第16話 誠司の選択
きれいに見える場所ほど、止めどころを間違える。
中央区の朝は、下町より早く白んで見えた。
石畳は磨かれ、看板は揃い、祭礼へ向けて張られた白布がまだ風の弱い空気に垂れている。だが誠司には、その白さの下に沈んだ濁りがよく見えた。水桶を洗ったあとの流し残し。屋台が入る前から湿っている荷捌き場の隅。香を焚く礼拝所の裏で、排気の抜け切らない小部屋。
表だけ整っている現場は、だいたい足元から腐る。
「まず表通りは後回しです」
中央区西の広場で、誠司は集められた面々を見回した。
神殿の浄化官が四人。市役所の清掃人夫が六人。下町から呼ばれた運搬手が三人。その中には、腕を組んだまま露骨に不機嫌なガロもいる。リュシエンヌは誠司の脇で記録板を抱えていた。視線は硬いが、もう戸惑いだけでは立っていない。
「祭礼で人が集まるのは昼からです。その前に、裏手の流れを整えます。給水所、荷捌き場、屋台裏、礼拝所の洗い場。この四つを先に片づける」
「表を後に回すのかよ」
ガロが鼻を鳴らす。
「貴族連中は見えるとこしか見ねえぞ」
「だからです」
誠司は中央通りではなく、その脇へ伸びる細い通路を指した。
「見えるところを先に磨くと、みんな安心して気を抜きます。そのあいだに裏で詰まった水が溢れる。今日は“きれいに見せる”ためじゃない。“祭礼が終わっても臭わない”ようにするための作業です」
何人かが顔を見合わせた。すぐに理解しきれなくてもいい。順番だけ通れば現場は動く。
誠司は続けた。
「浄化官は濃い場所を測って、印をつけてください。人夫は掻き出しと拭き取りを優先。運搬手は汚染物を混ぜない。乾いた布と濡れた布、普通ごみと汚染物、通る人と運ぶ人。全部、導線を分けます」
「導線の図、こちらです」
リュシエンヌが板を広げた。昨日までなら神殿式の整った用語ばかりが先に立っていただろう。だが今、彼女の示した図はずいぶん現場寄りだ。人の流れ、荷の流れ、水の流れが、色分けされた線で簡潔に並んでいる。
「赤線が汚染物の搬出、青線が給水補充、白線が一般通行です。交差させません。交差しそうな箇所には私が立ちます」
「神殿の娘さんがそこまでやるのか」
市役所の年配人夫が目を丸くした。
リュシエンヌは一瞬だけ言葉を置き、それから静かに言った。
「現場で必要なので」
その返しに、誠司は少しだけ息を吐いた。説明が短い。いい傾き方だ。
作業は夜露の残るうちに始まった。
最初に入ったのは、中央礼拝所の裏手にある洗い場だった。石槽の縁は白く見えるが、継ぎ目の奥がぬめっている。手を当てると、湿り気が冷たすぎた。水が動いていない場所の冷たさだ。
「ここ、止まってますね」
誠司がしゃがみ込むと、浄化官の一人が訝しげに眉を寄せた。
「見たところ、表面に強い瘴気はありませんが」
「上だけです」
誠司は木ベラを差し込み、継ぎ目に溜まっていた黒い塊を掻き出した。生臭さと、舌に苦みを残すような気配が同時に立つ。
「表で薄まってるだけで、底に沈んでます。洗い水と香油が混ざって固まってる」
「……本当だ」
リュシエンヌが測定具をかざすと、先端の石が鈍く濁った。
「数値が跳ねました」
「跳ねた場所だけを削って、流す前に拭き取ります。水で散らさないでください」
誠司が指示すると、人夫たちの手がようやく迷いなく動き出す。
ひとつ結果が出れば、現場は早い。
次は市場裏の荷捌き場だった。干し肉の汁、野菜くず、割れた陶器、雨水の残り。祭礼の準備で人の出入りが増え、普段は脇へ追いやられているものが一か所へ押し込まれている。
ガロが大きな木箱を蹴り寄せた。
「こいつが臭い元だ。昨日から置きっぱなしだった」
「開ける前に布を」
「わかってる」
ぶっきらぼうに返しつつも、ガロはもう順番を外さない。蓋を少しずらしただけで、むわりと重い臭気があふれた。中では濡れ藁と腐った皮が押し潰され、底に黒い汁が溜まっていた。
「最悪だな」
「最悪ですが、見つかっただけマシです」
誠司は布を口元に当て、木箱の底板に触れた。ざらつきの奥に、嫌な熱がある。瘴気が染みている。
「箱ごと隔離します。中身だけ移すと広がる」
「そのまま持ってくのか」
「はい。持てますか」
「誰に訊いてやがる」
ガロは眉を吊り上げたまま箱を担ぎ、人のいない搬出路へ運んでいく。その背に合わせて運搬手が動き、リュシエンヌが交差路を止める。止められた通行人が不満げに眉をひそめても、彼女はもう視線を逸らさなかった。
「少々お待ちください。ここを通すと、あとで水が悪くなります」
短い説明だったが、それで足を止める者は多かった。
現場は理屈だけでは回らない。だが、結果へつながる一言があると、人は案外従う。
昼が近づくころには、広場の空気が少し変わっていた。香と食い物の匂いの下に沈んでいた湿った苦みが、薄くなっている。給水所の周りで顔をしかめていた子どもが、水を飲んで首を傾げた。
「今日、変な味しない」
母親らしい女が慌てて口を押さえる。だがその手の震え方は、怯えよりも驚きに近かった。
誠司はそこで終わりにしたかった。いや、本当はそこで止めるべきだと、頭の片隅ではわかっていた。
だが、中央通り東端の排水溝だけが、どうにも引っかかった。
祭礼用の花籠が並び始めた石段の下。見た目は乾いているのに、近づくと鼻の奥がひりつく。濡れていない場所から立つ臭いは厄介だ。表面ではなく、その下で詰まっている。
「清城様」
リュシエンヌが声を落とした。
「予定では、ここは午後の確認だけのはずです」
「ええ」
「顔色が悪いです」
言われて、誠司は初めて自分の息が少し浅いことに気づいた。朝からずっと、濃い場所へ入り続けていた。喉の奥に乾いた熱がある。だが、ここを残せば、祭礼の人波で踏み固められてもっと厄介になる。
きれいに見える場所ほど、見逃した一か所が全部を駄目にする。
「ここだけ見ます」
「しかし」
「今なら開けられる。人が増えたら無理です」
誠司はしゃがみ込み、石蓋の継ぎ目へ指を入れた。重い。ガロが無言で隣に立ち、片側を持つ。
「一人でやるな」
「助かります」
二人で持ち上げると、下からむっと黒い息のようなものが噴いた。
ただの臭気ではない。濃い。長く溜まり、押し込まれ、表へ出る機会を失っていた瘴気だ。排水路の角で布切れと花屑が絡み、その奥に祭礼準備で捨てられた包装紙や油染みの藁が固まっている。
「流れが死んでる」
誠司は掻き出し棒を差し込み、詰まりの芯を探った。手元の感触だけで、どこまで崩していいかわかる。急いで全部を動かすと逆流する。少しずつ、逃がす道を作る。
「リュシエンヌさん、浄化はまだ待ってください。先に出口を作ります」
「了解しました」
「人を下げろ!」
ガロが怒鳴ると、周囲が一斉に動いた。
次の瞬間、詰まりの芯が外れた。
黒ずんだ水が一気に走り、排水路の奥へ吸い込まれる。どろりとした臭気が巻き上がる。誠司は布で口を覆ったが、遅かった。熱い鉄を吸い込んだみたいに、喉の奥が焼けた。
「清城様!」
リュシエンヌの声が遠い。
それでも誠司は手を止めず、残った布切れを引き抜き、流れを確かめた。水は動いている。止まっていない。これで中央通りの下はしばらく持つ。
「……拭き取り、先に」
言い切ったところで、足元が揺れた。
視界の端が白く明滅する。まずいと思った時には、膝が石畳に落ちていた。咳が出る。浅い咳ではない。胸の奥をひっくり返すような咳だ。
布の隙間から、温かいものが垂れた。
赤だった。
血の色は、石畳の灰色の上ではやけに鮮やかに見える。
「誠司さん!」
リュシエンヌが駆け寄る。ガロが舌打ちしながら誠司の肩を支えた。
「馬鹿野郎、吸い込みすぎだ」
「まだ……終わってません」
「終わってなくても、お前は倒れる」
荒い声なのに、その手は驚くほど慎重だった。
広場の向こうで、祭礼の鐘が鳴り始める。白布は風を受けて揺れ、人々は中央区が少し前より息をしやすくなっていることに、まだ気づいていない。
誠司は血のついた掌を見た。
片づければ守れる。そう思ってやってきた。
だが、守るためのやり方を、そろそろ自分の身体ごと見直さなければならない。
揺れる視界の中で、エルミナの静かな微笑みがふと脳裏をよぎった。
答え合わせは、もう始まっていた。
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