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聖女じゃないです。清掃員の清城です。  作者: 荒瀬 維人


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第18話 民衆の手

 善意は使い方を間違えると、権力より厄介だ。


 翌朝、市役所前の広場には昨日より多い人が集まっていた。


 桶を抱えた女たち、縄を持った人夫、店先の箒をそのまま担いできた商人、仕事前に顔を出した職人見習い。誰も彼も眠そうで、でも足取りだけは妙に速い。昨日一日で、街の汚れが勝手には消えないことを知ってしまった顔だった。


 誠司はその広場を、市役所二階の窓から見下ろしていた。


「本当に降りないんですね」


 リュシエンヌが横で言う。


「降りたいのは山々ですが、今日は我慢します」


 そう答えつつも、窓枠を握る指には力が入っていた。胸の奥はまだ重い。昨日よりはましだが、濃い瘴気の近くに行けばどうなるか、自分でもわからない。


 昨日は倒れた。あれをもう一度やれば、今度は現場を混乱させる。


 だから今日は、上から見る。


 気に食わないが、それが一番ましな役割だった。


「受付の列を二つに分けてください」


 誠司は窓の下を指した。


「掃除に入る人と、道具を持ってきただけの人を分ける。混ざると詰まります」


「了解です」


 リュシエンヌがすぐに書記へ伝令を飛ばす。彼女の声はもう、現場で浮かない。神殿の言葉ではなく、街の言葉で短く通る。


「布はこっち、掻き出し棒はあっち! 子どもは受付の中へ入れないで!」


 広場の動きが少しだけ整う。


 ガロは入口脇で腕を組み、列を無理やりまっすぐに直していた。説明より先に身体で通す役は、やはりあいつが一番早い。


 今日は昨日の続きだ。


 だが同時に、昨日とは違う日でもある。


 人が増えた。数が増えれば熱気も増す。熱気が増えれば、誰かがそれを恐れる。


 恐れた連中は、さっそく顔を出した。


 昼前、中央区の役人が三人、市役所へ入ってきた。


 身なりの整った男が二人と、神殿の補佐官らしい女が一人。靴の先まできれいで、階段脇の水染みひとつ踏みたくない顔をしている。


「清城誠司殿はどちらに」


 応接室へ通された誠司は、椅子に座ったまま男たちを見た。


 立たない。立つと身体がつらいから、ではない。向こうの都合のいい高さに合わせる気がなかった。


「俺です」


「では単刀直入に申し上げます」


 一番年嵩の男が、羊皮紙を卓へ置いた。


「下町住民を無断で煽動し、大規模な街路清掃を主導した件につき、活動の一時停止を勧告します」


 言い方が丁寧なだけで、中身はずいぶん乱暴だった。


「煽動?」


「群衆が集まれば事故が起こります。瘴気汚染区域に素人を近づけるのは危険だ。神殿の正式手順を経ない清掃は、かえって汚染を広げかねない」


 それ自体は、半分正しい。


 だから厄介だ。


「なら、正式手順で今まで片づいていましたか」


 誠司が返すと、男の眉がぴくりと動いた。


「問題はそこではありません」


「そこです」


 喉に痛みが走るのを押さえながら、誠司は続ける。


「危険だから止める、はわかります。でも危険になる前に何をしていたんですか。昨日、中央区の排水溝を開けるまで、祭礼の裏で何が詰まっていたか把握してましたか」


「それは担当部署が」


「把握していなかったから、ああなった」


 部屋の空気が硬くなる。


 補佐官の女が口を開いた。


「神殿の名のもとに行動している以上、秩序は必要です」


「神殿の名なんて使ってません」


「見習い浄化官が動いています」


「現場に必要だからです」


 気づけば、リュシエンヌが応接室の扉脇に立っていた。いつ入ってきたのか、男たちは気づかなかったらしい。


 彼女はいつもの静かな声で続ける。


「住民を危険区域へ無制限に入れてはいません。測定、封鎖、導線分離、汚染物隔離、すべて実施しています。昨日と本日の記録もあります」


 記録板を示され、役人たちの顔がわずかに曇った。


 数字と時刻は、言い逃れを細くする。


 だが彼らが欲しいのは正確さではない。


 止める口実だ。


「いずれにせよ」


 年嵩の男が紙を押し出した。


「本日中に街路清掃の中止を周知してください。従わない場合、責任は――」


「誰が取るんです」


 誠司はその言葉を遮った。


 自分でも驚くほど、声が冷えていた。


「止めて、また詰まって、また病人が出た時。その責任は、紙を持ってきたあなたが取るんですか」


 男は黙った。


 沈黙は答えだ。


 その時、廊下の向こうが急に騒がしくなった。どよめきが広がる。怒鳴り声ではない。もっと低い、押し返すようなざわめきだ。


 ガロが扉を開けた。


「おい。見てみろ」


 広場へ出ると、人の列が崩れていなかった。


 むしろ、昨日より整っている。


 前の方では女たちが布を仕分けし、職人が木札で作業区画を書き、若い人夫が子どもを外へ下がらせている。誰か一人の号令ではなく、昨日教わった順番を、街の側が勝手に回し始めていた。


 そして中央には、白布を腕まくりしたパン屋の親父が立っていた。


「順番守れ! 臭ぇとこに突っ込むな! 濡れもんはこっちだ!」


 その怒鳴り方が妙に板についていて、誠司は思わず瞬きをした。


「昨日、鍋場裏で一番混ぜた人ですよ」


 リュシエンヌが小声で教える。


「今日はいちばん偉そうですね」


「人は反省するとたまに化けます」


 役人たちは階段口で立ち尽くした。目の前の光景は、暴動には見えない。混乱とも言いづらい。雑だが秩序があり、少なくとも“無知な群衆の暴走”という筋書きには収まらなかった。


 広場の端で、老婆がぼそりと言った。


「神殿様が助けてくれねえなら、自分らの溝ぐらい自分でさらうよ」


 それは大声ではなかったのに、妙に遠くまで通った。


 誰かが頷き、誰かが桶を持ち上げる。


 民衆の手は、誰かの許可を待たずに動き始めていた。


 その光景を見て、誠司はやっと理解する。


 自分がやってきたのは、掃除そのものではない。手を出していい場所と、出してはいけない場所を分けること。動ける人間が、無駄に潰れず動けるようにすること。


 奇跡なんかじゃなく、順番だ。


 たぶん街を変えるのは、その地味な順番の方だ。


「……中止は、できませんね」


 誠司が言うと、役人の男は唇を引き結んだ。


「この件は上へ報告します」


「どうぞ」


「あなたは自分が何に触れているのか、理解していない」


 捨て台詞のように落ちたその言葉に、誠司は静かに返す。


「汚れです。ずっと触ってます」


 男は嫌そうな顔のまま去っていった。


 だが本当に嫌なのは、たぶん彼らの方だ。汚れそのものではなく、“誰でも手を伸ばせる”という事実が。


 夕方、広場の一角で小さな揉め事が起きた。


 中央区から流れてきた若い書記が、住民たちを見て「下町の者が勝手に」と口走ったのだ。空気が一瞬で冷えた。掴みかかる者こそいなかったが、怒りはじわりと広がった。


 その時、前へ出たのはリュシエンヌだった。


「勝手ではありません」


 よく通る声だった。


「ここにいる方々は、自分たちの暮らしを守るために働いています。神殿の見地から見ても、汚染の放置は容認できません」


 そして少しだけ間を置き、彼女ははっきり言った。


「手を動かしている人を、身分で侮るのはやめてください」


 沈黙のあと、誰かが小さく笑った。緊張がほどける。書記は真っ赤になって黙り込み、周囲はまた作業へ戻っていく。


 誠司は横目で彼女を見た。


 強くなった、では少し違う。余計な飾りが削れ、必要な言葉だけが残ってきたのだ。


 その夜、作業報告は昨日より長く、成果も多かった。だが良い話ばかりではない。中央区との軋みははっきり増し、神殿内部でも不満が出始めているという。


「王城にも耳が届くでしょう」


 リュシエンヌがそう言った時、誠司は窓の外の暗がりを見た。


 街は少しずつ流れを取り戻している。けれど、流れが変われば、必ず岸を削る。


 明日、削れるのはどこだ。


 そう思った時、遠くで雷が鳴った。


 広場に残った人々は、空を見上げながらも手を止めなかった。今日さらい出した泥が、今夜の雨でまた別の場所へ寄ることを、もう誰もが知っている。


 誠司は胸の奥に、説明しづらいざわつきを覚えた。


 雨は汚れを運ぶ。淀みをほどくこともある。けれど同時に、流れ去ったはずのものまで、思いがけない形で連れ戻す。


 この街で再び会いたくない相手がいるとしたら、きっとこういう日に来る。


 雨の匂いがした。

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