46.世界の壁と新たなる声
ピッピィーーー!
ホイッスルが長く、そして鋭く鳴り響いた。
中学生の公式戦の規定を完全に無視した、アディショナルタイム無しの45分ハーフ。しかも、それを短い休憩を挟んで何度もエンドレスに繰り返すという、常軌を逸した実力確認のサバイバル紅白戦が、ついにこの日の終わりを迎えた瞬間だった。
「よし。今日はもう終了だ。各自、シャワーを浴びた後は20時の夕食まで自由時間とする。夕食後はミーティングだ。それでは、解散」
久森は感情の読めない淡々とした声でそれだけを告げると、ピッチの上にまるで屍のように転がっている選手たちを一瞥し、サポートスタッフを引き連れてさっさとクラブハウスへと引き上げていった。
監督の背中が見えなくなった途端、ピッチのあちこちから深い安堵の溜息と、文字通り地面に崩れ落ちるような重い音が連続して聞こえ始めた。
「はぁ・・・はぁ・・・死ぬかと思った・・・」
「マジで・・・足が、一ミリも動かねぇ・・・」
佐々木雅人や石高誠也といった、日頃から厳しい鍛錬を積んでいるはずのエリート選手たちが、大の字になって濡れた芝生の上に横たわり、虫の息で天を仰いでいた。
彼らだけではない。九条隼人や武雄颯太でさえ両膝に手をつき、肩を激しく上下させて大量の汗を滴らせていた。
無理もない。午後3時から午後7時までまともな戦術練習もなしに、ただひたすらに本気で相手を潰しに行く【試合】だけを連続で強制された。
中学生にとってそれは明確なオーバーワークであり、彼らの恵まれたサッカー人生において経験したことのない過酷な肉体の酷使だった。
しかしその地獄絵図のような惨状の中で数名だけは平然とピッチの上に立っていた。
神野蹴太。ヤンセン・大河。そして白チームのキャプテンを務め上げた国近涼真。GKの大童子清隆らは息こそ上がっているものの、座り込むこともなく、ただ静かにピッチの状況を見渡していた。
(なるほど。久森監督が戦術練習を一切やらずに【試合だけ】をさせる意図って、これか)
蹴太は首にかけたタオルで汗を拭いながら、周囲の疲れ果てた選手たちを見て久森の真の狙いを正確に把握した。
するとその背中をドンッと力強く叩く男がいた。190センチを超える巨体を持つハーフの怪物、ヤンセンだった。
「お前も気づいたか?」
ヤンセンは汗を拭いながら、ニヤリと悪戯っぽく笑った。
「まぁ、さすがにな」
蹴太はスポーツドリンクのボトルを傾け、冷たい液体を喉に流し込んでから言葉の続きを口にした。
「・・・体力、だろ?」
「正解だ。まぁ、正確に言うなら【国際試合の90分を走り抜けるだけの体力】だがな」
ヤンセンが静かに頷いた。
日本の育成システムにおいて中学生年代の公式戦は最長でも前後半30分から40分ハーフしか経験しない。しかし世界を相手にするU―15の国際試合は【45分ハーフ】の計90分で行われる。
たった5分、あるいは15分の違いだと思うかもしれない。だがサッカーにおいてこの【5分】という数字は見た目以上に恐ろしく、そして重い。限界を迎えた筋肉と肺にとって、この数分の延長はまさに地獄に等しい。
しかもただ走るだけではない。日の丸を背負うというプレッシャー、そして海外の屈強な怪物たちと激しくぶつかり合う緊迫した雰囲気の中では普段以上のエネルギーを消耗し、想像以上に早くスタミナが枯渇する。
(選手の身体の芯まで90分という【時間】を嫌でも染み込ませる。そのためには言葉で説明するよりも、限界を超えて繰り返し試合をやらせて身体を強制的に適応させるしかないってか・・・鬼だな、あの監督)
蹴太は内心でため息をついた。
戦術以前の問題。90分間ピッチに立っていられなければ世界とは戦えない。久森はその絶対的な事実をあえて言葉で説明するのではなく、身体で直接理解させるという荒療治を選んだ。
蹴太は自身の【スタミナ:SSS1000】というチートじみたステイタスのおかげで、深く呼吸をするだけで乳酸が抜けていくのを感じていたが、他の選手たちにとってはまさに生き地獄。
「よし。じゃあさっさと汗を流して休憩するぞ・・・おい! お前らもいつまでも寝てないでさっさとシャワー浴びろよ! これで風邪引いたら洒落にならないからな!」
ヤンセンがピッチに倒れ込んでいる選手たちに向かってキャプテンシーを発揮し、パンパンと手を叩いて急かした。
「はいはい・・・」と呻きながら重い腰を上げる選手たち。国近と大童子も疲労の色は見せつつも、ヤンセンの後に続いて無言で施設へと向かっていった。そして蹴太もそれに続こうとした、その時だった。
「ちょっと待ってや!」
背後から息を切らした焦ったような声で呼び止められた。
「・・・なんだよ」
蹴太が面倒くさそうに振り返ると、そこには泥だらけになった白チームの右サイドバック、青星が立っていた。
名門・大阪ユナイテッドのスタメンという肩書きをひけらかし、最初に蹴太へ噛み付いてきた男。だが久森監督に事実上の【クビ宣告】を受け、土下座をしてまでこのピッチに残った彼の顔からは、かつての傲慢なエリートの面影は完全に消え去っていた。
青星は激しい息継ぎをしながら蹴太を真剣な目で見つめると、突然ほぼ直角というレベルで深く頭を下げた。
「すまんかった!!!!!」
腹の底から絞り出すような純粋な謝罪だった。
「・・・」
蹴太は何も言わず、ただ黙って見下ろした。
「ほんまの馬の骨は俺の方やった! 肩書きだけでイキって、お前をバカにした! 許してくれとはいわん! だけど、俺はもう逃げへん。己のサッカー人生かけて、死ぬ気でプレーする! だから・・・見といてくれ!」
青星の言葉は嘘偽りのない本心だった。
プライドを捨て、己の弱さを認め、その上で這い上がろうとする男の確かな覚悟がそこにあった。前世で才能の壁に絶望し、サッカーから逃げ出してしまったかつての自分とは違う。目の前のこの男は絶望の淵から自らの足で立ち上がろうとしている。
それを見た蹴太は小さく息を吐いた。
「・・・顔を上げろよ」
蹴太の静かな声に青星は恐る恐る顔を上げた。
「別に気にしてねぇよ。そんなことより・・・勝つぞ」
「えっ?」
予想外の言葉に青星が間抜けな声を漏らす。
「勝たなきゃお前の代表のキャリアは終わるんだろ? 久森監督との約束だ。だったら絶対に勝つぞ。俺もここで負けて帰るつもりはない・・・お前もそうだろ?」
蹴太の真っ直ぐな瞳に射抜かれ、青星の顔がハッとして、そして力強く引き締まった。
「・・・当たり前や! 絶対に勝つで!」
「ならいい。行くぞ、なにわのブルースター」
蹴太が初めて青星が自称した異名で呼んだ。その言葉に込められた確かな【信頼】を感じ取り、青星は泣き笑いのような顔をして力強く頷いた。
「おうとも!」
蹴太は青星と共にピッチを去り、そのまま施設でシャワーを浴びて全身の汗と泥を洗い流した。そしてさっぱりした身体で指定された相部屋のドアを開けると、同室のヤンセンがすでにベッドの上に座り、JSAから支給されたタブレット端末で何か資料を真剣な顔で見ていた。
「おぅ。来たか」
「何見てんだ?」
蹴太がタオルで髪を拭きながら近づく。
「お前も見ておけ。チャンピオンシップの参加国とグループ分けのリストだ」
ヤンセンが見ていたのは9月1日に開幕する【U―15ナショナルチャンピオンシップ】の公式な組分け表だった。そして蹴太はヤンセンの横からタブレットを覗き込んだ。
参加国は全部で24カ国。開催国である日本を除く23カ国が世界中から参加を表明している、正真正銘の国際規模の大会。
「4カ国で一つのグループを形成する。そしてグループの総数は6つ。俺達は開催国としてAグループに入っている。んで、戦う相手だが・・・」
ヤンセンの指が画面のリストをスクロールする。
「ドイツ、イタリア、コスタリカ・・・」
蹴太はAグループの下に並んだ国名を読み上げ、思わず言葉を失った。
「そうだ。俺達は予選グループの段階から欧州の5大リーグを擁するサッカーの超大国、ドイツとイタリアの2カ国をいきなり相手にする。そんで当然のルールだが、各グループの上位2チームしか次の決勝トーナメントのステージには上がれない」
「・・・」
蹴太はその組分けをじっと見た。
高すぎる壁。サッカーの本場であり、圧倒的な歴史と育成システムを持つ欧州の国と予選から2カ国も戦わなければならない。それはいくらホーム開催の地の利があるとはいえ、今の日本の育成レベルでは【突破は絶望的】と言われるほどの、いわゆる【死の組】だった。
「しかも、だ」
ヤンセンは画面から目を離して蹴太を見た。
「俺らの中学世代は世界のサッカー界において、一番日本と世界との力の差が開いている時期だと言われている。なにせもうすでに向こうの代表には、欧州のトップクラブのユースチームでレギュラーを張っているような連中がゴロゴロいるからな」
「へぇ・・・」
「それにな、ブラジルにはもっとやべぇ奴がいる」
「・・・」
「まだ中学生の年齢なのにすでに欧州のビッグクラブと青田買いのプロ契約を約束されている化け物がいるらしい・・・まぁ日本は決勝の舞台にでも行かない限り、当たることはないと思うがな」
ヤンセンはにこやかに笑いながらそう言ったが、その青い瞳の奥には圧倒的な強者たちと戦えることへの狂気じみた闘志がメラメラと燃え盛っていた。
「どうだ、蹴太? 燃えてこないか?」
「・・・お前に同意したくないが、たしかにな」
蹴太もまたヤンセンの言葉に不敵な笑みで返した。
前世の自分なら【無理だ】と即座に絶望して諦めていた。世界なんて見ようともしなかった。だが、今は違う。世界最高峰の怪物たちに自分の力がどこまで通用するのか。試してみたくて仕方がなかった。
「ハっ!」
ヤンセンは満足そうに笑うとタブレットをしまった。
二人はそのまま20時からの夕食会場へ向かい、バイキング形式の夕食を手早く食べ終え、疲労した筋肉に栄養を補給した。そして食事が終わると休む間もなく、すぐに全員参加の戦術ミーティングが始まった。
「すでに資料を見て知っていると思うが、日本はチャンピオンシップのグループステージで、ドイツとイタリアに当たる」
薄暗いミーティングルーム。久森監督の低く重い第一声に、代表メンバーの間に重苦しい沈黙が落ちた。
全員の顔が強張り、唾を飲み込む音すら聞こえそうなほどの緊張感が部屋を支配する。
「この2カ国のうち、どちらかを絶対に撃破しないと次はない」
久森はそう言うと手元のパソコンを操作し、前方のスクリーンにJSAから送られてきたというドイツとイタリアの同世代の参考映像を流した。
そこに映し出されたのは日本のエリート中学生たちの常識を根底から覆す光景だった。
イタリアの長身センターバックが、日本人選手なら大人でも弾き飛ばされそうな圧倒的なフィジカルとスピードで強引に相手をねじ伏せるシーン。
ドイツのMFが機械のように正確で、かつ弾丸のようなスピードのパスをピタリと味方の足元に通すシーン。そしてペナルティエリア内で日本人と比較にならない身体能力と柔軟性でシュートを撃つシーン。
まるで大人に混ざってプレーしているかのような、同世代とは思えない完成された怪物たちがそこにいた。
「これがお前らの相手する怪物たちだ。どうだ? ビビっているか?」
久森の言う通り、映像を見た代表メンバーの多く、佐々木や石高といった選手たちは明らかな動揺と恐怖を隠せないような表情をしていた。
自分たちが国内でどれだけ【天才】と呼ばれていようと、世界にはこんな化け物がウヨウヨいるのかと、心が折れかけているのが分かった。井の中の蛙が大海の恐ろしさを知った瞬間だった。
しかし逆にヤンセンや国近、大童子。そして九条や武雄、朝陽といった一部の選手たちは恐怖ではなく、自分の現在地を測るような真剣な目でスクリーンを食い入るように見つめていた。
蹴太もまた映像の中の動きを脳内でシミュレーションし、自分のスピードやフィジカルがどう通用するかを冷静に計算していた。
「だがな」
久森は映像を消し、室内を明るくして、静かに、しかし絶望的な事実を告げるような真剣な目で選手たちを見た。
「今の我々はこいつらと戦う土俵にすら立っていない」
「・・・」
「この中に、あの怪物たちを相手にしなが、国際基準の【45分間】、ピッチを全力で走りきれる自信があるやつ、手を上げろ」
久森のその鋭い問いかけに部屋は水を打ったように静まり返った。
今日実際に45分ハーフを連続で経験し、自分の体力の限界を嫌というほど味わわされたばかり。映像の彼らと競り合いながら、あの地獄のような時間を走り抜く。
しかしゆっくりと手が上がった。蹴太とヤンセン、そして国近と大童子。たった四人だけだった。
「これがお前らの現状だ」
久森は冷酷に言い放った。
「お前たちは45分を走りきれない。しかもただ走るだけじゃない。あの映像で見たような化け物たちと激しくぶつかり合いながら、だ。いいか? お前たちはまだ世界と戦う土俵に立ってすらいないんだ」
その言葉は国内のエリートとしてのプライドを粉々に砕き、全員の胸に深く、痛いほど突き刺さった。
「俺達はまだ弱者ですら無い。ただの赤子だ。だからせめて、戦いの土俵に立つレベルまで、この2週間の合宿で強引に引き上げる。明日からはもっと過酷に45分ハーフの試合を行う。身体の細胞の隅々にまでその時間を刻み込め!」
「「「「「はい!!!」」」」」
もはや不満を言う者は誰一人いなかった。青星も、佐々木も、石高も、全員が明確に【世界】という壁を認識し、そこへ這い上がる覚悟を決めた。そしてその後は就寝時間の消灯まで各自部屋で過ごすことになった。
蹴太は相部屋の二段ベッドの上段で横になりながら、先程スクリーンで見た海外の怪物たちの映像を暗闇の中で何度も脳内で反復していた。
(ドイツとイタリア・・・あいつらはフィジカルも技術もあのヤンセンと同レベルか、それ以上の連中だ)
蹴太は真剣に【自身】と【世界】との戦力分析を始めた。
(俺のステイタス。あの理不尽な数値は世界には通じるのだろうか? ・・・いや、俺はもう自分の力は疑わない)
ヤンセンとのフットサルでの空中戦で押し負けたように、ステイタスが絶対ではないことは理解している。そして技術や経験の差で埋められる部分もある。
しかしそれでも自分の最大の武器はこの圧倒的なステイタスの力。だが迷う必要はない。迷えば、あの怪物たちに一瞬で食い殺される。
蹴太は暗闇の中で静かに両拳を握り、明日の過酷なサバイバルに向けて覚悟を決めた。
(・・・もし、もしだ。俺に二度目の人生を与えた【サッカーの神様】ってやつが、俺を本当に愛して、俺に世界を獲らせるためにこんな理不尽なチートをくれたって言うんなら・・・)
蹴太は決意を持って、心のなかで宣言した。
(俺もその愛に応えてやるよ)
蹴太はそう強く念じながら、静かに意識を沈めた。極限まで酷使された筋肉の心地よい疲労感が全身を包み込み、深く、暗い眠りの淵へと落ちていく。
―――ピィン。
蹴太の意識が完全に深い眠りに落ちた、その狭間で。
『ステイタスの【ランク】による、本来の力の制限を撤廃します』
感情のない、無機質で冷たい機械音声のような声が、蹴太の脳の奥底に直接、確かに響いた。




