56.U15日本代表VSU15イタリア戦―――2
「・・・マジかよ・・・嘘だろ・・・あの蹴太が・・・完全に止められた・・・」
蒼空斗の自宅リビングで、大型液晶テレビの画面を食い入るように見つめていた健一が、震える声でポツリと呟いた。
その顔には今しがた画面の向こう側、はるか遠くのスタジアムで起きた残酷な現実が、全く信じられないといった驚愕と戦慄の表情となってべったりと張り付いている。健一の手から滑り落ちたサムライブルーの応援タオルが、音もなくフローリングの床に落ちた。
そしてそれは隣で息を呑んで完全に硬直している春樹や明里、そして手元のタブレット端末を握りしめたまま、彫像のようにフリーズしている蒼空斗も全く同じだった。リビングの空気はまるで急速冷凍されたかのように冷たく、そして重い。
つい数秒前のこと。
日本の絶対的なエースストライカーであり、世界を切り裂くはずの【最強の矛】である蹴太。その彼が自慢の異常な初速、あの屈強なコスタリカの守備陣を赤子のように置き去りにし、世界を驚愕させた固有スキル【瞬間最高初速】を完璧なタイミングで発動させ、イタリアのキャプテン、ジョルジョ・スカモーニを完全に抜き去ったかに見えた、その瞬間。
蹴太が抜き去ったはずのその裏の広大なスペースには、すでにイタリアの右センターバック、フェデリコ・ガッティが極限まで低い姿勢で獲物を待つ蜘蛛のように待ち構えていた。
そしてガッティは蹴太が次のタッチでボールに触れるよりもコンマ数秒早く、鋭く、狂気的なまでに正確なスライディングタックルで、蹴太の足元のボールだけを綺麗に刈り取った。
前節のコスタリカ戦では無双を誇り、日本中を熱狂の渦に巻き込んだ神野蹴太の理不尽な【個の力】が、イタリアの練り上げられた【組織の力】の前に、いとも簡単に、そしてまるで計算し尽くされた緻密な数式のように冷酷に封じ込められた瞬間だった。
「ここまで・・・ここまで壁が高いのかよ・・・これが本物の、世界の壁・・・」
春樹が乾ききった唇から絶望感の混じった掠れた呟きを漏らす。その絶望の言葉にリビングにいる誰も慰めの言葉を返すことができなかった。
ただ単にボールを奪われただけではない。蹴太の最大の武器である【スピード】を正面から受け止めて競り合うのではなく、最初から【抜かれること】を前提にコースを限定し、死角からのカバーリングで網のように絡め取る。
そのシステマチックで感情を一切排した冷酷無比なまでの守備戦術の完成度の高さが、テレビ越しに素人目にもはっきりと伝わってきた。
(蹴太のあの世界でもトップクラスの理不尽な初速。イタリアのディフェンス陣はそれに【個の身体能力】でついていくことを、最初から完全に諦めている。諦めた上で、蹴太という強大すぎる【個】を、圧倒的なまでの守備陣の連動性と完璧なポジショニングという【知性】で絡め取り、弾き飛ばした・・・これが欧州の世界に誇る最高峰の守備。これが本物のカテナチオ・・・)
蒼空斗は膝の上で強く、強く両拳を握りしめた。短く切り揃えられた爪が手のひらに食い込んで白くなるほどの力で。ギリギリと歯を食いしばる音、自分自身の頭の中に響く。
テレビ画面にはタッチラインの外へ無情にクリアされたボールを、感情の読めない無言の顔で見つめる蹴太の背中が映し出されている。
蒼空斗はその友の背中をじっと見つめながら、自分がその絶望的なピッチに立っていないことへの激しい焦燥感と、世界という舞台の底知れぬ恐ろしさを同時に深く噛み締めていた。
最強の友でさえ一筋縄ではいかない。それが【世界】なのだと、改めて冷水を浴びせられたような感覚だった。
そして熱狂と喧騒が入り交じる夜のスタジアムのピッチ上。
6万人の大観衆が信じられないものを見たというようなどよめきと、深い感嘆の溜息に包まれる中、U―15日本代表のイレブンにも目に見えない重く冷たい衝撃が走っていた。眩い光に照らされたピッチの空気が、急激に重力を増したかのように選手たちの身体にズシリとのしかかる。
「うそやろ・・・あの神野のトップスピードが、あんなに完璧に、いとも簡単に止められた・・・」
右サイドバックの青星が、前線で起きた信じがたい光景に目を見開いて呆然と立ち尽くす。その額からは疲労とは違う種類の、べっとりとした冷たい汗が流れ落ちていた。
地獄の代表合宿で紅白戦を通じて誰よりも蹴太の恐ろしさと理不尽さを直接肌で感じている青星にとって、その衝撃は計り知れないものだった。自分がどれだけ足掻いても、どれだけ泥臭く食らいついても止められなかったあの化け物が、戦術という目に見えない網に掛かってあっさりと沈黙したのだ。
(くそっ! なんて守備しやがる!)
ボランチの国近は、自身が完璧なタイミングとスピードで鋭いスルーパスを通したにもかかわらず、それがシュートにすら至らなかった事実に忌々しげに舌打ちをして悔しさを露わにしていた。
日本の攻撃の絶対的な拠り所である【最強の矛】がいとも簡単に防がれた。自分たちの最大の武器が通用しないという事実が、エリートたちの心に暗く、冷たい影を落とそうとしていた。
イタリアの底知れぬ組織力にペースを飲まれかけ、日本代表の足が止まりかけた、まさにその時だった。
パンッ! パンッ!
「顔を上げろ!!」
最後尾から両手を強く叩く乾いた音と共に、スタジアムの喧騒を切り裂くようなヤンセン・大河の怒声が響き渡った。その腹の底から絞り出された声は、迷いを生じかけた日本代表の選手たちの鼓膜を激しく震わせた。
「お前ら、まさか蹴太が一回勝負に負けたくらいで、この試合が終わったとでも思ってんじゃないだろうな!?」
ヤンセンは足を止めている選手たちを一人一人、射殺さんばかりの鋭い眼光で睨みつけた。その巨大な身体から発せられる闘気はイタリアの選手たちに勝るとも劣らない。
「これくらい世界を相手にするなら最初から分かっていたことだろ! たった一度攻撃が防がれたくらいで、いちいち絶望して下を向いてんじゃねぇ! 俺たちはチャレンジャーだ! 最初から失うものなんて、何一つねぇんだよ! まだ時間はたっぷりある。何度でも、何度でも攻めるぞ! 目を覚ませ!」
ヤンセンのキャプテンとしての力強く、魂を直接揺さぶるようなその声に、最終ラインや中盤の選手たちはハッと我に返り、両頬を叩いて再び気合いを入れ直した。
世界の大舞台。簡単に点が取れる相手ではないことなど、事前のミーティングの時点で分かりきっていたこと。神野蹴太という個人の力に頼り切りになるのではなく、自分たちも死に物狂いでチームとして戦わなければならない。
前半20分。
ガッティにクリアされたボールを拾い、日本のスローインで試合が再開する。再び息詰まるような攻防の幕が上がる。
「青星!」
右サイドのタッチライン際、青星が素早くボールを投げ入れる。
ボールを受けたのは右インサイドハーフの横畑海夏人。横畑はイタリアのディフェンスが激しく寄せてくる前に、ワンタッチでボールを完璧に足元へコントロールした。そして一瞬だけルックアップし、中央のペナルティエリア内へ向けて、鋭く、正確なアーリークロスを蹴り込んだ。
美しい弧を描くボールはイタリアの強固な守備陣の頭上を越え、ゴール前へと向かう。
「神野!」
横畑の叫び声に呼応するように、そのクロスの落下点へ向かって蹴太が猛然と走り込む。
中学生離れした圧倒的な跳躍力。バネのようにしなやかな筋肉を爆発させ、蹴太が宙に舞う。そして打点の高い強烈なヘディングシュート。それが決まれば一気にスタジアムの空気は日本に傾く。
だが、その蹴太の身体に完全に重なるようにして巨大な青い壁が同時に夜空へと飛び上がった。イタリアのキャプテン、背番号3のジョルジョ・スカモーニである。
(舐めるな!)
蹴太はフィジカルのステイタスをフルで使い、空中戦で当たり負けしないよう全身の筋肉を極限まで硬直させて、自分よりもさらに大柄なスカモーニに真っ向から身体をぶつけにいった。
しかし。
ドスッ!
(くそっ!)
空中で激しくぶつかり合った瞬間、蹴太はまるで分厚い鋼鉄の壁に真正面から激突したかのような凄まじい衝撃を受けた。
スカモーニの強靭な体幹は蹴太の突進を受けても空中で微動だにしなかった。スカモーニは蹴太の衝撃を完璧に吸収しながら、蹴太よりもさらに頭一つ分高い打点へと軽々と到達し、太く分厚い首の筋肉を使ってボールを大きく前線へとヘディングで弾き返した。
「ぐっ!」
蹴太は完全に競り負け、空中で体勢を崩し、着地のバランスを失ってピッチに尻もちをついた。
「「「「「!!!!!」」」」」
U―15日本代表のイレブンに再び戦慄が走る。
先ほどのスピードだけでなく、純粋なフィジカルと空中戦の強さでも、日本のエースが完全に力負けした。日本の最も鋭い矛がイタリアの盾の前に全く通用しない。
最後尾でその光景を見ていたヤンセンもまた驚愕に目を見開いていた。
(やべぇな・・・あの蹴太が空中戦で当たり負けして、完全に競り負けた。今の蹴太の空中戦でのフィジカルは規格外だ。この俺でさえ、正面から競り勝つのは難しいレベルにまで仕上がっている。それであの有様ってことは・・・向こうのキャプテンの純粋な力は俺よりもさらに上か・・・)
ヤンセンは背筋に冷たい汗がツーッと流れるのを感じながら、着地して悠然と自陣のポジションに戻っていく、イタリアの背番号3の巨大な背中を睨みつけた。ジョルジョ・スカモーニ。底知れぬ怪物であった。そして試合は徐々に、しかし確実に完全にイタリアのペースで進んでいく。
日本の攻撃がことごとく弾き返され、セカンドボールの回収率もイタリアが圧倒し始める。そして再び日本のスローイン。今度は左サイド、自陣深くでのリスタート。
左サイドバックの鵜飼朝陽が近くに寄ってきた左インサイドハーフの外丸直樹へ、安全にボールを渡す。
(よし、ここから一度展開して・・・)
外丸がボールを足元に収め、前を向こうとした瞬間だった。
「っ!?」
一瞬にして外丸の視界が二つの青いユニフォームによって完全に塞がれた。
イタリアの右ウイングバック、ウドジェと左ウイングバックのディマルコ。両サイドの豊富な運動量を誇る選手が、恐ろしいほどのスピードで一気に中央へ絞り込み、外丸を完全にサンドイッチにして囲い込んだ。
(囲まれた! パスコースがない!)
外丸は前線の蹴太や九条へのパスを諦めた。激しいプレッシャーに息が詰まる。ボールをキープしようにも二人の屈強な肉体に挟まれ、身動きが取れない。
なんとかボールを失うまいと、後方でサポートに入ろうとしていたボランチの国近へ向けて、苦し紛れのバックパスを出した。
「国近、ごめん!」
だ、そのパスは焦りから弱く、不正確だった。芝生の上を力なく転がるボール。そしてイタリアの【心臓】は、その一瞬の乱れを絶対に見逃さない。
「もらった」
国近がボールに触れるより早く、イタリアのボランチのロカテッリがまるで最初からそのパスコースとタイミングを知っていたかのように、滑り込むようにしてボールを奪い取った。
日本の不用意なパスミスからの、致命的なショートカウンターの始まり。
「戻れぇっ!!」
国近が絶叫し、自らもロカテッリに向かって必死のスプリントをかける。
だがロカテッリはボールを奪うと同時にすでにルックアップしていた。
彼の恐ろしいほどに広く、俯瞰的な視野は、日本の左サイドの朝陽がスローインのためにポジションを上げて空っぽになっていた広大なスペースをすでに正確に捉えていた。
(・・・フーリ)
ロカテッリの右足から芸術的なスライス回転のかかったスルーパスが放たれる。
そのボールは戻り遅れた日本のディフェンスラインの裏のスペースへと、完璧な軌道を描いて落ちていく。そしてそこにイタリアのもう一人の凶悪なFW、【フーリ・キエーザ】が凄まじいスピードで走り込んでいた。
「抜けられた!」
右センターバックの窪田大輔が叫ぶ。
キエーザがボールをトップスピードのまま足元に収め、一気に日本のゴールへと向かって独走を開始する。このままペナルティエリアへ侵入されれば、GK大童子と完全に一対一になる絶体絶命のピンチ。
(させるかよ!)
しかしそこに凄まじい土煙を上げて猛追してくる影があった。日本の左サイドバック、鵜飼朝陽である。
朝陽は自身のポジションの裏を突かれた責任を取り返すため、自慢の圧倒的なスプリント力でピッチを駆け抜け、トップスピードに乗っていたはずのキエーザに、横から一気に並びかけた。
「!?」
キエーザが突然横に現れた日本人に驚愕の表情を向ける。
(追いついた!)
朝陽はペナルティエリアに侵入される直前、思い切り身体を投げ出して決死のスライディングタックルを敢行した。
バチィッ!
朝陽のつま先が、キエーザのシュートを撃とうとボールを押し出した瞬間にギリギリでタッチし、ボールをタッチラインの外へと大きく弾き出した。
「しゃぁぁぁぁ!」
朝陽が芝生の上でガッツリと拳を握り、咆哮する。日本の大ピンチを自身の圧倒的な個人の走力でなんとか救った瞬間だった。スタジアムからは朝陽の魂のプレーに大きな拍手が送られる。
(・・・マジかよ。俺のトップスピードに後ろから追いついてきただと?)
キエーザはタッチラインの外へ転がったボールを見つめながら、息を切らして立ち上がる朝陽をチラリと見た。
(この日本人のスピード・・・尋常じゃない。俺が完全に抜け出したはずだったのに。次からはこいつのカバーリングの速さも計算に入れて仕掛けないといけないな)
キエーザは朝陽の驚異的な脚力に対して内心で強い警戒心を抱いた。しかし朝陽のビッグプレーでピンチを脱したとはいえ、それはあくまで【一時しのぎ】に過ぎなかった。
イタリアの右サイドからのスローインで試合が再開されると、日本は自陣に完全に釘付けにされ、ボールを奪うことすらできない苦しい時間が続く。
奪いに行けばロカテッリの長短の正確なパスでいなされる。引いて守れば、両サイドからの分厚い波状攻撃に晒される。
カテナチオはただ自陣に引いて守るだけの消極的な戦術ではない。相手の攻撃を組織で完全に無力化し、首を絞めるようにジワジワと主導権を握り、相手が疲弊し隙を見せた瞬間に確実に喉元を食い破る、冷酷無比で攻撃的な戦術。
日本の選手たちのスタミナと精神力が、じわじわと、しかし確実に削られていく。
そして、運命の前半32分。日本の強固な守備陣にほんのわずかな【ズレ】が生じた。
中盤での終わりの見えないパス回しに耐えかねたトップ下の九条とボランチの国近が、一瞬隙を見せたロカテッリに同時のプレスをかけた。それがロカテッリの仕掛けた罠だと知らずに。
(・・・チェックメイトだ)
ロカテッリの冷たい目がその一瞬の陣形の綻びを正確に捉えた。
ロカテッリは二人の激しいプレスを細かいボールタッチでヒラリと躱すと、ルックアップすることなく右足を大きく振り抜いた。
日本の守備陣の動き、味方のFWの立ち位置、風の向き。その全てを頭の中の盤面で完璧に読み切った上での寸分狂わぬロングフィード。
ボールは美しい放物線を描いて、日本の絶対的壁であるセンターバック、ヤンセンの頭上を越えていく。
「裏だ! ヤンセン!」
GK大童子の焦燥に満ちた声が響く。
その落下点には先ほど朝陽に止められたキエーザが入り込んでいた。しかし、キエーザはトラップしなかった。
キエーザは自分にヤンセンの意識が完全に向いていることを利用し、胸のワンタッチでボールを中央の空いたスペースへふわりと落としたのだ。
「なにっ!?」
ヤンセンが慌てて中央へ視線を向ける。
そこにはイタリアの背番号9、エースストライカーのレテギが重戦車のような凄まじい勢いで走り込んでいた。
完璧なコンビネーション。ロカテッリの長距離パス、キエーザの落とし、そしてレテギのフィニッシュ。
流れるような、そして一切の無駄がないイタリアの【死のトライアングル】が完成した瞬間だった。
「させるかぁぁぁっ!!」
ヤンセンがレテギのシュートブロックに決死のスライディングで飛び込む。日本の絶対的な壁としての意地。しかしレテギはヤンセンの足が届くよりも早く、右足をコンパクトに、しかし強烈に振り抜いた。
ドゴォォォォォンッ!!
ペナルティエリア内から放たれた、大砲から撃ち出された弾丸のようなシュート。
日本の守護神、大童子清隆が驚異的な反応速度で横っ飛びを見せるも、指先一つ届かないほどの、ゴール右隅への完璧なコントロールと凄まじい威力。
ボールは白いゴールネットに突き刺さるようにして、激しく、残酷に揺らした。
【U―15日本代表 0―1 U―15イタリア代表】
スタジアムの空気が一瞬にして凍りつき、直後、アウェー側に陣取るイタリアサポーターの地鳴りのような歓声が爆発した。日本のサポーターは水を打ったように静まり返り、悲鳴すら上げられない。
日本にとっての、重い、あまりにも重い1点ビハインド。
最強の矛である蹴太を折られ、そして世界最高峰の盾から鋭い刃を突き立てられたU―15日本代表は、イタリアという圧倒的な世界の壁の前に絶望的な窮地に立たされていた。
カテナチオを相手にこの先制を許す1失点は限りなく絶望に近いものだった。




