第4話
湿った潮風に眉を顰める。潮騒の音は遠く、闇夜に見つめる漆黒の波は、出来の悪い黒絵具のようにドロリと揺蕩っている。
詰まるところ、彼女は海が大嫌いだった。
「最悪。星1つ見えないじゃん。気に入らない」
傾く船室と軋む甲板の音に眠れず、苛立ちが募った手を天に伸ばす。いくら探しても、夜空に煌めく輝きは見えはしない。
「もし星が見えたら鳥みたいに、飛んでいけちゃうかもしれないのにな⋯⋯」
子どもの頃、誰もが夢に思う空飛ぶ彼。どこまでも自由に、何者にも縛られない象徴。
そんなものは何1つ、彼女には残っていない。半ば売り払われるように決められた政略結婚の末に、自由など毛の先ほどもありはしない。
だからせめて、ずっと星だけは見ていたかった。
もはや見えすぎている世界から、目をそらす方法を覚えてしまっていても。
「ん⋯⋯?」
だからこそ、彼女は誰よりも早くその異変を悟ってしまった。
視界の端で水面から突き出ていたはずの岩礁が沈下していく。まるで見えない顎が、スーッと音もなく、それを飲み干してしまったかのように。
「……うそ」
呟きは予兆のない衝撃にかき消された。足元をすくわれる感覚すらなく、世界が唐突に反転する。
「がっ、ぁ……っ!?」
後頭部を襲った凄まじい衝撃。火花が散るような痛みのあと、意識の糸は無慈悲に断ち切られた。
◇◇◇
ピチャン、ピチャンと耳元で水音が響く。彼女が痛む後頭部を押さえ慌てて覚ますと、周囲の景色は一変していた。
「じょ、冗談じゃないわ、なんなの!?」
うず高く積まれた瓦礫の山と、薄暗い中で点々と広がっている火災。焦げ臭さに交じって酷く鼻奥を突く生臭い異臭。
おそらく客船や軍艦1隻や2隻ではない。何隻も紙束のようにぐしゃぐしゃに丸めて、ゴミ箱にでも無理やり押し込めたような印象を受ける。
加えて、周囲からは聞くに堪えない人の絶叫や断末魔、助けを求める悲鳴が響いている。その中に交じって人が生涯知るべきではない、正気を削るような底しれない異音。
嘲笑っている。そう考えが及び、彼女は1も2もなく背を向けた。
「イィキキキキキキキ!」
「あっ、ぐっ!?」
何かが右肩を通り過ぎ、カッと熱くなる。そうして、思わず彼女は振り返って見てしまう。
白いガイコツと粘液を帯びた肉体。ほのめく炎にゆらゆらと不気味に揺らめく触手。人骨を被った異形のヒトデたちが、尖った銃のような物を構えていた。
「キキキ?」
「────あっ、ァ、アァアアアアアアア!!?」
彼女は今度こそ耐えきれず駆け出した。叫びすぎて視界にチカチカと星が舞う。瓦礫の山をなりふり構わずかき分け、追い詰められたネズミのように身体をねじ込む。
それが、致命的な間違いと知らずに。
「あっ⋯⋯」
足を撃ち抜かれ、彼女は必死に登った瓦礫の山から転落していく。その先は、煮え立つ謎の液体。
────どぷん。ろくな飛沫も上げず『契』彼女は飲み込まれ、身体の内側『契約』から外側から、ほどけるようにすべてが『契約し』溶かされていく。
「――ッッグ、ヅァ」
ごぼりと息を吐けば泡となり『契』身体の内部を激痛が走りもはや『契約』目も見えず、耳も聞こえ『契約しま』すべてが泡沫の夢と消『契約しますか?』
「ングッ、ァアアアアアアアアアアアア!!!」
生きるという絶対的な絶叫。楽土の道を覆す鉄火場の契約に、三文判も捺印も必要なく。
運命の縒にて、第1覚醒の刻、来たれり。




