ごみ。別々の場所の汚れが、ここでひとつの塊になっていた。発生源はひとつではない。だが流れ着く場所は、たいてい決まっている。


「この先にも、同じ詰まりがありますか」


 問うと、ガロの顔から薄い笑いが消えた。


「あるどころじゃねえ」


 彼は顎で西の壁の向こうを示した。


「城壁際の外れまで行けば、こんなもん序の口だ。臭気が溜まって、人も咳き込んで、それでも誰も見に来ねえ場所がある」


 風向きが変わった。


 今の排水溝より、さらに古く湿った臭いが、壁の向こうからかすかに流れてくる。泥だけではない。乾ききらない寝藁と、人の暮らしが追いつめられた場所にだけ残る、酸えた息の気配が混じっていた。


 誠司はその方向を見た。


 次に片づけるべき現場は、もう鼻先まで来ていた。

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