第12話
トンネル市場を抜けると、大水槽を中心に大きな螺旋階段がずっと上に続いている。街の外から見た建物も階段から行ける構造になっていた。
「エレベーターもあるようだが、どうする?」
「うん⋯⋯いいや」
話しかけてもウェンディの反応が乏しい。疲れているというよりは初めて見るらしい水槽、いや海底の神秘に魅入られてしまっている。
やれやれだ、今はあまり声をかけず邪魔しないでおいてやろう。後でからかう口実にできるものな。
あまり階段は使われていないのか、登っている者たちは多くない。住人にとってもう目新しさはない日常なのか、館内の空気は落ち着いている。
わずかな泡と、どこまでも澄んでいる透明な青。時々感じ入るように静かに息を呑んでいる。淡く光る海藻が栽培されているのか、隣人の顔を見える程度の薄暗さで、文明の手によって切り取られた小宇宙を堪能する。
永遠不変に見えて、実際は緩やかに変革している水底のきらめき。共有しているようで、ひとつひとつが別々の時間を過ごしている。
「海は好きか、ウェンディ?」
「嫌いよ。⋯⋯ううん、きっと本当の海を知らなかったの。だって、海の底に星の息吹があるなんて、少しも知らなかったわ」
こと、こと、こと。厳かに、静謐に、海の別人格を巡る足取りは続く。俺たちの会話もうわのそら。たゆたううたかたに消えていく。
「魚は赤身魚と白身魚、どっちが好きだ?」
「食べることしか興味がないの? デリカシーがないのね。⋯⋯そうね、赤が好きよ。血みたいな赤、だって、ちゃんと生きている気がするもの」
眺めていたのはお互いさま。向こうも食べられるか考えているのかも。ふと、ことこと進んでいた足音が止まる。
「────ずっと優しい音なのに、壊れてるのね」
こぽこぽと屈折した光に昇っていく泡。目を細めて見れば水槽の天井は突き刺さった鉄骨で傷だらけで、回遊魚たちが射し込む光の間に出入りしている。
泡のようにこぼれた言葉は別れ話のようで、もう、水中帝国の限界点に近い。
「良いデートになったな」
「デッ⋯⋯!?」
だから最後にブッ込んだ。そうでもしないと何かを茶化して片付けるタイミングも無さそうで、彼女は耳まで真っ赤だった。
「本っ当にデリカシーが無いのね! せっかく最後まで浸っていたのに、お言葉を選んで下さる!?」
「だってなぁ、お前があんまり⋯⋯」
────小さな女の子が、そのまま育ってしまったような顔だけをしているから。その言葉は喉につっかえた。口に出せば、本気で怒らせると知っていたから。
だから言葉を贈ることにした。大人の男らしい言葉をだ。
「デートの定義って知っているか、ウェンディ?」
「そんなの知らないわよ! 私、自分の婚約者の顔も知らないのよ!」
「そりゃ悪かったが、女が男の前で、着飾らず素顔を晒すことだ。忘れるな、お嬢ちゃん」
「そういうあなたは⋯⋯もういいわ、無粋な人」
呆れるように彼女は先に行ってしまう。だがその足取りは、どこか軽やかだった。




