第17話 街の大掃除
血の色は、噂になるには十分すぎた。
中央区の祭礼が終わる前に、誠司が石畳へ膝をついたことも。口元を押さえた布に赤が滲んだことも。神殿の見習い浄化官が青い顔で駆け寄り、ガロが人を怒鳴り散らして道を空けたことも。
半日もしないうちに、下町へ降りてきた話は三倍に膨らんでいた。
「中央区の排水溝が瘴気で煮えてたらしい」
「いや、清城が一人で蓋をこじ開けたんだと」
「神殿は何してたんだ」
雑な尾ひれはどうでもいい。
問題は、その話が人の怒りと一緒に広がっていることだった。
翌朝、誠司は寝台の上でその現実を思い知った。
喉の奥はまだ焼けるように痛い。胸も重い。だが熱は引き、息も昨日より深く吸える。リュシエンヌが持ち込んだ薬湯の匂いが、部屋の乾いた空気に苦く漂っていた。
「起きるつもりですか」
入口のそばで、リュシエンヌが腕を組む。声は平坦だが、目元だけがまったく平坦ではない。
「起きます」
「却下します」
「相談の形を取ってください」
「相談した結果、却下です」
きっぱり言い切られて、誠司は小さく息を吐いた。喉が痛む。
ベッド脇の椅子には、なぜかガロが座っていた。大男は誠司と目が合うと、露骨に嫌そうな顔で鼻を鳴らす。
「死にかけの面で起き上がるな。見てる方が縁起悪ぃ」
「お見舞いの言葉が雑すぎませんか」
「見舞いじゃねえ。確認だ。動けねえなら、今日の段取りを吐け」
それを聞いて、誠司は逆に身体を起こしたくなった。
「今日、何か起きてるんですか」
リュシエンヌとガロが一瞬だけ視線を交わす。その間が答えだった。
誠司は眉を寄せる。
「隠さないでください」
「隠しているわけではありません」
リュシエンヌは記録板を胸に抱え直し、淡々と告げた。
「中央区で昨日の件が広まりました。下町では“結局、裏を掃除しないと祭礼も保てない”という話が広がっています。今朝から市役所の前に人が集まっています」
「抗議ですか」
「半分はそれです。半分は……」
「掃除させろって連中だ」
ガロが続けた。
「昨日の流れを見てた商人や人夫が、うちの通りもやれって騒いでる。誰かがやるのを待ってりゃ、また詰まるってな」
誠司は数秒、言葉を失った。
怒りが先に立つのはわかる。だが、“自分たちで動く”の方へ傾くとは思っていなかった。
「……人は集まってるんですね」
「集まりすぎてる」
ガロは顔をしかめた。
「放っとくと、勝手なやり方で掘り返し始める馬鹿が出る」
「出ますね」
「出るな」
「出ます」
誠司が言うと、ガロは苦い顔のまま黙った。
掃除は正義に見えやすい。だからこそ危ない。順番を間違えれば、汚れを広げる。瘴気に触れる場所ならなおさらだ。
「行きます」
「却下です」
リュシエンヌの返答は早かった。
「現場へ行って倒れられたら、昨日以上に混乱します」
「でも、段取りをつける人がいないと」
「私が行きます」
即答だった。
誠司はまじまじと彼女を見る。リュシエンヌは視線を逸らさない。
「導線の管理、汚染物の隔離、作業区分、昨日教わったことは覚えています」
「覚えてるだけじゃ足りない現場もあります」
「だから確認に来たのです。あなたの口から、優先順位を聞きに」
少しだけ、胸の奥の重さが別の種類に変わった。
昨日までなら、彼女は“神殿の判断”を先に置いただろう。今は違う。必要なものを、自分で選んで取りに来ている。
「……わかりました」
誠司は掛布を膝へ引き寄せ、寝台の上に簡単な図を指で描いた。
「まず、子どもと年寄りは作業区画に入れない。次に、乾いたごみと濡れたごみを混ぜない。三つ目、人の流れとごみの流れを分ける。四つ目、臭いが濃い場所は開ける前に逃がし口を作る。最後に――」
「最後に?」
「善意を信用しすぎないことです。やる気のある人ほど、一気に全部片づけたがる」
ガロがふっと鼻で笑った。
「身に覚えがありすぎる言い方だな」
「昨日の自分への悪口です」
「違いねえ」
そこから一時間、誠司は寝台の上で指示を出し続けた。
市役所前の広場を受付と仕分け場所にすること。鍋場の裏、染物通り、南門脇の排水溝を優先すること。神殿の浄化官は先頭に立つのではなく、濃い場所の見極めと封鎖に回すこと。市役所には水桶と布の予備を出させること。
そして最後に、誠司はリュシエンヌへ告げた。
「“聖女の奇跡”みたいな言い方をする人がいたら、止めてください」
彼女は瞬きを一つした。
「あなたのことですか」
「俺でも、誰でもです。ああいう言い方は、手を動かす人間を減らす」
「……承知しました」
ガロとリュシエンヌが出ていったあと、誠司は窓辺へ歩いた。無理をすれば立てる程度には回復している。だが、走れる身体ではない。
通りの先から、人のざわめきが波みたいに押し寄せてくる。
昼前には、下町のあちこちで大掃除が始まった。
古びた桶を抱えた女たちが裏路地のぬめりを削り、店を閉めた職人が排水路の蓋を持ち上げ、子どもらは怒鳴られながら乾いた布を運ぶ。市役所の書記が泣きそうな顔で名簿を書き、神殿の見習いたちが濃い場所に白線を引いて立入禁止を告げる。
誰か一人の手柄ではない、雑で大きなうねりだった。
窓から見えるだけでも、街の色が違っていた。汚れはまだ多い。臭いも消えていない。それでも、“見て見ぬふりをする空気”だけは薄れている。
夕方、報告に戻ったリュシエンヌの頬は疲れていたが、目は妙に明るかった。
「南門脇の流れは確保できました。染物通りは半分まで。鍋場裏は、明日もう一度必要です」
「混乱は」
「ありました」
即答だった。
「ありましたが、抑えました。あなたの言ったとおり、“善意で全部やろうとする人”が一番危険でした」
ガロが後ろで肩をすくめる。
「あと、上の連中もな」
「上?」
「中央区から役人が来た」
その一言で、部屋の空気が少し冷えた。
「視察ですか」
「建前はな」
ガロは壁に寄りかかり、面倒そうに続ける。
「実際は、“誰の許可で住民を動かした”だの、“神殿の名を勝手に使うな”だの。まあ、要するに面子の話だ」
「それだけではありません」
リュシエンヌが低く挟んだ。
「中央区の一部では、“下町の汚れが中央へ逆流した”という言い方まで出ています。責任の置き場所を、先に決めたいのでしょう」
「汚れは、放っておいた場所に溜まるだけです」
誠司が言うと、彼女は静かにうなずいた。
「はい。ですが、そういう理屈で動く方々ばかりではありません」
誠司は目を閉じた。
来ると思っていた。来ないはずがない。
下町が自分で動き始めれば、困る人間が出る。神殿の権威を独占したい者。王城へ都合のいい報告だけを上げたい者。汚れがある方が、管理しやすい人間だっている。
「それで、どうなりました」
リュシエンヌは、ほんのわずかに口元を引き締めた。
「エルミナ様が、笑って引き取りました」
嫌な予感が、喉の奥の傷より先に痛んだ。
「笑って?」
「はい。“街が少しきれいになるのは良いことですわ”と」
その言い方は柔らかい。柔らかすぎる。
誠司は窓の外、夕暮れの下町を見た。人の手で削られた路地の水は、まだ濁っている。でも流れていた。
流れ始めたものは、もう前と同じ形には戻らない。
だからこそ、次に来るのはたぶん、汚れそのものより厄介だ。
エルミナの微笑みの向こうで、誰かが街の流れを止めようとしていた。
その夜、下町では遅くまで桶の音がしていた。
削る音。流す音。布を絞る音。疲れ切った息の混じる、妙に静かな熱気。祭りの喧騒とは違う。暮らしを持ち直そうとする音だった。
誠司は寝台へ戻りながら、ふと思う。
街をきれいにするのは、特別な誰かの奇跡じゃない。臭いに顔をしかめた人間が、明日もここで息をするために手を伸ばす、その積み重ねだ。
だが、その当たり前が広がるほど、奪われる立場の人間は焦る。
翌朝には、たぶん次の手が打たれる。
掃除に集まった民衆の手を、“秩序を乱す手”だと言い換える者が、必ず出てくる。
そしてその時、誠司たちは汚れだけではなく、もっと人の顔をした厄介なものと向き合うことになる。
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